第6夜 姉妹旅館より
駿春。
一年を通して雪がチラつくヘイムダールの地に、たった十日だけ訪れる恵みの季節。まるで早馬のようにあっという間に過ぎ去ることから名付けられたこの季節は、年に一度だけ、異界の門が閉じている期間にのみ見ることができる。
身を切る冷風が止み、穏やかな陽気が森を包むとき、そこは生きとし生けるもの全てにとって楽園とも言える場所となり、多くの生き物が集うのだ。
『ヘイムダールはすべてのエルフの故郷であり、エルフの愛した地である』と、どこかの古文書には書かれているのだが、その一節は真にこの駿春の森を言うのだろう。もしかすれば、かつて異界の門は無く、古森ヘイムダールは一年を通して楽園であったのかもしれない。
何時如何なる時も、命を育み、エルフと共に悠久の時を越えてきたのかもしれない。
閑話休題。
「ごめんください」
そんな駿春の果ての庵の玄関先に、一人のフェアリーが立った。藍染の着物を着て、一族特有の黒髪を結って垂らしている。傍目には十二、三歳程度の子供にしか見えないが、彼女がフェアリーという種族であることを考えれば、それに何らの不思議もない。
「あら、いらっしゃいませ。そろそろ来る頃ではと思っておりました」
ロビーで帳簿の確認を行っていたユリアが、常連客を迎えるような態度で出迎える。
「お初にお目にかかります。私は『夢の庵』十八代目女将、ナズナ・タチバナと申します」
サクラ諸島で伝統の旅館をまとめているナズナは、故郷の礼に則って深々と腰を折った。彼女の前まで来て正座したユリアも、同じようにサクラ諸島の文化に則って返礼する。
「ご丁寧にどうも。私はユリア。果ての庵の女将でございます。此度も姉妹旅館である『夢の庵』の女将とお会いできて嬉しく思います」
「こちらこそ、お噂はかねがね。お会いできて嬉しゅうございます」
頭を上げ、二人の女将は笑みを交わす。
それからユリアの方が立ち上がり、半身になって彼女を招き入れた。
「さあ、立ち話もなんでしょうから、上がってくださいな」
「それでは、失礼致します。タスケ、ゴスケ、行きましょう」
「はいよ」
「はい」
もう一度、今度は軽く首だけで首肯したナズナは、玄関外に控えていた二人の男を呼ぶ。
片や鷹揚に、片や質実に応えた男たちが玄関口を潜り、旅館内に足を踏み入れた。どちらも少年の様な顔立ちだが、ナズナを含めた三人共が既に成人を迎えた立派な大人であることは、幾人ものフェアリーという種を目にしてきたユリアにはよくわかる。
「あら、今年は護衛役が二人だけなんですね。これまでは最低四人はおりましたけど」
十年に一度、今年で十五度目になる、夢の庵女将一行の来館で見慣れた光景と違うことに、ユリアは小さな笑みを浮かべた。
「ナズナはタチバナ剣術道場の師範代なんすよ。だから正直護衛なんていらねえんじゃねえかって……痛ってぇ!」
その疑問に答えたのは、女将のナズナではなく傍に控えた男のやんちゃな方だった。しかし、彼の言葉は途中で主に頭を叩かれることで途切れる。
「余計なことは言わなくてよろしい」
「す、すごくいい音……」
敢えて形容するのであれば「スパァン!」だろうか。微笑みが苦笑いに変わり、こめかみに汗の浮かぶような光景だった。
「お恥ずかしいことで、申し訳ございません」
大袈裟に一礼するナズナの姿とその後の三人のやり取りは、ユリアの本気の笑いを誘うことになった。
「ったくよぉ。いちいち人の頭叩かなくても……ぐぇ!」
「お前は少し黙れ」
真面目な方の少年が、相方の首を絞め上げる。
「ぐぅ、ギブギブ!」
「ゴスケ、放してあげなさい」
「よろしいのですか?」
「……うぅ」
ナズナは蒼白なタスケをチラリと見て一言。
「こちらで死体を出すわけには参りませんから」
「承知いたしました」
ゴスケが首を絞めていた手を放す。
「ハァ、ハァ、本当に、死ぬかと思った」
「……そのまま死ねばよかったのに」
タスケから離れたゴスケがボソッと呟けば、
「今の怖いセリフは何だ!?」
タスケが真っ青になって叫ぶ。
「うるさいわよ、タスケ。やはり今ここで死にたいのかしら?」
「い、いやぁ、勘弁」
しかし結局、ナズナが容赦なくバッサリと斬り捨てるので黙るしかない。
