35 ありえない現実
翌日、朝食を食べ終わり、ハウリャンのいつもの伝言を受け取り、セチュンとカブルが迎えに来たとき、ニルン様が訪ねてきた。
「おはようございます、ニルン様」
「おはようございます、フィーリア様」
昨日のうちに、ニルン様とクトラが交代でフィーリアが勉強に行くときに付き添うことになった。といっても行き帰りを一緒に歩くだけで、フィーリアが勉強している間は各自自由に過ごすことになっている。
なぜそんな話になったかというと、行き帰りの途中でムーリャン様に出会ったときにフィーリア一人よりは対策が立てやすく、それに一緒にいることで妃候補者同士が仲良くなったこともアピールできるからとのことだった。
「おはようございます、ニルン様。本日はいかがなさいましたか?」
セチュンに説明する前にニルン様が来てしまったことで、セチュンは不思議そうな顔をしていた。
「フィーリア様ともっと仲良くなりたくて、勉強先へ行く少しの時間だけでもご一緒できたらと思って参りましたの」
「まあ、さようでございますか。それでは私どもは少し離れてついて参ります」
「お気遣いありがとうございます」
「ありがとう、セチュン」
ニルン様の説明が巧みで違和感を感じさせなかった。これならいつも一緒にいても不思議に思われることはない。
実際にニルン様に親しくなりたいと思ってもらえていたら、本当に嬉しいけれど自分には過ぎた願いなのもわかっていた。
「それでは参りましょう」
ニルン様とともに歩きながら、本日の勉強先へと歩む。行きは何事もなく辿り着き、扉の前でニルン様と別れた。
そのあとはいつものように今日担当の文官から話を聞きながら勉強していく。
*
勉強がつつがなく終わり、部屋から出たところでニルン様がすでに待っていた。
「ニルン様。お待たせして申し訳ございません」
慌てて駆けよるフィーリアに、ニルン様は優艶に微笑んだ。
「私がしたくてしていることでございますから、そんなに気になさらないでくださいませ」
フィーリアに気を遣わせることがない物言いに、器の大きさを感じる。
「フィーリア様。お耳をお貸しください」
ニルン様に言われて、耳を近づける。
「私の侍女がムーリャン様を見張っておりまして、これからそちらへ参りますか?」
「はい」
「それではご案内いたします」
ニルン様に一つ頷いて、フィーリアは側に居たセチュンとカブルに向き直る。
「セチュン、カブル。わたし、ニルン様と散歩してから帰りますので、どうぞ他の仕事に戻ってください」
「かしこまりました。ニルン様、フィーリア様をよろしくお願いいたします」
セチュンの言葉が胸に刺さる。ニルン様にお願いするほど、そんなにも自分は頼りないのだろうか。それとも一人にするには危なっかしいということなのかもしれない。
セチュンは周りから過保護といわれるほどにフィーリアを心から心配しての言葉であったのだが、それにフィーリア気づくこともなく見当違いなことを考えていた。
「お任せください」
ニルン様が頷き返し、セチュンとカブルと別れたあと、ニルン様に導かれてムーリャン様がいる場所へと向かう。
目的地に近くなったのか、ニルン様の侍女が城内の端とでもいわれるような奥まった場所で周りを警戒しながら立っていて、こちらに気づくと声を出さないようにとの仕草をした。
それにニルン様とフィーリアは頷いて、侍女に示された先を覗き込んだ。
覗き込んだ瞬間、フィーリアは息を飲んだ。
ええ?
えええ?
えええええ?!
何度瞬きを繰り返しても、目を擦っても、見えているモノは変わらなかった。
ムーリャン様が文官の男性にもたれかかり、唇をくっつけていたのだ。
あれって口づけだよね?
ムーリャン様の唇が文官の男性の唇にくっついてるよね?
見間違いじゃないよね?
