アイツ
「気象庁によりますと、二十年に一度の記録的豪雨との――」
すっかり聞き飽きてしまった雨の話題にうんざりし、あたしはテレビを消した。あの朝から一週間、雨は断続的に降り続いていた。そう、アイツとの関係が壊れてしまった朝からだ。
ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
あたしはベッドに寝ころんだまま、力なく返事した。
「入るよ」
間もなく母が入ってきた。あたしを一瞥して、呆れたように言った。
「あら、もう夕方だっていうのに、まだ寝てるの」
「うるさいな。ほっといてよ」
母の顔を見ずに応える。
「ほっとけるわけないでしょ。あんたが突然朝早く家に帰ってきてから一週間、部屋に籠もりっぱなしじゃない。明日からは学校に行きなさい。お父さんも心配してるのよ」
「お父さんなんか関係ないし」
無愛想に返す。
「そういうことを言ってるんじゃなくて、私は学校に行けって言ってるの」
「もう、うるさい!学校なんか行きたくないなら、行かなくてもいいのよ!」
頭に来たあたしは壁を思いっきり蹴たぐった。白色の塗装が少し剥げた。母はものすごい剣幕で怒鳴る。
「行くか行かないかは子供の決めることじゃない。高い授業料払ってるんだから行きなさい」
「卑怯な人。大人はすぐにお金を盾にする。もう、出て行って」
あたしは、母親に背を向けるように寝返りを打った。母はため息をつき言った。
「いい?明日こそは絶対に学校に行くのよ。分かったわね」
そうして母は部屋を出ようとした時、
「あんたがこのまま引きこもってたら、あの子が」
ポツリと呟いた。その意味深な言葉にあたしは
「え、あたしが引きこもってたら何よ?」
と尋ねるが、母はそれ以上何も言わず部屋を後にした。
どういう意味?それにあの子って?母の最後の一言に頭を悩ませてみるが、まったく見当がつかない。
あたしが引きこもってて困る人なんて。ベッドに寝転がったまま、天井の丸型のライトを見つめる。丸いライトは次々とあたしの知っている「顔」へと変わっていった。サワコ、クラスメイト、近所の子供、初恋の人、小学校の担任、テレビでよく見る中堅芸人。しかし、この中にあたしの引きこもりを心配するような人は一人もいなかった。
そしてライトはある人物の「顔」へと変わった。あたしはその顔をじっと見つめ、ゆっくりと首を振った。もう、アイツはあたしとは何の関係もない。目を閉じ、アイツの「顔」を視界から遮断した。次に目を開けた時、「顔」はすっかり元のライトへと戻っていた。やはり、心当たりのある人間など一人もいなかった。
もう考えたってどうしようもない。あたしの心は諦めに似たような感情に包まれた。横向きになり、布団を頭からかぶる。目を瞑ると、真っ暗闇になった。それがなんだか心地よかった。
なんか、どうでもいいや。薄れゆく意識の中でそう思った。
それからあたしは当然学校へ行くこともなく、一日中ベッドの上でスマホを弄り倒していた。そんな生活が一日、二日と過ぎていき、気付けばまた一週間が経過していた。
部屋中に、雨粒が窓を打ち付ける音が響く。大粒のようだ。今年の梅雨は異常らしく、あれから一週間経ってもなお、雨はやむ気配を見せない。こうも雨が降り続けると農家の人が大変だと昼のニュースで言っていたが、正直あたしには何の関係もない。
ものすごい勢いでドアが開いた。
「あんた、今日も学校行かなかったわね」
部屋に入ってくるなり母が言った。
「ねえ、ノックぐらいしてよ」
あたしはムッとした。
「分かった。ノックぐらいいくらでもするから。お願い明日は学校へ行ってちょうだい。いや、せめて外にだけでも出てきて」
母が懇願するように言った。いつもの命令口調でないため、あたしは少々当惑したが
「毎日毎日言ってるでしょ。もう学校には行かないって」
と、突っぱねた。
「だから外に出るだけでも」
母が気弱に言った。やはりいつもと様子が違う。でもそんなことは関係ない。傷ついてるのはあたしの方なんだから。
「百歩譲って学校に行ってほしい理由は理解できる。でも、外に出てほしいっていうのはどういうことなの?あたしが外に出たからって、何が起こるの?」
畳みかけるように言った。
「えっと、あんたが外に出たら」
母は口どもる。
「歯切れ悪いわね。何?言いたいことがあるならはっきりと」
