挑戦の夏
1
この頃蒸し暑い日が長く続く。当たり前だ。だって明日から夏休みなのだから。ふと外を見れば立派に立っている木についた堂々の緑の葉っぱ。でも、この木がなんという木かわからないし、そもそも植物なんか興味がないから、すべての木が同じように見えてしまう。植物が好きな奴なら、前に立っている木の種類など簡単にわかることが出来るんだろうか。
九十分の長い講義が終わり、おれは疲れて伸びをする。つかれた……。
「なあ、慎吾。今日夕飯いっしょに食いに行かね?」
講義が終わればすぐに友人が誘ってくる。
「悪い。今日バイトだわ」
そう断って、講義室の外に出る。
大学を出て二十分あたりバスで移動した先に「PON太郎」という居酒屋がある。おれはそこのスタッフルームに入る。
「よ!」
「お疲れっす」
先に入って準備をしていたのは二つ上のバイトの先輩であり、仲間でもある高杉結子。結子先輩とはバイトに入った当初から仕事内容のことや、いろんなうんちくを教えてもらった。おかげでバイトにもすぐに打ち込むことができ、結子先輩には感謝している。また、目が真っ黒くきれいで、くっきりとした二重が印象的な顔立ちで、顔だけでなく面倒見がよく、さぞ大学では周りの男の目を奪っているのだろう。
「じゃあ、今日も頑張ろうね」
結子先輩はおれの肩を叩いてスタッフルームを出た。まぁ、彼氏持ちだということを知っているから、とっくのとうに諦めてるがな。
大体の仕事内容は簡単だった。客にお呼び出しをもらったら、そこのテーブルへと行き、注文を受け、そのメニューを携帯している電子機器に押して、メニューができたらただ運ぶだけ。ただそれだけだ。しかし、居酒屋なため、夜になると、学生やら社会人やらで席が満席になり、あちこちと駆けまわることになってしまう。
いつも通りに店内をあちこち駆けまわっていると、ベルが鳴った。このベルは客がきた合図だ。
「いらっしゃいませー!」
走りながら大声で挨拶をする。チラ見だが大学生の団体だ。多分、部活かサークルが終わって、それのお疲れ会だろう。なんて暇な連中だ。
その暇な連中は、結子先輩によりけっこう広いテーブルに案内されて、馬鹿笑いしながら次々と座っていく。お冷を全員に渡した後、結子先輩はいつものようにすんなりとその場を去った。
結子先輩に見とれていると九番のテーブルが鳴った。
「今、お伺いいたします」
そういってテーブルを確かめると、九番は暇な連中のところだった。速やかに近づく。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
そう言って電子機器を広げると、「あ」という声が聞こえた。その声がした方向を見るとそこには顔見知りの女性が座っていた。
「あ」
思わずおれも声を出してしまう。
「あれだよね?同じゼミ取ってる……えーっと苞山くん! だよね?」
安田亜香里。一年で入門ゼミという授業があり、そこで同じクラスの人だ。同じクラスだとしても週に一回しかないし、ましてや安田さんとは話してもないので名前を覚えられているのは意外だった。
そうは言ってもおれはもとから知っている。なぜなら、それほど安田さんはクラス内、いや、もしかしたら一年生でも有名なのではないか? でも、それほど安田さんは人気なのだ。とにかくきれいで、よく似合うロングヘアーに少し細い二重の目。また小顔で女の子がほしがるすべてを持ってるような顔をしている。噂によれば、性格もよほど良いらしい。もう男子からしてみればたまらないほどの美しさだろう。
「は、はい……そ、そ、そう……です……」
思わぬ出来事に動揺して変な返事になってしまった。ここで安田さんに出会えたのはうれしい。しかし、一つ問題がある。安田さんが所属している部活が水泳部だということだ。まさか、暇な連中が水泳部だったとは……。
それよりも、うちの大学の水泳部にはちょっとした強豪校でまた、その中に一番個人的にだが警戒している人物がいる。
黒羽怜太。水泳をやっている奴の中では名が通っている。得意種目は自由形でインターハイに出れるほどのレベルだった。黒羽はその水泳を使って、推薦でここの大学に入学した。さすがに全国レベルだ。がたいがよく、ティシャツを着ている上からでも、筋肉がはみ出るほどパンパンだ。
黒羽のオーラに少しおびえながらおれは口を開いた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
安田さんはかわいかった。そしてその安田さんに名前を覚えてくれていただなんて、どんなにうれしいことか。水泳部に出会ってしまったことは痛かったが、安田さんに出会えたことで水泳部が居酒屋を去った後の今でも心が躍ってしまっている。
「なんかご機嫌だね」
すべての仕事を終え、スタッフルームで鼻歌を歌っていると、いつのまにか、結子先輩が後ろに立っていた。
「いやー、そんなことないっすよ」
気持ち悪いぐらい顔をにやつかせていう。
「さっきの団体に好きな子がいたとか?」
