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果ての庵へようこそ  作者: 名も無き旅人
2/9

第1夜  最果ての宿屋

 白く牡丹のように丸い雪が、周囲の音を吸い込んで舞い落ちる。

 足音や獣の鳴き声、息遣いや溜息まで――。あらゆる音が降りしきる雪に食われ、そこはまさに静寂の世界だった。

 月の光を通さぬ厚い雲。立ち並ぶ木々は揃いの白化粧を身に纏い、吹き抜ける風は身を斬るように冷たく、まるで研ぎ卸しの刃のようだ。おおよそ、ヒトが住めるような土地ではない。

 ノードラス大陸の古森、ヘイムダールは、まさにそのような地であった。


 彼は、そんな人外の地を歩いていた。


 彼は深い森の中で迷っていた。

 東のイータル大陸にあるパラディル聖王国を故郷とし、彼の国で騎士団の部隊長を務めていた。王国で十人しかいない聖騎士として、聖王都を襲った魔物の行方を追い、部下を率いてこの地にやって来たのだ。

 だが、見通しの効かない森と方角を狂わす磁気の乱れが彼らの足を惑わせている。


 彼は長い旅の所為で疲れていた。

 聖王都を出て早半年。

 国の港から西のサウマンダ大陸に渡るのに一月かけ、荒野と高原を二月歩き通し、やっとの思いで北の港へ辿り着いたのが三カ月ほど前だ。再度海を渡ってこのノードラス大陸に到達してからも、情報収集に一月、峡谷を越えて森に入るのに一月、そして森を彷徨ってさらにもう一月ほど経つ。

 これほど過酷な遠征は、ただの一度も経験したことがない。

 長旅の中、十人いた部下の騎士は半数まで減り、残った五人の騎士たちの士気も低い。

 彼自身、最早目的など忘れかけるほど疲弊していた。


 彼は温かいひとときを欲していた。

 ノードラスの港町を出てからというもの、保存用のパンや干し肉を少しずつ齧る毎日。温かい食事はおろか、空腹を感じない日は一日もなかった。繰り出す足は重く、ぼさぼさになった髪は鬱陶しいことこの上ない。

 油の滴る肉が食べたい。体の芯まで温まるスープが飲みたい。

 全身に水を浴びてすっきりしたい。熱い湯に浸かって疲れをとりたい。

 生き残った部下たちに、長旅の疲れを癒す時間を与えてやりたい。

 彼と彼の部下たちは疲労困憊な体に鞭打って、先の見えない森の中を歩き続けていた。

 と、突然部隊で最年少の騎士が興奮気味な声を上げた。


「ロランド隊長! たった今、灯りのようなものが!」

「なに、どこだ?」


 全員が立ち止まり、若い騎士のもとに集まってくる。

 彼は一瞬見えた光の方向に、自分の持っている松明を向けた。


「あちらの方です」

「よし、全員でそちらに向かう。ルフレ、君が先行するんだ」


 ロランドは光を目にした騎士本人を先頭に指名して、雪の中を歩き始めた。

 くるぶしまで雪に埋まりながら、彼は若い騎士の後に付いて歩いていく。

 相変わらず振り続ける雪の所為で、暗闇に覆われた森は不気味なほどの静けさに包まれている。自分たちの息遣いだけが耳に届き、掲げる松明の明かりのみが視界の頼りとなった。

 ふと、暗がりの間に小さな灯りが揺れるのを、ロランドは確かに目にした。

 距離はそれほど離れてはおらず、おそらく先程ルフレが目撃したものだろう。後方を歩く騎士たちも灯りが目に入ったのか、思わず安堵の息を漏らしている。

 雪深い森の中で自然に炎が上がることはない。だとすれば、炎がある場所には人がいるのだということになる。

 このような人外の土地にいるのが何者なのか――。

 それだけが気にはなったが、ロランドはルフレを止めることなく歩かせ続けた。


 やがて、遠目に見えた灯りの正体が姿を現す。


 明らかに人の手によって造られたのが判る木造の門。その向こうには、仄かに灯りが漏れ出る見たことのない建築様式の屋敷。

 森の真ん中に突如として現れたこの屋敷は一体何なのか。

 騎士たちの警戒が高まり、それは門の脇に立てられた看板を見ることで更に膨れ上がった。


「宿屋、だと?」

「こんなノードラスの古森の真ん中で?」

「本当に宿屋なのか?」

「まさか、魔族の罠か?」

「だがもし、本当に宿なのだとしたら……」


 口々に疑問や訝しみの声を上げる騎士たちの後ろで、ロランドは銀の籠手をはめた腕を組んで、門を潜るか否かを思案していた。

 部下たちの言うように、この屋敷が宿屋を騙った魔族の罠である可能性もある。だがもし仮にここが真に宿で自分たちに一宿の場を与えてくれるのであれば、それは願ってもない幸運だ。

 果たしてどうするべきか――。


「隊長、少しよろしいですか?」


 ロランドが思案に暮れていると、彼の副官を務めるティトスが近づいてきた。閉じていた目を開き、首肯して話を促す。


「では僭越ながら。私はあの屋敷を訪ねてみるべきだと考えます」

「ふむ。その判断の根拠は?」


 ロランドは部下の進言を無下にすることなく、そう考えるに至った論拠を求めた。

 『何処の誰にでも、変わらず公平公正であれ』というのが彼の信条だ。


「はい。あの屋敷が何者かの罠であるかもしれないという疑いは、どれだけ熟考したとしても晴れることはありません」


 ロランドは黙って頷く。


「ですが、我々の体力も限界に近い。それを確かめるだけの時間が残されているとは思えません。本国へ朗報を持って帰還するためには、危険を冒してでもあの屋敷を訪れ、真に宿である可能性に賭けるべきであると考えます」

「なるほど、話は分かった。確かに我らの体力は限界に近い。このままでは聖王様から与えられた任務の遂行は不可能と言えるだろう」


 頷き返してきたティトスに背を向け、ロランドは部隊の騎士たち四人を見回した。


「お前たちはどうだ? 罠の可能性を避けてこのまま『異界の門』の捜索を続けるか。それとも危険を覚悟で一宿の幸運に賭けるか。私はあの宿に賭けてみたいと思うのだが、反対する者は遠慮なく言ってくれ」


 突然意見を求められた部下たちは困惑の色を浮かべたが、これまでの旅で以前よりも一層部隊長への忠誠心を深めた彼らは、口々に同じ言葉を放った。


「どこまででも、隊長にお供いたします!」


 ハッキリと、微笑みさえ浮かべて答える部下たちに、ロランドはふっと笑みをこぼした。

 彼らだけでも絶対に本国へ帰還させねばと心に誓い、副官の騎士を含めた全員に命じる。


「よかろう。では我々はこれより、目前に見える宿らしき屋敷へ足を踏み入れる。各人、決して警戒を怠らぬようにせよ」

「はっ!」


 右手で作った握り拳を左胸に当てる。聖王国特有の敬礼の姿勢だ。

 ロランドは長年騎士を務めた威厳を纏って同じように返すと、先頭に立って門を潜った。


 それから、六人の騎士は一歩一歩慎重に屋敷へ歩を進めていく。

 雪で足が滑らぬよう置かれた石を踏みしめて、ようやく屋敷の入り口までやって来た。ここまで来ると、建物から漏れる明かりで甲冑の傷や汚れまでが確認できる。

 ロランドが徐に視線を向けた先では、木製の高い柵の向こうに蒸気が上がっていた。


(ここが本当に宿なのだとしたら、あれは風呂だろうか)


