第四話 赤い果実の記憶
「ただいま」
家に戻ると、部屋はとても静かだった。騒がしいコウヤとルリが真剣な表情でいる。マリまでもが黙っている。
「こうして、お姫様は王子様と幸せに暮らしました」
狭い木のテーブルを囲んで静かな低い声が聞こえた。アンドリュースの膝の上にはルリが乗っており、興奮したように顔を赤くしている。それを苦にするわけでもなく彼は静かに絵本を読んでいた。
午後の日差しが優しく四人を照らしている。
少し開かれた窓は風がいたずらするように、ふわりとカーテンをなびかせた。
不思議な光景だった。アンドリュースは見た目も何もかも違うのに、タカが戻ってきたような懐かしさが、そこにはあった。
「めでたし、めでたし」
静かに本を閉じたところで、アンドリュースがこちらに気づいた。金色の目が優しく細くなる。それにドキリとした。
「おかえり」
なぜか妙に恥ずかしくなり、蚊の鳴くような小さな声でもう一度、ただいまと言う。
「おねーちゃん! おかえりー!」
コウヤも気付き満面の笑みで駆け寄ってくる。それを抱き止めていると、ルリもぴょんっと彼の膝から飛び降り、駆け寄ってきた。
「おかえりなひゃい。あのね、お兄ちゃんに絵本読んでもらったのー」
満面の笑みでルリが今あったことを話し出す。
「そう……よかったわね」
少し癖っ毛のある髪を優しく撫でると、ルリは気持ち良さそうにゴロゴロとすり寄る。二人を抱き止めていると、アンドリュースも近づいてきた。
「ありがとうございます。絵本を読んでくれて」
「構わない。やることもないしな」
素っ気ない言葉だったが、彼が二人に読んでくれたことが嬉しかった。
「何度もせがまれた。お陰で喉が乾いたな」
うんざりしている彼にサラは笑い、手に持っていたリンゴに視線を移す。
「お茶を用意しますか? それともリンゴを貰ったので剥きましょうか?」
「リンゴ?」
袋いっぱいのリンゴを見せると、コウヤの目が輝き出す。
「わー! リンゴだ! いっただきー!」
「あ、こら」
コウヤが袋を漁りだし、リンゴを一つ手に取る。ごしごしと服の袖でリンゴを拭いた後、そのままかぶりついた。しゃくっと、瑞々しい果実の音がする。
「うめぇ!」
「……ちゃんと洗わないとダメでしょ」
サラの言葉を聞く耳もたず、コウヤはまた袋を漁り、一つのリンゴをアンドリュースに差し出す。
「兄ちゃんも食べなよ。リンゴはかぶりつくのが一番だよ!」
コウヤに促されるまま、彼がリンゴを手に取る。
「ごめんなさい。今、洗いますから」
サラがそう言って、彼の手から赤いリンゴを取ろうと手を伸ばした。
しゃくり。瑞々しい果実の音がした。
アンドリュースは牙を立てて、リンゴにかぶりついていた。咀嚼され、喉を通るまでをボーッと眺めてしまう。
「確かに。かぶりつく方が旨いな」
笑った彼の顔を見ながら、サラは遠い記憶を思い出していた。
『二人で食べると美味しいね』
赤い果実にかぶりつきながら、にかっと笑った表情にサラは救われた。
遠い大切なものを思い出し、すこし胸が痛む。でも、それは尊い痛みだ。
よほど喉が渇いていたのか、アンドリュースはリンゴを芯だけ残してあっという間に平らげてしまった。果汁でベタベタになった手のひらをペロリと舐める。そのしぐさがゴン太に似ていてくすりと笑ってしまう。
「手を洗いましょう。もっと食べたければ剥きますから」
アンドリュースが台所で手を洗う横で、サラはリンゴを出し始めた。赤いリンゴを見ているだけで切なく幸せな気持ちになる。丁寧に出していると、ルリがくいくいっとサラのスカートを引っ張った。
「あのね。ルリはうさぎしゃんがいいっ!」
リンゴをウサギの形に剥いてとお願いしてきた。サラは微笑んで、いいわよと言うと、ルリは本当に嬉しそうに笑顔でキャーと声を出した。
泥がついた手をよく洗い、リンゴを剥いていく。
「上手いものだな」
アンドリュースが横で物珍しそうにサラがリンゴを剥く様子を見ている。丸かったリンゴがウサギの形になっていく。
「これぐらい普通ですよ」
そう言いながらも、サラは思った。アンドリュースが王様なら、台所に立つことなどないのだろう。
