第8夜 続く彼らの日常
ある日の昼下がり。
果ての庵の離れにある事務室で、仲居見習いのツェシカは机の上に置かれた一枚の手紙に目を落としていた。
彼女がこの果ての庵に拾われてから三年。
これまで恩義あるユリアやヴァン、クリフを初めとする従業員一同に報いようと、彼女は仕事にばかり励んできた。来る日も来る日もユリアについて仲居の仕事を覚え、ヴァンからお客様と接する態度を教わり、アルやアイラから盛り付けの指導を受けてきた。
そんな生活を送っていたためか、ツェシカはこれまで一度も、一つ屋根の下に寝泊まりする従業員のことを知ろうとはしてこなかったのだ。
しかし、近頃ようやく仲居の仕事にも慣れてきた彼女は、掃除の際に事務机の引き出しから出てきたこの手紙に目を惹かれたのだった。
ツェシカは古くなり脆くなった手紙を、丁寧に皺を伸ばして眺める。
そして視線を走らせた後、その美しい顔から微笑みが消えた。
「これは、いったい……」
その手紙には短く、こう記されていた。
親愛なるアル殿へ
君が求める『不老不死の業』について、心当たりが見つかった。
呪いであってもよければ、吾輩も力を貸そう。
智の友 レニングフォードより
手紙に書かれた文言を三度読み、その度に顔を青ざめさせるツェシカ。
そこには料理長のアルに向けた、彼女が到底信じられないような内容が書かれていた。
「ツェシカ、事務室の掃除は終わったかしら?」
彼女が蒼白な表情で体を震わせていると、女将のユリアが顔を覗かせた。
しかし、声をかけられたツェシカが反応を見せることはなく、彼女は机の上の手紙を見詰めたまま動かない。
ユリアは手紙を見下ろして固まっているツェシカを目にすると、傍まで歩いて隣に並び、優しげな声で語る。
「これ、私たちの人生を大きく変えた手紙なのよ」
微笑みさえ浮かべて呟いたユリアに、ツェシカは視線を向ける。
その横顔はいつまでも若い美少女のままで、ツェシカの命を救ったときとまったく変わりがなかった。不気味なほどに、ユリアを始めとする従業員には変わりがなかった。
ツェシカは魔族だ。とはいっても、生まれも育ちも人界の魔族だ。
両親が結ばれて間もない頃、魔界が魔殻変動の季節を迎えた。一族の暮らしていた大陸は地形と気候の変化によって住むことができなくなり、周囲の大陸も他の魔族や魔物たちの縄張りだったために、彼女の一族は人界へ逃れることを余儀なくされた。
そして一族が人界の、サウマンダ大陸にある山間の高台に住み着いて間もなく、ツェシカは誕生したのだ。
マナは希薄だが遥かに安全な人界での暮らし。
両親と一族の仲間に囲まれて、ツェシカは幸せに日々を過ごしていた。
だが時代は大戦が終結してまだ百年も経っていない頃。人界の人族、とりわけ前線で戦うことの多かったサウマンダ傭兵の憎悪は収まってはいなかった。
ある日、一族の存在を嗅ぎ付けたある傭兵団が、一族の住処を襲ってきたのだ。人族の傭兵は白昼堂々と襲撃をかけ、問答無用で斬りかかってきたのだった。
混乱の中、ツェシカは大怪我を負いながらも、両親の決死の庇護もあって逃げ果せることができた。そして怪我を負った彼女が行き倒れたのが、このノードラスの古森だった。
力尽き、雪の積もった地に落ちたツェシカは、この果ての庵の一室で目を覚ました。
そして怪我が完治するまでの間、女将のユリアを始めとした従業員全員が熱心に看病してくれたのだ。お蔭で後遺症もなく完治することが出来た。
『命を救われたこの旅館に、生涯をかけて恩返しをする』
故郷と一族を失ったツェシカは、そうしてこの旅館の仲居になることを決めたのだった。
それから三年。
ユリアの姿は床の中で見上げていたあの時とまったく変わらない。大人と子供の狭間にのみ見られる、可憐さと美しさの両者を併せ持った姿。