さすが結子先輩。鋭い。テキパキと仕事している中でちゃんと俺の様子も見ていたのだ。そこでもきっと俺は気持ち悪い笑顔を安田さんに見せていたのだろう。
「鋭いっすね」
素直に認めると、結子先輩は食いついてくるように俺の隣に並んだ。
「どんな子?」
「安田さんっていう人なんですけど、大学の同じゼミの人で、めっちゃかわいい子なんですよ。大学の文化祭で行われるイベント……あれ、なんだっけ?たしか……えーっと……」
「ミスコンテスト?」
「そうそう!ミスコンテスト!そのミスコンテストにもきっと選ばれるような……と、とにかくめっちゃかわいいっすよ!」
途中で安田さんのことを結子先輩に説明していることが恥ずかしくなって、言葉が出にくくなってしまう。
「でも、顔だけじゃないんですよ……性格もすごいいいんです。人を助けるっていうか、よく周りを見ていて、困ったところがあれば助けるっていうか……とにかくやさしいんです。だから、クラスの人にも、いや、他の学部だって、大学の中でも人気なんです」
「倍率高いのかー」
結子先輩は俺の話を笑顔で聞いていた。その顔を見ると人の恋愛話が結構好きそうに見える。
「先輩は彼氏とかいないっすか?」
多分いるだろう。そう思っておれは少し鼓動を高鳴らせながら結子先輩を見た。しかし、どういうことだろう。結子先輩の顔が一瞬、暗くなったように見えた。気のせいだろうか? スタッフルームの空気も少し変わったかのように思える。
「さあ、どうでしょう?」
結子先輩は笑顔でそうは言ったが、これ以上結子先輩の恋愛のことについては触れてはいけない気がした。
「それよりさ。ひとつ、アドバイスしてあげよっか?」
結子先輩はそういって人差し指を立てて自分の唇の近くに持っていった。
「女の子って夢を追いかけて頑張っている姿が一番かっこいいって思うんだよ」
結子先輩はそういってドアに向かった。
「私、これから店長に用があるから……頑張ってね」
結子先輩は捨て台詞のように言ってからスタッフルームを出た。
結子先輩は夢を追いかけて努力をする男がかっこいいと言っていた。夢ってなんなんだよ。あいにく自分には夢がない。プロ野球選手になりたいとか、保育士になりたいとか、現実的に言えば、どこどこの企業に就職したいとか?そういう夢が俺には持っていない。夢がないのにどう頑張ればいいのか。さっぱりわからない。
頭を悩ませながら居酒屋を出ると目の前に人影が見えた。ふと見てみるとその一瞬で俺の心臓の鼓動は爆発するかのように大きくなった。
安田さんがそこに立っていた。
「え、な、なんで……?」
あまり驚いてしまい声が裏返る。安田さんは笑顔で俺の顔を見ている。
「水泳部のみんな二次会とか言って、次の店に行っちゃってさ。私は未成年でまだお酒が飲めないし、お腹もいっぱいだからつまんないし、帰ることにしたんだけど、どうせなら苞山くんと帰ろっかなー、なんて」
安田さんは恥ずかしいのか下を向いてしまった。
「い、いいよ。いっしょに帰ろっか」
俺と安田さんは二人並んで駅の方向へ向かった。夜の十時を回っている。あたりは真っ暗で東京の空はまったく星が見えない。それが残念だが、夏の夜はそんなに蒸し暑くなく、心地の良い風が二人の体に当たり、気持ちよくさせる。安田さんと一緒にいるせいでもあるが、バイトの疲れを忘れていくようだった。しかし、いくら気持ちが良いからって会話がないのはまずい。せっかく二人きりで話せるチャンスなんだ。なにか話題を見つけなければ。そう焦っていたら安田さんのほうから話しかけてきてくれた。
「部活、入らないの?」
「え?」
部活……。いきなり、その単語が出て驚いた。安田さんが自分が部活に入ってないことを知っているなんて思ってもみなかった。自分が意識していないだけで安田さん想像以上に周りを詳しく見ているのだ。
「まあ、……入らないかな」
そう答えるとなぜか安田さんは落ち込むように「そうなんだ」とつぶやいた。
一体、安田さんはなにが聞きたかったのだろう?しばらく歩いているが部活のことを聞いたきり、口を開くことはなかった。さっきから静寂の空気が二人の間に漂っている。俺は頭をフル回転して話題を探す。色々考えた末、昨日見たテレビの話題しか出てこなかった。少し不自然だが会話が無いよりはましだ。これで行こう。口を開いた瞬間、それよりも先に安田さんの口が開いた。
「もう、水泳はやらないんだね」
「え?」
あまりに衝撃なことに俺は歩いているのをやめてその場で立ち止まってしまった。少し安田さんは前へ止まって振り向いた。
「高校のとき、水泳やってたでしょ?」
「どうして、それを……」
高校のとき水泳をやっていたことなんて大学の誰にも話していない。それなのになぜ知っているのだ。
「実は高校三年生のとき、試合で見てたんだ」
高校三年の試合。あれははっきりと覚えている。忘れるはずがない。とても苦い思い出だ。
「たしか、黒羽くんと一緒のレースだったよね」
一体どういうことだ? 俺は全く状況がつかめない。なぜ高校のときに俺の泳ぎが安田さんに見られていたのか。