(そうだ……王様なら探しているって言わないと……)
しげしげとうさぎリンゴを見ている彼に声をかけようと口を開く。
しかし、言葉は出なかった。
名残惜しかった。
この不思議な一時が。
皿に丁寧にリンゴを並べてテーブルに置く。
「洗濯物を見てきます。食べててください」
彼に声をかけて、家族にも声をかける。
「ちゃんと手を洗ってから食べるのよ」
はーいとそれぞれの声が聞こえてきて、サラは扉を開いた。
晴れたおかげで大きなアンドリュースの服も乾いている。それを手にとり、少しだけ寂しくなる。
夢の終わりだよ。
乾いた洗濯物がそう告げていた。
家に戻ると、はしゃいだ声が聞こえた。
「あんどりゅーふが食べると、オオカミさんみたい!」
「がおーってウサギを食べているみたいだな!」
コウヤとルリが、キャッキャッと話す中、アンドリュースは不適な笑みで言う。
「俺は狼の獣人だからな。間違ってはいない」
「うそっ! 本物? かっこいー!」
コウヤがキラキラな眼差しをアンドリュースに送ると、まんざらでもないのか、彼は笑う。
微笑ましい光景に終わりを告げるのは胸が痛むが、意を決してアンドリュースに声をかける。
「洗濯物、乾きましたよ」
そう言って渡すと、彼は神妙な顔をした。
「礼を言う」
受け取りを見届けてから、サラは口を開いた。
「行方不明の獣人を探しているそうですよ。戻った方がいいんじゃないですか?」
心を落ち着かせようと、淡々と告げるとアンドリュースの金色の目が見開かれた。
「俺のことを聞いたのか?」
「王様とだけ」
「そうか……」
重い空気が漂い出したが、側にいた二人の子供はそんな空気など読みはしない。
「アンドリュース、王様なの!? すっげー!」
「帰っちゃうの、あんどりゅーふ!? やだやだ!」
ルリはアンドリュースにしがみつき、コウヤは興奮してぴょんぴょん跳ねる。
「ルリ……アンドリュースは、帰る場所があるのよ。困らせてはいけないわ」
涙をたっぷり含んだ目でアンドリュースを見上げ、ぐずぐず鼻を鳴らすルリの肩を抱く。
「帰る場所はないがな……」
ポロリと零れてしまったかのような声に顔を上げると、彼は切なく目を細めてルリの頭を撫でた。
「今すぐ帰る必要はない。一晩、泊めてくれ」
思いがけない提案に、今度はサラが目を見開いた。
「でも……」
「やったー! あんどりゅーふ! 一緒に寝てね」
甘えてすり寄るルリにアンドリュースはあぁと優しく言う。サラは複雑だった。王様が行方不明など、一大事だ。こんな場所にいつまでも居るわけにはいかない。
「いいんですか?」
神妙な顔で尋ねると、彼は優雅に笑う。
「あぁ……気になることもあるし。ルリとも約束したからな」
「気になることとは?」
尋ねるとアンドリュースの笑みが深まる。首筋をするりと撫でられてながら、耳元に唇を寄せられ、囁かれた。
「お前のことだ。サラ」
(私の……?)
脳に直接、言葉を響かせるような低く甘い声。
「お前のことがもっと知りたい」
すぐ側まで寄せられた口は開き、牙を立てる。カプリと甘く噛まれ、サラは驚いて距離をとった。耳に言葉が張り付いたかのように感じて、耳を強く擦る。
「私のことなど……」
「今、最も知りたいことだ」
アンドリュースの言葉は蜘蛛の糸のようだ。かかったら最後、絡み付いて離れなくなる。いや、彼の場合は気配を消し、獲物を仕留めようとする狼だろうか。
「食事の準備をしながらでいいなら、なんでも尋ねてください」
サラはうるさくなる心臓の音を無視して、食事の準備を始めた。
「マリ。みんなにいつものやつをお願い」
「わかったわ」
そう言うと、マリは引き出しから紙と鉛筆を取り出す。そして、他の三人をテーブルに座らせた。習慣なので、三人もごねずに席に着く。
「いつものこととは?」
「読み書きの練習です」
アンドリュースの質問に淡々と答えながら、サラは米を釜に入れる。白い米粒が黒い釜で跳ねるように注がれていった。
「お米を研ぐので外にでます」
そう言うと無言でアンドリュースも付いてきた。