レベル7:罠なのか
「あれ?」
私は目の前の光景に唖然とした。まだ寝ぼけているのかと思わずにはいられない。
リビングの机の上には朝食が用意されており、それだけでなくお弁当も布巾に包まれておいてあるではないか。
一瞬、海外で働いている親が帰ってきたのかと思ったが、まずあの人たちが食事を作るなんて考えられなかった。よくても出前だろうな。
そうなると考えられるのは……。というか、考えたくないような気もするんだけど。
「おはよう、目覚めはどうかな?」
「お、おはよ。まあまあだけど……どうしたの?」
青いチェックのエプロンを着た兄貴が、まれに見る輝いた微笑みを浮かべて台所から出てきた。
その笑顔といったら、ネズミ界の某スーパースターが自分の国の広告で「みんな、夢の国へ遊びにおいで!」という時の顔よりも破壊力を秘めているように思える。
「たまにはいいだろう? 俺が作るのも」
「え、まあ、うん」
別に悪いとは言わないけど、前もって言っていてくれたらもっと寝ていたのに。
って、違うだろ! 今度は何を企んでいるんだ!? 兄貴が何の考えもなしにこんなことするはずがないじゃないか。
私は恐る恐る朝食の並ぶ机に近寄ってみた。湯気のたつ料理たちは、いたって普通の和食である。
白いご飯に豆腐の味噌汁、焼かれた魚はアジの開きだ。あとはほうれん草の胡麻和えとか、ひじきの煮物とかそんな感じ。
この品数……。一体、何時から朝ごはんを作り始めたんだろう。普段料理なんてしない兄貴だから時間かかってもおかしくない。
「俺はお前と違って和食しか作れないから、こんな地味な感じになってしまったよ」
兄貴は奇妙が悪いくらい爽やかに言った。
比較的、兄貴の好きな物に偏ってはいるが、見た目でおかしいところが感じられない普通の朝の食卓。
私の不信感は急上昇していく。今ちょうど、水風船の破裂寸前みたいな感じ。
「さ、温かいうちに食べよう」
「そ、そうだね」
私は絵に描いたような“素敵なお兄さん”を前に、柄にも無くたじたじである。
朝の兄貴といったら、戦争でもあったのかと思うくらい激しく寝癖のついた頭と、寝ぼけ気味で眼鏡をかけていないことに気がつかず、そのままの状態で周囲を見ようと細められる目が通常なのだ。
けれども、今日にいたっては、きっちりとワックスで整えられた頭と銀縁で細身の眼鏡が、当前のようになっている。
「どうした? 冷めるぞ」
いつまでも不思議そうに見つめている私に、兄貴は首をかしげた。
私は焦って席につき、わざとらしく大声で「いただきます」と叫んで箸をとった。
そっと味噌汁を口に流し込む。別に変な味とか、そういうことはなかった。むしろ、かなりおいしい。
兄貴は上手い具合に焼けたアジの開きを、いつものように不器用な手つきでほぐしている。小骨とか尻尾のこげた部分とかが飛び散って、本当に相変わらずな様子だ。
本当になんなんだ? やっぱり、ただの気まぐれか? 兄貴の考えが全く読めない。
「ねえ、お弁当も作ったの?」
「ああ、お前の好きな物沢山入れたぞ」
「卵焼きは出し巻き?」
「むしろ、うまきです」
ああ、この口ぶりは本当に作っているっぽいな。
前に兄貴にお弁当を作ってもらったら日の丸弁当だったことがある。いや、むしろ日の丸の方がマシであったと思う。
梅干を入れるところに、きゅうりのぬか付けを詰め込みやがったせいで、鞄の中がぬか臭地獄になっていたのが思い出だ。
温かいご飯の上に長時間、漬物をおいてみよう。鬼のように攻撃的な臭いを発生するぞ。良い子はマネしちゃいけないぜ。
「まあ、楽しみにしておけよ」
「うん」
気がついたら食事の終わっている兄貴が流しに食器を片付けた。水の音がしているから、きっと洗っているのだろう。
なんて素晴らしいんだ。兄貴の気まぐれとはいえ、こんなことは初めてだ。いつも、ちょこっと手伝ってくれれば、こんなに助かることはないというのに。
久しぶりにのんびりとした朝を過ごせることに私はかなり喜んでいた。
優雅にテレビを見ながら朝食をとっていると、バタンと聞きなれない音が耳に飛び込む。その音に続いてガシャンと何かが割れるような音が聞こえる。場所は台所の方だ。
「ちょっと、何してんの?」
食べ終えた食器を持って台所に向かうと、そこには流し台に腕をかけ膝をつき倒れている兄貴がいた。流しの水は出しっぱなしで、割れた食器は流しで水に打たれている。
私は慌てて持っていた食器を机に置き、兄貴に駆け寄った。
「ちょ、どうしたの!?」
流し台に引っ掛けていた手を下ろし、兄貴に声をかける。兄貴は朦朧とした様子で私を見ている。
ビックリして兄貴の体を起こそうと両手を掴むと、妙な違和感を感じて手を離した。
流しに手を突っ込んでいたはずなのに手が熱い……。さっきまで洗い物していたよな? 流れているのは水で、お湯は使ってない。
「待ってて!」
返事か分からない声を聞いてから、私はリビングに戻った。そして体温計を救急箱から引っ張り出し、台所で倒れている兄貴のもとへ走る。
兄貴の口の中に無理やり体温計を押し込んで、私は数分待った。兄貴の咥えているデジタルの体温計が着々と数値を上げている。
「三十九度一分……。兄貴、なんで気がつかないの?」
無駄に元気の良い体温計の音を聞きながら、私は呆れたように兄貴の頭を小突く。兄貴はぐったりした様子で私の顔を見て苦笑した。
絶対に気がついてなかったな。一瞬、自分の体温にびっくりしてたしね。困った奴……。
「なんだか朝からハイなテンションでさ。気分良かったんだよ」
「仕事場に電話するからね」
「はひ……」
弱々しい兄貴の返事を聞き、私は流しの水を止めて兄貴を無理やり立たせた。兄貴はよたよたと自分の部屋に向かって歩いていく。
私は何かドッと疲れを感じてしまい、階段先でしゃがみこんだ。
つまり、兄貴が朝食を作ったのはテンションが上がっていたからか。善意じゃなくて熱からくるから元気。なんか真実を知ると疲れるな。知らぬが仏ってこういうことなのかもしれん……。でも、やっぱちょっと嬉しかったな。
たまには、こういうサプライズもいいよね。発熱は余計だったけど。
―― この後、割れた食器の片付けや兄貴の風邪薬の買出しに走るなど、もっと疲れることになるとは考えもしなかった。