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果ての庵へようこそ  作者: 名も無き旅人
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第3夜  傲慢なエルフ

「それではお客様、どうかごゆるりとお寛ぎください」

「ああ、ありがとう。麗しの姫君よ」


 最後にもう一度平伏して部屋を出ていく美少女に、カルマリアーラはお決まりの台詞を放った。エルフらしい整った顔には、故郷の女性を幾人も虜にしてきた笑みを浮かべている。

 少女が去り、横開きの扉が閉まったところで、カルマリアーラは改めて部屋を見回した。


(それにしても)


 狭苦しい部屋だな、と彼は思った。


(全てを木で造るというこだわりには感心しなくもないが、如何せん広さが足りん。それに、履物を脱いでいるとはいえ、床に直接座らせるというのは気に入らんな。いくらこの床が柔い藁を編んだ物だとはいえ、高貴なエルフである私を床に座らせるとはどのような了見か)


 エルフの国ユミルの有力貴族、カルマリアーラの不満はそれだけに留まらなかった。

 彼は部屋の中央に置かれた、足の短い木のテーブルに視線を落とす。上質な素材を使って作られたシックな天板には、革のカバーをかけた冊子が開いた状態で置かれており、そこには六つの項目から成る宿泊客への注意事項が書かれている。




 『旅館〝果ての庵〟条項』

一、刃物や火器など、凶器となり得るものの持ち込みは固くお断りいたします。お持ちの方は当館受付にてお預けください。ご出発の際にお返し致します。獣人、鳥人の方は、爪を布で覆うなどし、露出は避けてください。


二、お客様同士の諍いは、固くお断りいたします。喧嘩、侮辱行為などが発生した際は、当館従業員による拘束、又は即時退館をお願いすることがございます。また、極めて悪質であると判断される場合には、即刻の強制退館をさせていただきます。その際、お預けになられた物などはお持ちになれませんので、予めご了承ください。


三、緊急時には、お客様の安全のため、必ず従業員の指示に従ってください。


四、お客様の身の安全は、当館従業員が責任を以て御守りさせていただきますので、無闇な行動は慎まれますようお願い申し上げます。


五、当館で耳にした事柄はお帰り後、無闇に世間に広めないようお願い申し上げます。


六、当館は人族、魔族、どちらの方々の御来館も歓迎いたします。




 エルフとして、人族として、そして大戦の痛みを知り魔界の全てを憎むものとして、ここに書かれたことはとてもではないが受け容れ難かった。


(この宿は魔族をも宿泊させるのか。にもかかわらず剣を取り上げるとは、ここの責任者は何を考えているのだ!)


 故郷では名の知れた剣客でもあるカルマリーラは、自慢の双振りの魔剣を手元に置いておけないことにも憤慨していた。どちらもサウマンダ大陸で暮らす負け犬の魔族から取り上げたものだ。奴らにとっては一族の宝だとか語っていたモノだけに、なかなかの一品である。


(マナの供給源だとかなんとか抜かしていたが、この私が知ったことではないな)


 最後に斬り捨てた魔族の老婆が語ったセリフを思い出しながらも、カルマリアーラは取るに足らないことだと意識の外へ追いやる。あのような人界へ逃げ込んできた魔族など、どうなろうと自分には関係ないとでも言わんばかりに。




 その後、時間を持て余した彼は、中庭の石に腰かけていた。窓の向こうには、深々と雪の降り続く庭先が見渡せる。

 幻想的な景観となっている庭や、屋内であるにも関わらず美しく整えられた中庭。それらを眺めながら、木々の放つ清涼なマナを浴びる。人界で最もマナに深く関わるエルフにとって、それは至福の時だ。


(なかなか心地の良いマナを放つ樹ではないか。屋敷の造りにしろ中庭にしろ、樹木の扱い方だけは褒めて遣ろう)


 眼を閉じてマナを浴びていた彼は、ふと廊下を一人の女性が歩いていることに気が付いて眼を開けた。

 初めに部屋を案内した同族の少女と同じ、見たこともない衣装を纏い、美しい銀の髪を腰元まで伸ばしている。そして理知的な眼鏡をかけた顔は、かつて生まれ育った森の国で目にしたことのあるものだった。

