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果ての庵へようこそ  作者: 名も無き旅人
8/9

第7夜  魔物の季節

 果ての庵。従業員が寝泊まりする、離れの談話スペース。

 現在、この場には双子を除いた従業員全員が長テーブルの周りのソファに腰かけ、各々表情は違えど重い雰囲気を共有して集まっている。


「また、あの季節がやって来たな」


 ヴァンが神妙な面持ちで呟けば、


「ハァ、あれの間はいつになく疲れるんだよなぁ」


 ロンはだらしなくソファにもたれている。


「週一で徹夜だしねぇ」


 ため息を隠そうともしないのはスズナだ。


「その分、昼間は人手が少ないしね」


 トムは苦笑いと渇いた笑いを漏らし、


「フェリスとノアを遊びに行かせることもできなくなるし……」


 アイラは頬に指を当て、何処か的外れな不満を零す。


「お客様にも危険が伴います」


 リーナは一人真面目な顔をし、


「そうね。しばらくは気が抜けないわね」


 ユリアも不安げな表情に変わる。


「お役に立てなくてすみません」


 戦う力を持たないツェシカは申し訳なさそうに俯き、


「ツェシカ、君は十分尽力してくれてるよ。だからこれに関しては、僕が君の分まで力を尽くす。心配しないで」


 隣に座ったクリフが彼女の頭を撫でる。


「クリフさん……」


 そんな風に二人が勝手に甘い雰囲気を作っても周囲は慣れたもので、見ないことにする。


「まったく、なにもいっぺんに来なくてもいいだろうに……」

「仕方なかろう。この時期、魔界はヒトも獣も混乱の極みなのだ」


 アルが呆れ顔で漏らした愚痴は、ヴァンの叱責によって抑えられる。


「それは、よくわかってるけどよ」


 アル自身、魔界が大変な時期だというのは心得ているが、その度に仕事が激増するのだから愚痴の一つも零したくなるのだ。


「でもまあ、こればっかりは少し気が滅入るわね」


 さすがのユリアも、こればかりはため息を吐きたくなるのだった。


「この“魔殻変動”の時期は……」







 翌日、果ての庵に一組の冒険者グループが転がり込んできた。

 曰く、メンバーの一人であるエルフの少女の父親が、大戦時に魔界へ乗り込んで以降帰ってこないのだという。噂では大戦後、魔界に住みついたエルフもいるらしいので、彼らから何か情報が得られるかもしれないと思ったのだそうだ。


(何もこんな時期に行こうとしなくてもいいのに)


 内心でため息を吐きながらも、ユリアは一行を客間に案内する。青年二人と少女一人の三人グループだったので、本人達の了解を取って四人部屋にお通しした。


「お客様方に一つご注意がございます」


 そして三人が部屋の独特な内装に見惚れている中、ユリアはすまし顔で切り出す。女将の突然の声掛けに戸惑いながらも、三人は一度落ち着いてユリアに視線を向けた。


「当館では通常、お客様の外出を御止めしてはおりません。ですが現在、魔界が特別な時期に入っておりまして、非常に危険な魔物などが人界に侵入している恐れがございます」

「危険な魔物、ですか?」


 ユリアは口元に微笑みを浮かべながらも、眼だけは真剣な色を以て彼らに向けている。

 そして、お客様の一人が訝しげな表情を浮かべるのを見て、頷いて見せた。


「ええ、危険な魔物です。並の戦士ではまるで相手にならないような凶暴なものばかりですので、くれぐれも外出は控えられますようお願い申し上げます」


 彼女から告げられる危険性に軽い恐怖を感じたのか、少しだけ顔を青ざめさせたエルフの少女が震える声で頷いた。


「わ、わかりました」


 少女に続いて、彼女の仲間二人も首肯する。

 ユリアは三人が頷くのを待って、再び微笑み顔に戻った。


「当館における注意事項は、そちらのテーブルに備えております冊子に記載されています。いずれも大切なことですので、こちらも重ねてご確認ください」

「冊子……ああ、これですね。わかりました」

「はい。では以上で、説明を終了させていただきます。何かご質問等はございますか?」

「いえ、今は特には」

「かしこまりました。それでは、当館でのひとときをお楽しみください」


 ユリアはいつものように、深々と腰を折って一礼し、微笑みを維持したままで彼らの部屋を後にした。ため息を吐きたくなる衝動を、必死に抑えながら。

 果ての庵を訪れる客人たちからは、『女将殿はどんな時も慎み深い方だ』と言われることがあるが、ユリア自身はそれをとんでもないことだと思っている。


(それはもちろん、訪ねてくださるお客様に敬意を払うのは当然のことだけど……)