そんな、仲の良い(本人達は否定するだろう)光景に、ユリアは口元を抑え、しかし声は抑えずに笑った。
「うふふ。賑やかで良いですね」
「お恥ずかしい限りです」
そんなユリアの心からの言葉に、ナズナは羞恥に頬を赤くし、小さく目礼して返す。
「ふふ。それではこちらへどうぞ、サクラの国からのお客様」
そうして、ユリアは心からの笑顔で、三人を迎えた。
「お、ナズナにタスケにゴスケじゃん! よく来たね」
三人が宿泊する客間の前まで来て、フェアリーの三人は部屋の準備に当たっていた同族の女性に出会う。
「スズナ姉様。御無沙汰しております」
初めに深々と一礼したのはナズナだった。
ナズナにとって、彼女は姉のようでもあり、親のようでもある存在だ。敬意と親しみを表するのに、ネガティブな感情は一切起こらない。
「あはは。ナズナー、随分と女将らしくなったねぇ」
一方、スズナの方は年の離れた〝妹のような〟ナズナに、砕けた口調で語りかける。彼女が故郷の仲間に対する語り口はこれまでも同じだったし、これからも同じだろう。
「当然です。女将ですから」
いつまでも親しみを持って接してくれる彼女に、ナズナも思わず笑みが零れた。
「スズ姉はあんまし変わんねえな」
ナズナに続いて口を開いたのはタスケだった。
タスケは、子供の頃見たスズナと同じ、全く変わらない彼女に安心感を覚え、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「あったりまえじゃん。あたしを誰だと思ってんの?」
スズナも彼の内心をなんとなく理解しているようで、ニヤッと笑って悪乗りしてみせる。
「いや、だからスズ姉だろ? いつまでも子どものままの、ププ」
「ほう、言うじゃないのさ、このひよっこが。あたしに勝てると思ってるわけ?」
「スズナ姉さんは、やはり五年前と変わらないのですね。以前と同じで可愛らしいです」
不敵に笑って見せたスズナに今度はゴスケが語りかけてくる。幼い時分から〝姉さん〟に淡い想いを抱いていた彼も、昔と違って子供ではない。女性に甘い言葉を語るのも、恥ずかしがるような年ではない。
「うーん、ゴスケはタスケと違って、いい男に育ったねえ。姉さんは嬉しいよ♪」
ゴスケの想いを知ってか知らずか、スズナは自分よりも背の高い彼を抱きしめ、しみじみと、わざとらしいセリフを吐く。
「あ、ありがとうございます」
スズナに抱きつかれ、ゴスケは真っ赤になって目を泳がせながら上ずった声を上げた。大人になったと言っても、想い人に抱きしめられれば話は別なのだ。
「……オバサン臭」
ぼそっと呟かれたタスケの言葉は、羨望の裏返しだったのかもしれない。しかし、効果はテキメンだったようだ。
「この口か! この口が災いの元か!」
タスケの言葉に、ゴスケを抱きしめていた腕を解いて振り返ったスズナは、一瞬でタスケに迫り彼の両頬を抓り上げて子供のように喚いた。
「痛てて! 痛えよ、スズ姉!」
“弟たち”と楽しそうに騒ぐスズナと痛がりながらも何処か嬉しそうなタスケ、そしてタスケを恨めしげに睨むゴスケ。そんな三人を、ナズナは呆れつつも笑みを浮かべながら見つめていた。
「うふふ。やっぱり賑やかね」
ふと、ユリアが呟いたのを聞いて、ナズナは彼女の存在を思い出す。
フェアリー四人で自由にはしゃいでしまっている間、果ての庵の女将である彼女を蚊帳の外にしてしまったと。
「お騒がせして申し訳ありません」
慌てて謝るナズナにユリアは笑って首を振り、片手を頬に当てて言った。
「いいのよ。見てるぶんには面白いもの」
なんのことはない。ユリアも、故郷を同じくする四人が笑顔を向け合っている光景に、心を温かくしていたのだ。置いてきぼりであったことなど、気にする様子もないのだった。
◇
その後、用意された客室へ入った三人のフェアリーは、夕刻の食事の時間まで、各自自由に時間を過ごしていた。
ナズナは同じ女将のユリアと旅館の在り方について議論を交わしていたし、
タスケはタチバナ流剣術の剣士として、有名な剣士でもあるトムと手合せをしていたし、
ゴスケは異文化に興味があってか、エルフであるリーナと楽しげに話していた。