 瞬間、彼の頭に電撃が走る。廊下を歩く女性の姿を見たことで、頭の中の古い記憶が蘇って輝いたかのように。

 カルマリアーラは即座に立ち上がり、廊下を歩く女性に声をかけた。


「失礼、其処を行く美しい御婦人よ」


 腰かけていた石から跳びあがり、軽々と女性の前へ着地した彼は、恭しく腰を折る。


「えっと、私のことでしょうか?」


 銀髪エルフの仲居はそんな彼の所業に軽く引きながらも、すぐに居住まいを正して笑みを作る。そんな彼女の心内など露知らず、カルマリアーラは腰を折ったままで顔だけを上げ、如何にも紳士的な笑みを浮かべた。


「貴女以上に美しい御婦人はなかなかおりませんよ」

「あら、お上手ですのね。ありがとうございます。それで、何かご用でしょうか?」


 見え透いた社交辞令ではあったが、彼女の機嫌を取ることには成功したようだ。


「ええ、少しお時間を頂いてもよろしいですかな?」


 背筋を伸ばし、右手を胸に当て、あまりにらしい恰好で訊ねる。


「そうですね、仕事の続きがありますので、長くなければ」


 仲居は少し考える素振りを見せた後、彼の読み通り首肯した。ここまで丁寧な態度で機嫌を取り続けたのは、単にこの首肯を得るためだ。


「すぐに済みますとも。貴女を長く拘束は致しませんよ」


 内心でほくそ笑みながら、あくまで紳士的に接する。


「そうですか。でしたら、お相手を務めさせていただきます」


 計画通り、彼女はカルマリアーラに笑顔を向けてきた。


(女なぞ、煽ててやれば軽く操れるものだ)


「ありがとう。私の用というのは一つだけ。貴女への質問ですよ」


 外と内で全く別の表情をしながら、彼は穏やかに語る。


「質問ですか? ええ、私にお答えできることでしたら」

「というよりは、貴女にしか答えられないでしょうな」

「……どういうことでしょうか?」


(そろそろいいか)


 内心を取り繕うのもいい加減飽きてきたので、ここが頃合いとばかりに本題へ入る。


「いえなに、私は貴女に、ユミルでお会いしたことがあるのですよ」

「えっと、申し訳ございません。私にはお客様にお会いした覚えがないのですが……」

「ふむ。でしょうな。私は王女殿下の成人のお披露目の場で、殿下の傍付きとして傍らに立つ貴女を見たのですから」

「っ!?」


 当時ユリアーナ王女はヴェールを被っていたために、その顔を見ることができなかった。そのため、部屋へ案内された時には気付けなかったのだが――。


「ふむ。貴女のその驚きようと身構えた様子を見る限り、やはりあの少女がユリアーナ王女殿下のようですな。大戦の最中行方不明になられた王女殿下が、まさか生きてこのような場所に居られたとは」


 まさか侍女のお蔭で気付けるとは思いもしなかった。


「しかも殿下自身が宿屋の主人をなさっておられるとは、驚きを隠せませんな」


 カルマリアーラは自身の幸運に笑みを隠しきれない。


「それを知ってどうなさるおつもりですか?」


 一方、女将の正体を知られてしまった仲居のエルフは、不安げな表情で訊ねる。


「ふふふ。もちろん、殿下をユミルへ連れ帰り、私の妻となって頂くのですよ。こう見えて私は、ユミルの上級貴族の一人なのでね」


 これ以上ないくらいの愉悦に浸りながら、カルマリアーラは人の悪い笑みを浮かべる。


「ふふ、そうですか。それは大変でございますね」


 しかし、自信満々に言い放った彼の言葉に、彼女は寧ろ安心したように微笑みを浮かべた。

 予想とは違う元侍女の笑みに、一転して不愉快な感覚を抱くカルマリアーラ。先程までの勝ち誇った笑みは消え、その表情はむっとしたものに変わる。


(何故だ。私の手によって殿下が連れ帰られるとは思わないのか?)


