第4夜 お客のいない日
人里離れた最果ての地に、ひっそりと佇む果ての庵。
異界の門の近くにある唯一の宿にして知る人ぞ知る名所とはいえ、人界から魔界へ入ろうとする者も、はたまたその逆の者も、それほど多くいるわけではない。
そうなると、宿泊客もいなければ用事も無いという日は必ず現れてくる。
大まかに月一の頻度で発生するその日は、普段少ない人数で忙しく働く従業員のための休養日に充てられる――なんてことにはならない。
「アル、まだ食器洗いも終わらないの?」
「あー……あともうちょい」
「ロン、酒蔵の水拭きは?」
「今やってるとこだ!」
「そう。必ず二度拭きしておいてね。クリフは?」
「丁度玄関周りが終わったところ」
「うん、さすがね。じゃあ次は脱衣所の方をよろしく」
「了解」
旅館の男たちをこき使いながら、女将のユリアは手元の紙にチェックを入れていく。
そう。この果ての庵では、月一のお客のいない日に大掃除を行っているのだ。
別にいつもは掃除をしていないというわけではない。普段宿泊客がいる中でも、毎日欠かさず掃除は行われているのだが、実質の権力者が悉くきれい好きなこの果ての庵では、頻繁に大掃除が行われているのだ。特に、表向きも実質も最高権力者であるユリアに逆らうことのできる人物は、果ての庵には存在しなかった。
「小宴会場二つも終わりました」
比較的経験の浅い魔族の娘にとっても、それは同様である。尤も、ユリアの夫であるアルが一番厳しく言われているのだから、逆らう気など起こりようもないが。
「ご苦労様ツェシカ。次はリーナと一緒に事務室をお願い」
「はい」
常連に人気の歌姫が去ったところに、今度は双子の少年少女が寄ってきた。
「「お姉ちゃん! お庭の草むしり終わったよ!」」
「ありがと二人とも。それじゃあ客室のトムとアイラを手伝ってきて」
「「はーい」」
ユリアは能力さえあれば、年齢で差を付けたりはしない。それを考えると、双子の姉弟はなかなかに優秀な働き手であると言える。少なくとも掃除に関しては、だが。
「ユリアー、大宴会場終わったよー」
双子が走り去ったところに、今度は同じくらいの背丈の女性が歩み寄ってきた。
彼女はこう見えて立派な大人なのだが、フェアリーという種の特性上、どう見ても子供にしか見えない。そのため、周囲は彼女に甘く接しがちなのだが――。
「あら、スズナ。ならちょっと確かめに行ってもいい?」
ユリアは彼女の腹黒さを心得ているため、甘やかすことはない。
「えっ!? いや、やっぱりもうちょっと仕上げてこようかな」
「そう、感心ね」
「あはは……」
案の定、スズナは少々手を抜いていたようだ。
ユリアの恐怖の折檻を恐れた彼女は、慌てて持ち場へ引き返していく。
これが毎月毎月繰り返されているのだから、いい加減スズナも諦めてはくれないかと、ユリアはため息を吐くのだった。
そこへ、彼女が仕事に関しては最も信頼している男が現れる。
「ユリア」
「ヴァン? どうかしたの?」
「いや、取り敢えず離れ以外の全ての窓を磨き終えたところだ」
「早いわね! さすがはヴァン。ほんと、誰かさんにもヴァンの清掃力を見習って欲しいな」
「ほっとけ」
ユリアがようやく食器洗いを終えようとしているアルへ、嫌味たっぷりに言い放った。
「まったく、どうして作るのは上手いのに片付けるのは下手なのかしら」
「しょうがねえじゃん。作るのは楽しいけど片付けるのは面倒なんだからさ」
ユリアの漏らす苦言に、アルは苦々しげな顔で返す。
「ハァ。いつもいつも部屋を片付けてる私の身にもなってよね」
「………」
だがため息と共に零された言葉に、アルはジトーっとした眼差しで応えた。
「なによ、その不満そうな顔は」
「……いつもニヤニヤと嬉しそうに片付けて、偶に俺が綺麗にしてると寂しがるくせに」
ぼそっと呟かれた台詞は、ユリアを焦らすのに十分な威力を持っていたようだ。
「ちょっ!? そんなこと……」
