レベル1:残念な転職
「妹よ、俺は思うのだ」
時は学校帰りの夕方。私は最寄の駅から自宅に向かって自転車を走らしているところだった。
不意に携帯電話に着信があり、しつこく鳴るものだから気になって着信名も見ずに電話を取ってしまった。そして私はすぐに、着信名を見ておくべきだったと後悔する。
仕事中のはずの兄貴からの着信である。むろん、第一声はいつもの合言葉 “妹よ、俺は思うのだ” という、私からしてみれば非常に不愉快な言葉。
「兄貴、仕事中じゃないの?」
夕方の線路沿いは人も車も通らないので私は余裕で自転車を運転しながら通話する。
呆れた調子で質問を投げかけたが、どうせ返事は貰えないであろうことは知っている。合言葉を言った後の兄貴は、自分の興味のあることしか聞き入れないのだ。
「そう、仕事だ。仕事について思うことがあるんだ」
仕事についてだ? なんだろう。上司に何か言われて困っているとか?
というか、自転車を運転しながら兄貴とカオスな会話を繰り広げるのはちょっと鬱だ。
まあ、電話を取ってしまった時点で、それは諦めないといけないんだけどね。
「今日の昼に定食屋で飯食っていたんだが、そこのテレビでアニメやっていたんだよ」
私の気持ちを知ってか知らずか、いや、知らないのだろうけど、兄貴は話を進めて行く。
定食屋でアニメ? 珍しいもんだな。いや、結構多いのか?
昼の定食屋って、みのもんたかタモリが出ている番組見ているもんだと思っていたけど、そうでもないんだね。
「アニメと兄貴の仕事と何か関係あるの?」
普通に感じた疑問を投げると、兄貴は“よくぞ聞いてくれた”というような生き生きとした、電話越しでも分かるくらいのオーラをかもし出した。
少なくとも現在の兄貴の仕事と声優という仕事は、全く接点が無い。最もな質問のはずであったが、カオス世界の引き金を引いてしまったのだと気がついて、いたたまれなくなった。
「アニメに声優っているだろう?」
「うん。まぁ、いないとアニメ成り立たないしね」
当たり前のことを並べて言って、兄貴の話の確信に早く近づこうと催促する。話が始まった以上、とっとと終わらせる方向でいったほうが賢いと、長年の付き合いでよく分かっている。
自転車を走らせる隣で、電車が雑音を立てながら通り過ぎて行くのが、これからのカオスワールドへの出発を表しているようで不気味だ。
でも、気にしたら負けだと自分に言い聞かせて何も見なかった、聞かなかったことにした。
「そう、声優だ。どう思う?」
「え、何? 意味わかんないんだけど」
私は兄貴の質問の意味が理解できず、目を丸くしながら間抜けな声をあげた。
いきなり声優をどう思うかだなんて言われてもな。アニメは好きだし良く見るけど、どんな風に答えて欲しいんだ?
あれか、好きな声優を語れとか? いや、それはないな。兄貴は声優に興味なかったはずだし、名前言っても分かるはずない。
「俺にピッタリだと思わないか?」
――今なんつった? 電車が通りすぎる音と混ざって違う言葉に聞こえたか?
そうだ、そうだよな。まさか、兄貴が自分の声がそんなに素晴らしいなんて思っちゃいないよな。
「俺、声優に転職するわ」
今日はやけに夕日が目に沁みる。
お母さん、どうやら兄貴は頭とか頭とか、もしくは頭とかを強く打ち付けてしまったようです。
「寝言は寝てから言え」
「俺はいたって真面目に話しているんだが?」
私が電話を切ろうと耳から携帯を離す。しかし、電話からけたたましい声が飛び出してくるのが分かり、少し躊躇した。
あぁ、学校で疲れた体に兄貴の戯言を聞かなくてはならないのか。でも、ほっとけない自分がいるわけで、溜め息混じりにまた電話を耳に押し当てた。
「まぁ待て、聞けよ。俺だって世の中を知らない人間じゃないんだ」
一応、社会に出て数年は経っているわけだし、世の中はある程度理解してはいるだろうね。
でも、いきなり転職って世の中甘く見すぎじゃないか。声優だって大変なのに。
「取り合えず、俺の声優っぷりを見てくれ」
「どうやって?」
と、聞いてから気がついた。
なるほど。普段電話なんかしてこない奴が、突然電話してきたと思ったらそういうことか。
電話なら声しか分からないしね。声優をやりたいと言うなら、持って来いって状況なわけだ。
