第五話 手のひらの中の幸せ
外の井戸から水を出して、釜に注いでいく。ある程度まで水が注がれたら、手を入れ切るように研ぐ。
「私とマリは学校に行っていません。畑仕事があるので、行く暇がないんです。家族五人分、食べるのに困らないように稼ぐので毎日必死です」
白く濁った水を捨て、また同じ作業を繰り返す。
「来年、コウヤとセイヤも学校に行く年です。なので、少しでも環境に慣れるために勉強の真似事をしています」
また水を捨てる。そして注いだ。
「コウヤはやんちゃなので、勉強は嫌いだと思うから、少しでも慣れてもらおうと思って」
サラは濁りのなくなった釜の水を見つめ苦笑いをする。
「学校に行ってないのか……」
王様であるアンドリュースには信じられないことだろう。サラは頷いて、諦めたように苦く笑う。
「本当はマリにも学校に行かせたいのですけどね……」
王様という権力者に懇願しているわけではない。アンドリュースを前にすると、隠してる本音が出てしまう。彼がどことなくタカに雰囲気が似ているせいだろうか。
「お前は行きたいとは思わないのか?」
思ってもいないことを聞かれて、サラは困ったように笑う。
「私はいいんです。今が幸せなので」
サラが空を仰ぐ。水色の空にオレンジ色が混じり、夕暮れになりかけていた。
「それに、不相応な幸せは欲しくありません。私は手のひらにおさまる幸せがあればいい」
畑に蒔いた種が、小さな芽を出すように。それを慈しみ、大事にしたい。
「何もなかった自分が家族を持ち、食べていける。それで充分です」
そう告げたサラの横顔を夕焼けが照らす。凛とした表情が太陽に照らされて、一際輝いて見えた。
「そうか……俺とは全く違う考えだな」
アンドリュースは皮肉の言葉を吐き出す。
「欲しいものがあれば、奪い取る。それが俺のやり方だ」
鋭くサラを見据えるアンドリュースの言葉は宣戦布告のようだった。サラは静かにそれを聞き、体を反転させた。瞳の強さに心臓がきゅっとしていてもたってもいられなくなったからだ。
「どうぞ。あなたはあなたのやり方をしてください」
(私には関係ないことだ……)
胸の苦しさを押し込めてサラは目を伏せた。
先に行くサラの背中を見つめたままアンドリュースは立ち止まっていた。その顔は標的を定めた獣のようだ。
「あぁ、そうさせてもらう」
サラに聞こえる大きさで言うと、ビクリと足が止まる。その背中は振り返ることなく進んで行く。
獣は薄く口を開き、牙を見せた。
そして、静かに歩き出した。
◇◇◇
「しろめしー!」
「いっただきます」
ご飯が炊き終わり、食卓には湯気のたった白いご飯が盛られていく。コウヤはヨダレを垂らしながら目を爛々とさせ、白いご飯を掻き込む。はふはふ言いながら、忙しなく口を動かしていく。
サラはおひつに移されたご飯を茶碗に盛り、アンドリュースに差し出した。
「どうぞ」
それを貰い。アンドリュースは苦い顔をした。彼の目の前に広がるのは、カボチャの甘辛煮。キュウリ、大根、ニンジンのぬか漬け。茄子と油揚げのお味噌汁。そして、小さなめざし一本とご飯。慎ましい食事は、アンドリュースが初めて食べるものばかりだった。
「今日はご馳走だね」
セイヤがニコニコしながら、漬け物を食べていく。その光景にアンドリュースは生活の違いを改めて感じた。
「もしかして、お箸が苦手ですか?」
一心不乱に漬け物を食べていたサラが、手の止まったアンドリュースに向かって言う。
「箸とはこれのことだよな?」
ぎこちない手つきで箸を持つ彼に、サラは立ち上がりスプーンを持ってくる。
「どうぞ。慣れてないのなら、スプーンで食べてください」
スプーンを持ったアンドリュースを見て、ルリが嬉しそうに笑う。
「わたしとお揃いだねぇ。あんどりゅーふ」
へへっと悪気なく笑うルリに、どことなく悔しさが募り、アンドリュースは箸ぐらい持てると言い、漬け物を掴む。
そして、ぽろっとキュウリが落ちた。
それにプッとコウヤが吹き出し、サラは無理しないでくださいと同情の眼差しを送る。それにますますプライドが傷つけられ、意固地になって彼は箸を持ち直した。
「これくらいできる」
そう言った彼の口に入る前にやはり、キュウリは落ちた。
◇◇◇
夜、子供達の寝かしつけはアンドリュースがしていた。ルリがしっかりと彼を掴んで離さなかったので、仕方なくアンドリュースが添い寝をしたのだ。コウヤも横に陣取り、セイヤはコウヤの横で伺うように彼を見ている。マリはルリの横でちらちらと彼を見てまだ警戒していた。
川の字に並んで、狭い布団の上でアンドリュースはため息をつきながら、はしゃぐ子供達に「もう、寝ろ」と言った。
子供達が寝静まった後、アンドリュースはゆっくりと体を起こして、襖を開ける。襖から漏れた光でセイヤが身動ぎしたので、ドキリとしながらアンドリュースは静かに襖を閉めた。
「寝たぞ」
「ありがとうございます。そのまま寝てもよかったのに」
律儀に起きてきた彼に微笑みながら、サラは手を動かす。
「何をしてるんだ?」
「縫い物です。コウヤの服に穴が空いてしまったので」
ツギハギだらけの服にまたツギ
を足していく。丁寧にしっかりと穴が塞ぐ様子を不思議そうに彼見つめた。
「器用なものだ」
「これくらい誰でもできますよ」
針がすっと布に刺さり、白い糸を引いてまた出てくる。音もなく繰り返される作業を飽きることなく彼はテーブルに肘を付いて見つめ続けた。
やがて、パチリとハサミで糸を切る音がして、サラが息を吐き出す。集中しすぎて、息を忘れていた。仕上がりに満足して微笑む。
「終わったのか?」
声をかけられ、ビクッと体が跳ねてしまった。すっかり忘れていた彼の存在にサラは急に恥ずかしくなり、「はい」とだけ答える。丁寧すぎるぐらいに丁寧に服を畳んで、引き出しの中に服をしまう。
振り返ると、アンドリュースは窓の外を見ていた。その横顔は、女のサラから見ても綺麗だなと感じるほど整っていた。
銀髪に耳が生えて、時折ひくりと動く。まるでお伽噺の世界から抜け出てきてしまったようだ。同じ部屋にいるのが不思議で仕方ない。
「綺麗だな……」
窓の外を見つめながら、アンドリュースはため息を混じりに声を出す。
空のことだろうか? 自然に足が動き出し、彼の横に立つ。
「ここら辺は、民家が少ないですからね」
だから、星がよく見える。空を見ると、宝石箱をひっくり返したように星が瞬いていた。
「散歩でもするか?」
その誘いにサラは表情を曇らせる。獣人である彼が歩いていたら、びっくりされてしまう。
サラの懸念を察してアンドリュースは、大丈夫だと余裕の笑顔を見せる。
「こんな夜更けに出歩く者はいないだろう」
蠱惑的な笑みをされると抗えない。自然と出された手に、自分のを重ねると力強く引き寄せられた。