「恐れないのか?」


 不満げに口元を歪めて、彼はそれだけを問う。

 だが、そんな悔しげな問いへの答えは、想像以上の衝撃を与えられるものだった。


「ええ、ユリアがお客様に御せるとは思えないのと、あの娘には既に姓がございますので」

「なんだと!? ユリアーナ様に姓が?」


 エルフにとって姓は婚姻の印でもある。生涯の伴侶と結ばれるまでは姓を得ることはできない。故に「姓がある」ということは、その者が既に婚姻を結んでいる、ということになるのだ。


「何処の者だ、それは!」


 なればこそ、かねてより第三王位継承者の少女を狙っていたカルマリアーラは、先を越されていたことに腹を立てているのだ。


「ふふ。その問いにはお答えできません。ですが、ご覧になればすぐに判ると思いますよ?」

「な、んだと」


 ほくそ笑んだ仲居を、怒りで顔を真っ赤にしたカルマリアーラが睨みつける。

 生半可な武人は勿論、母国の権力者も青い顔で逃が去りそうな眼力にも、目の前の元侍女はまったく怯んだ様子はなく、わざとらしくハッとした顔を作った。


「あっ、申し訳ございませんお客様。そろそろ仕事に戻りませんと。それでは、私はこれで失礼致します」

「ま、待て!」


 カルマリアーラの静止も空しく、彼女は先程までと同じ調子で、廊下を歩き去った。角を曲がる際、カルマリアーラをチラリと見ることすらなかった。


「くそっ! ユリアーナ様には既に伴侶がいるだと? 何処の誰だ、そいつは!」


 激情収まらぬ彼は、右手を廊下の手すりに叩きつけ、やり場のない怒りを吐き出す。

 故郷の森で、初めてのお披露目の場で、第三王位継承者であり、絶世の美少女と噂されるユリアーナ王女の姿を遠目から見たときから抱いていた野望が、脆くも崩れ去った瞬間だった。


 だが、しかし――。

 百五十年もの長い間行方不明とされてきた麗しの君。カルマリアーラは、偶然この地で見つけた王女を、自身の更なる栄光への欠片を、みすみす見逃すつもりはなかった。


「許せん。殿下は必ず、ユミルへ連れ帰ってみせるぞ!」


 そう呟く男の横顔は、故国で人気の的だった相貌がかくも醜くなるものなのかと絶望できる程に崩れていたそうだ。実際に絶望するような者は、この最果ての宿にはいなかったが。







 その日の夜、カルマリアーラは早くも動くことにした。

 というのも、これから魔界へ入ろうとする彼へ魔界の真実を語るとか何とかで、夕食時ユリアーナが直々に彼の客間を訪れるそうなのだ。


(最初にして最大の好機だな。この機を逃すことなく殿下の身柄を手中に収め、ユミルへ連れ帰る)


 カルマリアーラは王女を結界魔術で捕えることに決めた。


 手筈はこうだ。

 まず王女が彼の部屋を訪れる前に、体と意識の自由を奪う『縛鎖の方陣』を仕掛けておく。その上に〝ザブトン〟とかいう妙な敷物を敷き、結界を隠す。そしてユリアーナ王女を結界の上に導き、話とやらが佳境に入って油断したところで結界を発動。王女殿下を捕えるのだ。

 後は殿下の身の安全を盾に、ユミルまで帰還すればいい。単純だが、実に効果的な計画だと言えるだろう。


(既に殿下には姓があるというが、まあそんなことは関係ない。ユミルに連れ帰りさえすればこちらのものだ)


 現在は日暮れを迎えた夕刻。指定された食事の時間までは、まだもう少しある。

 カルマリアーラは脱出経路の確認と宿に滞在している他の客や従業員の戦力分析のため、宿内をくまなく歩き回っていた。

 ふと、彼は歩いていた廊下の壁の向こう、宴会場だとかいう部屋の中から、賑やかな笑い声が聴こえてきているのに気が付いた。廊下の先には、この部屋の入り口と思しき扉があり、その隙間から漏れ出た光が廊下へ伸びている。

 フンッと息を吐いて、カルマリアーラはその扉の前を通り抜ける。つもりだった。


「……グランドール閣下、再び御姿を拝見でき、光栄の極みにございます」

「そうやって呼んでくれるな。私は既に退役した身だ」

「いえ、閣下は我ら魔族にとって永遠の誇りでございます」


(魔族だとっ!?)