「私ね。高校も水泳部に入っていて、試合にも出てたんだよ。まあ、そんなに早くないから黒羽くんみたいに最終レースで泳がなかったけど」
水泳の試合は遅い順から開始される。第一レースと第二レースと数を重ねていくうちに選手のタイムは早くなっていく。最終レースとなると今回大会に参加している選手の中で最も早い選手のレースとなる。そして今までのレースで上位三名がインターハイに出場できる仕組みだ。黒羽はみごと最終レースで一位を取り、レース総合でも一位をとった。インターハイに出場したのだ。
「私、百メートル自由形の最終レース見てたんだ。」
実は、高校三年生の試合では俺も最終レースに参加していた。まあ、黒羽には負けてしまったのだが。
「苞山くんの泳ぎ見たんだよ」
そうか。俺は高校三年生のときから安田さんに名前を知られていたのか。
「苞山くん、速かったじゃん。大学じゃあ、やらないの?」
正直、安田さんに速いと言われると嬉しかった。しかし、安田さんの言葉には即答ができなかった。きっと相手が安田さんじゃなければすぐに「やらない」と言えるのだろう。
しばらく黙っていると安田さんは俺の肩に手を置いた。
「良かったら、水泳部入らない?」
安田さんの目は希望の目にあふれていた。素直に俺の心は安田さんに肩を置かれているせいもあったのだが、心臓の鼓動が大きくなりすぎて痛かった。
あやうく「入ります」と言ってしまうのをこらえて、唾をのむ。
「い、いや……俺には……無理だから」
緊張しながらもなんとか言ってみせると安田さんはきょとんとした顔を見せた。
「どうして?」
無理だ。俺にはどうしても水泳ができない。できるはずがない。もう二度とあんな思いをするまで泳ぎたくはない。――もう水泳なんて嫌いだ。
「いや……それは……その……」
心の中でそうは思っても水泳部である安田さんの目の前でそれを言う勇気はなかった。あくまでも私情を安田さんに巻き込んではいけない。
「高校のとき、苞山くん速かったよ。私、憧れたんだから。苞山くんが水泳部に入れば楽しいと思うのにな」
安田さんは相変わらずのかわいいえくぼを作って俺に言ってくる。ついその笑顔に見とれてしまう。こんなのずっと見ていたら、逆に水泳に集中できないだろう。水泳部員はその笑顔に負けないで、ちゃんと練習しているのか?俺は安田さんの顔を見てそんなことを思っていた。
「まあ、しつこいようだけど、考えてみてよ。答えはすぐじゃなくていいから」
そう言って、安田さんはふたたび歩き始めた。おれもその後を追った。この時から挑戦の夏が始まった。
2
市民プールに来た。別に水泳部に入部をしたわけではない。部屋を片付けていたら、たまたま水着を見つけたため、たまには泳いでみようか、と思っただけだ。
夏休みだからか、小学生らしい子どもたちが元気にプールで泳いでいた。いや、泳ぐよりははしゃいでいるように見える。
俺は入念に準備体操をしてから、プールに入って間髪入れずに泳ぎ始めた。久しぶりに泳ぐ。体全体に水の冷たさがじんわりと伝わっていき気持ちが良い。久しぶりなせいで腕を回すたびに違和感を感じる。しかし、その違和感はすぐに感じなくなってしまった。きっと体が泳ぐことに慣れたのだろう。
ひとまず百メートルを軽く泳いでみる。流石にその程度では息が切れるわけがない。しかし、それが五百メートルも泳ぐと疲れてくる。一年以上も泳いでいないのでは体力が落ちているのは当たり前だ。
しかし、おれは泳げば泳ぐほど疲れるのと同時に苦しい記憶が頭の中で次々と思い出していった。
高校のとき、俺は水泳部に入部した。入部するときは他の部活なんて一切見ずにすぐに水泳部に決めた。小学生のころから水泳をやっており、泳ぎには自信があったからだ。そして何より、水泳が好きだったのもある。
入部したのは良いのだが、一つ問題があった部内でいじめがおきたのだ。小さいころから水泳をやっており、かつ結構有名なスイミングクラブに通っていたのもあって、入部した仲間と比べて、圧倒的に俺のほうが速かった。
そのため、俺は顧問やコーチ、先輩までにもひいきをされていた。ひいきされたと言っても、練習を特別サボれるとかそういうのではない。俺のだけみんなより違う練習メニューをもらい、ただひたすらに練習していただけのことだ。
それと、泳ぎが上手いことで目立ち、自分で言うのもなんだが、結構女子にももてていた。そういったところが部活仲間に反感を買ったのだろう。一年の秋から俺はいじめにあった。水着を破られたり、ものを隠されたり、壊されたり、金を盗まれたり、無視をされたり。色々なことをねちっこくやられた。
しかし、俺は水泳部をやめなかった。そこでやめてしまうと、あいつらに負けてしまうような気がして嫌だったし、何より水泳が好きだったからだ。
それでも、流石にいじめを耐えることはそんなに甘くなかった。高校三年間のなかで親や周りの連中に隠れて泣いたことが数えきれないほどある。夕飯をのどに入れることが出来なかったことがたくさんあった。泳ぐことにも泳げば泳ぐほどタイムが遅くなったこともある。もちろん、眠れないときもたくさんあった。