 不意に想像が働いて、無性に風呂の心地よさが恋しくなった。

 また、風呂恋しくなった彼と同じように、部下たちの間にも緊張の緩みが見られ始めている。気を張っていた彼は気がつかなかったが、建物の中からは何やらいい匂いが漂ってきているのだ。

 それはここ二月ほど味わえていなかった、出来たての料理の匂いで間違いなかった。

 部下達が期待と緊張感の入り混じった表情でロランドを見つめる。彼はそんな部下たちに一つ頷いて見せると、腰の長剣の柄を撫でながら屋敷の入り口の扉、初めて見る横に開く形式の扉を開いた。


 瞬間、雪の降る森の中とは思えない程暖かい空気が彼らを迎えた。同時に外まで漏れていた美味しそうな香りが彼らの鼻孔に広がり、抑えてきた空腹感が否応なく表に出てくる。

 騎士たちの前に広がっていたのは、初めて見る雰囲気の不思議と癒される空間だった。

 六人が立つ石造りの床から一段高くなった高床は、落ち着いた木目の板が隙間なく敷かれており、柱や壁には外観通り木の素材がふんだんに使われている。高い天井は解放感を与えてくれ、頭上を走る梁からは、柔らかな光を降らせるランプが吊るされていた。未だ開かれたままの扉の外は雪がチラつく程の寒さでありながら、一歩踏み込んだ屋内はまるで春の日の如く暖かい。

 六人の騎士は黒石の床に立ち、呆然と周囲を見回していた。誰も言葉を発することができず、安らぎを与えてくれる空間に全員が見入っている。


 ふと、部下達と同じように辺りを眺めていたロランドは、中庭の脇を抜けた廊下の奥に一人の少女の姿を見つけた。まだ暦を一回りした程度だろうか。幼い少女は廊下の突き当たりから顔だけを覗かせて、じーっとこちらを見つめている。

 しばらくロランドたちを観察していた少女は、それから突然ぱっと明るい表情に変わった。廊下の奥から躍り出て、こちらへトタトタと走り寄ってくる。

 慌てて剣の柄を握る六人。だが少女が怯む様子は全くない。

 深い青の髪を二カ所で結い、髪と同じ色の見慣れない衣装を纏った少女だった。

 少女は脛程の高さがある段差の端で止まると、膝を折って窮屈そうな、それでいて品を感じられる姿勢で座った。そして困惑する一行を余所に少女は恭しく一礼すると、可愛らしい笑顔を浮かべて口を開いた。


「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました!」


 無邪気に、愛らしく放たれた歓迎の言葉は、彼らから緊張を解くのに十分な魅力を持っていた。思わず笑みが浮かんだ面々は、剣にかけていた手を下ろす。

 すぐにロランドが進み出て、笑顔の少女に訊ねた。


「やあ、お嬢さん。一つ訊きたいのだが、ここは本当に宿なのかい?」


 罠か否か――。

 彼らにとって命を賭けた選択とも言えたこの屋敷への進入。その成否を訊く問いだ。この問いへの答えが、彼らの命運を決定づけることになる――はずだったのだが。


「フェリス! 仕事を放りだして何をしているの!」


 少女への問いかけは、廊下の奥から響いてきた声によって答えを得られぬまま流された。


「やばっ! お、お客様、申し訳ありません。少々お待ちください!」


 ぎょっとした顔で振り向いた少女は苦笑いで騎士達に断りをいれて立ち上がると、急ぎ足で廊下の向こうへ戻っていってしまったのだ。

 呆然と少女を見送ったロランドたち。耳を澄ますと、廊下の奥からは叱責の声と先程の少女の声が聴こえてきた。二つの声の主はしばらく言い合いを続けていたが、しばらくすると声は止み、代わりに慌てたような足音が聞こえてきた。

 やがて少女が入っていった廊下の奥から、一人の女性が姿を現した。

 輝く金の髪は滑らかに整えられ、特徴的な耳の形から彼女が人族のエルフであろうことが窺える。白い肌に整った小顔の容姿は、人界中の誰もが美しいと認めるだろう。彼女の纏う黒い異国の衣装も、髪色を一層映えさせる絶妙な組み合わせだ。

 年の頃はパソンの感覚で十八歳くらいだろうか。エルフは長命なため見たままの年齢とは言えないが、若く瑞々しいと感じる彼女は、美人というより美少女という表現の方がしっくりくる。

 金髪の美少女は足早に騎士たちの前まで来ると、先程幼い少女がとった姿勢をより洗練された動きで行って見せた。


「大変お待たせいたしました、お客様。旅館『果ての庵』へようこそお越しくださいました」


 膝をついて腰を折り、重ねた両手を床に着け、恭しくお辞儀をする。


「私は当旅館の女将、ユリアと申します。本日はお寒い中、足をお運びいただきまして誠にありがとうございます」


 ユリアと名乗った女性は、若い見た目に似合わぬ堂に入った所作で騎士達に歓迎の言葉を贈った。一方、騎士たちは未だに現実へ復帰することが出来ていなかった。


「お客様? どうかなさいましたか?」


 女将に呼びかけられて、ようやくロランドは我に返る。


「あ、いや……。歓迎の言葉、痛み入ります。一つお訊ね申し上げたいのだが、こちらは外の看板にあった通り、宿、で間違いはございませんな?」


 彼は気を取り直して、先程幼い少女にもした問いをもう一度口にした。思わず詰問調になってしまったが、女将はそんな強い問いかけにも笑顔を絶やすことなく答えた。


「はい。間違いや嘘偽りはございません」


 ハッキリと口にする彼女に対して、ロランドの問いは続いた。


「失礼ながら、このような人里離れた地で開く宿に、如何な意味がおありか? 客となる人も少なく、罠と怪しまれても文句は言えますまいに」


 訝しげな表情を隠すこともなく、ロランドは彼女に訊ねる。彼女もまた、そのような問いは慣れたもののようで、依然柔らかな笑みを絶やすことはない。


「仰る通り、この地を訪ねる方は決して多くございません。ですが、この地に伝わる『異界の門』を通られる方々のために、当旅館は開かれているのでございます」

「それは……。いったいどういった意味か、お教え願いたいのだが?」

「もちろんでございます。ですが皆さま、とてもお疲れのご様子。どうか一度、当旅館自慢の温泉にお浸かりになられ、一息吐かれてからご説明申し上げたいと存じます」


 彼女は騎士の言葉をやんわりと受け止め、それでいて上手く招き入れようと提案してきた。相手の様子を観察する眼力も合わさって、なかなかに商売上手なようだ。

 彼はこれに従うか少し迷った。疑うわけではないが、完全に信用できるわけでもないのだ。

 だが後ろに立つ部下たちの疲労の色を鑑みて、ロランドは提案を受け入れることに決めた。


「よろしいでしょう。では取り敢えず、一晩だけお世話になります」


 胸に手を当て、浅く礼をして答える。後ろでは部下の五人も同様の仕草で女将に一礼した。


「かしこまりました。ごゆるりとお寛ぎくださいませ」


 女将は聖王国文化の一礼に、深々と異文化の礼で応じたのだった。







 果ての庵でのもてなしは、彼ら騎士たちの想像を遥かに超える素晴らしさだった。

 女将に案内された先の部屋は二人部屋で、〝タタミ〟という干し草で編まれた細かい網の床が敷かれ、柔らかさを感じられるタタミと木の柱の調和のとれた部屋は、とても落ち着いた雰囲気を持った空間となっている。その後に案内された風呂は女将曰く、〝温泉〟という身体に良い影響のある湯が湧く泉から作られたもので、冷え切った体が芯まで温められる心地よさだった。少し熱めの湯と、雪の森に漂う凛とした空気がなんとも格別だ。風呂好きのロランドに至ってはのぼせる寸前まで浸かり続けたほどだ。