 彼女も別に聖人君子というわけではない。腹が立つこともあれば、今の時期のように、全力でお客様を歓迎できない心地の時もある。


(本当に、この時期は厄介ね)


 色々と気を遣わなければいけないことの多いこの時期は結局、真昼間から女将のため息を誘うこととなった。







 翌日。

 スズナとロンがとある理由で戦力として当てにならない中、ユリアを中心とする残された従業員の面々は精力的に仕事に勤めた。

 力仕事担当のドワーフはともかく、仲居の一人であるフェアリーが日中の戦力にならないというのは痛かったが、そこは全員に少しずつ仕事を分散することで解決することができた。夕方には二人とも起きだしてきたので、夕食時には万全の態勢で仕事を進めることができたことも幸いし、ユリアはそれほど疲れを感じることもなく夜を迎えることができた。

 だが彼女がこの日受け持つ仕事はまだ終わりではない。寧ろこれから、より一層大変な仕事が待っていると言ってもいいだろう。

 仕事だけとして臨むのであれば、だが。


「アル、準備は出来た?」


 果ての庵の玄関口に立ったユリアは、振り向いてブーツのつま先を鳴らすアルに呼びかける。その頬は軽く朱に染まっており、顔を上げたアルに「しょうがないな」という表情をさせた。


「ああ。久しぶりの外出だからな。仕事とはいえ、俺も楽しみだよ」


 ユリアの輝かんばかりの微笑みから、彼女が実は楽しんでいるのだと勘付いたのだろう。アルは軽く息を吐くと、微笑んでユリアの髪を撫でる。

 突然頭を撫でられたユリアも、内心の喜びを勘付かれた羞恥に顔を赤くしていたが、アルの手が自分の頭を優しく撫でていること自体は嬉しいようで、結果恥じらいを浮かべながらも表情は緩み切っていた。

 通りかかったついでに見送ろうと顔を出した仲間に、大きなため息を吐かれるほどに。


「ス、スズナ!? いつからそこに……」


 気付かれることを前提で吐かれたため息に、案の定ユリアは慌ててそちらへ視線を向ける。気配で気付いていたアルも、苦笑いを浮かべながら振り向いた。


「ユリアがアルに撫でられてニヤニヤしてるとこからかなぁ」


 そして当のスズナはと言うと、顎に指を当てて意地の悪い笑みを向けている。


「ニヤニヤなんてしてないわよ!」


 ユリアの必死の弁明は、残念ながら同意を得ることができなかった。


「………」

「アルもどうして黙るのよ!」


 唯々苦笑いを浮かべて目を逸らしていたアルに、ユリアが真っ赤な顔で詰め寄る。すると、アルは仕方ないというような面持ちで本音を零し始めた。


「いやー、ニヤニヤしてなかったと言うと嘘になるかなって思って」

「だよねー。あれはちょっとお客さんには見せられないレベルだったなぁ」

「ああ……さっきのはちょっと、な」


 腕を組み、うんうんと頷いて言うスズナに、さすがにアルも同意を示さざるを得ない。それだけ先程のユリアの表情の緩み方は半端ではなかった。要するに、デレデレだったのだ。