エルフという長命な存在ではあっても、三年あれば少しは変化がみられるはずなのだが、それがまったく見られない。
そして、それはユリアに限ったことではなかった。
エルフよりも余程短命なパソンのアル、トム、アイラを初め、ドワーフのロンも、挙句の果てには、寿命がおよそ六十年と言われるフェアリーのスズナでさえ、三年の月日が流れても依然として変わらないままなのだ。
ちらりとクリフに聞いたときには、「僕らは皆、ある呪いのお蔭で長命なんだ」と言われたのだが、手紙の文面といい彼らの長命さといい、何か特別な秘密があるのだろうか。
ツェシカは三年経ってようやく、一つ屋根の下に暮らす旅館の面々に興味を持ったのだった。
◇
その夜。
この日果ての庵では、午前中に宿泊していた最後の冒険者一行が旅立って行ってから、恒例の大掃除が行われていた。
丸一日でない分、より迅速に作業が進められ(作業が減ることは決してない)、大掃除が終わりを迎えるころには全員が軒並み疲れ果てていた。それでも食事の時間になれば、皆しっかりちゃっかりと動きだすのだから問題は無いのだろう。
疲労の溜まった体を引き摺って宴会場に集まる面々。ツェシカはその中に在って、一人話を切り出すタイミングを窺っていた。
そして料理を運んできたアルやユリアを含め、全員が揃ったところで、ツェシカはおずおずと手を挙げて口を開く。
「あ、あの、皆さんに少し、お聞きしたいことがあるのですが……」
控えめな声が発せられ、並んだ料理に箸を伸ばしかけた一同の手が止まった。さあ食べ始めようという瞬間に声が掛かり、一斉に全員の視線がツェシカへ向いたのだ。
「なんだい、ツェシカ。話してごらん?」
沈黙しかけた一同の中で、まっさきに声をかけたのはクリフだった。
常にツェシカのことを気にかけてくれるこのドラルは、今日も彼女の隣に腰かけて彼女の皿に遠くの料理を取ろうとしてくれていたのだが、その手を止めて顔を向けてくれている。
ツェシカは彼の配慮への感謝と、特別扱いされていることへの遠慮が混じった複雑な苦笑で彼へと目を向けた。
「はい。お食事の前にすみません。ですが、どうしても気になってしまったので……」
僅かながら表に出た苛立たしげな雰囲気がツェシカを委縮させるが、彼女は申し訳なさそうにしながらも意志を曲げなかった。
「それってもしかして、昼間貴女が事務室で見ていたものと関係があるのかしら?」
クリフに続いてツェシカに加勢したのは、果ての庵に迷い込んで以降彼女に過保護なユリアだ。
ユリアはそーっと料理に箸を伸ばすロンとスズナを視線で黙殺し、接客用のものよりも三割増しに輝く微笑みで話の続きを促す。
「はい、あの手紙のことです」
「手紙っていうと?」
「レニングフォードからの手紙よ。あの『呪い』を発見したときの」
「ああ、あれか」
ユリアの補足に苦笑いを浮かべたのはアルだ。
アルは普段素気ないが、突然迷い込んできた上に魔族であるツェシカを快く受け入れてくれた人物でもある。彼の作る料理はいつも食べる者のことを考えた思い遣り深いもので、ツェシカは日々感嘆してばかりだ。
「ハイエルフの賢人からの手紙だな。以前私も会ったことがある」
威風堂々といった言葉がピッタリな男ヴァンは、顎鬚を撫でながら鷹揚に頷く。
彼もクリフと同じドラルで、こちらもクリフと同様ツェシカをよく気にかけてくれている。クリフが兄なら、ヴァンは父のようにといった具合だ。
「ハイエルフ、ですか?」
ツェシカがおずおずと訊ねる。
彼女はエルフという種族は知っていても、ヴァンの言うような種族は聞いたことがなかった。
「ハイエルフとは、人魔大戦の折に魔界に入り、そして魔界のマナに魅せられた者達だ」