「ハァ。女将モードのときと普段のギャップが強すぎて、いっそ別人なんじゃねえかって感じがするよ」
尚もたたみ掛けるアル。そうすればユリアが素直になると知っての行動だ。
「それはその、仕事とプライベートは別だから……」
「まったく」
思った通り、アルの思惑は見事に功を奏したようだ。
頬を染め、僅かに俯いて恥じらうユリアの姿に、アルはふっと息を吐いた。
「ゴホン」
しかし、傍からわざとらしい咳払いが響いてきて、アルは男の存在を思い出した。
「あっ、ゴメンな、ヴァン」
苦笑いで、呆れ顔の老紳士に謝罪する。
ヴァンはため息を吐くと、苦笑気味に口元を緩めた。
「いや、もう慣れたよ」
「それはそれで複雑なんだが……」
「私は門構えを掃除してこよう」
「……ああ、頼むよ」
アルの苦々しげなツッコミは華麗に流され、ヴァンは二人に背を向けて旅館の玄関口へ歩き出しかける。しかし、彼は数歩で立ち止まると振り返り、未だ頬に手を当てて悶えるユリアに言った。
「ユリア。程々にしておかんと、またアイラにしつこく言われるぞ」
そんな忠告に、ユリアはようやく正気に返る。
「むぅ。そうね、人前では自重するべきよね」
弟想い(・・・)なアルの姉の姿が頭をよぎり、ユリアは小さな咳払いを一つ零した。
「今のなんて、義姉さんに見られたらなんて言われるか」
「あはは……」
ユリアの心配はしかし、この後別の意味で的中することとなる。
それは正午の半刻程前、先程の一幕から一刻も経っていない頃だ。
「ちょっと、ユリア」
丁度ユリアが、自らが担当する廊下の水拭きをあらかた終えて、一息吐こうと中庭へ架かる橋にもたれているときだった。
「アイラ? どうしたの突然」
アルの実姉にして果ての庵の仲居筆頭でもあるアイラが、額に青筋を浮かべて廊下に仁王立ちしている。
その表情と態度から、ユリアは彼女がこの場所に来た大体の理由を察した。
「どうしたもこうしたもないわ。フェリスから聞いたわよ。一生懸命掃除に励むアーくんに厳しいことを言っていじめてるって」
「いじめって……。ただ手際の悪さとやる気のなさを叱ってるだけなんだけど」
「あんたはアルの母親か」とため息を吐きたくなるのを抑えて、ユリアは取り敢えず事実の証言から入ってみた。
これでもアイラはユリアにとって義理の姉であり家族なのだ。あまり邪険にするわけにもいかないし、しようとも思わない。
「掃除に関して、あの子の手際が悪いことくらいはよく知っていることでしょう? それを優しくフォローしてあげるのが嫁としての務めなのではない?」
そんなユリアの想いも知らず、アイラは過剰に弟を擁護する。
「生憎と、私はあの人を甘やかす気はないから。やり方を変えるつもりはないわ」
「甘やかすなんて、手取り足取り一緒にやるわけでもあるまいし、別に甘やかしだとは思わないけれど?」
「いやいや、寧ろそこまでやったら効率悪いじゃない。あなたがアルをどうフォローしてきたのかは知らないけど、私はアルだけを特別扱いするつもりはないわ」
小姑の行き過ぎな弟想いに内心呆れながらも、ユリアは彼女の言葉を受け流していく。精一杯気を遣ってのことだ。
だが、アイラの暴走は止まらなかった。
「嫁が自分の夫を特別扱いしないなんて、貴女どうかしてるんじゃないの?」
「今は仕事中なのだから、夫婦である以前に女将と板前よ」
「なんてこと! 貴女にあの子への愛はないのね」
「……そんなことないわ。もちろん愛してるわよ。誰よりもね」
思わず言わされた言葉に、ユリアの頬は朱に染まる。
ユリアの反応はヴァンやリーナ辺りに言わせれば、いつまでも新婚のようで初々しく可愛いものなのだが――。
「いいえ! 私の方が愛しています」
目の前の小姑様はまったく動じず、寧ろ返された言葉は嫁をさらに呆れさせるものだった。
「……以前から何度も言っていると思うけど、その言葉にはひくわよ、義姉さん」
心の底からのため息を、ユリアは隠す気も起らない。