私はそれらを耐えて引退まぎわを迎えた。やっと、と思っていた。やっと、いじめから解放される、と喜んでいた。でも、事態は最悪な状況となった。
引退試合に出るためのタイム取りを終え、泳ぐレースが決まって、俺の血は一気に騒いだ。俺の三年間の頑張りを神はちゃんと見ていた。
同じレースに黒羽怜太がいた。あの黒羽怜太だ。高校二年生にしてインターハイに出場して、水泳をやっている奴には有名な野郎だ。引退試合でソイツと勝負が出来るだなんて、なんという幸運なことだ。しかも最終レース。俺も上位三位以内に入ればインターハイに出場できる可能性が大いにある。俺は最後の最後でいじめに耐えた意味があった、と思った。
しかし、現実はそうはいかなかった。このことが部活仲間の頭を切れさせたのだろう。そいつらは放課後、練習が始まる前に俺を体育館裏に呼び出した。警戒しながらもそこに行った俺が馬鹿だった。待ち伏せしていた連中に体を抑えられ、俺の右肩を思い切り蹴られたのだ。
あまりの激痛に病院で行って検査をしてもらったところ、右肩を損傷していた。医師によると引退試合に出られないこと。
でも、俺は試合に出た。いじめが原因で試合に出られないなんて、後に俺は絶対に後悔をする。恥ずかしくてたまらないだろう。また、右肩損傷ごときで黒羽との試合を諦める訳にはいかない。また、インターハイへの切符を取り逃がすわけにはいかない。そう思った俺は右肩の心配をしないで無理やり試合に参加した。
結果は失格だった。実際には黒羽と同着だった。しかし、右肩の痛みで入水とターン、そして泳ぎのフォームが崩れていたらしい。絶望だった。三年間のいじめにたえながらも、頑張った自分のあの時間はいったい何だったんだ。
顔をうつむかせて応援席に戻ると部活仲間の連中は俺の顔を見て笑っていた。許せなかった。しかし、自分から何もすることが出来なくて、代わりに涙を流した。泣くしかなかったのだ。
無力だ。あいつらを見返してやることが出来なかった。殴り返すこともできず、鼻を明かすことも出来なかった。ここまで来たら、悔しさよりも諦めの方が強かった。
――もうこんなに辛い思いするなんて嫌だ。
右肩は大学入学する前に治った。しかし、もう水泳をやる気力はなかった。大学の部活は高校の部活と違うのは分かっている。しかし、それでも、もう水泳なんてしたくはなかった。
充分と泳ぎ終わった俺はプールを出て、近くの公園で携帯を触っていた。実は安田さんと帰ったあの夜、安田さんに連絡先を交換していた。
『もしもし?苞山くん?』
携帯で電話をかけて、すぐに電話は安田さんと繋がった。
「あ、もしもし、俺だけどさ、今大丈夫?」
『うん。大丈夫だけど……水泳部のこと?』
「うん」
電話の間の俺らは少し沈黙が起きた。
「……やっぱし、俺、無理だわ」
どう言おうか悩んだ末、これしか言葉が出てこなかった。そこでもまた沈黙が起きる。何分黙っていただろう。二、三分か。いや、長く感じただけで実は十秒も黙っていなかったのかもしれない。ただ、ティシャツのわきの部分がじっとりしめっていく。
『そっか。やっぱりダメか』
安田さんの溜息が電話越しで聞こえる。
「ごめん……」
『いや、別にいいよ。……だけどさ、どうして水泳部入らないのか、教えてくれない?』
俺は安田さんの言葉には戸惑いを見せる。「高校のときにいじめられてました」だなんて恥ずかしくて言えるわけがない。しかし、高校時代のことを言うにはそれを言わなきゃ、上手く説明なんて出来ないだろう。
「ごめん。それも出来ない」
俺は電話してることさえ恥ずかしく感じてしまい、安田さんの反応を待たずに電話を切ってしまった。それから直ぐに電話がかかってきたが、俺は無視してバイト先に向かった。
PON太郎に着くと、スタッフルームには結子先輩携帯をいじっていた。
「あれ? どうしたの? なんかいつもと違うじゃん」
結子先輩は俺を見るなり、最初にそう言った。
「ああ、さっきまでプールに入ってました」
そう言うと、結子先輩は首をかしげた。
「いや、なんだかそんな感じとは違うんだよね」
どういうことだろう?プールに入ったため少しは髪の毛が湿っているはずだ。また、体が塩素臭くなっている。きっと、その二つで俺が少し違く見えたのだと思ったが、それも違うんだったら、いったい結子先輩からしてみて俺はどのように見えるのだろう。
「なんか悩んでいるような顔してるよ」
「悩んでる?俺がっすか?」
「隠さなくて良いよ」
結子先輩は俺の心情を理解いているかのように冷たく言う。
「私、なんかそういうの分かっちゃうんだよね。いくら本人が隠してるつもりでも、悩んでいるときなんて少しは無意識に雰囲気って言うの?オーラって言うの?そういうの変わってくると思うんだよね。今の慎吾くんなんてまさにそう。私、そういうの分かっちゃうから正直に言いなよ」
俺は結子先輩の言葉を聞きながら、荷物を置いて、PON太郎の制服を手に持つ。ずっと黙っていると結子先輩は溜息をついた。
「何があったか分かんないけど、周りに弱みを見せない人って弱いんだよ」