言いかけたところで、あたしは一週間前の、母の言葉を思い出した。
「もしかして、あの子っていう人と関係があるの?」
私は聞いた。
「え、どうしてそれを」
母が明らかに狼狽を見せた。
「だって前呟いてたじゃん。まさか、覚えてないの?」
「嘘」
母は頭を抱えた。どうやら本当に覚えていないらしい。
「ねえ、あの子って誰なの?」
あたしはもう一度聞いた。母は、俯くだけで、何も答えない。
「ねえ、教えて。あの子って誰?」
繰り返し問う。母はだんまりを続ける。その態度が頭に来たあたしは布団にくるまり、
「もういい。何も喋らないなら、あたしも何にも言わない。大体そっちはあたしにいろいろ要求してくるくせに、こっちの要求には何も応えないなんてフェアじゃない。もうあたし二度と学校に何て行かないから。分かったら出てって」
とまくし立てると
「うるさいわね」
母があたしの言葉を遮った。そして、母は堰を切ったように言い立てる。
「本当は口止めされてたんだけどね、そんなに知りたいなら教えてやるわ。あの子っていうのは、前あんたのお見舞いに来たあの男の子よ。あの子、二週間もあんたが出てくるのをウチの前で待ってるのよ。バカよね。あんたみたいな性根の腐った女を待ち続けてるなんて。あの子何も食べてないみたいだし、このままじゃもうすぐ死ぬわよ。それが嫌なら早く助けに行ってやりなさい」
言い終わると、母はドアノブに手をかけた。
「まあ、引きこもりのあんたじゃ無理だろうけど」
去り際に言い残して行った。
一人になった部屋は、先程まで母が怒鳴り散らしていたとは思えないほど、静まり返っていた。ただ一つ聞こえるのは雨音のみである。
母の言葉を頭の中で反芻する。母は間違いなく、アイツがあたしを待っているといった。それもウチの前で。あり得ない。もうあたしとアイツの関係は終わっている。しかも、何日も待ち続けるなんて、体力的にも精神的にも、持つはずがない。たとえ、天地がひっくり返り、慣性の法則が破綻し、天動説が立証されたとしても、待っているなんてあり得ない。母の言葉はすべて虚言だったに違いない。
そう、絶対にあり得ないことなのだ。頭では分かっている。しかし、気付くとあたしは、窓の前に立っていた。ゆっくりと、閉まり切ったカーテンの端に手をかける。真実を確認することに恐ろしさを感じる。しかし、あたしの体はひとりでに動きカーテンを細く開けた。
外の明かりが部屋に融け込む。久しぶりに見る外。土砂降りの雨。あたしは恐る恐る視線を下へとやる。まばらに咲いた薔薇の上にアイツはいた。アイツは待ちかまえていたように、あたしの方を見ている。二人の視線が交錯した。アイツは、落ちくぼんだ目で、あたしをじっと見据え、やつれた頬を動かし、にっこりと笑った。
あたしはカーテンを閉め、急いでベッドに飛び込み布団をかぶった。何故かこみ上げてくる涙を見られたくなかったからだ。何故あたしは泣いている?何故アイツがいる?何故家の前で待っている?頭の中心がじんじんして、脳が縮小するような、不思議な感覚がした。驚きや疑問、そして嬉しさであたしの頭はオーバーヒートを起こしそうだ。いろいろな感情が血液に乗って全身をぐるぐる回る。もうあたしは訳が分からず、ただただ泣きじゃくることしかできなかった。
枕もとで、スマホが鳴りだした。画面を見る。Mからの着信。アイツだ。あたしは応答し、スマホをぴったりと耳に当てる。
「もしもし」
アイツの低くも柔らかい声がした。しかし、いつもよりか細い声。
「も、もしもし」
なんとか嗚咽をこらえながら返す。
「やっと会えたね」
「ず、あたしをずっと待ってたの?」
震える声で聞く。
「もちろん」
「ずっと何も食べずに?ずっと何も飲まずに?そこで待ってたってこと?」
「まあ、食べてはいないけど、飲み物ならあるよ」
彼が得意げに、力強く続けた。
「喉が乾けば、この溢れ出てくる涙を飲んでたよ。君を傷つけた悔しさからくる涙を」その言葉にあたしの涙腺はより一層刺激された。
「バ、バカじゃないの」
もう嗚咽を止めることはできなかった。
「おいおい、君まで泣かないでくれよ。どうせなら泣くならその涙、俺に飲ませてくれないか?」
アイツが誇らしげに言う姿が、目に浮かぶ。
「よくそんなか細い声で、キザなセリフが言えるね」
そのギャップが何だかおかしかった。
「ハハッ、お手厳しいね」