なんかムーリャン様の舌がチロチロと動いているようにも見えるけど……。
動揺のあまり視線が外せずに、凝視してしまった。
フィーリアは生まれて初めて口づけている人を見た。
なんだかいけないものを見てしまった気がして、狼狽した。
フィーリアの両親はとても仲が良くイチャイチャしていたが、娘の前では触れ合うような性を感じさせる行為を見せたことがなかった。だから、フィーリアの知識は物語の挿絵で描かれたものと母親から聞いた言葉だけであった。
実際の口づけを見て、恥ずかしさに顔が赤くなるのが止められなかった。
両手で熱くなった頬を隠し瞳を伏せる。
「まあ」
隣から聞いたこともないような低い声が聞こえた。
その声に視線を上げれば、ニルン様が眉をひそめていた。まさか今の低い声はニルン様が発したのだろうか。
別の衝撃に、恥ずかしがっている場合ではないと気づいた。
それに口づけを見てしまった衝撃が去ったあとには、自分の見ているものがあってはならないものだとわかった。
これはムーリャン様の不貞行為なのではないかと。
止めなくては、と動き出そうとしたフィーリアの腕をニルン様が掴んで止めた。
「フィーリア様、お待ちになってください」
「なぜですか?」
「今は泳がせておくべきかと思います」
「泳がせる?」
「はい。陛下も調査中と仰っているのですよね?」
「……ええ。そう仰ってました」
ニルン様が知っていることに驚いた。なぜその事を知っているのだろうかと考えて、ダウール様に聞いたのだろうと納得した。フィーリアよりも確実にダウール様に会う機会があるのだから、知っていてもおかしくはない。おかしくはないがその事にモヤモヤした。
「今見たことも含めて、確実な証拠がなくては問い詰められません。今の行為も私達しか見ておりません。あの男性にはあとで証言してもらうとしても、今出ていってもムーリャン様に言い逃れされてしまうだけでしょう」
「それはそうかもしれないですが……」
今までのことから考えると、こちらの目が悪いと言われるか、ただよろけてしまってそう見えただけと言われるかで、ムーリャン様は認めたりはしないだろう。
「ですから、ムーリャン様の不貞行為は少しの間止めずにおきましょう。そうすれば、もっと大胆に動くかもしれません」
「確かにしそうではありますが……」
それでは絡まれた男性が可哀想ではないだろうか。それとも男性にとっては役得なのだろうか。
フィーリアの思ったことが分かっているかのように、ニルン様は微笑む。
「あとでフィーリア様が声をかけて差し上げれば、元気になりますわ」
「ええ? どういうことですか?」
「フィーリア様は分からなくてもよろしいのです。ただそれで元気になることだけ覚えていてください」
「? ……よくわかりませんが、わかりました」
ニルン様は確証があるかのように喋る。そんなニルン様を見ているとフィーリアが気がつけないことにも気づいていそうであった。こういうときは従っておくのがいいのは経験上知っていた。助言は大切でありがたいことなのだ。今は理解できなくてもフィーリアに必要だから言ってくれるのだとわかる。
衣ずれの音が聞こえ、ムーリャン様の方に瞳を戻すと、文官の男性がどうにか逃げ出して走り去る姿が見えた。
そのあとを見送るムーリャン様は、獲物を狙うような瞳をして笑んでいた。
ムーリャン様は楽しんでいるように見えた。
その事に怒りが湧きあがる。
ダウール様の妃候補者なのに、他の男性に言い寄るなんて許せなかった。
そんなフィーリアの手をニルン様は優しく持ちあげ、労るように握られる。
言葉に出さなくも、同じ気持ちです、大丈夫、わかってますよと言われているようで、怒りを飲み込んだ。
「戻りましょうか?」
「はい」
ニルン様に促されて、自室へと足を進める。
今後何度も同じ思いをするのかと思うと憂鬱だった。ムーリャン様が二度とその様な行為をしなければいいと思いながら、それは叶わない願いなのだとわかっていた。