 しかし、丁度中から漏れ聞こえた声に、足を止めてしまう。

 カルマリアーラは、彼が最も忌み嫌う類の単語を聞いて足を止め、隙間から部屋の中を覗き見てみた。傍から見た彼の拳は強く握り込まれ、眼は殺気だっているのがありありとわかるが、本人は気配が駄々漏れなことに全く気が付いていない。

 部屋の中では合計六人の魔族が品の無い笑いを発していた。世間ではリガルと呼ばれる、“半獣”の一族のようで、男が一匹と女が一匹、それに子供らしき小さな半獣が二匹と壮年の男がもう一匹。そして、最後の一人も壮年ではあるが、こちらは額に黒い菱形模様を持ったドラル、すなわち“蛮人”のようだ。この男だけはこの宿特有の着物を着ているので、宿の従業員だと思われる。


(ふんっ、下等種族が。一丁前に文明人を気取っているんじゃない!)


 部屋の中を一瞥して見たカルマリアーラは内心で吐き捨てると、扉から離れてまた廊下を歩き始めた。

 手元に双振りの剣があれば皆殺しにしてやるところだが、生憎現在の彼の手元にそれは無い。半獣はともかく、蛮人を武器無しで相手取るのは、いくら優秀な自分であっても荷が重いだろう。カルマリアーラは、憎らしい魔族を今すぐに斬り捨てたいという衝動に駆られながらも、自分は理性と分別のある賢明な男だと抑え、先程までと同様に館内を見回っていった。




 それから約一刻後。

 自室で準備を終えたカルマリアーラのもとに、王女が食事を運んでやって来た。


「失礼致します。お食事をお持ちいたしました」


 扉をノックして入ってきた王女は、慎ましやかに食事の用意を始める。


(あの侍女殿から私の話は聞いているだろうに)


「これはこれは。誠、ありがとうございます。殿下に直接お世話頂けるなどと、夢にも思いませんでしたぞ」


 澄ました笑顔の王女殿下の腹を読みながら、カルマリアーラはすっと立ち上がって恭しく頭を下げる。その中には本心も、ほんの二割くらいは含まれているだろうか。

 とはいえ、彼の表情は内心を悟らせない仮面となってユリアーナへ敬意の色を向けている。彼女がカルマリアーラの本心を推し量ることは不可能だろう。事実、彼女は彼にいつも通りのスマイルを返さざるを得なかった。


「お客様、それは最早昔のことです。今の私は一旅館の女将に過ぎません。お気になさらないでください」

「そうは申されますが、私にとって殿下は、いつまでも変わらぬ麗しの君なのですよ」


 ここにあの侍女殿がいたならば、その大根役者ぶりに腹を立てていたかもしれない。


「あら、お客様はお上手ですのね」


 だが、ユリアーナ王女は本気で嬉しそうな笑顔を浮かべて笑った。


(殿下は私を疑っておらぬのか?)


 そんな疑問さえ抱く程に自然な笑顔だったのだ。

 そうして彼が微かに眉を顰めているところへ、ユリアーナはこの日彼の下へやってきた本題を持ち出してくる。


「本日は、お客様に魔界のお話をさせて頂こうと思っております。ご都合はよろしいでしょうか?」


 その問いかけに、カルマリアーラは元の仮面をかぶり直して答える。


「ええ、もちろんですよ。私はこれより魔界へ赴こうとする身ですので、殿下の御話をお聞かせ頂けるのは非常にありがたい次第でございます」

「あまり期待をされても困ってしまうのですが、謹んでお話しさせていただきます」


 見る者が見れば彼の表情が作り物に戻ったことは明らかなのだが、ユリアーナ王女はそのことに気付いてか否か、眼を閉じ顔を伏せ、口元に笑みを浮かべながら語り始めた。


 四半刻程で話は終わり王女は深く息を吐いた。


 ユリアーナの話は、確かに興味をそそられるものではあった。

 魔界生まれの生物にとって、マナは生存に必要不可欠な要素であり、人界において彼らはマナを得るために人族や家畜を襲うのだと語られた。


「なるほど、魔族や魔物の事情は大いに理解できました」


 確かに、彼女の話が全て真実であれば、これまで解明されていなかった魔族や魔物による襲撃の理由が明らかになったと言えるだろう。故郷の森で聞かされた魔物の生態が、根も葉もないデタラメだというのも解る。魔族が人界の覇権を狙っているなどという噂も、敵愾心を煽るだけのものであると判断できる。