「これからお前が決めたセリフを、俺が声優になって言ってみる。なんか考えてくれ」
「ちょっと待ってて」
そう来るだろうと思っていたから、急いで自転車を走らせて家に向かっていた。
家に着いたと同時に自転車をガレージに押し込み、家の鍵を開けて二階の自分の部屋に駆け込む。
そして、お気に入りの漫画を開いて、好きなキャラの名台詞をいくつか兄貴に伝えた。
ん、あれ? なんでいつの間に、私はノリノリでこんなことしているんだ? ……まぁいいか。
「よし、いくぞ」
「うん、本気で言ってね。ギャグ無しだよ」
そう言ってから何秒経ったか。兄貴はちっとも声を発しなかった。
なんだろう、役になりきるために何かを想像しているのか? それにしても遅すぎるったらない。
「ちょっと、早くしてよ」
「妹よ、俺は思うのだ」
な、なんだ? 本日二度目の合言葉だぞ。今度は何を思ったというんだ。
私は開いていた漫画を片付け、制服を着替えることなくロビーへ下りて行った。兄貴は続けて語りだす。
「今の漫画のセリフで思ったんだが、もし俺が声優になったとする」
「うん」
「お前、残念な気持ちにならないか?」
どう解釈したらいいのか分からずに黙っていると気持ちを察したのか、兄貴は具体的に語りだした。
「お前はアニメが好きだな。毎週、沢山見ているわけだ。好きな漫画がアニメ化して、お前は意気揚々と録画までして見る」
「まぁ……日常的な風景だね」
アニメ見たさに部活に入らなかったオタクである自分は、確かに好きな漫画がアニメ化したら必ず全話録画をする。
今日もアニメを見るつもりで颯爽と帰宅し、ロビーで録画予約をしようとしているわけで。
「仮にそのアニメの主人公の声優が俺だったらどうだ?」
それは想像しただけで、心の底から残念な気持ちになる。大好きな漫画がアニメ化して喜んでいるのに主人公の声が兄貴! 毎週見たいとは到底思えない。
これでもし好きなキャラクターの声とかやっていたら、涙を流しながら兄貴を殴り倒すだろうな。
「そうなんだ、お前見ないだろ」
「絶対に見ないな……」
「おまけにだ。お前の友達が『最近出てきた声優でこの人いいよね! 超ファンになっちゃった』とかいうのが俺だったらどうだ?」
ああ、それは非常に困る。『あ、私の兄貴だよ』とも言えないし、『そうか? だみ声じゃん』なんてファンになった子に言えない。そもそも、そんなこと言ってしまったら兄貴の仕事に支障が出るかもしれない。
これはもの凄く複雑な心境に陥る。例えてみるなら、昼間に公園のブランコで揺られているお父さんの心境だな。
「それでだぞ。俺がアニメの凄くシリアスな場面でカッコイイこと言っていたとするじゃないか」
「例えば?」
「命にかえてもお前だけは守ってみせる!」
「……ぷっは!」
堪えきれずに壮大に咽ながら爆笑した。普段、ジャージ姿で『お洒落だろ!』とか言っている人がどんな顔でそんなこと言うんだよ!
兄貴は笑い転げる私が落ち着くまで何も言わず、落ち着いた頃に一つ咳払いをして話を続けた。
「一瞬でギャグアニメに早変わりしただろ?」
しましたよ。どんな顔して言っているのか見たかったもん。お茶とか飲んでいる時だったら人間噴水になるところだったよ。
ちょっとカッコイイ、なんて思ったけど兄貴だと思うとおかしくてしょうがない。
「というわけだ。俺は声優を辞める」
「懸命だと思うよ。って、まだなってもいないじゃないか」
「細かいことは気にするな。じゃ、俺は仕事に戻る。夕飯は魚がいいな」
ブツンといきなり通話が途絶える。最後何気に夕飯の注文しやがったな、コイツ。
呆れながら冷蔵庫を覗いて魚があるか確認する。サバの切り身があるから、味噌煮を作ろうか。
そんなことを考えていたが、ふとさっきの会話を思い出して冷蔵庫を開けたまま考え込んでしまった。
「もし、私が声優になったら兄貴はどうするんだろう?」
アニメをそんなに見ない兄貴は、私が声優として頑張っていたら見るのだろうか。
『見ていない』とか言いながら録画して、雑誌とかもチェックしていそうだよな。
兄貴が出たら見ない……いやいや。私だって、本当なら見ますけどね。真面目に仕事やっているか、毎週チェック入れてやるんだ。
――そんなことを考えているうちに、私はアニメの録画予約を忘れたのだった。