「うぅ」


 ユリア自身、内心ではアルとの見回りを、久々に二人きりで出掛けられるチャンスだと考えて浮かれていた節があるために、即座に否定することができない。

 未だ赤い顔でむくれるユリアを見て、スズナはニヤリと笑みを浮かべると、ギョッとするアルを余所に更なる追撃を仕掛けた。


「あーゴメンゴメン。折角のデートの始まりを邪魔しちゃったね。それじゃあ二人とも、魔物にだけは気を付けて、どうかごゆっくり♪」


 わざとらしく手を合わせ、それから手を振りだす。

 腹黒フェアリーの発破にまんまと乗せられ、盛大に顔を赤くさせたユリアは、


「い、行きましょう、アル!」


 終始苦笑いのアルの手を取って、雪のチラつく森へ歩き出した。

 彼女の為すがまま、手を引かれて歩くアルはポツリと呟く。


「……一応仕事なんだけどな」


 そんな彼の漏らした言葉は誰の耳に入ることもなく、森に降る雪に吸い込まれていった。




 それから一刻程経った、夜の森。

 風はなく、静かに雪の舞う森の中は完全な静寂に閉ざされており、隣を歩く者の声だけが届く中で、ユリアとアルは歩いていた。


「寒くないか?」

「うん、大丈夫。こうしてくっついていれば温かいから」


 アルの腕を取り、ピッタリと密着して歩くユリア。

 頭は彼の肩に預けられており、厚めの肩部に頬擦りさえしている。頬は赤く染まっているが、自らの体をアルの腕に押し付けて離そうとしない。アルの方も、傍らのユリアに愛おしげな視線を送り、握られた右手を徒に握り返して、じゃれつく彼女に応えている。

 もしその場を目撃した者がいれば、その人物は強烈な胸焼けを感じたことだろう。

 二人の放つ熱で足元の雪も融けるのではないかと、そう疑いたくなる程の光景だった。


「ふふ」


 ユリアが何とは無しに嬉しそうな笑みを浮かべる。

 ユリアもアルも、二人は彼らきりの時、あまり言葉を交わすことはない。いつも心地よい沈黙を味わっていることが多いのだ。

 それはこの日も同じだった。にもかかわらず、果ての庵を出てから彼女はもうずっとこんな調子だ。


「今日は豪くご機嫌だな」


 ここまでくるとさすがに、アルも彼女の機嫌が良いということに気が付いている。だから自分の肩に頭を預けているユリアに、アルはふと語りかけてみた。


「そう見える?」


 ユリアも笑みを浮かべながら、上目づかいでアルの顔を見上げ、歌うような声音で返す。


「ああ、いつもよりも笑顔が二割増しだ」


 照れた様子一つない、二人きりのとき特有の凛々しい表情で、アルはそんなことをさらっと言い放った。これにはユリアの方が赤くなって、それでも素直な気持ちを語り始める。


「だって、二人きりなのは久しぶりだもの」


 普段は旅館の、離れの一室で寝泊まりするユリア。同室は夫のアルなのだが、隣の部屋にはリーナが寝泊まりしているし、同じ離れの建物の中に従業員一同が過ごしているのだ。

 本当に二人きりになれる機会というのは、そうそうありはしない。


「そうだな。二人っきりで外に出るのは、七年ぶりくらいか?」

「うん。前回夢の庵を訪問したとき以来よ」

「夢の庵か。あの時は大変だったな……」


 空いている左手を腰に当て、アルは過去を回想する。

 七年前、ユリアやアル、そして里帰りのスズナの三人はサクラ諸島の夢の庵を訪れ、一週間の滞在をしたのだ。これは姉妹旅館同士が交流を図るため、五年毎にそれぞれの女将が訪れあうというものなのだが――。


「ナズナさん、すっかりアルが気に入ったみたいだもんね」


 ユリアはジトーっという擬音がピッタリな眼差しでアルを見上げ、彼の苦笑いと冷や汗を誘う。

 当時の夢の庵女将、ナズナ・タチバナはどうやらアルの料理の腕を買っていたようで、彼を夢の庵にスカウトしようと手を尽くしてきたのだ。


「ちゃんとハッキリ断っただろ?」


 アル自身、ナズナにはあの手この手で勧誘されたのを鮮明に記憶している。時には色仕掛けじみた手も使ってきて、対応に苦慮したことも覚えていた。


「でもあのときだけじゃないのよ、アルがモテるっていうのは。あなたが女の子に言い寄られる度に、私はすごく心配なんだから」


 ユリアは不貞腐れたように、アルから視線を外してそっぽを向いてしまった。そのくせ腕はしっかりと抱いたまま、寧ろ抱く力を強くしている。

 アルは表情と態度がちぐはぐな彼女に微笑みを浮かべて、それから顔をゆっくり近づけると、耳元でそっと囁いた。


「俺は今までも、そしてこれからも、ユリア一筋だよ。あの日、ユミルの森で一目見たときからずっと、な」

「アル……」


 顔は逸らしたまま、甘えるような呟きと共に、抱いた夫の腕へ頬を擦り付けるユリア。

 この場にフェアリーの少女がいれば「あ~あ、ごちそうさま」と呆れ声が放たれただろうし、竜人の紳士がいれば「まったく」という言葉と共にため息が発せられただろう。弟想いな姉がいれば激怒していただろうし、双子の姉弟がいれば嬉々として騒いだかもしれない。