 そして、極めつけは饗された食事だった。


「お待たせいたしました。お食事を御持ち致しました」


 風呂上りのゆったりとした時間を過ごしていたロランド。彼のもとを、そんな言葉と共に女将が訪れたのだ。

 女将はロランドと彼の副官であるティトスの前に、数々の絢爛豪華な料理を並べていった。


「おぉ!」


 ロランドは目の前に広がった光景に感嘆の息を漏らした。

 色とりどり、見たことも聞いたこともないような料理が並び、どれも脳幹を直接刺激するような香りを放っている。色鮮やかで目に映え、思わず生唾を呑んでしまった。


「それでは、お夕食の御案内をさせて頂きます。まず、こちらは当館近くに自生しております鳳蓮華草のおひたしとなっております」


 女将が示した小皿には、薄紫色の花が添えられた青菜がちょこんとのっていた。上にはひらひらとした妙なモノが降りかけられている。

 ロランドとティトスはフォークを掴み、そっと青菜を口に運んだ。ほどよく冷えたそれを舌に乗せ、奥歯で一息に噛みしめる。

 その瞬間、口中に新鮮な青菜の風味が広がった。シャキシャキとした歯ごたえが何とも心地よく、野草特有の臭みや苦みは全く感じられない。如何に新鮮な物であるかが判る。ひらひらもタダ乗せられていたわけではなく、香ばしさを与える役割があるようだ。染みこんだ味も初めて口にするもので、塩よりも甘く、僅かな辛味がある。故郷のあるイータル大陸ではこのような味は味わったことがない。


「これはなんとも……。これだけでエールがいくらでも飲めそうだ!」


 ロランドは側らにあったジョッキを手に取り、一息に半分ほど呷った。思った通り、このオヒタシなるものの後に飲むとエール酒の苦みが引き立ち、何とも言えぬ美味さになった。

 すっかりおひたしが気に入った様子のロランドに、女将はくすくすと笑いを漏らす。それから今度は別の、赤や白の肉のようなものが載った板を指し示した。


「続きましてはこちら、近海で水揚げされた旬の魚の御刺身でございます。お客様は御刺身は初めてだと推察致しますが、是非お召し上がりになってみてください」

「なんと! これは魚であったのか。まるで生肉のような艶があったので、別物かと思いましたぞ。いったい、どのように焼けばこのような艶が得られるのですかな?」


 すっかり料理へ興味を惹かれたロランド。目の前の瑞々しい魚の身がどのように調理されたものなのか気になってしまった。

 だが、続く女将の言葉を聞いて彼は絶句する。


「いえ、火は通しておりません。今朝獲れたての新鮮な魚を捌き、活造りに致しました」


 火を通していない、つまり生のままだと女将は言ったのだ。


「生の魚だと? そんなもの食べられるはずが……」

「戸惑われることは重々承知でございますが、一度お召し上がりになってみてください。大丈夫です、健康に悪影響はございません。きっと気に入られると思いますよ」


 困惑するロランドに、女将は変わらず笑みを浮かべる。動揺は消えないが、そこまで言うのならばと、彼は好奇心にも後押しされてフォークを伸ばした。

 ティトスが蒼白な顔で見守る中、ロランドは恐る恐る、端の赤くなった銀色の身を口に運ぶ。そして柔らかく、僅かな生臭さも残るそれをギュッと噛んだ。


「……美味い」


 自然と、そんな感想が漏れ出ていた。


「美味い! これは美味い! まさか魚が生で食べられるとは!」


 まるで霜降り肉のように脂がのり、上質な甘さと深いコクがふっと喉の奥へ抜けていくようだ。故郷で口にしたどんな魚料理よりも美味だった。

 隊長の賞賛を聞いたティトスも、まだ少し震えながら刺身を口にする。眼を閉じて噛みしめた瞬間、彼も驚きの表情に変わった。


「はぁ、すごいですね。魚がこれほど美味しいものだったとは……」

「よろしければ、こちらのお醤油を少しつけてみてください。お刺身の甘さが引き立ちますよ」


 言われた通り、今度は細い線の入った赤一色の身を、赤茶色の汁に浸して食べる。


「うむ! これは確かに! 汁の辛さと魚の旨みが絶妙に溶け合うな」


 これならば確かに、ショウユとやらをつけて食べた方が美味い。ロランドはいくつか種類のあるサシミを、それはもう夢中で頬張っていった。

 ティトスも鮮魚の美味さに驚きながら、次々にフォークを伸ばしていく。

 そのうち、彼のフォークの先が板端にちょこんと載った緑の山を捉えた。


「この緑色のものも、美味しいんでしょうか」

「あっ! それは……」


 気付いた女将が止めようとするも遅く、彼はパクッと、小山程のソレを口に入れる。

 直後、ティトスの顔が真っ青に染まり、目に涙が滲んできた。耐え切れず、彼は鼻を抑える。


「うぐっ……辛っ! 鼻が……」

「お客様!? 今、お水を――」


 慌てて女将が水をグラスに注ぎ、ティトスに差し出す。グラスを受け取った彼は水を一気に飲み干し、青い顔で荒く深呼吸をした。


「貴様! 今のは何だ! まさか毒ではあるまいな!」


 ロランドは女将に詰め寄る。部下があれほど苦しんだのだ。黙ってなどいられなかった。


「い、いえ、毒ではありません。こちらは山葵と言いまして、香辛料の一種でして」

「香辛料だと? 香辛料がこれほどの力を持っているというのか!」


 ロランドの剣幕に多少圧倒されながら、女将は苦笑いで説明を続けた。


「ええ、まあ……。本来山葵は少量を御刺身と一緒に頂くものですので、あれほどの量を一口で召し上がられては、その……」


 どうやらティトスの口にしたワサビは本来、少量を添えるだけのものらしい。だとすれば今のは早とちりしたこちらの責任だ。彼女に非はない。

 ロランドは罰の悪い表情を浮かべて、女将に頭を下げた。


「そうだったのか。ああいや、疑ってしまってすみませぬ」

「いえ、こちらこそ、ご忠告が遅くなってしまい申し訳ありません」


 謝罪しあう二人の横で、ティトスは涙目でワサビを睨んでいた。


 それからも、二人は料理の紹介を受けながら一口ごとに感動の声を上げていった。女将のユリアもそんな二人を嬉しそうに見守りながら、時に冗談を交えて夕餉の解説を続けた。

 あっという間に一刻程が経過し、ロランドとティトスの前に在った数々の食材は、その全てが彼らの胃袋に収まった。良い具合に酔いも回り、ロランドの気分はかつてない程に上々だ。