もちろん、隙があればスズナとも喋っていたが、彼女はこの日珍しく忙しそうにしており、また他の二人も彼女と話したがっていたので、三人の弟妹は思いの外言葉を交わすことができないでいた。
そして夕食時。
三人の通された部屋に食事を運んできたのは、他ならぬスズナだった。
ただし、彼らのよく知るスズナではなかったが。
「御食事を御持ち致しました」
普段の彼女からは想像もつかない堂に入った所作で一礼するスズナ。そんな彼女の態度に、三人は感心するより寧ろ戸惑ってしまった。
「スズ姉、どうしちゃったの?」
タスケが心底信じられないというような言葉を漏らす。そして口にこそ出さずとも、それはナズナもゴスケも同じだった。
「本日、御三方はお客様ですので」
スズナは彼らが見たこともないような清純な微笑みを浮かべる。
そのまま彼女は運んできた食膳を一つずつ順に彼ら三人の前に並べ、困惑する彼らを余所につらつらと食事の説明を始めた。
「本日の御夕食、メインはフラム牛肉のステーキでございます。付け合せにはこの島の近海で獲れた新鮮な魚介類の御刺身と、当旅館の庭で育てておりますニシキ鳥の卵から作りました茶碗蒸しを。汁物には、お客様方はサクラ諸島から御出でになられたということから、御御御付けをご用意いたしました。お米は五穀米ですので、御体にも良いと存じます。その他、何かご入り用、ご質問などがございましたら、お気軽に私にお申し付けください」
スズナは、彼ら三人が今まで見たことのない淑やかな微笑みで一礼して、ゆっくりと顔を上げた。そのまましばらくの間、静寂が部屋を包む。
「ぷっ」
そして、優雅な笑みを浮かべて微笑み続けるスズナの表情に、耐えきれなくなったタスケが吹きだした。つられてナズナも、口元を抑えて笑い始める。ゴスケでさえ、漏れ出る笑いを堪えきれなくなったようだった。
「アッハッハッハ! スズ姉、それは反則だって!」
タスケが腹を抱えて笑う横で、ナズナの眼にも涙が滲みだしていた。
タスケとナズナが声を上げて笑い、ゴスケでさえ笑みを隠しきれない中、微笑みを保ち続けていたスズナも限界だったようで、ため息を吐きながら苦笑いを浮かべた。
「ハァ、やっぱり皆同じこと言うんだなぁ。そんなに似合わないかな?」
腕を組んで首を捻る姿は、先程までとはまるで違う、元のスズナの雰囲気に戻っている。
「これでもお客様には大好評なんだけどなぁ。いっつも故郷の連中には似合わないって言われるんだよねぇ」
「いえ、姉様。確かに、姉様を初めて見るお客様相手には好印象だと、思いますけど」
笑いを抑えながら話すナズナは所々言葉が詰まり気味だ。
「失礼ながら、スズナ姉さんの普段の性格を知っている我々にとって、先程の姉さんは何者かが化けているようにしか見えませんでした」
ゴスケも口元を緩め、スズナの豹変ぶりを例える。スズナに想いを寄せるゴスケがそう言うのだから、彼以外のフェアリーにとってそれは笑いを堪えられるものではないのだろう。
「むぅ、まあいいや。あたしもこの方が楽だし」
少しむくれていたスズナは、すぐにケロッとした表情に変わると、両手を頭の後ろに回し片目を閉じてニヤッと笑う。
ここまでくると、ゴスケはともかくナズナも笑い止んでいたのだが、タスケだけは未だ一人で笑い転げていた。スズナはそんなタスケを見て意地悪く笑うと、いつまでも笑い続けるタスケに座ったまま近づいていき、肩を掴んでそっと囁いた。
「それとも、こちらの私の方がよろしいですか?」
耳元で囁くその一瞬、もう一度『接客モード』の雰囲気になったスズナ。性懲りも無く、タスケはそんな彼女の雰囲気の普段とのギャップに、腹痛になるほど笑い転げたのだった。
「美味えっ! このステーキ、めっちゃくちゃ美味いぞ!」
「うーん、サクラ諸島以外の地でこれほど美味しい茶碗蒸しを食べられるとは」
「どれもすごく美味しい。素材の良さを引き出しているし、それにこれは――私たちの故郷の味付けに合わせてある?」
三者三様、注目している点に違いはありながらも、その味の素晴らしさに驚いていたことは共通していた。
「ナズナ、いいとこに気が付くね。さすがは女将」