 しかし、今現在この場には水を差すような輩はいなかった。二人の仲を知って邪魔をするような無粋な存在は無かった。

 そのかわり――。


「いやああぁぁ!」


 雪の降る夜の森の中に、女性の悲鳴が響き渡った。

 ユリアとアルはそれまでの甘い雰囲気から一転して真剣な表情を浮かべ、声がした方向を振り返る。


「悲鳴っ!?」


 今の時期、古森ヘイムダールでヒトの悲鳴が聞こえたとすれば、それは十中八九魔物に襲われてのものだ。それも人界で目にするような野生動物レベルの生半可なものではない。魔界で生まれ育った、人界の住人から見れば怪物クラスの猛獣によるもの――。

 現状の危険度を再確認したアルは、走り出すために腕を解放してもらおうと、ユリアの方へ顔を向けた。


「今のは、もしかして……」


 だがユリアの方はそんなことを呟くと、アルが声をかける前に彼の腕を放し、アルに声をかける余裕も無く駆け出した。


「おいっ! ユリア!」


 慌ててアルも彼女の後を追って走り出す。しかし、体を鍛えた男であるアルが追っているにもかかわらず、ユリアの背中はドンドン遠ざかっていく。その雪上とは思えない高速移動に、アルは彼女が魔術を併用しているのだとすぐに気が付いた。


(『雪滑り』まで使って走るなんて……。さっきの悲鳴はお客さんのものか?)


 身体能力だけでユリアを追いかけるアルは、走りながら彼女の焦りの理由を察する。先程の悲鳴の主が果ての庵で眠りについているはずの客人なのであれば、ユリアが彼に声をかける余裕も無く駆け出したのも頷ける。


(まったく、お客さんのためとなると、ほんと脇目も振らずって感じだな)


 アルはそんなことを考えて、不謹慎ながらも苦笑いを浮かべる。そしてふうっと息を吐くと、瞳に力強い光を湛えて駆ける脚に力を込めた。

 一気に加速したアルは、ずっと先に離れたユリアの姿に追い付かんばかりの勢いで、森の中を疾走していった。




 森の木々の間を滑るように動くユリアは、声のした方向へ今まさに急行していた。

 目の前の直線状に熱源を敷き、降り積もった雪を融かして蒸気に変え、ブーツと地面の間に蒸気の層を作り魔術で起こした風で体を動かす。ユリアはこの『雪滑り』と名付けられている、熱と風を操る魔術で高速移動を成し遂げているのだ。


(もう少しっ!)


 内心の焦りを抑えきれないまま、ユリアは林間の暗闇を見据えていた。

 と、突然背後から雪を踏み鳴らす音が聞こえてきた。踏み鳴らすとは言っても、あまりに早いテンポで鳴るその音は、最早連続した一つの地鳴りの音のようにも聞こえてくる。

 この時点で悲鳴の発生源に目前まで迫っていたユリアは、自分以上の高速で後ろから走り寄ってくる人物の気配を感じ、やっとアルの存在を思い出した。


「先に行くぞ」


 ユリアの脇をすり抜ける一瞬の間に、彼女へ視線を送るアル。魔術を最大限に利用して動くユリアの先を、アルは文字通り駆け抜けていった。

 途轍もない速度で走り抜けていった彼の背中を見て、ユリアは思わず笑みを浮かべる。

 初めてアルに出会ってから百八十六年。

 その間、常に感じ続けてきた頼もしさに、ユリアは表情を綻ばせたのだった。


 アルが三人の下へ駆けつけたとき、彼らはまさに絶体絶命の危機にあった。

 大木を背に倒れ、どうやら気絶している様子の青年が二人。そしてその前で震えながら二人を庇うように立つ、エルフの少女が一人。彼女の視線の先には、並ぶ木々を楽々とへし折りながらゆっくり彼らに近付く、あまりに大きな三目鰐の体躯があった。