「弟を愛することの何がいけないのよ。私はあの子がまだ赤ん坊の頃から、ずっとあの子を愛していたのよ。貴女が現れるまで、あの子の隣はずっと私のものだったのに……」
だが暴走中のアイラは一人、軽いヒステリーを起こして喚き続ける。
こうなっては最早、果ての庵で彼女を止めることのできる人物は二人だけだ。
彼女の夫たるトムことトーマスか、もしくは――。
「はいはい、そこまで」
「アル!?」
「アーくん!」
もしくはこの、ユリアとアイラの二人から愛される男、アルだ。
「まったく。二人はいつまでたっても仲が悪いんだから」
ようやく厨房の掃除を終えたらしいアルは、割烹着のポケットに両手を突っ込んだまま歩いて、二人の間に割って立つ。
「だってアーくん、ユリアはアーくんがお掃除苦手なのを知ってて、それでも厳しくやらせようとするのよ?」
「いや、そりゃ当然でしょ。仕事なんだから。寧ろ全く進歩しない俺を見限らないだけ、ユリアの懐は相当深いと思うんだが」
「アル……」
呆れられてもしょうがないと、自嘲気味にアルは言う。
実際、アルの清掃力の無さは百五十年もの間改善が見られない。にも拘わらず、ユリアはそんな彼に飽きることも呆れることもなく寄り添い続けてきた。そしてそれは今後も変わることはないだろう。
「でもでも、ユリアってば、仕事中は『夫婦である以前に女将と板前よ』って言うのよ? 酷いと思わない?」
形成不利と見たアイラ。彼女は、先程ユリアの言ったドライな一言を暴露して状況の改善を図った。
「まあ、普段はあんなに優しいのに、仕事中は容赦ないからなー。そのへんはちょーっと悲しいかな」
姉のあからさまな誘導に、アルは悪乗りしてみせる。
冷静に考えればただの意地悪だとわかるものだったが、ユリアは見事に引っかかってしまったようだ。見る間にしゅんとして俯いてしまう。
「ア、アル、それはほら……」
「冗談だよ。俺だって仕事なのはわかってるさ」
まさか本気にするとは思っていなかったアルは、罪悪感から僅かに苦笑いを浮かべつつ、左手を優しくユリアの頭にのせた。ユリアの頬が赤く染まる。
「アル、ごめんね」
「謝らなくていい。ユリアだって我慢してくれてるんだもんな。俺は今の生活が楽しいから、すごく幸せだよ」
「アル……」
笑顔を向け合う二人の周囲を、淡い桃色のオーラが覆った。
これが付き合いたての恋人同士の行動なら、誰もが微笑みを誘われる光景だろう。
しかし、既にパソンの一生分以上に長い時間を共に暮らしているのだ。アイラにとって、それは胸焼けしそうな甘ったるい光景以外の何物でもなかった。
ましてそこにいるのが愛する弟とその嫁であれば尚更だ。
「アーくん! ユリア! 目の前でイチャイチャしないでって言ってるでしょ!」
というわけで、あっさりとキレたアイラだったのだが――。
「それを言うくらいなら、君はどうしてここで油を売ってるのかな?」
突然背後からかけられた優しげな声に、アイラは振り向くことを余儀なくされた。
振り返ったアイラはそれまでの怒り顔から一転、驚きと動揺の色に溢れた。
「あなた!?」
そこには暴走するアイラを止めることのできるもう一人の人物、アイラの愛する夫であるトムが立っていたのだ。柔和な笑みを湛えてはいるが、細められた眼の奥には確かな苛立ちが窺えた。
「お手洗いって言って部屋から出ていったきり戻って来ないで、挙句二人の掃除の邪魔をしてたって言うなら、僕も少し怒るよ?」
「あ、ご、ごめんなさい、あなた。そんなつもりはなかったのだけど、フェリスからアーくんがユリアに厳しく言われてるって聞いてつい……」
ユリア以上に、綺麗好きな掃除魔だと言われるトム。果ての庵において、怒らせると二番目に怖い男の迫力に、アイラは引け目もあってか謝るばかりだ。
つまり、彼女も掃除を放り出して来ているのは自覚していたのだ。
「うん。君がいつも通りなのはわかったから、いい加減持ち場に戻って掃除を再開するよ」
トムは呆れ言葉の一つも吐かずに、問答無用でアイラを抱え上げて歩き出した。