側で給仕をするスズナは、夢の庵の女将に目配せした。
「ではやはり、この料理は全部……」
「そう! うちの料理長がお客様の故郷に合わせて少しずつ味付けを変えてるんだよ」
料理長はアルなのだから、アルのやっている仕事をスズナが誇るのはどこかおかしいのではと思いながらも、ナズナは語られた仕事の細やかさに感動していた。
「そんなことまでできるなんて、先代から噂には聞いていたけど、本当にすごい方ね。これは……是非ともうちに欲しい」
ナズナは先代、つまり母親から、『果ての庵の料理長は素晴らしい人材だから、是非連れてくるように』と教えを受けていた。どうやら彼女の母も、この旅館の料理長であるアルを雇い入れようとしていたようだ。
奇しくも十年前この地を訪れた先代と同様に、ナズナはこのとき、どうにかしてこの料理長を引き抜けないか内心で算段を始めたのだった。
「ちょっとナズナ? アルを引き抜こうとするのは止めてね。ユリアが本気で怒るから」
そんな、真剣な表情でブツブツ独り言を呟いているナズナに嫌な予感を感じたスズナは、先んじて釘を刺しにかかる。
スズナはこの五十年で五回、十年に一回の頻度で同じ言葉を言ってきたのだ。最早以前のように直接その場を目にしなくても、予想できるようになっていた。
だが、スズナの封じ手にも関わらず、ナズナは清々しいほどの笑みで、ある意味で理想の答えを返した。
「引き抜こうなんてそんな。どうにかうちで働いてもらえないかって考えていただけですよ?」
「それを引き抜きって言うのよ!」
お約束な問答を繰り広げた後、スズナは少しナズナに詰め寄ってもう一度手を合わせる。
「本当に止めて! ね、お願い。ユリアが本気で怒ったら洒落にならないんだから!」
「……わかりました。姉様がそこまで言うなら、説得は諦めます」
懇願と言ってもいい程のスズナの勢いに、さすがのナズナも説得を諦めざるを得なかった。
「うん。本当、お願いね」
十八代目を説き伏せたスズナは、ほっとしたように息を吐く。
がしかし、そう思ったのも束の間、ナズナは不意に立ち上がると拳を握った。
「説得がダメなら、力づくで連れて行きます!」
「それはもっとダメ! サクラ諸島が滅んじゃう!」
その言葉に、スズナはナズナへ縋り付いて懇願した。顔も少し蒼白になっている。
「姉様、それはいくらなんでも大袈裟なのでは?」
さすがにそんなことにはならないだろうと、ナズナは苦笑いを浮かべるが、
「ユリアなら、やりかねないからね?」
スズナの至って真剣な表情に、只事ではない雰囲気を感じた。
「ほ、本当ですか?」
「うん」
再度の問いかけにもハッキリ頷いたスズナ。彼女の瞳に隠しきれない恐怖が浮かんでいたのを見て取ったナズナは、大人しく座り直して長い息を吐いた。
「……わかりました。アルさんのことは諦めます」
そのとき見せた安心しきった姉の姿に、ナズナは「手を出さなくてよかった」と内心で安堵した。同時に、かつて何が起きかけたのかというのにも興味が出てきた。
「ちなみに、以前はどんな状況になったのですか?」
声音を改めて、ナズナは姉に訊ねる。スズナは気の抜けた声で答えた。
「あのとき? あのときはねぇ……」
軽く視線を持ち上げるスズナ。
「あれはナズナの七代前の女将だったかなぁ。あの子もナズナと同じようにアルを気に入っちゃってね。どうにか夢の庵に引き抜けないか画策してたよ」
スズナの瞳は、段々と遠いものになっていた。
「あのときは、あたしも油断してたのかな。ユリアの独占欲みたいなのを甘く見てたんだと思う。一応忠告はしたんだけど、本気で止めようとは思ってなかったからさ」
「……いったい、どのようなことが?」
生唾を飲んだナズナ。姉の眼がナズナを捉え、不意の問いが返ってくる。
「ナズナはさ。六十五年前にサクラ諸島で起きた災害のこと、知ってる?」
「六十五年前、ですか? 確か、島が一つ、地震の影響で沈んだというものでしたよね?」
突然の問いかけだったが、ナズナはすぐに思い当たった。
それはサクラ諸島に生まれた者なら、誰もが言い聞かされる話だ。
「うん。知ってるんなら話が早いや」