「思いがけない贅沢なもてなし、感謝してもしきれませぬ」


 気が付けば、ロランドは女将に対してそんな言葉を口にしていた。


「ご満足いただけたようで何よりでございます」


 女将も空になった皿をまとめながら、客人の満足した様子に笑みを浮かべた。

 空になった皿を、二人の騎士と言葉を交わしながら危なげない手つきで片付けていく。


「これほど上等な品の数々、我が国の王都でも目にしたことはありません。一体どのようにこれだけの食材を揃えておいでなのですか?」


 ティトスが供された布で口元を拭いながら訊ねる。その際、布が温かい湯の染みた上質な物であったことに小さな驚きを覚えた。


「どれもこの森で採れたものばかりでございます。ただ、主菜の猪肉だけは魔界からの仕入れになりますが」


 瞬間、客室の空気が変わった。


「魔界の?」

「失礼。こちらでは魔界の食材をも扱っておられるのか?」


 女将が何気なく語った言葉に、二人は困惑の表情を浮かべる。


「はい。主に食肉の類は、当館抱えの猟師が魔界で獲ってきたものを使用しております」


 二人の問いかけに、女将はそれが何でもないことかのように答えた。

 だがそんな彼女の態度で誤魔化される二人ではない。


「どういうことでしょう。魔界は魔物が跋扈する危険な地ではないですか」

「魔界と人界とを行き来する猟師など、到底信用できませんぞ」


 疑念を顔に出した騎士達に、女将は不自然なほど澄ました笑みで応える。


「その点も含めまして、ご説明申し上げます。後ほど当館ロビー側の小宴会場へ、お連れ様と共にお越しください」


 彼女はまとめた皿を持って部屋の入り口まで歩き、そこでもう一度座って一礼すると、さっさと部屋の外へ出て行ってしまった。

 ロランドとティトスは訝しげな表情を湛えたまま、互いに顔を見合わせていた。




 半刻後。

 部下の五人と共に指定された小宴会場に座っていたロランド。彼は早速、横開きの戸を開いて現れた女将に問いかける。


「では、ご説明いただけますかな? この宿が何故このような辺境にあるのか。魔界へ出入りする猟師など実在するのか。そして先程馳走になった食事に、魔界の食材が使われていた理由を」


 女将は彼ら騎士六人の前に座ると、軽く笑みを浮かべて一礼した。


「はい。それでは、お話しさせていただきます」


 そして彼女は両の手を揃えて腰元に置き、眼を閉じてゆっくりと語り始めた。


「皆様の疑問にお答えするためにはまず、魔界についてお話しなければなりません。魔界とはどういった世界なのか。魔物とはどういった存在なのか。そして、魔族とはどういった種族なのか。かつて魔界に入り、生きてこの人界に帰り着くことができた私の口から、ご説明申し上げます」


 女将の言葉に、騎士一同衝撃が走る。


「貴女は魔界へ入られたことがおありなのですか!?」


 思わず若いルフレは声を荒げてしまう。声こそ発しなかったものの、彼女の言葉に驚きを示したのは、決して彼のみではなかった。


「はい。以前、私は皆様が向かおうとしている地に、魔界に、仲間と共に入りました。そしてこの目で、語られてきた魔界の真の姿を見てきたのです」


 全員が、固唾をのんで女将の話に耳を傾けた。


「この果ての庵が鎮座する森、エルフにとっては種の故郷でもある古森ヘイムダールには、魔界へ繋がる空間の裂け目、『異界の門』が存在します。『異界の門』を通って魔界へ渡る際、誰もがまず大気に含まれる〝マナ〟の濃さに驚かれるでしょう」

「〝マナ〟――。魔術を行使するときに用いる、魔力の源というあの?」


 騎士団には魔術を扱える者は殆どいない。そのため、マナについては知識として知るのみだ。


「ええ。大気に含まれるマナが多い程、魔術の効力は上がります。ですから、魔界では魔術が非常に使い易くなるのです」

「なるほど。それで?」

「はい。実はこのマナ、魔界に住む生物にとっては、生きために必要不可欠な栄養素でもあります」

「マナが、栄養素……」


 二人だけとなった女性騎士の一方が、驚きを隠せずに漏らした。


「魔族や魔物、魔獣といった魔界の生物たちは、食物と共にこのマナも摂取しなければ生きていくことができません。それは人界に住む、ごく少数の魔族や魔物も同様です」


 女将の語る話を、ロランドは姿勢を崩すことなく聞いていた。


「ふむ、なるほど。では魔物や魔族にとって、この人界はさぞかし住み難い地であろう。人界は魔界に比べ、マナが希薄だと言われているからな」

「ええ、そうでしょうね」

「だが、そうなると尚更わからんな。なぜ魔族や魔物は、わざわざ故郷から住み難いこの人界に移ってくるのだ? そのまま魔界で暮らす方が、マナの確保は楽であろうに」

「はい、その通りでございます。魔界に生まれたすべての生き物が、魔界で安心して暮らしていけるのであれば、ですが」


 女将はの意味深げな答えに、ロランドは眉を顰めて訊ねた。


「どういう意味ですかな?」

「皆様は何故、魔物や魔族が故郷を捨て、わざわざ住み難い人界にやってくると思いますか?」

「………」


 それを訊いているのだ、とは誰も言えなかった。

 笑みを崩すことなく語る女将だったが、その内から漏れだす威圧感が彼らに下手な口出しを許さないのだ。


「それは彼らが、魔界に残れない理由があるからですよ」

「して、その理由とは?」

「食物連鎖です」


 あっさりと放たれた言葉は、彼ら六人を驚愕させるのに十分なものだった。


「魔界は弱肉強食の世界。弱いものは淘汰され、強いものの食料とされる。まあこれは魔界に限った話ではございませんが」

「そんなっ!? それでは、魔界は人界と変わらないではありませんか!」


 思わずルフレが声を上げる。それもそのはず、女将の言葉が真実であれば、魔界とは彼ら騎士たちの信じてきた邪悪な世界とはまるで違うことになる。


「ええ、そうですね。寧ろ魔界が人界と全く理も異なる世界であると、誰が言ったのでしょうか」

「そ、それは……」


 これまで、パラディル聖王国で生まれ育ってきた彼らは、魔界とは恐ろしい場所で、魔物とは人族を襲うために虚無から生まれるのだと教えられてきた。魔族は魔物を使役して人族の世界を奪うことしか考えていないのだと。

 それは故郷のパラディルに限らず、イータル大陸全土で言い伝えられていることだ。幼い時から刷り込まれた知識はそれを盲信させるのに十分な効果を持っており、この場で女将に真実を伝えられるまで、彼らはそれを信じて疑うことはなかった。