彼の腕の中でアイラはジタバタともがいたが、しっかりと腹部を掴まれていて抜け出せない。
「あ、ちょっと、あなた! 自分で、自分で歩くから……。アーくん! ユリアにいじめられたら、いつでもお姉ちゃんに言うのよ!」
結局、彼女はそんな台詞と共に、客室へと続く廊下の向こうへ消えていく。
「はいはい。わかったわかった」
「アーくんっ!」
そのまま角を曲がっていく二人はすぐに見えなくなり、アイラの上げる声も聞こえなくなった。
「ハァ。姉さんはいつになったら弟離れしてくれるんだろ」
「うーん、多分無理なんじゃないかな」
残された弟とその嫁は、ため息と苦笑いを漏らした。
◇
夕方。
客人のいない日恒例の大掃除を終え、果ての庵勤めの面々は続々と大宴会場に集まり始める。
「ハァー疲れた疲れた。やっぱ、ずっと屈んでっと腰が痛くなるな」
まず最初に腰を下ろしたのは、腰を叩きながら無駄に大声を上げるドワーフ。
「ロン、オッチャン臭いよ?」
続いてちょこんと座りこんだのは、子供の様な背丈の黒髪フェアリー。
「うるせ、スズナ。お前こそ、見た目ガキのくせに疲れ切ってんじゃねえか」
「むう、あたしはれっきとした大人ですぅ! 体が小さいと余計に動かなきゃいけない分大変なのよ!」
すぐに寝転がり始めたフェアリーのスズナと髭面ドワーフのロンは、顔を合わせた途端に口喧嘩を始める。
「どうだか。最近お前よく食うからな。もしかして太ったんじゃねえの?」
「そ、そんなことあるわけないでしょ!? あたしの食事配分に間違いなんかあるはずないんだから! ……多分」
体重関連の話題は女性にはタブー。それは例え見た目が子供にしか見えないフェアリーであっても同じだ。二人はそんな話題を発端に、他の面子が揃うまでの間、言い争いを続けることになる。
と、宴会場の襖が開かれ、今度は二人の魔族が入ってきた。
「ツェシカ、お疲れ」
後ろから女性客に人気の高い、ドラルのクリフが声をかける。
「あ、お疲れ様です、クリフさん」
振り向いて応じるのは、男性客にちやほやされるハビルのツェシカ。
「大掃除には慣れた?」
「はい、ようやくコツが掴めてきた気がします」
「そっか。それは良かった。でも皆と比べて君は線が細いから、あまり無理をしてはいけないよ?」
ツェシカがこの果ての庵で本格的に働き始めて、まだ五年と少し。体力的にも熟練度的にも、彼女がこの旅館の仕事を全うできるようになるためには、もう少し時間がかかるはずだ。
「はい、心配してくださってありがとうございます。クリフさんはお優しいですね」
それを自分でも良く心得ている彼女は、クリフのかける配慮に対して遠慮することはない。彼を初め、果ての庵の従業員達を信頼しているというのがその最たる理由だが、殊クリフとヴァンに対しては絶対的な信頼を置いているのだ。
「誰にでも、というわけではないよ。一生懸命頑張ってるツェシカだから言うんだ」
クリフもまた、辛い過去を乗り越えた彼女だからこそ、これだけ気にかけているのである。
「クリフさん……」
そんな風に互いを特別に想い合っている二人は、美男美女同士というのもあって、お似合いの二人であるのは言うまでもなかった。
その後も続々と従業員が集まり、トムとアイラ、アルとユリアの二組の夫婦以外が宴会場に揃った頃、最年長のヴァンが銀髪眼鏡エルフのリーナに近づいた。
「リーナ。少し、訊きたいことがあるんだが」
「ヴァンさん? どうかしましたか?」
酒の席以外であまり接点のないヴァンの呼びかけに、リーナは少し首を傾げて応じる。
「いや、経営は順調なのかどうか気になってな」
用件はどうやら旅館の運営状況についてのようだった。この魔族の紳士は創設メンバーではないのだが、よく旅館のことを気にかけてくれている。
(もしかしたら、あの酒飲みドワーフよりもよっぽど考えてくれているのではないかしら)
リーナからしてみれば、そんな風にさえ思えるほどだった。