「嫌ぁ! 来ないで!」


 少女は眼に涙を浮かべながら、巨大鰐に叫んでいる。一方の鰐はそんな少女の叫びを嘲笑うかのように大口を開け閉めし、大人の拳ほどもある歯を鳴らしている。

 アルは少女と鰐の間に滑り込み、背中に涙を滲ませた少女を庇った。


「えっ?」


 エルフの少女は突然目の前に立った人影に驚きの声を上げる。

 一方のアルは、目前まで迫った三目鰐に一足の下に肉薄すると、彼の出現に呆気にとられたままの魔物の顎先を抱え、


「どっ……せいっ!」


 雰囲気に似つかわしくない掛け声と共に、無造作に鰐を放り投げた。

 ヒトを丸呑みにできそうな程大きな鰐が、不自然なほど軽やかに宙を舞う。

 そんなありえない光景を、エルフの少女は呆然と眺めていた。やがて、束の間の空中浮遊を終えた三目鰐は、当然の如く、轟音をたてて雪面に落下する。白い粉雪が舞い上がり、幕となって赤い滑らかな鱗肌を覆った。

 少女が我に返ったのは、雪が落ちて仰向けにひっくり返った鰐の腹を目にしてからだった。


「ええーっ!?」


 可愛らしい見た目に反する驚愕の声が上がる。それもそのはず、彼女は自分の目で見た今の光景が信じられなかったのだ。


「嘘でしょう? あんな大きな魔物を……」


 驚きの声を向ける先には、パンパンと手を叩き、腕を組んで満足げに頷くアルの姿があった。


「うんうん。やっぱこの昂揚感だよなー。堪んないね」


 緊張感が皆無なセリフが聴こえてくるが、未だ呆然としていて立ち直れない少女は反応を示さない。

 と、彼女の下へアルから少し遅れて駆けつけたユリアが近づいていった。


「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

「あなたは!?」


 声をかけられて振り向き、彼女を心配する言葉にやっと正気に立ち返る少女。瞬間、瞳に涙が浮かび、抑えていた恐怖に足が震える。


「もう大丈夫ですよ。安心してください」


 慈愛に満ちた笑みを浮かべ、少女をしっかりと抱きしめるユリア。少女は流れる涙を止めようとはせず、脱力した体をユリアの抱くままに任せていた。

 感動的な光景を作る二人のエルフ。

 そこに、先程鰐を豪快に投げたアルの声が割り込む。


「げっ、なんだこいつら、群れてんのか?」


 よく言えば現実を思い出させる、端的に言えば雰囲気ぶち壊しな言葉に、ユリアは呆れ顔になる。幸い、少女には表情を見られずに済んだので、そのまま抱きしめていた腕を放し、すすり泣く少女に優しく声をかける。


「何があったか、話していただけますか?」


 少女は涙交じりの声で、ユリアに事の経緯を語った。

 感情的になった少女の話は要領を得ないものだったが、要約するに〝異界の門〟の場所を確認しに森へ出た、ということらしい。


(あれほど外には出ないよう言っておいたのに)


 気を失っていた二人の青年も怪我は無かったようで、少し安心したユリアは寧ろ、甘い時間を奪われたことに僅かな不満を抱き始めていた。

 とはいえ、客人の前で不機嫌な顔を見せるほど単純な性格でもないユリア。その後涙の収まった少女から訊ねられた言葉に、微笑みで以て答えた。


「あの、女将さん? あの人は一人で大丈夫なんですか?」

「ええ、アルなら問題はありませんよ。楽しそうですから」


 少女の視線の先で躍動するアルを見て、ユリアの笑みは心からのものに変わる。一方の少女は、とても普通のヒトとは思えない動きで七頭もの三目鰐を翻弄する青年を見て、引き攣った笑みを浮かべた。