「ご理解いただけて何よりでございます」

「ですが」


 だが、敢えて言おう。


「だからどうだというのですか?」


 カルマリアーラは笑みすら浮かべながらそう言った。


「………?」


 ユリアーナ王女は愛想の笑みを口元に残しながらも、きょとんとして彼の言ったことを理解できずにいる。


「“半獣”や“烏合の衆”、それに“蛮人”の理屈を知ったところで、奴らが力も知能も低い下等種族であるのは変わりないでしょう。魔物が醜悪な獣であるのは変わりないでしょう」


 だからこそ、かつての大戦で魔界は敗れ、人界が勝利したのだ。そして人界の勝利とは、我々エルフの力あってのものだということは言うまでもない。


「………」


 ユリアーナの顔から笑みが消える。


「奴らは我らよりも下等であるが故に我らに敗れた。であるならば、我らには奴らを支配する権利があるはずでしょう。奴らを隷属させる権利があるはずでしょう」

「………」


 未だ無言で無表情ではあるが、彼女の瞳に確かな怒りの炎が灯るのが判った。


「王女殿下の仰る通り、なるほど、魔界とは危険な地で、魔物や魔族とは単なる邪悪ではなさそうですな。ですが、私は魔界へ赴くのを止めはしませんよ」


 カルマリアーラは不敵に微笑んで見せ、立ち上がって王女を見下ろす。


「私が魔界へ赴き、奴らを葬って回ろうとする理由は、奴らが憎いからではありません。奴らが私よりも下等な存在だからです。力ある強き者として、力なき弱きものを喰らいに参るのです。貴女が初めに仰ったとおり、弱肉強食の世界の摂理を務めに参るのです」


 王女に背を向けて足を踏み出し、狭い部屋の中で彼女と距離を取る。


「そしてそれは今も同じ」


 カルマリアーラは足を止め、ゆっくりと振り返って『計画通りの位置にいる』王女へにこやかに笑いかけた。


「王女殿下は私のものとなるのですよ」


 言葉と共にカルマリアーラは彼女へ、正確には彼女の体の下にある結界方陣へと手をかざし、結界魔術発動のカギとなるマナを照射した。

 ユリアーナの視線が突如厳しいものへと変わり、即座に立ち上がろうと藁網の床に手をつく。だが結界の効力が発揮されるのは早く、体の下から伸びた光の鎖が王女の体に巻きついていき、彼女は床に手をついた姿勢のまま体を縛られ動けなくなった。


「あぅ!」


 同時に、ユリアーナの体に激痛が走り、痛みに耐えかねた彼女は意識を失う。

 ――はずだったのだが。


「ふぅ」

「なっ!? なぜ、意識を失わない!」


 彼女は光の鎖に縛りつけられて尚、強い意思の籠った瞳をカルマリアーラに向けていた。


(馬鹿なっ! 『縛鎖の方陣』は最高位の捕縛結界。抗うことは不可能なはず)


 今も激痛が彼女の意識を奪おうと暴れているはずだ。にもかかわらず、ユリアーナ王女は平然と息を整え、睨みつけるでもなくカルマリアーラを見つめてくる。


「お客様、これはどういうことでしょうか? 私を想われての行動にしては、些か乱暴すぎるように思われますが?」

「くっ……」

「お答えいただけないのなら、お付き合いするのはここまでということでよろしいですね?」


 そう言って僅かに微笑むと、彼女は一言小さな声で何かを呟いた。すると、どういうわけか王女を縛っていた鎖が緩み、段々と解けていく。そして完全に呪縛から解き放たれた彼女は、光を放つ鎖を右手の指二本で叩いた。瞬間、鎖は跡形もなく消え、彼女の足下の方陣もすーっと消えていった。


「お客様、この度の狼藉は御手付きとさせていただきます。もし、もう一度当旅館の不利益になるような狼藉を働かれた場合、お客様には強制的に退館して頂きますので、予めご承知ください」

「な、んだとっ」


 彼女の言葉に、カルマリアーラは拍子抜けを喰らったような気分だった。『縛鎖の方陣』を破られた時点で、彼は何かしらの報復を受けると思っていたのだ。


「それでは、私はこれにて失礼させていただきます。今後も当館でのひとときをお楽しみくださいませ」


 そのため、一度目は御手付きだという理由で見逃そうとする彼女の意図が読めず、戸惑いの色を浮かべてしまう。

 ユリアーナはあっさりと一礼して部屋の扉に近付くと、不意に何かに気が付いたように振り向いた。


「それとお一つだけ、お客様にご忠告がございます」


 彼女はいつもの笑顔に戻って、愕然とするカルマリアーラに穏やかな声をかける。


「忠告、だと?」


 ショックを受けて呆然としていたカルマリアーラは、忠告という、『立場が上の者が使う言葉を向けられた』ということに気が付いていない。


「はい。お客様のお使いになられた『縛鎖の方陣』、これは大変強力な捕縛結界でございますが、対象者のマナの制御力が術者を上回っている場合は、十分な効果が期待できません」