結子先輩のその一言は衝撃的だった。自分は弱い人間だ、と言われてしまったのだ。
俺は目をつむった。高校のころのこと、俺は結子先輩に言えるのか?言って後悔しないか?恥ずかしさに自分は耐えることが出来るのか?俺の頭の中は不安で一杯になった。
いや、大丈夫だ。俺は何を考えているんだ?相手は結子先輩だぞ?結子先輩が俺のいじめのことを知っても少なくとも笑うはずがない。同情はされるかもしれないが、そこまで結子先輩が相談に乗ってあげられる、と言うのであれば素直に正直に言った方が気が楽になるのではないかと考えた。
「結子先輩……」
俺は拳を握りしめて、心の中で決心を決めた。
「バイトが終わった後、時間をくれませんか?」
バイトが終わり、俺と結子先輩は駅前の喫茶店でお茶を飲んでいた。夜の喫茶店はあんまし人はいないけど、想像以上に客がいて、なんだか店内はシックな感じで、薄暗く、仕事の疲れを癒すかのように、心が落ち着いた。
そこの喫茶店で俺は結子先輩にすべてを話した。小さいころから水泳をやっており、それなりに上手いこと、高校で水泳部に所属したこと。そこでいじめられたこと、いじめに耐えたこと、引退試合黒羽と対決が決まり、その為部活の連中に右肩を故障させられたこと、右肩を故障してまで引退試合で黒羽と勝負したこと、結果失格になったこと、水泳が嫌いになり、安田さんに水泳部に誘われ、断ったこと。ここまで話したのは結子先輩が初めてだった。こんなこと家族にも話していないのだ。
俺の話に結子先輩は途中で遮ることもなく、頷きながら聞いてくれた。すべてを話したあと、結子先輩は背もたれに背中を預けてカフェオレを一口飲んだ。
「水泳嫌いになったんだ」
結子先輩は一言つぶやくように言った。俺は首を小さく縦に動かした。
「はい。もう水泳のために苦しい思いなんてしたくないので」
「それ、嘘でしょ?」
結子先輩は俺の言葉に否定したかのように言う。いや、否定した。
「え? どうして……」
「本当に水泳が嫌いだったら、断ってその後、あなたみたいに悩む必要なんかなくない?」
「いや、でも断った罪悪感って言うのがあるじゃないですか?」
「そう? あなたの話を聞いてると罪悪感なんて感じているような話し方じゃないわよ。あなたが悩んでいるのは『水泳部に入ろうか、入らないか』ってことだと思うよ」
罪悪感ではない……。俺は先程まで断った罪悪感で心を苦しめられているのだと思っていた。しかし、だとしても俺は『水泳部に入ろうか、入らないか』で悩んでいるわけではない。それは断言できる。水泳が嫌いなのだ。高校で辛い思いをさせられたスポーツだ。嫌いにならないはずがない。
「まだ自分で気づいてないようだから教えてあげる。きっとあなたは水泳がまだ好きなのよ」
「そ、それはないですよ。俺は水泳が嫌いです。高校のときにあれだけいやな思いをしたんだ」
「じゃあ、なんで安田さんに誘われたとき、すぐに水泳部を断らなかったの?嫌いだったら何が何でも断ると思うのにな」
確かにそうだ。嫌いなスポーツに誘われて即答で断らない奴はいないだろう。しかし、俺は少しの間悩んだ。プールに入ってまでも考えた。俺は断るのをためらった。
「もう少しだけでも、考えてみたら?」
結子先輩は可愛らしい笑顔を俺に向けた。最後に一言。
「挑戦する男もかっこよく見えるよ」
結子先輩の最後の一言が俺の心の中を少しざわつかせたような気がした。
3
蝉の鳴き声がうるさい。大学のキャンパスの中の木の全てに蝉が住み着いているような感じがした。しかし、それが夏の良いところでも言えるのではないか、と不思議に思ったりする。だとしても、この暑さはどうにかしてほしい。キャンパス内を少々歩いただけで汗を大量にかいてしまう。
そのせいで、隣の安田さんに引かれやしないか不安に思ってしまう。しかし、その一方で安田さんはこんな暑いにも関わらず、まったく汗をかいていなかった。
俺たちは部室等の中に入り、そのまま三階に上がった。上がってすぐ右に曲がって三つめの右側のドアの前に止まった。
「ここ。水泳部の部室」
安田さんは目の前のドアを指差して言った。俺は結子先輩と喫茶店で相談したあの夜に一人悩んで、取りあえずは水泳部を見学しようと思ったのだ。
安田さんはためらいもなく部室のドアを開けた。
「おはようございまーす!」
元気よく挨拶をして、部室の中に入った。その後に続いて俺も部室の中に入った。
「部長。今日見学する苞山慎吾くんです」
安田さんは部長を見つけると、早速俺のことを紹介した。
「ああ、苞山くんね。亜香里から聞いてるよ」
亜香里とは安田さんの下の名前だ。
「僕は水泳部の部長をやっている石川誠一です。よろしくね」
石川部長はそう言って手を差し伸べた。一応、俺も手を差し伸べ握手をしたが、その時は俺の目には石川部長は映っていなかった。その後ろでおとなしく座っている黒羽怜太が映っていた。
黒羽は俺のことを覚えているだろうか?隣のコースで失格になった奴のことを覚えているのだろうか? そもそもそんな奴なんて眼中にないのだろうか?