「魔界に暮らすエルフ……」
「ああ、彼らは人界で暮らすエルフ達よりも高度な魔術文化を築いている。レニングフォードもハイエルフの研究者の一人で、ヒトの寿命を操作する魔術を研究している男だ」
「そんな方がいるのですね。では、その方の見つけた『呪い』というのはいったい?」
ヴァンの説明に長い息を漏らすと、ツェシカは手紙に書かれた不吉な言葉の意味を問いかけた。これには、彼女の隣に着くクリフが答えを提示する。
「レニングフォードの発見した『呪い』は魔物のデーモン族に伝わるもので『永劫苦渋の呪い』っていうんだ」
「永劫苦渋……。聞いたことがあります。両界を跨いで最も重い罰だと」
『永劫苦渋』は、ツェシカの一族でも話だけは聞かされた、この世で最も厳しい罰の名だ。悠久の時、愛する者や一族を葬送し続ける虚無を味わうと。
「そう。人界でも魔界でも、一番恐ろしい罰はこの『永劫苦渋の呪い』だと言われているね。レニングフォードはこれを見つけたんだ。百七十年前にね」
百七十年前――。
意味深に結ばれた最後の句に、ツェシカは大きな違和感を覚える。
「どういうこと、ですか?」
解りそうで解らないもやもやとした違和感に後押しされて、ツェシカはクリフに訊ねた。
「僕たちが、この『呪い』を身に受けているってことだよ」
彼の答えを得た瞬間、彼女は感じていた違和感の正体を知る。
離れの事務室で見つけた手紙には『見つけた』と書かれており、ハイエルフの賢人が呪いを見つけたのは百七十年前。
加えて、あの手紙がアルに宛てられたのも同じ時代だとすれば――。
「そんな!? どうして……」
アルやユリアを始めとする全員が『永劫苦渋の呪い』を身に受けている。そう考えれば、彼らの姿が三年経ってもまるで変わらない事実にも納得がいく。
だが、ツェシカには彼らが『呪い』を受けるほどの咎人だとは思えなかった。
少なくとも彼女が共に過ごした三年間、彼らは善良な者ばかりだったのだ。
「『呪い』についてもそうだけど、そろそろ私たちの過去をツェシカに話してもいい頃かしらね。もう立派な私たちの仲間なのだし」
ツェシカの混乱した表情を見て、ユリアは少し考えるような素振りをしてから笑顔を浮かべた。ツェシカの隣に座るクリフも彼女の言葉に頷いて賛同する。
「そうだね。ツェシカにも、僕たちのことを知っておいてもらいたいし」
「それじゃあ……」
そうしてユリアが真実を語りだそうとしたところで、思わぬ横槍が入った。
「ちょっと待てよ。その話、始めたら長くなるだろう? 俺もう腹減って倒れそうでよ。食べ始めてもいいか?」
振り返った先ではドワーフのロンが両手で腹部を抑え、情けない顔で息を吐いていた。彼の向かいではスズナが、顔には出さないようにしつつも眼で空腹を訴えている。
ユリアは「しょうがない」とでも言うように小さく笑みを浮かべると、
「そうね。すぐに終わる話ではないし、ゆっくり食べながらにしましょうか」
いつの間にか厳かになりつつあった声を和らげた。
「じゃあそういうことで、いっただっきまーす!」
女将の許可が出たところで晴れて夕食タイムに突入したのだが、真っ先に声を上げて箸を手にしたのは先程まで猫を被って大人しくしていたスズナだった。
次いでロンが、双子が、アルが、トムが、アイラが、リーナが、ヴァンが、そしてユリアが箸を手に取って、思い思いに並んだ料理を口に運んでいく。
「まずは少し食べようか?」
「は、はい」
クリフだけが未だ呆然とするツェシカに声をかけ、彼女もまた夕食の席へと加わっていく。
本音を言えば今すぐ訊きたいことがたくさんあるのだが、美味しそうな料理が冷めてしまうのも、皆の食事の邪魔をするのも気が引けるので、少しだけ待つことにした。