彼はこれまた力なく笑い、
「なあ、もう一度顔を見せてくれないか?見せたいものがあるんだ」
いつになく真剣なトーン。
「見せたいもの?」
そのまじめな口調に、少し怪訝に尋ねた。
「ああ、だから頼む。カーテンを開けてくれ」
アイツ念を押すように言った。あたしはちょっと躊躇ってから返す。
「でも君、一度あたしのことなんか知らないって、言った人だよね?それなのに今度は勝手に二週間も待って、顔を見せてくれなんて勝手すぎない?」
言ってしまった、と思った。あの状況では、あたしとの関係を否定するしかない、アイツの事情はよく分かっている。それにこうして、あたしを待っていてくれたんだから、すべて丸く収まるはずだ。それなのに、あたしは何て意地悪な女なんだろう。でも、あたしが傷つけられたのは本当のこと。一言、一言だけでも謝ってほしいというのは、あたしの正直な気持ちだった。スピーカーから彼の声が聞こえる。
「確かに俺は自分勝手かもしれない。だがしかし!この会えなかった期間が、二人の関係をより強固なものにするんじゃないだろうか?そう!まさに今降っている雨の様に」
そこで声が途切れた。あたしが電話を切ったのだ。ああ、またやってしまった。あたしの気持ちと裏腹に、キザなことを言おうとする、彼の態度が頭にきたのだ。この怒りっぽい性格のせいで、あたしは損ばかりしている。
またかけ直そうか。いや、こちらから切ってしまった手前、それはプライドが許さない。あたしはベッドの上で丸くなり煩悶した。また変な涙が流れてきた。
その時だった。雨雲を吹き飛ばすような、けたたましい声がした。
「エーナーエノウェー、本当にすまなかった」
アイツの声だ。
「俺が君を傷つけてしまったことは、重々承知している。いくら謝ったって許してもらえないかもしれない。だから、謝ることが怖くて、キザなセリフに逃げていた。でも、もうやめだ。エーナーエノウェー、本当にごめんなさい。君が出てきてくれるまで、俺は何度でも謝り続けてやる。だからお願いだ。もう一度カーテンを開けてくれ」
耳を通して心に響く、アイツの言葉はあたしの中でズッシリと、しかし軽やかに反響した。彼の言葉を受け入れるたび、その分、涙が溢れ出てくる。シーツはビショビショ。だけどもう構わない。
あたしはベッドから起き上がり、カーテン力一杯に開けた。そして目の前の光景に、眼球がこぼれるほど目を見開いた。
〝I LOVE YOU〟地面には、その形に薔薇が咲き誇っていた。そして彼が、今までと比べ物にならない位の大声で叫んだ。
「エーナーエノウェー、愛してるぞ」
あまりの声量に窓ガラスがカタカタ震えた。あたしは窓を大きく開き、言った。
「もう、近所迷惑だからやめてよ!」
降り込んできた雨で、顔がびしょ濡れになる。しかし、そんなことはお構いなしに、あたしは二階の部屋から、彼の胸へと飛び降りる。
彼はあたしを優しくキャッチした。しかし、重量を支えきれずに、二人で地面に倒れこんだ。「案外だらしないね」
あたしは意地悪そうに言った。
「おいおい、二週間何も食べてないんだから、受け止めきれないよ」
彼が情けない声で言った。近くで見ると、いつもより数段頬がこけている。まあ、男前なことに変わりはない。アイツはフッと笑い言った。
「エーナーエノウェー、愛してるよ」
「さっきも聞いたよ」
照れ隠しで言った。
お互いにじっと目を合わせた。もう離さない。あたしは心に誓った。あたし達は、何を言うこともなく、唇を触れ合わせた。二人ともが望んでいたのだ。身を焦がし、そのままとろけてしまいそうな程の、熱い熱い接吻だった。脳から出てくる、あまりの快楽物質の多さに、あたしは少し痙攣した。
唇を離した後、彼が言った。
「なあ、君の気持ちも聞かせてくれないか?」
「あ、うん、、好きだよ。もちろん」
彼から目を背け、ぶっきらぼうに言った。愛を真剣に伝えることが恥ずかしかったのだ。あたしの気持ちを見透かすように彼が言う。
「そんなんじゃなくて、もっとしっかり、俺の目を見て言ってくれ。よく考えれば君は、俺の名前を呼んでくれたこともない」
そうだよね。アイツは誠実に、気持ちを伝えてくれたんだ。あたしも、それに応えないと。
あたしはじっと彼の澄んだ目を見つめ、一文字一文字に、心を込めて言った。
「好きよ、宮崎」
今まで読んでくれてありがとうございました。