 王女はエルフの長の娘として、その深い知識を披露する。


「なっ!」


 それはユミルの上級貴族であり、大戦時に多大な戦果を上げたカルマリアーラも知りえないものだった。そもそも『縛鎖の方陣』が捕縛した本人に破られる可能性など、考えもしなかった。

 そして、彼女はカルマリアーラへの更なる忠告を重ねる。


「お客様のお力ですと、魔界に住まう魔族や魔物には効果が得られないと思われます。くれぐれもご注意くださいませ」


 苦笑いで、子供に教え聞かせるかのような口調で放たれた言葉は、カルマリアーラを一瞬で激昂させる。


「私が弱いとでも言うのか!」

「少なくともマナの制御力に関しては、ですが。それでは、私はこれで失礼致します」


 怒り狂った彼の叫びなど何処吹く風とばかりに、ユリアーナ王女は彼に背を向ける。


「ま、待て!」


 そして、怒りのままに呼び止める彼の声を聞くことなく、彼女は部屋を後にした。

 残されたカルマリアーラは沸々と湧いてくる怒りを抱えながらも、自らの計略が完全に失敗したことに衝撃を受け、動くことができなかった。







「私が弱いだと? 下等種族よりも劣っているだと? ふざけるなっ!」


 怒りと困惑のままに食事を終え、ユリアーナ王女ではない給仕の者が膳を下げていった後、カルマリアーラは中庭に架かる橋の上で手すりにもたれ、王女に言い含められた言葉を反芻していた。何度思い返しても彼女の言葉には怒りの感情しか湧いてこないが、仕掛けていた結界をいとも簡単に破られた事実が、彼に言い知れぬ敗北感を与えているのも確かだった。


「このままでは終われぬ。このままでは、絶対に済まさぬぞ!」


 唇を固く噛みしめて、カルマリアーラは雪辱を誓う。それが誰に対しての、どのような雪辱であるのかはカルマリアーラ本人もまだ考えてはいなかったが。

 ふと、そこへある一団が通りかかる。


「いやぁ、実に美味い食事だった」

「故郷どころか、首都でも食べられない程美味かったな。さすがは閣下のお勤めされる宿だ」


 上機嫌にそんなことを話しながら廊下を歩いていたのは、夕方目にした半獣の一行であった。頭の上の獣の耳はだらしなく垂れ下がっており、緊張などまるで感じていないようだ。両の手には揃いの革製の手袋をはめ、狼の半獣特有の鋭い爪を隠している。どうやらこの連中はこの宿の注意事項を順守しているらしい。


(半獣風情がっ)


 元々この人界の地に立つ彼ら魔族へあまり良い感情を持っていなかったカルマリアーラではあるが、無闇に騒ぎを起こそうとは考えていなかったはずだ。

 しかし今現在の彼は、よく言えば虫の居所が悪かった。端的に言えば、イライラが抑えきれない域にまで達していたのだ。

 そのため、見ず知らずの相手、例えそれが仇敵の魔族であったとしても向け得ないような憎しみと怒りに満ちた視線を、カルマリアーラは何も知らぬ彼ら狼人達へ向ける。


 ゆっくりと、何気ない足取りで中庭の橋から彼らの歩く廊下へ移動していき、横を向いて仲間と語り合いながら歩く先頭の少年の前で立ち止まった。


「あっと、すみません……」


 不意に目の前に現れた男とぶつかりそうになり、慌てて足を止める魔族の少年。だが目の前で俯き、両腕をだらんと下げた長耳の男を見て表情を曇らせた。


「あの、大丈夫ですか?」


 一言も口を利かず、黙ったまま俯くカルマリアーラに不安を感じたのだろう。狼人族の少年はカルマリアーラの肩に手を伸ばしかけ、突如膨れ上がった殺気に伸ばしかけた手を即座に引いた。


