第十八話 獣の渇望
ベルベットローズに呼び出され、アンドリュースは信じられないことを切り出された。
「お前の番とは私が先に話をする」
「何を勝手なことを……」
馬鹿馬鹿しいと聞く耳を持たないアンドリュースに彼女はぐいっと顎を掴む。
「お前……最近、まともに寝てないだろ」
ベルベットローズの指摘通り、アンドリュースはサラを抱きしめて寝たあの日以来、熟睡していない。どんなに深酒をしても体が火照るだけで、目が冴えてしまう。一度、安堵を覚えてしまった体はそれがないと眠るのを拒むようになっていた。
「余計なお世話ですよ」
ベルベットローズの手を乱暴に払い、アンドリュースは視線を逸らす。
「番を得た獣人は、甘美な匂いに抗えない。狂って愛を乞う獣になる」
淡々と言われたことにアンドリュースの耳がピクリと動く。
「お前は特に番が見つからなかった。やっと得た番を側に置かず、また離れた。そんなお前が、再び番に会ったらどうなると思う?」
ベルベットローズはアンドリュースの胸ぐらを掴み、金色の目を近づける。
「相手の意見など封じて、奪い去るだろう。それぐらい分からんのか?」
彼女の意見は的を射ていた。正直な話、再びサラに出会ったら、正気を保てる自信はない。毎日のように焦がれた番がくる。冷静に話し合えるはずはない。
「放せよ……」
アンドリュースはいつもの丁寧語を捨て去り、ベルベットローズを睨み付けた。
「だから、全て終わってから迎えに行こうと思ったんだ!」
人間の番は疎まれている。それでは、ここに来た時、サラが辛い思いをする。力でねじ伏せるのも限界がある。だから、国内を変えようと思った。それに、サラは家族を大事にしてる。嫁にはすぐこないだろう。少なくとも10年はアンドリュースは待つつもりだった。
それに不自由のない暮らしを与えたかった。あの家族を取り巻く環境を変えてやりたかった。自分は側にいけないから、代わりにリュカを行かせた。
「アイツを自分のにするために、邪魔なものは全部潰す! それのどこが悪い!」
今はダメだ。今は時期ではない。結ばれるための障害が多すぎる。だから、全て取り除いて、その後にこの腕の中に閉じ込める気だった。それまで、会うつもりはなかった。
会ったら最後、その手を離す選択を自分にはできないだろうから。
「時期が早すぎるんだよ、クソババア。計画通り進んでるんだから、余計な口を挟むな!」
アンドリュースが叫ぶと、ベルベットローズは、乱暴に手を放した。
「だから、お前は愚息だと言うんだ」
ベルベットローズは、冷徹な瞳でアンドリュースの傷を抉る。
「それはお前だけの計画だろう。番の意志はどこにある」
「っ……」
「リュカに聞いたぞ。お前、番に番であることも伝えてなかったそうだな?」
息を詰まらせるアンドリュースにベルベットローズは容赦なく畳みかける。
「なぜだ? なぜ、言わなかった」
「……関係ないだろ」
「……人間の番はお前ほど狂わなかったのか?」
痛いところを突かれてアンドリュースの手が強く握りしめられる。
「図星か?」
「っ……」
「それなら合点がいく。お前は番がお前を乞わないことを恐れたんだな」
ベルベットローズは深く息を吐き出した。
「なら余計にお前はここにいろ。それで番の本心を聞け。それで覚悟を決めるんだな」
ベルベットローズが背を向ける。
「人間の番と歩める未来が本当にあるのかどうか」
そして、バタリと扉がしまった。
「くそっ!」
アンドリュースは苛立ちながら、扉を叩く。衝動で扉がへこみ、一部が剥がれ落ちる。そのまま扉に額を付けた。
「クソババアが……余計なことをペラペラとっ……」
苛つく理由をアンドリュース自身、分かっていた。ベルベットローズの言葉通りだったからだ。