「ああ、そのことですか。そうですね、ここ二十年は常連のお客様も増えてきたので、業績は上向いてきています」
だがまあ、基本的には自給自足に近い生活を送っている果ての庵だ。お客の数が増えれば、それだけ儲けも多くなる。
「そうか。では、心配はなさそうだな」
「ええ。それに、私たちには個人の蓄えもありますから。よっぽどのことがなければ大丈夫ですよ」
そう。彼らは元々、お金に困るような立場ではないのだ。
かつての旅で得た莫大な財が、ほとんど手つかずで残っている。
「それを聞いて安心した。ありがとう」
ヴァンはそれだけ聞いて納得できたようで、大きく頷くとリーナの隣から歩き去った。
恐らく、葉巻でも吸いに行ったのだろう。宴会場の大窓から庭へ出ていくヴァンの姿を、リーナは微笑んで見送った。
そしてついに、大掃除でお腹を空かせた彼らにとって、待ちに待ったひとときが始まる。
「みんなお待たせ!」
「お夕食のおじかんですよー」
宴会場の引き戸を開いて入ってきたユリアとフェリスの声に、各々話に興じていた面々が座卓に寄ってくる。
「よっ、待ってました!」
「あーん、お腹空いたー」
いつまでも憎まれ口を叩きあっていたロンとスズナしかり。
「へえ。今日は鍋なのか」
「美味しそうです」
睦まじく話し込んでいたクリフとツェシカしかり。
「ふむ。それならば、今日は焼酎が良いだろうな」
丁度部屋に戻ってきたヴァンも、瞬時に食事に合う酒を見繕う。
「そう言うと思って、もう持ってきているよ」
その言葉に、丁度息子と妻を連れて入ってきたトムが答えた。
「私たちはエールで、フェリスとノアにはコーラね」
「「やった! コーラだ!」」
偶にしか飲めない魔界の甘味飲料を飲めると聞き、喜ぶ双子。
「私はワインを……」
リーナは一人、故郷の酒を取りに酒蔵へ行き、
「締めはうどんだからな。みんなたくさん食べてくれよ」
最後に入ってきた料理長アルが、全員に呼びかける。
「「当然!」」
真っ先に答えるロンとスズナ。
「さっきまでそこでのびてたのに」
苦笑いで愚痴っているのはクリフだ。
「ご飯となれば別よ」
「おう。酒だ酒だ!」
「飲み過ぎて倒れても知りませんよ?」
ワインボトルとグラスを持って戻ってきたリーナが、以前倒れるまで飲み続けたロンに言い含める。
「お前こそ、飲んで寂しくなって泣くんじゃねえぞ?」
「も、もうあんなことにはなりません!」
リーナの方も酔って泣き出した経験があるので、あまり人のことは言えない。
「こらそこ! バカみたいに騒いでるくらいなら、少しは手伝いなさい!」
そんな騒がしい面々に、ユリアが叱責を飛ばす。
それは年に十数回、月に一度ほど見られる、恒例の騒ぎだった。
「あはは。いつもながら賑やかだねぇ」
ヴァンの杯に酒を注ぎながら、トムは屈託なく笑う。
「まったくだ。もう百年以上も続けているというのに、あの頃と少しも変わらんな」
酌を受けたヴァンも、今度はトムの杯に注ぎ入れつつ微笑む。
「これも呪いのおかげですかね?」
振り返ったヴァンから酒を受け、クリフも冗談めかして言う。
三人は各々の杯に口をつけ、仕事上がりの最初の一口を頂く。そして最初に杯を空にしたヴァンが、呆れ口調で語るのだった。
「『永劫苦渋の呪い』は肉体的な成長を遅らせるだけで、精神の老衰は止められないはず。精神的な変化が見られないというのは、到底あり得ることではないのだがな」
ヴァンとツェシカを除く十人が侵されている呪い。
それは年を取らず、悠久の時の中で魂をすり減らすことになる、死を越えた呪い。
「ほんと、皆不気味なくらい前と変わらないよね」
だが、そんな呪いを受けているにも関わらず、果ての庵の従業員は依然として変わることのない賑やかな日々を送っている。誰一人、無情に流れ去る時に絶望する者はいない。
「或いはそんなお前たちだからこそ、あの死よりも辛いと言われる呪いを自ら進んで受けることが出来たのかもしれんな」
ヴァンはふっと微笑んで、注ぎ直した杯を煽った。