「アルさん、ですか? 彼、剣なんて持ってましたっけ?」


 少女の視線は、アルの左手に握られている紅い長剣に向けられている。

 アルの腰や背に鞘などはなく、また鰐を投げ飛ばした際には、彼は何も手にしていなかった。

 どこからあんなものを取り出したのか、と言外に込められた問いを、


「その辺は気にしないでください」


 微笑んだ顔のまま、ユリアはさらっと流した。少女は尚も口元を歪めていたが、なんと言えばいいか思案している内に、話題の当人が慌てた声を上げた。


「悪い! 一頭そっちに行っちまった!」


 七頭いた三目鰐の内、一頭が離れた位置に立っていた二人を目敏く見つけると、全く以て手に負えないアルを放置してこちらに向かってきたのだ。


「い、嫌あぁ!」


 途端に竦みあがり、悲鳴を上げてしまう少女。ユリアはちらりと少女を見てから再度アルに視線を戻し、やがて軽くため息を吐く。


「……仕方ないわね」


 ポツリと呟いたユリアは、左手を持ち上げて伸ばし、半身の姿勢を取った。


「ウィナス、お願い」


 誰へともなしにユリアが呼びかけると、伸ばした左手が突然輝き、一瞬にして金色の弓が現れる。


「えっ!?」


 突如瞬いた光に顔を上げた少女は、何もない虚空から弓を取り出して構えるユリアを見て驚愕した。ユリアの方は、そんな自分のすぐ傍で驚きの表情を向けてきている少女を放置し、迫りくる三目鰐へいっぱいに引き絞った矢を射掛ける。

 放たれた金の矢は、美しい鳥の声に似た音を発して飛び、鰐の目の前に突き刺さった。矢が外れたことに少女は悲鳴を上げるが、ユリアの方は口元に笑みを浮かべさえして弓を下ろし、短く呪文を唱えた。

 ユリアの呪文によって、雪面に突き立った矢が淡い光を放ち始め、矢を乗り越えようとした三目鰐は鼻先を壁にでもぶつけたように急停止する。

 鰐はその後もしきりに二人の方へ進もうとするが、どうしても矢の突き立った位置からこちら側に来られない。


「あれって……」


 少女がその常識はずれな光景を力なく指差し、ユリアへ目を向けてくる。ユリアは見えない壁に体当たりを続ける鰐から目を放すことなく笑みを浮かべた。


「あれは『不可視の壁』ですよ。あの矢を起点にして、マナを含む物質の通過を抑える壁を作ったんです。これでもう、あの三目鰐がこちらへ来ることはできませんよ」


 まるで何でもない事のように話すユリアを、少女はただ呆然と見つめていた。




 その後、壁の向こうでアルが全ての鰐を追い払うのを見届けてから、ユリアは弓と矢を再び虚空へと消した。ユリアの下へ歩いてきたアルも同じように紅蓮の剣を虚空へ消失させると、言葉を失っている少女へ微笑みかける。