彼は恐れた。またサラに拒まれることを。自分へ距離を置いていた彼女にまた拒否されたら、今度こそ本当に自分はおかしくなる。だから、彼女が自分のものになりやすいように体裁を整えようと思った。
「はい」と言えるように恩をきせ、媚を売った。弱気な自分を上手く取り繕っていただけだ。
それが暴かれ、晒され、最悪な気分だ。
「くそっ……」
小さくまた呟くと、扉の向こうで違う扉を開ける音がした。耳を澄ますとサラの声がした。
『初めまして。タカヤ・サラと言います』
―ドクン……
心臓が騒がしくなり、体内の熱が急上昇する。扉を背にして、アンドリュースは心臓の辺りの服を掴んだ。扉を開けたくなるのを必死におさえ、呼吸を整えようと息を吐き出す。
(まずい、声だけで当てられている……)
見てもいない、あの匂いを嗅いでもない。なのに、この焦燥感。じわりと滲む汗にアンドリュースは乾いた笑みを出す。
(くそっ……イカれてやがる……)
扉一枚隔てて良かったかもしれない。たった一枚の壁が理性を繋ぎ止める鎖となる。呼吸を整え、聞き耳を立てた。悪趣味な行為だが、聞かずにはいられなかった。
『――彼だけを責めるのは間違っています』
途中、サラがアンドリュースを庇う声が聞こえた。
(あのババア相手によくそんな口をきけるな……)
荒波に揉まれたような感情が静まっていく。静かに水面は風にたなびくだけになる。その揺らぎが心地よくて身を任せていると、サラの一言でまた荒れ狂う嵐となる。
『”さよなら”を言うために来ました』
――――――…………
ガチャリ。
獣を繋いでいた鎖が外される。
獣は餌を求めて檻から出ようとする。
檻に鍵はかかってない。
扉を開けば、極上の餌がある。
なぜ、躊躇う必要がある。
腹を満たすものがすぐそこにあるのに。
獣は檻を開けた。
獣は餌に最終通告をする。
"俺のものになるのかならないのかどっちだ?"と。
答えなど、どちらでもよかった。
自分のものになりたいと言えば、甘く牙を立てるのみ。苦痛は一瞬。後は力を加減して甘く食べればよい。食べる途中、やりすぎて噛むのを強くしてしまうかもしれないが。
だが、断れば……容赦はしない。
牙を剥くことも、爪を立てることも、傷つけることさえ厭わない。
泣いて懇願しても無駄だ。
涙はただのスパイス。
餌に豊潤な香りを与えるだけ。
そして、餌は後者を選んだ。
「ちょっと……アンドリュース!?」
気がつけば、皿の上に餌を転がしていた。
手袋が邪魔だ。
餌を切り裂くのに爪が出ていない。
しまった首元も緩めなければ。
餌を飲み干せない。
後は餌が逃げ出さないように捉えないと。
「あんどりゅーす……?」
回らない口で餌が何か言っている。怯えて目が潤んで自分を拒否しようとする。それなのに、甘く匂いたち、全身で食べたがられているようにも見える。
血が滾る。
――欲しい
早く食べなければ。
――逃げ出す前に
欲しいものは奪って。
囲って。
押さえつけて。
牙を剥いて。
爪を立てて。
噛みついて。
いつもそうしてきたはずだ。
それに、これは最初から自分のものだ。
――――――………
「っ!」
アンドリュースは逃げようと後ずさるサラの両手を拘束して、そのままベッドの上に縫い付けるように倒した。
「った……」
サラの白い手が青白くなるほど掴まれ痛みが走る。それに苦痛の表情を浮かべるが、アンドリュースは更に空いた手を伸ばしてきた。
首元を隠していたドレスのボタンが、彼の爪にひっかかりプツンと外れる。顕になった首筋には所有物の証があった。
それにアンドリュースは笑みを浮かべる。仄暗く、感情を閉ざした笑みだ。
「アンドリュース……なにを……」
異様な空気に怯えながらも口を動かすと、彼の口から零れるように言葉が吐かれる。
「……契約したのにな……」
(え……?)
見上げたアンドリュースは泣きそうな顔をしていた。