「きゃああ!」


 少年の隣で彼と話をしていた狼人少女の悲鳴が響く。

 殺気を感じた少年が隣の少女を抱いて飛び退った直後、寸前まで彼らの首があった場所を一振りの小剣が薙いでいたのだ。


「半獣風情がっ! 高貴な私の一閃を躱すなどと、生意気だぞ!」


 カルマリアーラは唯一隠し持っていた小剣を構える。不意を突いた一撃を回避され、怒りのあまり理不尽な言葉を発していたのだが、最早彼自身、自分が何を言っているのか理解していない。


「なっ、あんた何を言って――」

「うるさい! 黙れ!」

「くっ……」

「貴様らの様な下等種族は、私に斬られておけばよいのだ!」


 魔族の少年も、目の前のエルフが訳のわからない理屈を並べていることに戸惑うが、カルマリアーラのあまりの剣幕に口を噤むほかない。


 そんなとき、間合いをとって睨み合う両者のもとへ、新たな人影が参入してきた。


「何の騒ぎですか?」


 およそ暦を一回りしたくらいの男の子が、果ての庵の着物に身を包んだ姿で駆け寄ってくる。走り寄る彼の姿を見た魔族の少年は、こめかみに汗を流して叫んだ。


「ノア君、駄目だ! 君は来ちゃいけない!」

「お客様!? これは一体……」


 男の子の方も、刃物を手にするエルフに目を見張っている。


「ふんっ! 決まっておる。高貴なエルフの上級貴族であるこの私が、目の前の薄汚い半獣共を退治してくれようと言うのだ。貴様ら宿の者たちも、私に感謝するのだな!」


 怒りに我を失っているカルマリアーラは、驚いた表情の男子に、そして目前で身構える少年に、誇らしげに言い放った。それが当然で、誰もに認められる行動だと言わんばかりに。

 だがノアと呼ばれた男の子の眼は、段々と据わっていった。そして見た目の割に不自然なほど落ち着き払った口調で語りだす。


「失礼ですがお客様、果ての庵の条項は知っていますか?」

「条項、ねぇ」


 カルマリアーラは薄ら笑いを浮かべた。


「お客様同士の喧嘩はいけないと、書いてあると思いますけど?」

「あぁ、確かにそんなことが書いてあった様な気もするかもしれんな」


 彼の馬鹿にしたような口調に、ノアは顔を顰める。


「ムッ。それならこんなことは止めてください」

「ふんっ。エルフの私が、魔族を殺そうとすることの何がいけないのだ?」


 荒く鼻を鳴らして嘯くカルマリアーラに、


「ルールは守らなきゃいけないって知らないんですか?」


 子供らしい純真な理論をぶつけてくるノア。


「大人には、ルールを守らなくてもいい時があるのだよ、少年」

「駄目ですよ!」


 一方、怒りが一回りして寧ろ落ち着き始めたカルマリアーラは、あからさまに見下したセリフと視線でノアをあしらう。


「はぁ、やはり子供にはわからんか。だがまあいい。少年はそこで大人しく見ていたまえ。君はどうやらパソンのようだから、邪魔をしないのであれば見逃してやろう」

「やらせませんよ! お客様を傷付けさせるわけにはいきません!」


 再び刃を魔族へ向けたカルマリアーラ。それを見たノアは間に割って入り、両手を広げて庇うような姿勢を取った。


「ノア君、いけない、逃げなさい!」


 彼の後ろからは魔族の少年が悲鳴を上げるが、自らの前に立った者をカルマリアーラは見逃すつもりなど毛頭ない。


「邪魔をしなければと言ったが?」


 ため息と共に一瞬で間合いを詰め、凶刃を男の子の首筋に振り下ろす。一片の慈悲も無い、大人げないとも思える一撃だ。だが――。


「なっ!?」


 いつの間にか懐に潜り込んでいたノアの手によって、カルマリアーラの腕は止められていた。彼はニッと笑みを浮かべ、掴んだカルマリアーラの腕を強烈な力で握りしめる。


「お兄さん、案外遅いんだね。これじゃあフェリスの方が強いや」


 どうにか掴まれた腕を振り払おうとするカルマリアーラだったが、痛みを感じる直前の絶妙な力加減で掴まれた腕は全く解けそうもない。


「くっ、こんな子供に……ぐわぁ!」


 そうこうしている内に、腕を振り解こうとすることに意識を取られたカルマリアーラは、遥かに体つきの小さい子供に背負い込まれ、木の床に叩きつけられてしまった。

 衝撃で息が詰まり、体から力が抜け、手から小剣が離れる。


「ぐっ……私を誰だと思っている! この宿屋の客だぞ!」


 倒れたカルマリアーラを、全身を使って抑える男の子を、彼は今更な言葉で糾弾した。


「確かに、お客様にこんなことするのは気が引けるけど、先にルールを破ったのはお兄さんだからね。ユリアお姉ちゃんが来るまで、大人しくしていてもらうよ……って、もう来たかな?」