この日の夕食も、不思議と心が温まる美味しさがツェシカのお腹を満たした。
◇
人魔大戦。
それはかつて、人界と魔界が〝異界の門〟で繋がって間もなく起きたと言われている大戦争だ。およそ一千年前の小競り合いから始まったこの戦争は八百年という永くに渡って続き、両世界の住民をじわじわと疲弊させていった。
人族も魔族も互いの世界を守るために戦い、大戦はほんの百五十年程前まで続いていたのだ。
泥沼化した大戦を終結に導いたのは、人界の最南端の街から現れた青年の一行と言われている。故郷を旅立った彼は、道中で出会った七人の仲間と共に旅をし、長い旅路の果てに魔王を打倒したのだと――。
以来、彼の名は勇者として伝えられている。
それは人界のみならず、長く苦しい戦争を終結させ、賠償すら求めずに解放し去った魔界でも同様だ。
人魔のどちらからも称えられる勇者――アルフォンス・エルガード。
彼の名は、両世界に於いて永久に語り継がれていくだろう。
「まあ、そのアルフォンス・エルガードってのが俺なんだよね。そんな大層な人物じゃないけどさ」
テーブルに並んだ料理が半分くらいになったところで語られた人魔大戦のあらまし。
アルがそんなぶっちゃけ話を放り込んできたのは、そんな史実の序文が語られて直ぐのことだった。
突然告げられた突拍子もない話に、ツェシカはたっぷり三秒程唖然としてしまった。理解の及ぶ前段階で、彼女の思考は早くもフリーズしかかってしまったのだ。
そんな状態のツェシカを置いて、ユリアは苦笑いを浮かべるアルへ心からの微笑みを向けた。
「そうね。片付けの苦手な勇者様だものね」
「ぐっ」
苦笑いのまま、軽い呻きを漏らすアル。
そこへ、史実にも登場する仲間たちが次々と叩きにかかった。
「刃物の扱い以外は大したことないしねぇ」(スズナ談)
「寝坊癖はあるしな」(ロン談)
「たまに変な創作料理作るし」(トム談)
「突然いなくなったりするね」(クリフ談)
「魔物とも仲良くなってしまいますよね」(リーナ談)
「なによ、みんなして! 全部アーくんの可愛いところじゃない!」(アイラ談)
「いや、フォローになってないから」
止めにスズナのツッコミが入るころには、アルは畳の上に仰向けになって顔を抑えていた。ユリアが隣で彼を見下ろして笑っているのも含めて、ツェシカの意識が現実に復帰する手助けとなる。
アルが実は史実に語られる勇者で、『永劫苦渋の呪い』の力で終戦から百五十年経った今でも健在なのだと、彼の仲間たちの言葉もあってか、ツェシカは不思議とすんなり納得することができた。
この人達ならば或いは――といった具合に。
ユリアやスズナと一緒になってくすくす笑いを漏らすツェシカ。しかしふと、彼女が両親から聞いた話を思い出す。
「アルさんが勇者ということはつまり、アルさんは魔王様を……」
勇者が戦争を終結させて以降、魔界の王は民衆の前から姿を消している。そこには当然様々な憶測が飛び交っており、中でも有力とされているのが勇者による暗殺説なのだ。
父母から伝え聞いた噂。その真偽を確かめるべく訊ねられたツェシカの声はしかし、思いの外あっさりと、アル本人から答えを返された。
「それがみんな結構勘違いしてるんだけどさ、俺は別に魔王を倒したりしてないぜ?」
体を起こして両手を広げたアルは、微笑みを浮かべる。
そこに嘘を語っているような色は全く見られなかった。
「そうなんですか? それじゃあ、魔王様はいったいどこに?」
となると、当然浮上するのがこの疑問だ。
最も有力視されていた暗殺説が勇者自身の口から否定された今、疑問となるのは魔王が何処へ行ってしまったのかということだろう。
