第十九話 好きの雨
その表情には覚えがあった。
遠い過去の自分だ。
雨上がりの日だった。
盗みに失敗してお腹が空いてどうしようもなくて、水たまりの上に転んだ。泥が跳ねて最悪な気持ちで体を起こすと、たゆたう水面が見えた。動けずにその水面を見ていると、やがて波が落ち着き自分の姿が映し出される。
瞳は暗く、なんの感情も映し出さない。
諦め。
嘆き。
絶望し。
それでも自分を捨てきれない顔だ。
涙が出そうなのに、出したら歩けなくなるから、喉元でそれを食い止める。
微かに残った意地をかき集めて歯を食いしばって、立ち上がった。
アンドリュースの顔はその時の自分と同じだった。
――――――
「…………」
金色の瞳を見つめると不思議と怖さが消えていった。改めて見ると、胸に込み上げるものがある。
獣人だとか。
人間だとか。
王様だとか。
番だとか。
家族のこととか。
王妃になることとか。
全て取っ払って彼を見ると、思うことは一つだ。とてもシンプルで大切な感情だけだった。
「好き……」
無意識にそれが零れてサラは慌てて口を噤んだ。拘束されていた手の力が緩む。ぴくりと耳が動き、金色の目が大きく開かれた。瞳に感情の光が戻る。
サラは隠しておきたかった思いが出てしまい酷く焦っていた。自分はさよならを言うつもりでここに来て、王妃になんてなるつもりはないのに、思いを伝えるなんておこがましい。
(どうしよう……なんて言い訳にしたら……)
取り消すのも変だが、押し付けるのも間違っている。彼の隣に立てない以上、受け取ってほしいとも思わない。
(どうしよう……どうしようどうしよう!)
パニックで泣きそうになりながら、言葉が浮かんでは消える。
「サラ……」
混乱していると優しい声が上から降ってきた。腕の拘束が外され、火照った頬に手が添えられる。
「もう一回」
「え?」
「もう一回、言ってくれ……」
金色の目は懇願し、声は小さく掠れていた。全身でお願いされる様は、色々考えていたはずのことを吹き飛ばすほどの破壊力があった。
「好き……」
「もっと……」
「す、き……」
「もっとだ……」
近づく金色の瞳に視線を逸らした。吐息がかかりそうなほどの距離になり、いたたまれなくなる。
「アンドリュース……」
「なんだ……」
「近いわ……」
恥じらいを孕んだ声で訴えると、アンドリュースはバッと離れた。離れて冷えた空気にホッとしつつ、少し寂しくなる。だけど、そんな寂しさも一瞬だけだった。
「格好悪……」
バツが悪そうに口元を押さえ視線を逸らされる。眉間に皺を寄せてはいるが、彼の顔はリンゴみたいに赤かった。
どこか拗ねた余裕のない表情にクスッと笑ってしまった。
そんな表情も好きだなと思う。
「アンドリュース」
愛しい彼にどう伝えようか。たった一言では伝わらない気がする。でも、それ以上の言葉が思いつかない。
ならば。せめて伝わるように、思いを言の葉にのせてみよう。
「好きよ、アンドリュース」
微笑みながら言ったら、金色の瞳と距離がゼロになった。荒々しく言葉を飲み込むようなキスをされ、終わると熟れたリンゴのような彼に一番、嬉しい言葉を言われた。
「俺も好きだ」
「やっと、捕まえた……」
それから、もう離したくないと言いたげに抱きしめられ、言った分以上の”好き”がサラに降り注いだ。
◇◇◇
好きの雨が止んでも、アンドリュースはサラを離さなかった。後ろから抱きかかえられて、捕らえられたままだ。パタン、パタンと彼の尻尾がベッドを叩く音がする。
(犬みたい……)
嬉しいとお向かいのゴン太も尻尾をブンブン振り回す。リュカも喜ぶと尻尾を振る。だから、彼もきっと同じなのだろう。そんなとこが可愛いなと思う。本人に言ったら、怒りそうなので絶対言わないが。
「アンドリュース?」
「なんだ?」
サラは少し言いづらそうに言葉を濁した。それに彼の尻尾の音もやむ。サラは腕から抜け出して正座をして、本音を言った。
「私ね……アンドリュースは好きだけど、やっぱり王妃とか実感というか、覚悟が足りなくて……だから、待ってほしい」
頭を下げた。今、できる礼儀の限りを尽くす。
「家族のことも心配だし、王妃になる勉強?とかしなくちゃいけないんでしょ? だから、色々クリアした後じゃダメかしら……」
きっと、彼なら身一つで飛び込んできても受け止めてくれそうだ。だけど、それではサラが納得しない。
サラは檻で飼われ愛でられる小鳥になるより、自由に飛び立って、空の素晴らしさを教えられる鳥になりたかった。
「頭は良くないけど、頑張って色々するわ。だからっ……!」
一世一代の告白は獣の口で塞がれ、途切れてしまう。サラはポカンとした後、真っ赤になってムッとした表情になる。
「もぉ……聞いてるの?」
「あぁ、聞いてる」
にやりと笑ったアンドリュースはまた嬉しそうに尾っぽを振りだした。
「俺のものになりたいから、嫁にくるって話だろ?」
心底嬉しそうに言う彼にサラは言葉に詰まる。なんだか悔しくて素直にそうだと言えない。
「まぁ……そうだけど……」
ブツブツ言うと、抱き寄せられた。思いが込められた抱擁に身を任せていると、優しい声が耳をくすぐる。
「何年でも待ってやる。百年待ったんだ。五年や十年ぐらいどうってことない」
(そんなに長くかかるかな……かかりそうかな……私の方が我慢できなくなりそう)
アンドリュースの背中を擦りながら、サラはそんなことを思った。
「ただし……」
ゆらりとアンドリュースが離れてサラの首筋に顔を寄せる。
「他の誰かに触らせるなよ。お前は俺ので、俺はお前のなんだから――」
そう言うと、カプリと首筋を甘噛みされた。
誤字報告ありがとうございます。
とても助かりますm(__)m