「皆様の言う『魔族』とは、魔界に住む『ヒト』です。『魔物』とは、魔界に住む『動物』なのですよ」

「そんな……」


 自分たちを前にして逃げ惑った魔物の姿が脳裏に浮かぶ。どこか、頭の片隅では疑問に思っていたのだ。ロランドは今までそれを考えないようにしていたのかもしれない。


「彼らが人界に移り住む理由は一つ。ただ、生きたいだけなのです」

「………」


 最早騎士たちの中に、満足に言葉を発することのできる者はいなかった。


「ここで先程のマナの話に戻るのですが、魔物が人界の人族を襲う理由、もうお解りになりましたか?」


 女将の問いかけに、全員が思考を巡らせた。

 これまで彼女によって語られてきた魔族と魔物の話。これが真実であるならば、生きるために必死な魔物が人を襲うに十分な理由が、一つ見出される。


「そうか」


 なんとか呟くことができたのは、ルフレだけだった。


「ええ。人族は人界において、体内に最も多くマナを持った種族です。人界で魔界のものが生き抜くためには、人族の持つ多量のマナが必要になるときがあるのですよ」


 そんなことを、女将は驚くほどあっさりと言い放つ。


「だからといって人族が魔物に襲われることを善しとしないのは、私も変わりませんが」

「………」


 女将が魔界贔屓にならぬよう発した軽口にも、彼らは声を返すことができない。


「さて、それではそろそろ疑問にお答えしていきましょうか。当館がこのような辺境に建っている理由。抱えの猟師が魔界に出入りする理由。そして魔界の食材を使用する理由を」

「お願い、申し上げます」


 ロランドはなんとか声を絞り出した。

 女将は彼の掠れた声に合わせて小さく頷くと、同じ調子で語っていく。


「簡潔に申しますと、当旅館が魔族のお客様もご案内しているから、というのが、三つの問いに共通の答えです」

「と、言いますと?」

「『異界の門』に近いこの地に居を構えることによって、この世界に来たばかりの魔族の方々に人界で生きていくための注意を喚起することができます。同時に、魔界へ赴く人族の方々にこうしてお話を申し上げることもできます。また、当旅館に宿泊される魔族のお客様にマナの豊富な魔界の食材、魔物を使ったお食事を提供することで、お客様のマナ不足を解消することができます。抱えの猟師は魔界生まれの魔族で土地勘もあり、力も強いので現地の狩猟にも対応できます。と、このような回答になりますが、いかがでしょうか?」

「……よく、理解できました」


 ロランドには、それだけ言うのが精一杯だった。


「そうですか。でしたら幸いでございます。私からの説明は以上になりますが、何か他にご質問等はございますか?」


 一気に憔悴してしまった彼らを敢えて放置して、女将はあっけらかんと続ける。

 そして新たな問いが来ないことを確認すると、穏やかな微笑みを浮かべた。


「それでは、今後も当館でのひとときをお楽しみください」


 最後にもう一度深々と一礼し、彼女はゆったりとした所作で部屋を出て行った。

 残された六人はショックのあまり、しばらく口を開くことができなかった。







 翌々日。

 ロランドはとある部屋の前に立っていた。


 ロビーから中庭を右手に見て進み、突き当りを左に曲がった先――。先日ロランドたちがこの旅館へ辿り着いた際、女将のユリアが出てきた廊下の奥だ。

 騎士たちの宿泊する部屋とは反対側にあるこの廊下は灯りが弱く、他の場所よりも若干暗くなっていた。恐らく従業員が利用し、客はあまり使わない通路だからだろう。

 そんな少し暗い廊下の中程に、ロランドは立っていた。入り口の天井付近から伸びる布が肩のあたりまで垂れ下がり、意図して身を屈めないと中の様子を窺うことはできない。だがロランドは僅かな隙間から覗き見ることができる、その部屋の特異な造りに興味を惹かれていた。

 廊下もロビーも部屋も、およそ目につく場所のほとんどが木造であるのに対し、その部屋だけは明るい色の石造りだったのだ。中から漏れる食欲をそそる香ばしい匂いから察するに、その部屋は調理場なのだろう。

 彼は垂れ布の遮る入り口の向こうを見据えて立ち、一昨日の夜に聞かされた話を思い返していた。


 女将から魔界の真実の姿を聞いた夜から、既に丸一日以上が経過している。

 強靭な精神力で半年もの長い期間を旅してきた騎士達だったが、さすがに一昨日の話は応えるものがあった。これまで信じてきた魔界の姿を根底から覆され、憎むべき魔物たちも自分たちのよく知る動物たちとそう変わらないと知らしめられたのだ。

 ともすれば、彼らがこの地まで旅をしてきた目的さえ的外れなものであるかもしれない事実に、ロランド以下六人の騎士たちはすっかり気が抜けてしまったのだ。

 幸い資金面に不安はなく、女将に依れば長期の滞在も歓迎とのことなので、数日はこの宿に留まることになるだろう。だが団員たちの落胆は大きい。ロランドは隊長として、本当にこのまま魔界を目指すのが正しいことなのか悩んでいた。


 そんな迷いの中にあって、唯一心躍る時間をもたらしてくれたのは、朝昼夜と振る舞われる豪華で美味な食事だった。長旅による肉体的・精神的な疲労を、果ての庵の食事は味覚から癒してくれる。それは自暴自棄になってしまいそうになる彼らを、絶望の瀬戸際で踏み止まらせてくれる貴重な存在だった。

 一食喉を通すたびに、目に見えて活力を取り戻していく騎士たち。

 それは経験の深い隊長にはハッキリと判別できる程の効果を、彼らにもたらしていた。


 ロランドは再三味わっている美味い食事の礼を言うため、この調理場を訪れることにしたのだ。彼は垂れ布を手でずらし、その向こうを覗き込んだ。

 調理場に立っていたのは、若い青年が一人だけだった。

 赤い髪をうなじの部分で結って纏め、白い布で頭を覆っている。来ている服も白を基調とした動きやすいもので、袖口や襟元に青い意匠が施されているだけのシンプルなものだ。

 年齢は二十代前半と思われ、特徴らしい特徴が見当たらないことから、彼は人族のパソンであると思われる。決して大柄とは言えないが、露出している腕や首元から、彼が相当に鍛えられた身体つきをしていることが窺えた。

 青年は調理場に立ち、熱心に黒灰色の生地を練っていた。それは故郷でもよく見るパンをこねる作業に酷似しているが、あのような色の生地はついぞ見たことがない。また、青年は生地をこねながらも、時折それを目の前に調理台に叩きつけているのだ。挙句の果てには、平たくした生地を幅の広い斧のような包丁で、細く切り始めた。

 ロランドは声をかけるのも忘れ、鮮やかな手際で細く長い紐のように生地を切っていく青年を見つめ続けた。礼を言いに来たのに、目の前で調理に勤しむ青年に興味が湧いてきたのだ。

 やがて生地のすべてを紐状に切り落としたところで、青年は覗いていたロランドの方へ振り向いた。どうやらロランドの存在には気付いていたらしく、青年は手にしていた包丁を置くとロランドに近づいてきた。


「なにか用ですか? お客さん」


 青年は無邪気な笑みを浮かべ、ロランドに語りかける。言葉使いは女将と違って丁寧とは言い難いものだったが、不思議と親しみの持てる声音だった。


「あ、いや、ここは調理場ですかな?」


 ロランドも驚きはしたものの、不自然にならないくらいには繕って訊ねた。


「御覧の通り」


 青年の受け答えは客人に対するものとしてはいささか不十分だ。しかし、ロランドにはその自然体が寧ろ好意的に映った。如何にも職人然としているではないか、と。


「実は料理長がこちらにいるかと思い、覗いてみたのだが……」

「ああ。料理長は俺ですよ」

「君が? 随分若いようだが?」

「よく言われます。ですが経験自体は結構長いですよ」

「ふむ。確かに、これまでご馳走になったものの味は本物だった。実に美味かったよ」

「ありがとうございます。喜んでもらえて何よりだ」


 そんな風に笑顔を交えながら話をする二人。青年の真っ直ぐな話し方につられて、ロランドの言葉使いも砕けてしまっていることには、本人も気づいていない。


「それで、お客さんはどうしてこんなノードラスの端に?」


 青年は何気なく、ロランドに微笑み交じりで訊ねた。そんな問いにロランドは一瞬だけ躊躇いの表情を浮かべたが、別に機密でもなんでもないと思い直し素直に答えた。


「私は王都を襲った魔物を追って、この地まで来たのだよ。だがまあ、魔物の名前すら判明しない始末でね」

「王都を魔物が? それは珍しい……。その魔物はどんな姿かご存知ですか?」

「ああ、人のような四肢を持ちながら、長い角と翼を持った魔物だったのだがね」


 これまでの半年間、そんな特徴を幾度も訊ねてきたのだが、結局この地に至るまで名前すら判らず仕舞いだった。それ故、今更有力な情報が得られるとは思っていなかったのだが――。