「うーん、意外と近くにいるんじゃないかな?」
この疑問にも、元勇者アルはあっさり答えた。が、今度は少し意地悪な笑みを浮かべて。
「近くに?」
「ああ、ツェシカの後ろとか、さ」
「えっ?」
訳も分からず振り返ったツェシカの視線の先には、複雑な表情を浮かべたヴァンの顔があった。
「心配をかけてしまっているようだな。すまない」
そして、彼は僅かに視線を落とすと申し訳なさそうに口を開く。
「……え? え?」
「私が、魔界で最後に魔王を務めた、グランドール=ヴァン=モデストゥスなのだ」
今度こそ、ツェシカは驚きの声を上げた。
「ヴァンさんが、魔界最後の魔王様だったのですか!?」
ここまで絶句するような驚きに遭って耐性が付いたかのように、ようやく声を上げて驚くことができたのだ。
「隠しておくつもりはなかったのだが、自ら明らかにするのもどうかと思ってな。これまで話すことができずにいたのだ。すまなかった」
ヴァンは先程から目を上げず、伏せたままで彼女に謝罪の言葉を放ち続けている。
これにはツェシカも狼狽してしまった。元とはいえ、魔界の王ともあろう人物に頭を下げさせてしまっているのだ。
「い、いえ、そんな。私の方こそ、そうとは知らず失礼な口の利き方を……」
慌ててツェシカも腰を折ると、ようやくヴァンは眼を開けて顔を上げた。
「いや、気にしないでもらって構わない。御客様にはあまり知られたくないことなのでな。できればこれまで通りでいてもらいたい」
「……ヴァン様がそう仰られるのでしたら」
「そんな、とんでもない」と咄嗟に口にしそうになったが、普段の彼のお客様に接する態度を思い出し、ツェシカは彼の呼び方だけを変えるに止めた。
そんな彼女の答えに満足したのか、ヴァンは一つ頷くと微かに微笑んだ。
「うむ。よろしく頼むぞ」
大袈裟に頷き微笑んだヴァンだが、ツェシカの疑問がそれだけであるはずがない。
魔王の所在が掴めたのは朗報だが、目の前に当人がいて、おまけに勇者の一行と共に職務に励んでいるという状況では、色々と訊いてみたくなるのが自然というものだろう。
「あ、あの、ヴァン様?」
それは控えめな性格のツェシカでも当然同じだった。彼女は満足げに頷く魔王の顔を窺い、おずおずとその白い肌の右手を挙げた。
「なんだ? 何か訊きたいことがあるのか?」
ここでこのような台詞が出るのだから、彼も意外と抜けている部分があるのかもしれない。
「ヴァン様はどういった経緯でこの旅館にいらしたのですか?」
敵対していたはずの勇者の一行と、どうして一緒に宿で働くことになったのか。
彼女でなくとも疑問に思うことではあるのだが――。
「ああ、なに、私はただ、ユリアの理想に共感したのでな。力を貸しているのだ」
ヴァンはそれに、思いの外あっさりと答えた。
「ユリアさんの理想、ですか?」
「うむ。今ではそれが、私の理想でもある」
「理想……。なんとなく、わかるような気がします」
ユリアの理想、そしてヴァンの理想――。
「お二人の目指す理想、いつかきっと叶えてくださいね?」
彼らの理想がどんなものか訊ねることはなく、ツェシカはただ笑顔をヴァンに向けた。
「無論だ。必ず実現して見せよう」
ヴァンも、彼女の笑顔にただ微笑み返して応えた。
◇
その後、残った料理を肴に酒を酌み交わし始めると、ツェシカの顔にも微笑みが戻ってきた。
それは回り始めた酒精の所為もあるが、言葉を交わすうち、彼らが勇者一行だと聞いた後も、彼らはいつもと同じ彼らなのだとツェシカが安心した面もあっただろう。
「でも、どうして『永劫苦渋の呪い』を受けたのですか? 皆さんは勇者様の一行なのでしたら、そのような罰を受ける云われはないのに」