姉の首肯に、ナズナは嫌な予感を感じる。冷や汗が背中を伝ったのがわかった。
「姉様、もしやそれが……?」
恐る恐る訊ねた言葉に、スズナは静かに頷いた。
「そう。あれは地震の所為なんかじゃない。怒ったユリアに沈められちゃったんだよ」
ナズナは言葉を失った。島一つを沈める力もそうだが、それを躊躇いなく実行するユリアの意志力も恐ろしいことこの上ない。
「あれは丁度、あたしたちが夢の庵を訪れた年だったんだけど、当時女将だったユウナがね、アルを無理矢理引き抜こうとして、ミヤコの何処かに幽閉しちゃったんだよ」
或いは、スズナに止められていなければ、ナズナもそれくらいは計画したかもしれない。
スズナは淡々と、苦笑いを浮かべながら続けた。
「ユリアがいくら問い詰めても、ユウナは知らぬ存ぜぬの一点張りでね。あたしもユリアに協力して探したんだけど、ミヤコは広いから、多分見つからないだろうなって思ってたんだ。ユウナも、まあ見つけられないだろうと思ったんだろうね」
「それで、ユリアさんは……」
ナズナの言いかけた言葉に、スズナはコクリと頷いた。
「丸三日探した後、ユウナがどこかに攫われちゃったんじゃないですかー、みたいなことを言ったんだよ。あたしもさすがにイラッときてさ、ユウナを問い詰めてやろうとしたとき――」
スズナはふーっと息を吐き、続きを口にした。
「ユリアがね、突然窓を開けて、遠くに見えてたマイハナ島に魔術を撃ったんだ。アッと思ったときにはもう遅くて、島は跡形もなく消し飛んじゃった。幸い、マイハナ島は無人島だったから死者は出なかったけどね。あれはさすがに、あたしも怖かったなぁ……」
渇いた笑いを漏らすナズナ。もう、スズナは頬を引き攣らせることしかできなかった。
果ての庵女将のユリアは、夫のアルのためなら島一つ沈めることも厭わないのだ。そこに人が住んでいるか確認するまでもなく、巻き添えになっても構わないつもりでやったのだろう。
アルが絡んだ際のユリアが如何に恐ろしい存在かを、スズナの話は如実に物語っていた。
◇
ユリアの恐ろしさを知り、安心して長い息を吐いた後、恐々としながら大人しく話を聞いていた二人の男と共に、ナズナはもう一度食事を再開した。
食欲の無くなりかねない恐ろしい話の後だというのに、膳に乗った料理はどれも大変な美味で、三人は問題なく全て食べ尽くした。
そして、それは二人の男連中が温泉に向かった後のこと。
「そう言えば、ナズナは十八代目なんだっけ?」
スズナがポツリと、ナズナへ訊ねたのだ。
「はい。私は十八代目です。まだ結婚はしていませんので、子供ができるのは先のことでしょうけど」
次の女将は自分の子ではないだろう。もしかすれば、十年後も自分がここに来るのかもしれない。若くして女将の座に着いたナズナはそんな考えのもと、姉に苦笑いで応えた。
しかし、スズナの方は少し違う意味に捉えたようだ。意地の悪い笑みを浮かべて、ナズナをじーっと見つめている。
「にゅふふ。ナズナのお相手はタスケかな?」
そして、年頃の女が大好物な話題を持ち出してくる。
「なっ! あんな子供の様な男は嫌です!」
ナズナも女将とはいえまだ十代前半、短命なフェアリーの、平均寿命のおよそ四分の一を過ぎた直後の、まだまだ若い女だ。当然彼女もこの手の話題は好物だが、それは他人のものだった場合だ。自分の色恋について語られると、どうしても赤面するのを抑えられない。
「そんなこと言っちゃって~。小っちゃい時からずっと一緒なくせに」
スズナはというと、五年前に故郷を訪れた際に見た、二人の仲睦まじい様子を昨日のことのように鮮明に覚えているため、からかう声にも熱が入る。
「それは……タスケは、ただの幼馴染です!」
ナズナもスズナの見ていた光景を思い出したのだろう。当時は自分が彼にべったりだったことを思い出して、さらに頬は赤くなった。
「アハハ。赤くなっちゃって、可愛いなあ」
「もう! 知りません」
からかい続けるスズナに、白旗を上げるナズナ。
頬を真っ赤に染め上げてそっぽを向く彼女を見てひとしきり笑ったスズナは、笑いを収めた後、少し遠い目になって穏やかな口調になった。
「ふふふ。でも、そっかぁ……。もう十八代も続いてるんだね、あの旅館も」
