第八話 番に落ちた獣
サラを運びながらアンドリュースは一人、くくっと笑っていた。
(あれは強烈だったな……)
自分の中に巣くった嫌悪感を吹き飛ばすほどの衝撃だった。あの一発のおかげでアンドリュースは正気を取り戻せた。
(女に頭突きされるなんて、初めてだな……)
何度もしたい経験ではないが、妙な爽快感があった。
(マゾヒストではないのだかな……)
どちらかというと自分はサディストだと思う。相手を意のままに屈服させる方が好みだ。
しかし、このサラという人間はアンドリュースの思考の斜め前をいく。どれもされたことがなく、逆に新鮮だった。
王としての望まれ、教育され、誰もが自分を王としての見る。その視線は当然のものだと感じていたし、苦ではなかった。
だが、このいかにも脆弱な人間は彼を王として扱わなかった。知らなかったというのが大きいだろうが、それでも、人間にとって獣人は恐怖の対象だろう。マリやセイヤのアンドリュースを見たときの青ざめた顔が普通なのだ。
しかし、サラは恐怖するどころか、不自然すぎるほど普通だった。汚れているから風呂に誘い、洗濯をする。それは使用人たちがしているものと何かが違う。仕事ではなく、義務的でもない。
サラは彼を優先しない。
それが違いだ。
自分にはやることがあり、その合間に世話をする。あくまで彼女は彼女のペースを守っている。彼女の優先事項は家族との暮らしであり、アンドリュースではない。その距離感は今までなかったことだった。
されたことのない距離感は彼女だけではなかった。
彼女の家族もそうだ。
コウヤとルリは、アンドリュースを好奇心の塊で見てくる。一方的に慕い、彼の気持ちはお構いなしだ。しかもしつこい。子供に手をあげるのは趣味ではないので、されるがままになっていたが、兎に角しつこかった。
「絵本読んで~!」
その言葉を20回以上言われて、最初は無視していたアンドリュースも折れた。すると、馴れ馴れしくルリは膝の上にのってくる。へへっと笑いながら、彼を怖がらない。
変な気分だ。
裏のない好意を向けられるのは。
渋々ではあったが、その笑顔に負けてアンドリュースは絵本を読んだ。
サラはここが孤児院だと言っていた。ということは、この家族に血の繋がりはない。誰よりも血の繋がりにこだわり、執着してきたアンドリュースにとって、目の前にいる家族は虚構のもののはずだった。
しかし……
「ルリ、お米がついてるわよ。スプーンはこうやって持った方が食べやすいわよ」
「はーい。サラお姉ちゃん」
「あ、コウヤ。僕のお魚食べないでよ!」
「へっへーん! 残すのかと思ったんだよ」
「こら、コウヤ! セイヤに謝りなさい! もぉっ! セイヤ、私の食べて」
「マリ。私のをあげるから、マリは食べて。せっかく、うまく焼けたから食べてほしいわ」
質素な食事を前に色々な声が飛んでいる。その光景はアンドリュースが知る家族より家族らしかった。羨ましくさえあるほどに。
「アンドリュース? 食べれていますか?」
「あんどりゅーふ? お魚嫌い?」
「嫌いなら俺が食べる!」
「コウヤはもう充分、食べたでしょ!」
そしてこの家族はごく自然にアンドリュースを一員に加える。見た目も何もかも違う彼を自然に受け入れる。それが、あたたかくて苦しい。
「魚はやらん。俺のだ」
自然と笑えるのはきっと、この一時が本当に欲しかったものだからだ。
(脆弱だと思っていた人間に教えられるとはな……)
今まで自分がいかに狭い視野でいたか思い知らされる。一部の上流階級のみを見ていたせいか、目が腐っていた。それとも、サラ達が特殊なのか。
(口惜しいな……)
一員として扱われてはいるが、家族じゃない。アンドリュースは客人だ。
(自分のものにしたい……)
渇望するほどの光が目の前にあれば、彼は手を伸ばさずにはいられなかった。
その焦燥感はサラ自身にも向けられていた。
アンドリュースは見目が悪くはない。いい方だと自負している。そんな自分を男として意識せずに、むしろ犬と思い、ちっとも靡かないのも面白くない。
それに、王と知っても彼女は態度を変えなかった。自分とは”世界とは違う人”。そう割り切られ、拒絶されているかのように見える。早く出て行ってほしそうな顔を見る度に、囲って牙を立てたくなった。
(もう一度、教え込むように首筋に噛みついてやろうか……)
契約はしているのに、彼女は自分のものにはなっていない。甘い香りをさせて、自分を誘うくせに、拒絶する。それに苛立つ。
獣人だけなのだろうか。
番に狂い、跪き、愛を乞いたくなるのは。
(人間の番とはやっかいだな……)
彼女の凛とした顔を横目に、思いを燻らせていった。
アンドリュースはこの時、気づいてしまった。
嫌悪していた番に惹かれていることを。
弱いと蔑んでいた人間に想い焦がれていることを。
王ではなく、ただの男になってしまったことを。
彼は気づいてしまった。
◇◇◇
家に戻ると、小さな時計の音がした。
コチコチ。
正確に刻まれるリズムはサラに似ている。決して自分のペースを乱さない。やるべきことをしている彼女の横顔が秒針と重なる。
ペースを乱さないのであれば、乱したくなる。乱れた時に、彼女がどんな顔をするのか想像するだけで牙が疼く。口元を歪ませながら、彼女を見つめた。
寝床は襖の先にある。子供たちが寝ている場所だ。なんとなく二人の時間を邪魔されたくなくて、アンドリュースは自分を床に背にして横になった。
床で背中が痛いがサラのベッド代わりになるのも、それはそれで気分がいい。腹の上で眠る彼女はあどけなく、安心しきっていた。
(隙だらけだ……)
それは少し面白くない。意識されていないのが、よくわかってムカつく。少し体を起こし、サラの首筋を見た。契約の痕がある。噛まれた箇所は赤から紫になり、やがて彼女の肌に馴染む色になる。そして、どちらかが死ぬまで消えない。アンドリュースは口元を歪ませ、痕をペロリと舐めた。あの甘い香りが強まる。
「ん……」
くすぐったそうにサラが身動ぎするのに喉で笑ってアンドリュースは背中を床に預けた。
「どう足掻いても、お前はもう俺のものだ」
抱き寄せる腕の力を強める。
「そして――俺もお前のものだ」
抱き寄せると、そのぬくもりに安堵した。
まるで無くしていた半身が戻ってきたかのようだった。