「そいつは多分、デーモンですね」

「デ、デーモン?」


 諦観とは裏腹に、青年はあっさりと魔物の名前を挙げてみせた。

 そしてその名は、ロランドがこれまで一度も聞いたことのない名だった。


「ええ。『翼持つ鬼(デーモン)』ですよ」


 降って湧いたようにもたらされた情報に、ロランドは一気に心臓が逸るのを感じる。考えてみれば、この宿は魔界に最も近い土地に建っているのだ。普通は手に入らない魔界関連の情報も入ってくるのだろう。


「そのデーモンという魔物は何処に生息しているか、ご存知か?」


 早口でまくしたてる隊長。青年は難しい表情になりながらも、そんな彼の問いに答えた。


「デーモンは魔界にしか生息しない魔物ですね。どういう経緯で東の大陸の王都を襲ったのかは判りませんが、滅多に人界に現れるような魔物じゃない。当然、持っている力も強く、並の戦士では歯が立ちませんよ」

「そ、そうか……」


 言い辛そうに語った青年の話に、ロランドは落胆の色を隠せなかった。

 ハッキリと言いはしなかったが、「並の戦士では歯が立たない」というのは、自分たちのことを言われているのだろう。

 王都を襲った魔物の討伐――。聖王様から賜った任務の達成は、最早不可能であると言われたようなものだった。


「………」


 沈痛な表情を浮かべて黙り込んでしまったロランド。

 青年は肩を落とす彼を不憫そうに見つめた後、突然ポンと手を叩いた。


「わかりました。この件、俺も手を貸しましょう」

「なに、それは本当か!?」


 思いがけない青年の厚意に、隊長は沈んでいた目を輝かせる。


「ええ。一両日くらいでなんとかできると思いますよ」


 青年の頼もしい言葉に、ロランドは深々と頭を下げた。


「あ、ありがたい申し出、痛み入る」

「いえ、デーモン一族にはちょっとした縁があるだけですよ。だから頭を上げてください」

「……誠、感謝いたす」


 顔を上げたロランドは誠実な笑顔を浮かべる青年を見て、内心でもう一度頭を下げた。

 ひとしきり笑った料理長の青年。彼は笑みを収めると、再び調理台へ向き直った。


「それじゃあ、俺はまだ仕事の続きがあるので」


 言外に話は終わりだと告げられていた。にも拘らず、ロランドは調理台に置かれた黒灰色の紐状の生地が何なのか、無性に気になってしまった。


「つかぬ事を聞くが、先程まで君が作っていたそれは、いったい何なのだ?」


 青年は一度振り向いて件の生地を見ると、微笑みを浮かべた。


「ああ、これは蕎麦と言って、従業員へ賄うための麺料理ですよ」

「〝ソバ〟……。麺料理というと、私にはパスタぐらいしか思い当たらないのだが、それも美味いのか?」


 最早、湧き上がる興味は隠せなかった。

 ロランドの好奇心に応えるかのように、青年はニヤッと笑い親指を立てる。


「ユリアに止められてるんでお客さんにはお出しできないんですが、かなりイケますよ」


 まるで友人と話しているかのような態度だが、そんなことはどうでもよかった。ロランドはただ、視線の先に整然と並べられている〝ソバ〟に熱い視線を送っていた。

 この宿に来てから一日と少し。既にロランドは、この料理長の作る料理の虜となっていた。


「それは、是非一度食べてみたいな。内密にどうか一度、作ってはもらえぬか?」


 ひそひそ声で頼むロランドに、青年は同じように声を潜めてニッと笑みを浮かべる。


「ええ、ではユリアに見つからないように、こっそりと――」

「何を、こっそりと、お客様にお出しするつもりなのかしら?」


 しかし、青年の黒い笑みは、二人の背後から突如響いてきた声により一瞬で凍りついた。ついでにロランドも、ビクッと体を硬直させた。

 青年とロランドは一緒になってゆっくりと振り向くと、背後に立った悪鬼のようなオーラを振りまく女将の姿に仲良く言葉を失った。


「アル、お客様にお出しするには、蕎麦は質素すぎるからダメだと言ったでしょう?」


 表情こそ笑顔で、声音も淑やかに、しかし見え隠れする怒気が彼らの体を震えさせる。


「お客様も、蕎麦は諦めてください。我々の矜持に関わりますので」


 美少女エルフの圧倒的な迫力に、ロランドは頷かざるを得なかった。嫌な汗が背中を伝い、アルと呼ばれた料理長の青年は涙目になっている。


「で、では私は、そろそろ部屋へ戻らせていただこうかな」


 恐怖心に耐えかねたロランドは、駆け出しはしないまでも足早にその場を去った。

 頼み事をしたばかりで心は痛むが、それはそれ、これはこれだ。女将の怒りの方が恐ろしいに決まっている。

 料理長はロランドに半泣きの瞳で助けを訴えるが、襟元をしっかり女将に掴まれており、結果情けなく手を伸ばしただけだった。


「さあ、アル。仕事に戻りなさい」


 女将の言葉の後、ロランドが立ち去った調理場に青年の悲鳴が木霊する。背中に青年の悲鳴を聞きながら、ロランドは急ぎ足で客室へ逃げていった。

 途中、すれ違った老紳士の従業員が、こんなことを呟いていたのを耳にする。


「触らぬ神に祟りなし、だな」


 呆れたような口調で放たれたその言葉に、ロランドは心底胸を撫で下ろした。







 翌朝。


「あの、アル殿? ここはいったい……」


 ロランドは前を悠然と歩き続ける青年に、恐る恐る声をかけた。


「ここは『六剣山』。別名〝翼持つ鬼の里〟とも呼ばれる山で、魔界で唯一デーモン一族の集落がある場所ですよ」


 まるで何でもないことのように答える料理長アルだったが、ロランドは自分を見つめる――いや、睨みつけてくる幾多もの視線に怯えきっていた。


 山肌がむき出しになった岩場を歩く二人。所々刃のように鋭い岩が張り出していて、アルとロランドは剣岩の間を縫うように進んでいる。向かう先には高くそびえる山の頂上が見えた。その様は山の名の通り、六つの剣が空へ掲げられているかのようだ。

 ロランドが歩く両脇には、何故か朽ちかけた材木を利用した家屋が建ち並び、窓のように開けられた隙間からは、朱い眼光が射抜くように向けられている。時折顔を覗かせる鬼のような姿を見て、ロランドは何度も恐怖で失神しそうになってしまっていた。