水泳部の練習では正直にそんなに辛そうに見えなかった。部員の中でもたまにバシャバシャと辛そうに泳いでいるのだが、ほとんどの部員はスイスイと泳いでいた。石川部長も安田さんも難なく泳いでいる。黒羽はみんなよりも早く泳ぎ、すべての練習メニューをこなしたのか、自主練に入っていた。
俺はおとなしくプールサイドでその練習風景を眺めてた。
こうやって周りが泳いでいる姿を見ていると、ふと、自分も泳ぎたくなってしまう。その衝動を我慢していると、練習が終わったのか、黒羽がプールサイドへ上がり、俺のほうに向かってきた。
「再び泳ごうという気持ちになったのか?」
黒羽のその言葉は最初俺に向けたものではないのかと思っていた。しかし、ここ付近は俺と黒羽しかいない。少し間があいて俺にかけた言葉だと分かった。
「え?」
「試合で失格になって、絶望的になって水泳をやめたかと思っていたのだが、そうでもないみたいだな」
俺は目を見開いた。黒羽は俺のことを覚えていた。隣で失格になった奴のことを覚えていたのだ。あまりの驚きでしばらくの間、声を出せなかった。
「苞山慎吾って言ったっけか?」
「う、うん」
「俺と勝負しろ」
「え?」
黒羽の言葉に一回で理解できなかったからか、黒羽は溜息をついて後頭部をポリポリと掻いた。
「あの時、お前肩壊してただろ?」
「どうしてそれを」
「部活仲間が撮ってくれた映像に隣で泳いでいたお前も映っていて、右肩の動きが変だった。どうして、右肩を壊したのか俺は知らないが、少なくともあの時のお前は本調子じゃなかったってことだ。それで、試合には失格にはなってしまったが、俺のギリギリ直後にゴールした。もし、お前が右肩を壊してなかったら、俺は負けてたんじゃないか?俺はあの試合からずっとそう考えると体がうずうずしてたまらないんだ。おまえの本気も知りたい。今じゃなくていい。だから、俺ともう一回勝負しろ」
黒羽は本気だった。本気だったから余計俺は戸惑った。俺は水泳部に見学をしただけで、まだ入部すると決めたわけではない。黒羽にそんなことを言われてしまったら、水泳部に入部すること決定ではないか。
『パシャ』
戸惑っていると、横からカメラで撮る音がした。振り返ってみると、そこにはスマホを持った安田さんがいた。
「亜香里、お前」
黒羽は嫌な顔を安田さんに向けた。
「いーじゃん! 男同士の対決! 格好良いよ」
安田さんは撮った写真を眺めながら言う。
「撮ってんじゃねーよ」
黒羽はそう言って安田さんからスマホを取ろうとする。しかし、安田さんは取られまいと、黒羽の手をよける。俺はその二人を見て、結子先輩の言葉を思い出した。
(女の子って夢を追いかけて頑張っている姿が一番かっこいいって思うんだよ)
(挑戦する男もかっこよく見えるよ)
少しは頑張ってみるか。その時の俺はそう思った。
「良いよ。勝負しよう」
俺の一言で黒羽と安田さんの動きを止めた。
「しかし、条件がある」
「条件って?」
安田さんは笑顔で食いつくように俺の次の言葉を待っていた。
「もし、勝負で俺が勝ったら、黒羽。お前、ジュースを奢れ。ただ、もし俺が負けたら、俺は水泳部に入らない」
俺のこの条件に安田さんは真っ先に反対した。
「何で? 普通逆じゃない? 勝ったら水泳部に入部するってことだよね? だったら、苞山くん本心は水泳部に入部したいってことだよね? だったら、そんな勝負意味ないじゃん」
「いや、俺にとって今回の勝負は挑戦への資格があるかどうかの試験なんだ。今回の勝負で俺が黒羽に勝てるのであれば、身体的にも精神的も頑張れる資格があるってことだ。だから、今回の勝負はこの条件が必要なんだよ」
俺が説明しても安田さんはまだ納得いかないのか、眉をひそめたような顔をしている。
「よし。わかった。良いだろう」
「ちょっと、黒羽くん」
安田さんは黒羽の肩を叩く。その条件での勝負は認めない、と言いたいのだろう。しかし、黒羽はそれを無視して
「再来週の金曜日に勝負だ」
と、俺に勝負を仕掛けた。
苦しい。流石に一年以上、まともに泳いでいない体でいきなり本気で泳ぐのは無理があったのかもしれない。しかし、俺は二週間後、黒羽と勝負をするんだ。弱音の四の五の言っていられない。俺は昔のフォームを思い出すように泳いだ。
「おい! 苞山! 肩が上がってないぞ!」
五十メートル泳いで壁に手をついたとたん、相川コーチに叱られる。相川コーチは高校のときにコーチしてくれた人で、一言で言えば厳しかった。しかし、水泳の指導は一段とうまく、この人に教わった奴は爆発的に記録を伸ばしたのが多い。言葉は汚いし、かつショートヘアなために男と間違われがちだが、実際、女性である。
俺は黒羽との勝負が決まってから、足が重かったのだが、高校へと足を運び、相川コーチの指導を受けることにしたのだ。相川コーチは俺がいじめられていて右肩を壊した理由も知っている数少ない俺の理解者だ。その為か、水泳の指導を二つ返事で受け入れてくれた。
「せんぱーい。もう少し、速く泳いでもらわないと後ろが詰まっちゃいまーす」
俺の背後で大きな声で言うのが辛崎育太。俺の一つ下の後輩で今は三年生で引退したのだが、水泳の推薦で大学が決まったらしく、部活に参加していると言う。
辛崎は俺のいじめのことを知っていたのだが、まったく興味を見出さなかった。その為、同情することもなく、普通のように俺と接してくれていた。そして、辛崎は俺と相川コーチと顧問以外の水泳部の連中は決して関わらなかった。本人に訊いてみると「まともな人間しか関わりたくない」とのこと。