「そうかもしれませんね」
クリフもまた、嫁と仲良く鍋の準備をする親友の姿に微笑みを浮かべた。
男三人はそんな風に、杯片手に語らっていた。
「ヴァンにクリフにトム! お前らもさあ食え食え!」
そこへ、ロクに手伝わず一人でつまみを齧っていたロンが大声で呼びかける。どうやらサボりの共犯者が欲しいようだ。
「まあ、考えていても始まらんな。なにせ、そなたらの人生は果てしなく長いのだ。考える時間など、それこそ永劫にあろう?」
クリフとトム、二人よりも二百五十年人生の先輩であるヴァンは、そう言って不敵に微笑むと、立ち上がってロンのもとへ歩いていった。
「はい!」
「うん、そうだね」
二人の若人も、素直に頷いて立ち上がる。
「ほら、あなたも早く! お鍋始めちゃうわよー」
「ああ、今行く」
アイラが夫を呼び、トムは愛する妻のもとへ歩く。
「クリフさん。一緒に飲みませんか?」
「いいね。付き合うよ」
ツェシカに声をかけられたクリフも、彼女の隣へ腰を下ろし、互いに酌をする。
「あっ、おいロン! ネギよりもエノキが先だと何度言ったらわかる!」
と、そこでトムの叫び声が轟き、全員が注意を向けた。
「ああん? いいじゃねえかよ、順番なんて」
「ロン! それトムには禁句――」
既に大分酒が回り迂闊になったロン。アルが慌てて止めに入るが、しかし――。
「お前ら! ちょっとそこに並べ! 鍋において具材を入れる順番が如何に重要か、一から叩き込んでやる!」
時すでに遅く、しっかりと耳に入れたトムの激昂に、アルも巻き込まれることになった。
「うわ、トム……義兄さん!? それよりも鍋見てないと」
「うるさいぞ、アル!」
「はい! すいません!」
巻き込まれたアルは気の毒ながら、こうなったトムを止めようとする者は一人としておらず、スイッチの入った若旦那は嵐のように髭男と義弟に説教を始めだした。
「ハァ。始まっちゃったわね」
その様子を、ユリアはため息を吐いて眺める。
「あの人ったら、鍋と掃除にはとことん五月蠅いから……」
当人の嫁であるアイラすら、呆れた様子でユリアに同調した。
「かーっ! ああいうトムみたいなやつ、うちの故郷じゃあ『鍋奉行』って言うんだよー」
まるで何処かのドワーフのように杯の中身を呑み干したスズナが、上機嫌に呟く。
「それは何度も聞いたわよ」
夕食を鍋にする度に聞かされる台詞に、ユリアがため息を吐いた。
「フェリス、ノア。食べる前にはちゃんと挨拶をしなさいね」
「「はーい。いっただっきまーす!」」
子供たちを先に食べさせたアイラは、未だ二人の男を叱りつける夫をちらっと見て、呆れ顔で隣のユリアに向き直った。
「……私たちも、先に食べましょうか」
「そうね。それじゃあ、いただきます」
ユリアも一向に解放されないアルに見切りをつけ、先に手を合わせる。
「いただきまーす!」
一人で焼酎を煽っていたスズナも、ここぞとばかりに元気な声でそう言うと、双子と一緒になって身を乗り出し、鍋をつつき始める。
女三人と子供たちは、いつも通り平和な食事を堪能した。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう、ツェシカ。君にお酌してもらえるなんて嬉しいよ」
「そうですか? 私で良ければいつでもしますよ」
「ああ。期待させてもらうよ」
魔族の二人が誰も入り込めないような甘い雰囲気を作る中、ヴァンは一人、人界に存在する異文化諸島の味に舌鼓を打つ。
「うむ。やはりサクラ諸島の料理には焼酎が合うな」
「でしょー? 料理もお酒も、うちの故郷のが一番よー」
故郷の味を誇らしむスズナ。ヴァンはそれに、微笑んで答えた。
「一番かどうかはさておき、旨い物が多いのは間違いない」
「そうですね。私もあの地方独特の美味しいものは好きですよ」
リーナは赤い酒の注がれたグラスを傾けながら、フェアリーの料理を称えた。
が、これにはスズナも困惑顔を浮かべる。
「えっ? でもリーナが飲んでるのって、ワインよね?」