少し前の『呪い』についての話題で疑問に思ったことを問いかけたのは、そんな「いい具合」に酔い始めた頃合いだった。
「僕たちは、この呪いを自分たちの意志で受けることにしたんだよ。だから罰とかじゃないんだ」
クリフがこれに答え、ユリアとアルが頷く。彼ら三人以外の面々は、双子を寝かせに行ったアイラを除けば、好き勝手に飲んで騒いでいる有様だ。
「どうして、ですか?」
しかし、ツェシカはそれを不快だとは全く思わなかった。寧ろいつまでも同じ騒がしさの中に居たいとさえ思っていたほどだ。
「魔界は人界とは比べものにならないくらい広いって、ツェシカも知ってるわよね?」
「はい。私は魔界に行ったことはないので話だけでしか知りませんが、魔界は人界よりもずっと広い世界だと聞いています」
酔いに頬を染めたツェシカが小首を傾げる。
「そうね。人界では、世界中を巡るのに一年あれば十分といったくらいの広さだわ。でも、魔界は違う」
「そんなに広いのですか?」
ユリアはゆっくりと頷いてから、
「私たちも全ての大陸を廻ったわけではないけど、〝異界の門〟のある第一大陸だけで人界と同じくらいの広さがあったわ。同じような大陸が判っているだけでも十四ある。小さな島々を含めればもっと広いでしょうね」
「そんなに、広大な世界なのですか?」
魔界の広さを語って苦笑いを浮かべるユリアに、ツェシカはただただ驚くばかりだ。
唖然とした表情の彼女へ、話を引き継いでアルが語る。
「それで、魔界に入った俺たちは思ったんだよ。魔王の下に辿り着くまで、一体何年かかっちまうんだろうってね」
おどけた様に肩をすくめるポーズをとった彼に続いて、クリフがより直接的な解答をもたらす。
「あまり長い時間がかかってしまえば、パソンのアルやトムやアイラ、それにドワーフのロンとフェアリーのスズナは肉体の全盛期を越えてしまう。そうなると段々力は衰えるし、魔王はおろか魔物と対峙することもできなくなってしまうんだ」
「だから、それ以上老いないように『呪い』を?」
「そういうこと。俺たちは若い姿のままでいるために、あの呪いを受けたんだ。まあいつまでも生き続けるのは確かに恐ろしい罰だけど、俺たちは一人じゃなかったからな」
魔界を踏破するためには長い年月が必要で、力を保つためには『呪い』に頼らざるを得なかった。だからアル達一行は、自ら進んで『永劫苦渋の呪い』を身に受けることに決めたのだ。
目的のために必要なことだったとはいえ、その代償に背負った試練は想像を絶する重さだろう。アル本人が言った通り、それに独りで耐えるのは難しい。
「そうだったんですか……。皆さんがいつも幸せそうにしている理由がようやく解りました。長い長い旅を一緒に越えてきた仲間だから、なんですね」
ツェシカはこのときようやく、彼ら果ての庵の従業員が日々活き活きと働き、楽しげに語らい、幸福の中で眠りにつく理由を理解したのだった。
「まあ、割と喧嘩もするけどな」
彼女の満面の微笑みに照れたのか、アルはそんなことを言ってツェシカの笑いを誘う。
「ふふ。それもよく知っています。ですが、『喧嘩するほど仲がいい』と、私の一族では言われていましたから、やっぱり皆さん仲良しなんだと思いますよ?」
彼の思惑通り、笑い声を漏らしたツェシカ。
「そうね。そうかもしれないわね」
白い頬を紅く染めたユリアは、彼女の言葉にしきりに頷いている。
「私も、皆さんと出逢えてよかったです。皆さんが長い時間を過ごしていてくれなければ、私は今こうして生きていることもなかったですから」
「ツェシカ……」
彼女の名を呟くクリフの前で、ツェシカは深く腰を折る。
「お話してくださってありがとうございました。皆さんのこと、少しだけ知ることができて、とても嬉しかったです」