 しかし、喚くカルマリアーラを余所に落ち着いた調子で話していたノアは、自身の背後から急ぎ足の足音が響いてくるのを聞くと微笑みを浮かべた。


「ノア、何の騒ぎですか?」

「王女殿下……」


 駆け寄ってきた人物を見て、カルマリアーラは苦々しげな声を漏らす。


「カルマリアーラさん? これはどういうことですか?」

「くっ」


 鋭い視線を向けられて気圧された彼に代わり、ユリアーナの問いに答えたのは少年二人だった。


「あのね、このお兄さんがこっちのビリジアンさん達を襲おうとしてたんだ。そこの剣で」

「危ないところを、ノア君に助けていただきました。ノア君、君はとても強いんだね。助かったよ、ありがとう」

「へへっ! いつも兄ちゃんに稽古してもらってるからね」

「なるほど、そういうことでしたか。ビリジアンさん、お怪我がなくて何よりです」


 事の経緯を聞いたユリアーナは、魔族の少年へ深く一礼する。


「………」


 何とか自分を抑えつける子供を退かそうとするも全く動かず、為す術も無くその光景を眺めていたカルマリアーラ。そんな彼へ、ユリアーナはこの日最も厳しい視線を向ける。


「さて、カルマリアーラさん。私は先程言いましたよね? 一度目なら御手付きですので見逃しますが二度目はないですよ、と。どうやら御理解頂けなかったようで残念です」


 目を伏せた彼女に訝しげな視線を向け、彼は訊ねる。


「何をするつもりだ?」

「貴方には強制退館して頂きます。具体的には、これから貴方を転送魔術で人界のどこかへ飛ばすことになりますね」

「な、に!?」


 そうして帰ってきた回答は、予想していたものとは違ったが、罰の程度としては充分重いものだった。


「ふざけるな! 誰の許しを得てそんな……」


 思わず王女を睨みつけるカルマリアーラだが、彼女は全く怯む様子はなく、寧ろ微笑みさえ浮かべて応える。


「ですから、予めご承知下さいと言いましたでしょう? まさかこの期に及んで聞いていなかったなんて仰いませんよね? 貴方は高貴なエルフだそうですから」


 そんな嫌味を笑いながら呟いたところで、ユリアーナは一歩二歩とカルマリアーラから離れた。そして彼を抑えつけている子供に目を向け、女将として命じる。


「ノア、カルマリアーラさんをそのまま抑えていなさい。すぐに済みますから」

「はーい」


 ノアはまるで簡単なことのように返事を返すが、カルマリアーラを抑える力はとても子供のものとは思えない。


「お、おい、止めろ! 私を誰だと思っている! 私は栄誉あるエルフの公国ユミルの上級貴族にして、双剣の……」


 ユリアーナが転送魔術の詠唱を初め、対象者である自分の周囲にマナが集まってくる。集約されたマナは次第に彼の体を包み、視界を白く染め上げていく。


「それではこれでお別れです、カルマリアーラさん。無事にユミルへ帰れるといいですね」


 呪文の最後の句と共に、可憐と言う言葉がぴったりの笑みを向けたユリアーナ王女が、一方的に別れの言葉を述べてくる。


「ま、待て、やめろ!」


 無駄な抵抗と知りつつも、最後まで懇願するようなことはなく、カルマリアーラの視界は完全な白に染まった。




 直後、一瞬の浮遊感の後、彼は地面に叩きつけられ、転送が終わる。




 痛む背中をなんとか動かし、体を起こして辺りを見回したカルマリアーラの視界に飛び込んできたのは、荒野の真ん中の集落だった。


 いつか、彼が双振りの愛剣を手に入れた、サウマンダ大陸のあの(・・)集落だった。



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