ワインはエルフの国ユミルの特産品だ。
それは異国の酒ではないか、と叫びたくなるスズナだったが――。
「ええ。しんなりした野菜に、意外と合うのよ?」
「そ、そうなんだ」
さも当然といった風に答えるリーナの笑顔に、さしものスズナも苦笑いを浮かべるしかなかった。
皆が笑顔で食事を続けている中、宴会場の隅では未だに男三人が揃って正座していた。
但し、そのうち二人は嫌々正座させられているわけだが。
「……大体、君は普段からして大雑把すぎるんだ。正しい順序を守らないから、仕事でも掃除でもなかなか効率よく進まないんだぞ」
長々と、最早鍋とは関係のない話にまで広がっているトムの説教に、ロンのイライラは募っていた。
「ちぇっ、勝手なことばかり言いやがって」
そしてついに苦言が漏れる。
「義兄さん、話はそれくらいにして、俺たちも食べないか?」
アルの方もいい加減うんざりしており、そろそろ食事にしないかと提案するのだが――。
「まだだぞ、アル。話はまだ終わってない。お前にも言い含めておきたいことは沢山あるんだからな」
義兄の怒りは未だ収まらないようだ。
「えー、いい加減腹減ったよ」
「そうだそうだ。俺だってさっきからずっと腹減ってんのによ」
「つまり、お前たちは話を聞いていなかったと、そう言いたいのか?」
「えっ!? いや、そういう意味じゃなくて……」
思わず漏れ出てしまった愚痴に、アルは慌てて口を噤むも遅い。
「さっさと酒を飲ませろって言ってんだよ!」
釣られて我慢の限界を迎えたロンが声を荒げる。
「おいロン! なんで逆撫でするようなことを!」
慌てて止めようと肩を抑えるアルだったが、キレてしまったのはドワーフだけではない。
「ほう、言うじゃないか。人の説教を聞かないうえに開き直るとはな」
「おう、上等だコラ! 説教なんぞ誰が聞くかってんだ!」
「お前には少し灸を据えてやらなければいけないようだな」
「あぁ? やれるもんならやってみろ!」
酔いが回っているというのもあってか、睨みあうトムとロンの剣幕は尋常ではない。
「ユ、ユリアー」
結果、アルは嫁であり女将であるユリアに泣きついた。
「はいはい、わかったわよ」
彼女もそろそろ騒がしい二人をどうにかしなくてはと思っていたところだったため、「しょうがないわね」というような表情を見せた後、いがみ合う二人に向け、右手をゆっくりと振り下ろした。
「貴方たち、煩いから静かにしてて」
その途端、トムとロンはまるで何かに押し潰されたかのように、畳へ押し付けられた。
「ぐぅ!」
「うおっ! くっ」
呻き声を上げ、ジタバタともがく二人だったが、ユリアの発生させた空気塊の槌に押さえつけられて抜け出せない。
「しばらくそこで頭を冷やしなさい」
ユリアはそう言って席に戻ると、何事も無かったかのように食事を続ける。その隣にはため息を吐きながらアルが座り、アイラは気の毒そうに夫を見つめるが、助けようとはしなかった。
何のことはない。いつも通り、年に数度、これまで数十回は見られた光景なのだ。
それが証拠に、まだ何度も見たことがなく戸惑うツェシカを除く九人は、特に二人を気に留めることなく和気藹々と食事を続ける。
だが、彼らはそれが薄情な光景だとも思っていない。
どうせ粗方食材が片付いたところで、アルとアイラ、そしてユリアの三人は、空腹の二人をねちねちと叱りながらもしっかりと腹を満たさせるというのを、彼らは知っているのだ。
だとすれば、今のこの状況はお仕置きなのだ。だから彼らは皆、鍋奉行とその被害者の顛末に、頭を悩ませることはない。
「ハァ、やっと食べられるよ」
「アル、その……あーん、して?」
「ユ、ユリア? ここで?」
「ダメ?」
「……よし、わかった。あーん」
寧ろ百五十年もの間、何度となく見せつけられてきたこちらの光景の方が、先程の睨み合いよりも頭の痛いことかもしれない。
ともあれ、宿泊客のいない従業員だけの夜は、賑やかに更けていくのだった。