彼らの真実を、全て知ることができたとは到底思えない。語られていない辛いことや悲しいことは、まだまだ沢山あるのだろう。それはツェシカにもよくわかっている。
だがそれでも、顔を上げたツェシカの前には優しげな、それでいて少し憂いを帯びたクリフの微笑みがあった。
「僕たちも、ツェシカに知ってもらえて、受け容れてもらえて嬉しいよ」
彼は僅かに目を伏せて、ぽつぽつと話していく。
「魔族のお客さんの中には結構いるんだ。真実を知った瞬間怒って出て行っちゃう人が」
「そう、かもしれませんね。魔界でも勇者は終戦の立役者ですが、一般的には、魔界は敗戦したという認識が広がっているでしょうから」
そのときどんなやり取りをお客様と繰り広げたのか、ツェシカにはわからない。
しかし、光の揺れるクリフの瞳を見るだけで、それが心情としても騒動としても大変なものだったのだとわかる。
「うーん、別に魔界で嫌われるようなことしたつもりはないんだけどな……」
クリフの横で、アルは腕を組んで考え込む。ユリアはそんなアルに、脇からジトーっとした眼差しを送った。
「なに言ってるのよ。魔界でも人助けって言って散々暴れてたじゃない」
「……そうだっけ?」
「そうよ。盗賊に襲われていたハビルの一族を助けるために、一帯を縄張りにしていた獅子人の盗賊団を壊滅させたり。魔物の大集団が押し寄せてきて兎人の人達が逃げ惑う中、一人で群れを返り討ちにしちゃったり。他にも、挙げようと思えばいくらでもあなたの武勇伝は出てくるわよ?」
「………」
立て続けに暴き立てられ、黙り込むしかないアル。そこへクリフから追撃が加えられる。
「まあ確かに、アルは何処へ行っても突っ走ってたからな。勘違いされることも多かったかもね」
「へいへい。やり過ぎてもうしわけございやせんでした」
最早反撃は不可能だった。アルは大人しく両手を挙げて首を振る。
「ふふふ。なんだか想像がつきますね」
ツェシカは一人くすくすと笑いを漏らし、
「最近は少し落ち着いてきたかと思っていたけど……」
「多分、そう言う場面に遭ったらまた暴れるよね、絶対に」
「なんだよ二人して、まったく……」
ユリアとクリフに止めを刺されたアルは、拗ねてそっぽを向いてしまった。
そこでは、ツェシカが未だ声を漏らして笑っているのと同じように、ユリアとクリフの口元には笑みが湛えられ、脇を向いたアルの頬も少し緩んでいたようだった。
と、四人が笑い合っているところに、ドワーフの大声が響いてくる。
「おい、お前らも飲めよ! まだまだ酒はいっぱいあるぜ!」
どうやら呑んだくれ連中も、話が一段落するのを待っていたようだ。
仲間の呼びかけに、クリフが立ち上がる。
「ああ、今行くよ」
「私も行きます。皆さんと、もっと色々お話したいですし」
そしてその後を、ツェシカが追いかけていった。
心なしか、二人の距離は以前よりも少しだけ近くなり、彼女の右手がクリフの袖口を摘まんでいるようにも見えた。
それは彼らの過去を知ったツェシカが意図してやっていることなのか。
はたまた、ただ酔って親密的になっただけなのか。
いずれにせよ、アルとユリアは揃って微笑みを浮かべ、そんな二人を見送った。
「それじゃあ、俺たちももう少し飲もうか?」
「ええ、そうね。まだまだ時間は沢山あるものね」
仲間達が騒ぐ中、アルとユリアは小さく微笑み合うと、軽くグラスを鳴らしてユミルの葡萄酒を口にする。
『二人が初めて出会った森の都の酒を片手に、かけがえのない仲間と共に夜を過ごす』
それはユリアが決して口にすることのなかった、胸の内に秘め続けていたもう一つの理想の光景そのままだった。
こうしていつもと同じ、それでいて幸福な果ての庵の夜は、静かに更けていくのだった。