 ロランドは昨日の依頼の通り、料理長アルに連れられてこの山へやって来ていた。

 『異界の門』を抜け、女将の転移魔術の力を借りて、ものの数刻でこのような魔界の奥地にまでやって来てしまったのだ。

 こうなるってくると、目の前の料理長や送ってくれた女将が何者なのか果てしなく気になるところだが、ロランドは飄々とした風の青年へ訊ねることが出来ずにいた。

 自分の前を平然と歩く青年。周囲から向けられる眼差しはそのほとんどがロランドを威圧するものばかりだ。同じ人族であるはずの青年に向けられている視線は友好的なもので、時折例外的に畏れの眼差しが含まれているだろうか。


 ロランドはかつてない恐怖に晒されながら、必死でこの正体不明な青年に付いていった。

 やがて二人は斜面を上りきり、崖を背にした家に辿り着く。先へ続く道がないのを見る限り、この場所が目的地だろうか。


(そもそも、ここまで歩いてきたのも道とは呼べんか……)


 内心で大きなため息を吐きながら、ロランドは疲れた脚を引き摺って青年に続く。アルは集落の最奥に建つ家の扉まで来ると、二度軽く叩いた。すぐに扉が開かれる。


「っ!」


 扉の向こうに立っていた存在を見て、ロランドは漏れそうになる悲鳴を必死で押し殺した。


「やあ、族長。久しぶり」

「アル坊やか。まこと、久しいの」


 深い皺の刻まれた顔は灰色。額からは二本の角が伸び、腰元まである髪は白い。瞳は赤く染まり、鋭利な牙の生えた口から漏れた声は、低く地の底から響いてきたかのようだった。


「まあ、立ち話もなんじゃ。まずはお上がんなさい」

「ありがとう。お邪魔させてもらうわ」


 体格はロランドの倍は佑に超えるだろうか。ボロ布のような衣類を身に纏い、背中には赤紫色の翼膜が畳まれている。腕も足も筋骨逞しく、漆黒の爪は短剣ほどの長さもある。

 ふと、アルがロランドの肩を叩いた。


「ほら、ロランドさん、中に入りましょう」

「あ、ああ……」


 言われてようやく我に返ったロランドは、朱い目を向けてくる魔物に萎縮しながらもどうにか頷いた。青年の後に付いて、魔物の家に踏み込む。


「お邪魔します」

「お、お邪魔致す」


 怖々敷居を跨ぎ、青年を真似て挨拶もする。


「適当に掛けなさい」


 促され、毛皮の敷かれた床に腰を下ろした。紫と黄色の縞模様というなんとも気味の悪い見た目とは裏腹に、毛皮の手触りは柔らかく、座り心地はなかなかだった。

 魔物は並んで座った二人の向かいに腰かけ、傍で火にかけていた鍋から謎の汁を汲んだ。ドロドロとした液体を入れた椀を二人に渡す。震えながら受け取ったロランドは、お椀の端が欠けていることに気が付いた。この魔物一族の族長でありながら、この者は貧しいのだろうか。

 ロランドが頭を捻った横で、同じようにお椀を受け取ったアルは躊躇いなく口に運び、汁を呑み干した。その際、彼はちらっとこちらを窺い見る。

 ロランドは瞬時に悟った。恐らく、これはこの魔物集落での礼儀なのだろう、と。

 手に持った椀に揺れる液体を見つめてみる。どす黒く、蛇を焼いたかのような悪臭がするが、ここで魔物の機嫌を損ねるわけにはいかない。

 出来るだけ息を吸わないようにして、中身を一気に呷った。

 瞬間、極上のミルクを飲んだかのようなまろやかさが喉を通り抜けた。あの酷い臭いを考えると、これはあまりに予想外だ。


「けっこう美味いでしょう?」


 呆然とするロランドに、料理長は意地の悪い笑みを向けてくる。ロランドは盛大な苦笑いを浮かべることとなった。

 すると、飲み終わるのを待っていたように、魔物の族長が口を開いた。


「して、ヌシらは何用でこの地へお出でなすった?」


 その声は、先程までのものよりも柔らかく聞こえた。


「今日はちょっと、族長に訊きたいことがあって来たんだ」


 アルの話す口ぶりは、魔物をまるで友人とでも思っているかのような、そんなごく普通の口ぶりだった。ロランドの中で、先日女将から聞いた言葉が思い出される。


 『魔物』とは、魔界に住む『動物』なのです――。


 この言葉を真面目に受け止めるならば、目の前で不気味な表情を浮かべる魔物も、ただ知能の高い動物ということなのだろう。ロランドの中で、魔物への見方が変わった。


「ほう、訊きたいこと、とな?」

「ああ。こっちの人、ロランドさんのためなんだけど」

「ふむ……」


 デーモンが視線をロランドに移す。探るような、試すような視線だ。

 ロランドは隣の青年に頼んだときと同じように、目の前の族長にも礼節を以て頭を下げた。


「どうか。力を御貸し願いたい。故郷を襲撃した者を、見つけ出したいのです」


 ヒトに接するのと同じ礼を見せたロランドに、アルは微かな笑みを浮かべる。


「ヌシの故郷とな……?」

「族長、ロランドさんの故郷は人界の聖王国なんだ。半年くらい前、彼の故郷がデーモンらしき者の襲撃を受けたらしい。彼はその後を追って、うちの宿まで来たんだよ」


 アルも微笑み、口添えをする。頭を下げているロランドは、内心で彼に感謝の念を捧げた。


「ふむ、人界を……。もしや、その者は何かを奪わなかったかね?」


 デーモンの族長は顎に手を当てて暫く考えた後、不意にそんなことを訊ねた。

 ロランドは顔を上げて族長を見つめる。そこに真意を探る色はあっても、こちらを威圧するような色は一切ない。そう気付いた瞬間、ロランドの胸から恐怖が消えた。


「確かに、故郷を襲った者は家財を奪っていきましたな。確か――揺り椅子だったかと」


 族長の眼の色が変わった。元々朱かった眼が、怒りに揺れる。


「揺り椅子……。それは確かかね?」

「間違いございません。被害を受けた家の者が、手に入れたばかりの品を持ち去られたと申しておりました」

「そうかい」


 デーモンは怒りを眼に湛え、それでいて残念そうにため息を吐いた。ロランドの隣では、アルが真剣な表情で族長を見つめている。


「……しばし、ここでお待ちなされ」


 やがて、黙り込んでいた族長はそう言って立ち上がる。そして黙ったまま、二人を置いて家を出ていった。ロランドはその背中に大きな怒りと、同時に隠しきれない哀しみを見た。