後ろの辛崎に足を手で刺されながらも、なんとか練習のすべて終わった。体は相当に答えていてプールサイドにあがるのがやっとだ。
「大丈夫っすか?」
余裕そうにしている辛崎は俺に手を差し伸べた。
「すまん」
俺は辛崎の助けをもらってやっと、プールサイドに上がった。しかし、しばらく立つことが出来ない。
「苞山。本当に大丈夫か?」
相川コーチは俺の真横に立った。俺は苦しまぎれに「大丈夫です」と言った。
空はオレンジ色に染まっており、これで安田さんと二人きりで多摩川の土手を歩いていれば『THE青春』と言えるのではないか。しかし残念ながら、国道を相川コーチと辛崎で駅に向かって歩いていた。
「本当にそんな賭けで黒羽怜太と勝負するの?」
相川コーチは練習のときはまた違う、女性らしい声で言った。
「はい」
「今日の泳ぎを見てる限り、勝てそうに見えないっすけどね」
辛崎は相変わらずの毒舌で遠慮なしに言ってくる。
「大丈夫さ。あと三日もすれば、この一年の穴を埋められるさ。絶対に黒羽に勝ってみせる」
俺は自分に言い聞かせるように言った。そんな俺を相川コーチは優しく「頑張れ」と言ってくれた。
本格的に練習をしてから、一週間半がたった。結果を先に言うと、まったくタイムは伸びなかった。何が三日で穴を埋められるだ。三日たっても俺の体力は変わらず、体は必ずへこたれてしまった。
それでも、俺は一週間たてば一年前の感覚を戻せるだろう、と思っていた。それなのに、タイムは速くなるどころか、遅くなってしまっていた。どういうことか、俺は体に鞭打って相川コーチの指導の下の練習の他に、市民プールにも行って、また走り込みや筋トレも空いている時間があれば、そのすべての時間に費やしていた。しかし、それでも全くタイムは伸びなかった。
俺はもう何をすれば良いのかわからなくなってしまった。どうしたらタイムが速くなるのか? そう疑問に思いながら、勝負まで後三日となり、気づけば水泳部の部室の目の前に立っていた。俺はノックしてドアを開けようとすると、横から人の気配がした。
「あれ? 苞山くん?」
振り返ってみると、安田さんが立っていた。
俺と安田さんは部室棟の外に出て、キャンパスの真ん中に位置するバシャバシャと水と水がぶつかり合っているような音のする噴水の前で立ち止まった。
「どうしたの?」
もう時間は夕方近くで空が薄くオレンジ色になっていた。
「やっぱし、俺無理だわ」
俺のこの一言で安田さんはちゃんと理解したらしい。「なんで?」と訊いてきた。
俺はこの一週間半で練習しても、中々タイムが伸びないことを言った。
安田さんはずっと真顔で黙っていた。その表情では今、何を思っているのかわからなかった。怒っているのか、呆れているのか。今でもなお、黙っている。
「やっぱし、俺は頑張っても無駄だったんだ。高校だってそう。結局、俺は何したって無駄になるんだよ」
格好悪い、と思った。そして自分が「クズ」のように見えてきた。ああ、もうこの先一生「クズ」で良いや。そう思った瞬間、やっと安田さんは口を開いた。
「無駄になんか、なってないよ」
「え?」
無駄になってない、というのはどういう事だ? 俺には何も得なかったのだ。この一週間半、何も得なかった。
「だってさ、苞山くん。水泳が嫌いって言ってたのに、今、すごい泳いでんじゃん」
安田さんは笑顔で言う。その笑顔はまるで俺を助けてくれるような、そんな気がしていた。
「高校時代、何があったか分からないけど、様子を見れば何か水泳が嫌いになるほどの嫌な思いをしたのは分かる。けどさ、黒羽くんと勝負することになって、今まで練習してたってことは、過去のその辛い思い出を振り切れたってことじゃないの? ってことは苞山くんは成長したってことだよ。だから、無駄になんかなってない。絶対に」
安田さんが言っていることは間違っていないかもしれない。しかし、安田さんの言葉を素直に認めたくない自分がいる。
「でも、今回は勝負なんだ。黒羽に勝たなきゃ意味がない」
「別に良いんじゃない? 黒羽くんに負けても」
「え?」
「大事なのは、自分が水泳をやってみて楽しいか、楽しくないかじゃないの?自分が楽しければそれで良いんじゃない?」
安田さんは俺の両肩を掴んだ。
「今を楽しまなきゃ、絶対に後悔するよ」
安田さんは白い歯を見せて笑った。それは俺が見た中で一番の笑顔だった。
4
勝負の日が来た。運命の日だ。俺はプールサイドで準備体操をしていた。
「そろそろ、始めるか」
黒羽はそう言ってスタート台に近づいた。「ああ」と俺もスタート台に向かう。
プールサイドを見回すと、水泳部の連中が座ってこちらを見ていた。みんな真剣な顔をしていた。そこには安田さんもいる。
安田さんに噴水の前で言われた後、俺は再び黒羽と勝負すると決めた。今までの努力が無駄になっていなかったと思い直したからだ。そして、今を楽しもうと思ったからだ。それを気付かせてくれたのは安田さんだ。感謝をしなきゃな、とふと思う。そう考えて、黒羽と勝負すると決めたのだ。
「じゃあ、始めるか」
石川部長が横に立った。今回の審判は石川部長が務めてくれる。
俺らはキャップをかぶり、ゴーグルをきつくしめつけた。
「位置について」
俺らはスタート台に静かに立つ。
「よーい」
準備に入り静止する。心臓の鼓動がものすごく速く鳴る音が聞こえる。
するどく、笛が鳴った。
俺は思いっきりスタート台を蹴って、水に飛び込んだ。
去年は、右肩の痛みと一緒に泳いだ。少し肩を動かしただけで激痛を感じ、生きた心地がしなかった。
安田さんの言葉を思い出す。
(今まで練習してたってことは、過去のその辛い思い出を振り切れたってことじゃないの?)