スズナが夢の庵を出てアルやユリアに付いて旅に出たのは、およそ百七十年前。
夢の庵の二代目女将だったハルナの次女でありながら、旅がしたいと言って故郷のサクラ諸島を離れた彼女は、十数年にも及ぶ旅の後、この果ての庵の仲居となったのだ。
アル達一行の事情を知る数少ない人物であるナズナは、彼に付いて人界を、そして魔界をも回ったスズナがどれだけ永く生きてきたのか、その片鱗に触れた気がした。
「あの、姉様? その……辛くはないですか?」
気付けば、彼女は訊ねていた。
「ん、なにが?」
惚けるように訊ね返すスズナへ、ナズナは先程から一転した表情でもう一度訊ねる。
「その……永く生きるというのは……辛くありませんか?」
伏し目がちに、彼女を気遣うように訊ねられた問いに、スズナは一瞬目を見張るが、すぐに微笑んだ。
「まあ、母さんや姉さんがずっと前に死んじゃってるっていうのは、やっぱり寂しいかな」
スズナの浮かべた微笑みは優しいもので、だけど同時に物悲しいものでもあった。そこにはナズナの想像を絶するような悲しみがあるのだろう。
思えば、これまで何代もの女将がこの果ての庵を訪れているのだ。
スズナにとってその全てが同族であり、家族の様な存在だったのかもしれない。この地を訪れる客の中にも、常連となり親しくなった者がいただろう。その誰もが、スズナよりも先に命を落とすのは決まっていることなのだ。
(辛くないはずがないのに。私は何を訊いてしまったのよっ!)
ナズナは苦い笑みを浮かべるスズナを見るほど、馬鹿な問いかけをしてしまった自分を責めたくなった。彼女にそんなことを考えさせてしまった自分を罰したくなった。
しかし――。
「でもまあ、ここには仲間がいるしね」
ナズナの想いに反して、スズナは笑顔を浮かべる。
それはすべてを受け容れ、乗り越えていこうとする、そんな輝かしい笑みだった。
ニッと笑うスズナの笑みを見て、いつまでもこの姉には敵わないなと思う。
「姉様は、強いのですね」
ナズナは彼女に気遣わせないよう、少し呆れたような口調で呟いた。
「あはは。まあ、あと七千年くらいは生きるんだからね。そうじゃないとやってられないよ~」
スズナの見せた笑顔は確かに憂いを帯びていた。しかし同時に、何気ない日々をいつまでも堪能できる幸せを感じているようにも見えた。
ナズナの心に、夢の庵をいつまでも守っていかねば、という想いが芽生えた――。
そんな瞬間だった。
◇
一週間後。
ナズナと護衛のタスケ、ゴスケは、果ての庵の門の前で、果ての庵の面々と向かい合っていた。
「この一週間、大変勉強になりました。ありがとうございます」
ナズナが一同に向かって深く一礼すると、それに倣って護衛の二人も頭を下げる。
果ての庵の面々も、それぞれが思い思いの言葉をかけて、別れを惜しむ。
「トムさん、今度は是非一度、うちの道場に来てください!」
「うん。タチバナ流剣術、その技をもっと見てみたいからね。絶対に行くよ」
すっかり互いの剣の腕を認め合ったタスケとトムが、固い握手を交わしていたり。
「リーナさん、またユミルの食文化についてお聞かせ願いたい」
「ええ、もちろんです。いつでもお話しますよ」
こちらも打ち解けたようで、ゴスケとリーナは互いに頷きあっている。
「今度は五年後に、私が伺いますね」
ユリアがナズナに微笑みを向ければ、
「はい、お待ちしております、ユリアさん。姉様も」
ナズナも笑顔で返礼し、そのまま敬愛する姉に向き直る。
「うんうん。あたしもユリアと一緒に行くからね。その時までには、ちゃーんと跡継ぎを作っときなさいよ?」
最後まで意地悪な笑みでからかい続けるスズナに、ナズナは頬を染めつつもハッキリ頷いて見せた。
そして、ナズナ、タスケ、ゴスケの三人は、果ての庵とその従業員達に別れを告げ、段々と肌寒さが戻りつつある森に足を踏み入れた。
緑の地面を歩むナズナの心には、一つの決心が宿っていた。
(スズナ姉様がこれ以上寂しい思いをしないよう、いつまでも夢の庵を存続させていこう。そのために、私も恥ずかしがってないで……)
ナズナは森を往く間、斜め後ろの足音をいつまでも意識し続けていた。