 族長はそれからおよそ一刻の後に戻ってきた。そして族長がその手に持っていたモノに、ロランドは息を呑んだ。

 族長が持っていたのは同族の――デーモンの生首だった。


「儂らデーモン一族には、他者から物を奪ってはならぬという掟があっての。この地に在る様々な物は、その全てが主を失った物なのじゃ」


 曰く、彼らデーモン一族は持ち主が死に、遺された物だけを集めるという掟があるそうだ。それ故、生ある者たちから何かを奪うのは掟に反するのだと。


「その、掟に反した者は……」


 ほとんど答えを知りながらも、ロランドは訊ねずにはいられなかった。

 族長は声を落とし、残念そうに答える。


「掟を破った者は、例え幼子であろうと死罪じゃ。……この、儂の孫のようにの」

「お孫さんなのですか!?」

「そうじゃ。この阿呆は己が欲の為、ヌシの故郷で略奪を働いたのじゃ。故に、儂はこやつを死罪とした」

「そんな、ご自身のお孫さんともあろう者を……」


 思わず声を荒げてしまった。だが、それも当然だ。いくら一族の長とはいえ、自らの身内を死罪にするなど、まともな判断だとは思えない。


「ロランドさん」


 しかし、アルに肩を抑えられてロランドは一先ず落ち着こうと息を吐く。


「彼らには、彼らなりの流儀がある。俺たち人族の常識で量るのは間違いですよ」


 彼の言うことは尤もだった。確かにここは人界でもなければ、目の前のデーモンは人族とも違う存在だ。人族の、それもパソンという狭い常識でものを語るのはおこがましいのだろう。


「アル坊やの言う通りじゃ。儂らには儂らの習わしがある。気にせんでよい」


 族長の声は淡々としていた。孫を殺さなければならなかったのは残念なようだが、それ以上の感情は無いように見える。


「話を戻そうかの。ヌシの言葉によって、儂はこの阿呆を裁いた。この首を持ちかえれば、ヌシの務めも果たされるじゃろうて」

「それは、確かにその通りですが……」


 族長の厚意はありがたい。首を持ち帰りさえすれば、ロランドに下された務めは果たされるだろう。昨夜までの絶望を思えば正しく僥倖だ。


「なに、気にせんでよい。儂らは争いを好まぬ。ヌシの国の戦士がここへ押しかけてこないのであれば、孫の首を渡す意味もあるじゃろうて」


 皺だらけで灰色の顔に、微かな笑みが浮かんだのが見て取れた。ロランドは心を決める。


「承知いたしました。騎士の誇りに賭けて、報復などさせぬと誓いましょう」


 もう一度、深く頭を下げて礼を尽くす。

 ロランドの答えに、族長は満足そうな様子で頷いた。







 結局、ロランド一行は五日間の滞在の後、六日目の朝に本国へ向けて出立することになった。

 晴天の森の中、果ての庵の玄関口に並んで彼らを見送る仲居二人と料理長、そして女将。

 向かい合う形で、しっかりと磨かれて輝きを取り戻した甲冑に身を包んだ騎士六人の姿が並ぶ。その中心に立つロランドの足下には、大きな麻袋が置かれていた。


「何から何まで、大変世話になりました」


 一行を代表して、ロランドが女将に深々と頭を下げる。五人の部下たちも隊長に倣って腰を折った。


「いえ、私どもにとって、お客様の存在は大切ですから」


 女将は陽の光を受けて、輝くような笑顔でお辞儀を返す。


「何か至らない点はございませんでしたか?」

「とんでもない。応対は丁寧で料理も絶品。寝心地もよく、温泉は格別。これ以上ないくらいの素晴らしいもてなしを頂きましたぞ」


 隊長の言葉に、部下の五人も一様に頷く。

 六人全員が、果ての庵でのもてなしを満足と感じているのは間違いない。


「ありがとうございます。御満足頂けたようで何よりでございます」

「これほどの手土産も頂いてしまって、罰が当たらなければいいんだがね」


 ロランドが足元の麻袋に視線を落として、苦笑いで呟く。


「ふふ。それに関しましては、アルが勝手に言いだしたことですので私からは何も」


 穏やかに言う女将の眉間にはしかし、僅かに皺が寄っていた。


「おいおい、まだ怒ってるのかよ?」


 勘弁してくれと、料理長がため息を吐きながら口を尖らせる。


「当然よ。いきなり六剣山へ行くって言われたときは、本当にびっくりしたんだから」


 と、そんなことを言い始めた女将は、纏う雰囲気が少し変わっていた。

 言葉使いも同様に、見た目相応の年頃の少女のものとなっている。


「ユリア、すごく心配してたよね。リーナに泣きつくくらい」


 そこへ騎士達の世話を務めた仲居の一人が、ニヤリとした笑みを浮かべながら爆弾を投下する。案の定、女将の顔は真っ赤に染まった。


「ス、スズナ!? それは……」

「へえ、そんなに心配だったのか?」

「そ、そんなわけないでしょ!」


 反射的に言い返す女将の表情は、怒りではなく羞恥で赤くなっているようだ。


「……アルなら何が来ても大丈夫って、信じてるもの」


 結果、言い訳としては大分的外れな台詞が出てきて、周囲の者達は絶句してしまう。

 からかった当人である子供のような見た目の女性も、こめかみを抑えてため息を吐いた。


「あーはいはい。ごちそうさま」

「お前たち、お客様の前だぞ?」


 呆れ顔の老紳士が諌めることで、ようやく女将は我に返った。そして自分が晒してしまった痴態に動揺する。


「あっ!? も、申し訳ございません、お客様。お恥ずかしい姿を……」


 先程以上の羞恥で赤くなった彼女に、ロランドは柔らかな笑みを向けた。


「いや、寧ろ安心しましたぞ。その若く可愛らしい容姿にお似合いの表情が、やっと見られましたのでな」


 五人の騎士たちも、初めて見せた女将の可愛らしい姿に笑みを浮かべて頷いている。


「あぅ」


 頬を朱に染めて俯く女将。

 それを見て満足げに頷いていたロランドは、彼女の隣に立つ青年に目を向けた。


「アル殿」

「はい」

「この度は、大変お世話になりました。謹んで、感謝の礼を申し上げたい」


 眼を閉じて頭を垂れるロランドに、アルは朗らかに笑いかける。


「いえ、俺はデーモン一族の長と面識があったので久しぶりに会いに行っただけですよ。族長に礼儀を欠くことなく話をしたのは、ロランドさんですからね」


 隊長はとんでもないとばかりに首を振って、口元を綻ばせた。


「いえ、アル殿のお気遣いがなければ、私は礼を失していたでしょう。それに、そもそも貴方方の力がなければ、私はあの場へ辿り着けなかった」


 そんな風に苦笑いを浮かべる彼に、料理長アルは頬を掻く。


「まあ、俺もちょっと気になっちゃったんでね。無事解決してよかったですよ」

「まこと、ありがとうございました。このご恩はいつか必ずお返し致す」

「アハハ……。それじゃあ、またうちへ来てください。それだけお願いしておきますよ」

「はい。必ずや、また訪れると約束致しましょう」


 ロランドは強く頷くと、世話になった者たちへ視線を行き渡らせる。そして徐に敬礼の姿勢を取ると、ハッキリとした口調で別れの向上を述べた。


「それでは、我らはそろそろ行かせて頂きます。大変お世話になりました」


 彼の脇に並んだ五人も同じように敬礼を取り、隊長に続く。


「皆様のまたのお越しを、お待ちしております」


 立ち直った女将の言葉と共に、四人の従業員は各々別れのポーズをとって笑みを浮かべる。

 ロランドは首肯して応え、足元の袋を持ち上げると、振り返って古森ヘイムダールの中へ歩き出した。




 太陽の光に輝く新雪。静かで、澄みきった空気。

 もう一度この地を訪れたいと、心の底から願って――。

 ロランドは袋を肩に担ぎ直し、部下を率いて南へ歩いていった。


 目指すはこの大陸唯一の港。そして、遥か遠くで待つ故郷だ。




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