そう。俺は過去を振り切ったんだ。もう過去を気にする必要なんてない。俺は成長することが出来たのだ。その成長した姿を黒羽に見せつけてやる。
ターンを何回かして残り二十五メートルとなった。後、もう少し。
安田さんと噴水で話したあの後、俺はバイトでPON太郎に足を運んだ。その日はいつもなら結子先輩とシフトが重なっている日だった。いつものように相談にのってもらおう、と思っていた。しかし、スタッフルームに入ると結子先輩はいなかった。
結子先輩は辞めてしまった。理由は大学を辞めて、実家に帰るためだ。何故、大学を辞めたのか? 彼氏との結婚が決まったのだ。結子先輩は彼氏がいて、どうやら、子どもを作ってしまったらしい。結子先輩はその子どもを産んで育てることに決めて、彼氏と結婚することになった。しかし、彼氏もまだ学生でお金が必要だった。だから、彼氏も大学を辞めて、結子先輩の父親が経営している会社に勤めることになって、彼氏と一緒に実家に帰ったのだ。
結子先輩とのちゃんとした別れが出来なかったのは悔しかった。しかし、結子先輩は置手紙を俺に残してくれていた。
『勝負に勝っても負けても、男なら胸を張れ!』
俺は結子先輩との急な別れに泣いた。それと同時に俺は強い心を手に入れた。黒羽との勝負に正々堂々と挑むと。
俺は全身の力を使って泳いだ。負けることが出来ないこの勝負。前を向く。壁はすぐそこ。手を置けばゴールだ。俺はその壁に向かって手を伸ばした。
俺は噴水の前に立っていた。何気なくオレンジ色に染まった噴水を見ていると
「苞山くん」
と後ろから安田さんの声がした。振り向くと安田さんは心配そうな顔をしていた。それに俺は笑顔で迎えた。
「どうした?」
「本当に水泳部入らないの?」
「ああ。」
俺は勝負に負けた。負けたと言っても正直ほんの数秒の差、つまりほぼ同着だった。
「でも、あれじゃ、黒羽くんも勝った気がしてないと思うよ」
確かにそうだ。こんな少しの差で勝負に勝っただの負けただの言っていたら逆に恥ずかしいくらいだ。だから、正直俺らは勝負の勝ち負けは気にしていない。
「良いんだよ。それに俺はやりたいことが決まったし」
水泳に携わる職に就きたい、と思った。やぱり、俺は水泳が好きだ。大好きだ。大好きな水泳を仕事に出来るのはどんなに幸せのことか。
「やりたいことって?」
安田さんはかわいい顔してキョトンとした。俺は笑顔で安田さんに言った。強く、はっきりと。
「で、そんなわけでここに来たんっすね」
高校の時の後輩である辛崎育太はガムを噛みながらプールサイドのベンチに座っていた。
「ああ。よろしくな」
「よろしくなって。私の出番がなくなるじゃないの」
相川コーチはそう言って、俺の頭を軽く叩いた。
「良いじゃないっすか。仕事が減るんですから」
「良くねーっての」
相川コーチは再び俺の頭を叩こうとする。しかし、今度はガードして攻撃を防いだ。
「ってことは、うるさい奴が増えてしまうってことかー」
辛崎は独り言のように言った。
「うるさいってどういうことだよ!」
今度は俺も相川コーチと一緒に辛崎を叩いた。
「じゃあ、早速練習始めるか!」
相川コーチが大きな声を出して、部員全員を呼び出す。
「苞山」
相川コーチに呼ばれて、俺は相川コーチの隣に立つ。
「じゃあ、今日の指導は苞山に任せるわ」
相川コーチはそう言って、俺の背中を叩いた。
「はい!」
俺はコーチになる。今はまだ高校のOBコーチだが、いずれ有名なコーチになってみせる。その為にここでコーチと言う仕事の経験を積むのだ。これが俺のいまの夢であり、挑戦したいこと。そして今を楽しむやり方だ。
どうだろう。今の自分は輝いて見えるのだろうか。成長出来たのだから、きっと輝いて見えるだろう。しかし、まだ俺は成長する。夢が出来たのだから。挑戦をしているのだから。今を楽しんでいるのだから。
ここまで、俺を成長させてくれたのは安田さん、結子先輩、黒羽だ。部員たちがプールに入っているところを眺めながら俺は強く頭の中で思う。
(みんな、ありがとな)
俺は練習メニューを見て部員全員に向けて大きな声を出す。
「よし!じゃあまずアップは百メートル六本泳いでこい!」
俺は夢への大きな一歩を歩き始めた。挑戦の夏はまだ続いている。