「怪我はないか?」

「は、はい」


 少女は未だ驚きを引き摺っており、返ってくる言葉には覇気がない。


「彼らはどう?」


 だから今度の問いかけはユリアに向けて放たれた。


「二人とも気を失っているだけよ。特に怪我はなかったわ」

「そっか。みんな無事で良かったな」


 ユリアから木の根元に倒れる二人も無傷だと聞いて、アルは少女へ笑みを向けた。

 アルの笑顔に落ち着いた様子の少女はふーっと息を吐くと、アルへ深々と一礼した。


「助けて頂いて、ありがとうございました」

「どういたしまして」

「……外出は控えてくださいと言ったのに」


 何気ない調子で礼を受けるアルに、少女が少し頬を赤く染める。だからというわけではないだろうが、直後に零されたユリアの愚痴は、まるでわざと聞かせるように放たれた。


「す、すみませんでした……」


 忠告を無視して危険な目に遭い、挙句救助されるという結果になってしまったので、少女は顔を青くすることしかできない。


「まあまあ、みんな無事だったんだから、今日はもういいじゃないか」

「むぅ」


 苦笑いでその場をとりなすアルに、ユリアは顔を見られないように背けてむくれた。が、自然と零れた声はアルに聞かれていたようで、彼の手がポンポンとユリアの頭を撫でる。

 それだけで、彼女の機嫌は超回復した。


「さて、それじゃあ取り敢えず、うちに帰ろうか。今頃ヴァンが心配してるだろうしな」


 アルはユリアの表情がふやけたものになる前に手を放すと、気を失った二人の青年を軽々と担いで歩き出す。


「あ、あの!」


 しかし、数歩も行かない内に、今度はエルフ少女に呼び止められた。


「うん?」


 背中を向け、首だけで振り返ったアルに、少女は言い辛そうな表情で訊ねた。


「お二人は、いったい何者なんですか?」


 その問いに答えるのは――やはり憚られる。


「ああ、えっと……それは……」


 口籠るアルに強い視線を送ってくる少女。しかし、二人の間に割って入ったユリアが至極真剣な表情で少女を治める。


「それについては戻ってから、ということで。よろしいですか?」


 有無を言わさぬとは、こういうことを言うのだろう。


「は、はい、わかりました」


 少女はユリアの放つ重圧と迫力の前に、頷かざるを得なかった。


「では、行きましょうか」


 そうして、ユリアは踵を返し、先頭に立って果ての庵への帰路に着いた。

 その歩く速度はかなり速いものだったのだが、アルも少女も決して文句を言わなかった。




「それじゃあヴァン、後は任せたわ」


 果ての庵に帰り着いたユリアは、アルの予想通り心配して出迎えたヴァンに簡単な経緯を説明した。彼はそれだけで意図を察したようで、仕方ないと言って頷く。


「わかった。御客様には私から説明しておこう。包み隠さず話して構わないのだな?」

「ええ、いいわ。なんなら貴方のことも話してしまっていいのよ?」


 頷いて、それから少し意地の悪い笑みを浮かべるユリア。ヴァンはそんなユリアの言葉に、少しだけ微笑んで見せた。


「ふむ、それは遠慮しておきたいところだが、話さないわけにもいかないだろうな」


 ヴァンが頷くのを確認した後、ユリアは離れた位置でアルを見つめる少女に近寄っていく。彼女はユリアの接近に気が付くと、目に見えて緊張の色を深め、女将の言葉を待った。

 ユリアは少女の前まで来ると、一礼してから口を開いた。


「お待たせいたしました。お客様の疑問のお答えですが、私とアルは見回りの仕事が残っていますので、代わりにこちらのヴァンがお答えさせていただきます」


 一息に告げられた答えに、少女は少し肩を落とした。


「そう、ですか。解りました。よろしくお願いします、ヴァンさん」

「私にお答え出来る事でしたら、仔細にお話させて頂きます」

「それでは、私とアルはこれで失礼致します」


 ヴァンが恭しく腰を折る横で、ユリアも微笑み顔で一礼した。


「それじゃあ、また明日」


 アルも玄関口から手を振って、ユリアを迎える。


「あ、はい。危ないところを助けて頂いて、本当にありがとうございました」


 少女はもう一度、命の危機を救ってくれた二人に、深く一礼した。

 玄関口に立って振り返ったユリアとアルは、微笑んで礼を返すと、二人並んで雪の舞う森へ歩き出した。


「なあ、ユリア」


 再び雪の森を歩くユリアとアル。旅館から離れ、完全な静寂に包まれた森の中で、アルは数刻前と全く同じように腕を組むユリアに声をかけた。


「なに?」


 アルの腕を両手に抱いたまま、上目づかいで見上げる。旅館を訪れる、彼女に憧れる客人が卒倒してしまうような笑顔で、ユリアはアルの声に応えた。


「あれで良かったのか?」

「何のこと?」

「いや、俺たちのこと、本人である俺たちの口から話すべきなんじゃないかって、さ」


 ユリアとアル、そして従業員達の秘められし過去。

 二人の記憶に克明に刻まれている、苦難な旅路の光景。

 そして、彼らがこの人界の最果てで旅館を営む理由。

 今となってはあのドラルの紳士も仲間だとはいえ、彼の口から語られるのは皮肉のようにも感じられる。


「……アルはあの子に尊敬されたいのかしら?」


 しかし、アルの複雑な想いとは裏腹に、ユリアは殊の外可愛げな表情でアルに据わった眼差しを向けてきた。その眼の色に込められた意味を悟れないほど、アルの経験値は低くはない。


「いや、別にそういうわけじゃないけどさ」

「ならいいじゃない」


 盛大な苦笑いを浮かべて弁明するアルに、ユリアは満足げな笑みを浮かべる。


「そうは言ってもな……」


 引き続き苦笑いを浮かべながら、アルは頬を掻く。すると、ユリアはそっぽを向いて、ぼそっと一言呟いた。


「だって、もう少し二人きりでいたかったから」


 密着しているアルにもなんとか聞き取れる程度の声量で呟かれた言葉に、そっと振り向く。

 顔を逸らした彼女の、僅かに覗き見える頬が朱に染まっているのを見たアルは、ふっと息を吐いて心底幸せそうな笑みを浮かべた。


「わかったよ。日の出まで、ゆっくりデートしような」

「アル……」


 恥ずかしそうに彼の方へ振り返ったユリアの顔には、愛おしげな微笑みが満ちていた。


 それから朝日が森を白く照らすまで、二人は束の間の逢瀬(デート)を楽しんだ。

 本来の目的である魔物の撃退を、ついでに片付けながら。




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