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選択の扉

「第一の難問ってどういうことだよ!」

 マイケル・コスナーが怒声を上げた。

「これからもこういう道を歩まなければなりません」

 天使は淡々としゃべる。感情はないのだろうか?

「ふざけんじゃねーよ。こんなことをまたさせようってのかよ」

「そうだ、そうだ」

「馬鹿にするな!」

「もうこんなこといやだ」

 非難の嵐が吹き付ける。大勢の人々は恐怖に怯え、叫び、嘆いている。

「進まない道を選ぶことができます」

 天使は不意に言い出した。

「どういう意味だ?」

「このまま天国へは行かず、ドロップアウトする道のことです」

 すると、辺りは再び静まり返っていく。

「これからも、今みたいな試練が待ち構えています。誰しもが悪魔になってしまい、永遠の苦しみを味わう可能性が。しかし、違う道を選択することがあなたたちにはできる。突いてきてください。そうすれば、あなた方は選択することができる」

 天使たちは半数に減ってしまった人々を誘導していった。俺は先頭近くであるきながら、上野と小島の三人で進んでいった。

「言いたくなければ言わなくてもいいんだけどさ。小島はどうして入院服を着ているんだい? 病気か何かだったの?」

 そんな不謹慎な話をするべきではないことは分かっていた。しかし、それ以上に好奇心というやつに俺は負けたのだ。

「心臓病だったんですよ。僕」

 不機嫌になると思っていたが、小島の顔を穏やかであった。

「生まれつき、心臓に問題があって生まれてからほとんど病院から外に出たことがなかったんです。そのために、ほとんど学校にも通えなかったし、ここにいるのもその心臓病が悪化して死んだんです」

「そうだったのか。そういう話ってテレビではよく聞くけど、身近にいなかったからなぁ。やっぱり、学校には行きたかったかい?」

「そりゃそうです。病院を出て、走りたかった。でも、結局死んじゃいましたけどね。だから、逆にうれしいんです」

「うれしい? どうして」

 意標を付かれた感覚に襲われた。

「だって、こうして何不自由なく歩くことができるんですから」

 そうか、病院でチューブに繋がれた生活では歩くこともままならないか。そういう考え方もあるということだ。

「じゃあ、俺は恵まれてた方だったんだな。学校にも行けたし、病気にかかったとしても風邪やインフルエンザくらいだったからな」

 俺よりも不幸な人間に出会うのは正直初めてであった。俺も含め友人たちで重い十字架を背負っているようなやつはいなかった。こんなに恵まれていたのにつまらない死に方をしてしまった俺は本当に馬鹿だ。

「神路さんはどのような学校生活を送っていたんですか?」

 小島が聴いてきた。

「いたって普通の学校生活だったけど」

「もっと、具体的にですよ」

「そう言われてもな・・・・」

 俺の人生はぱっとしない普通の人生だった。これと言って自慢することがないのが俺の人生だった。

「そうだな・・・・・おお、じゃあ、小川事件の話をしようか」

「小川事件ですか?」

 俺は小川事件の全貌をこと細かく、説明した。

 すると、小島は大声で笑っていた。

「笑い事じゃなかったんだぞ。本当に危なかったんだ。いろんな意味で」

 本当に、あの時の恐怖は溜まったものじゃない。女子生徒のえげつなさを知った悪夢の出来事だった。

「そういう思い出があるだけいいじゃないですか。まあ、怖いんでしょうけど」

 小島はまだ笑っている。

「こいつ!」

 俺は小島の首に腕を巻きつけ、懲らしめている。それを見ていた上野が笑いを堪え切れなかったのか咳き込むように笑った。

「上野まで笑うとは・・・失礼な」

「だって・・・ねぇ」

 先ほどまで無言だった上野が笑ってくれたのが俺はうれしかった。やはり、笑顔は何もにも負けない強さがある。

「そういう上野は学校生活どうだったんだよ。制服着てるんだから、学校に行ってたんだろ!」

 すると、上野は急に無表情になり、雰囲気ががらりと変わった。

 この空気は非常にまずい。とんだKY発言をしてしまった。

「言いたくなければ別に構わないさ。誰しも言いたくない過去はある」

「ごめんね」

 上野は申し訳なさそうに言った。

「良いんだよ。別に。罪悪感を抱く必要はないさ」

「神路先輩。もっと、駄目歴史を教えてください。そうすれば、学校に行った気分を味わうことができるんで」

 小島は笑みを浮かべている。本当に学校に行きたかったんだな。

「駄目歴史と言ってもな・・・・・何かなかったかな?」

 俺は腕を組みながら考えていると、予想外の人物が口を挟んできた。

「ダサい思い出しかねーんだな。お前たち」

 マイケル・コスナーが俺たちの会話に入ってきた。

「俺はアメリカンドリームを掴んだ選ばれし人間なんだぜ。まあ、日本人のお前たちには理科できねーだろうけどな」

 マイケルは鼻で笑っていた。

「じゃあ、聴くがアメリカンドリームを掴んだお前がどうしてここにいる?」

 俺は悪意を持って言った。

「ああ、これは夢だよ夢。俺は死んでなんかいないぜ。もう少しすれば夢は覚めてお前たちみたいな凡人とはおさらばだ」

 どこまでも現実逃避を。これが夢ならどんなにうれしいか。

 俺はマイケルに近づいて、やつのほほをつねった。

「痛て! 何すんだ?」

「痛かったろ?」

「ああ、痛かった。だから何なんだよ」

「日本ではな。夢かどうかを判別するとき、ほほをつねって痛みがあるかないかで夢か現実か判断する風習があるんだよ。ちなみに痛みがある場合はそれは現実だ!」

 俺は力をこめて言った。

「そんな風習、誇り高きアメリカ人の俺には通用しないんだよ。これは夢だ。現実にこんな世界があるわけがない。長い夢を俺は見てるんだ。夢が覚めればまた、セレブのいい生活が俺を待っている」

「ああ、そうかい。だったらそう思っていれば良いさ」

 俺は呆れてしまい、相手にしないことにした。

「先輩、思い出はなしてくださいよ」

 小島がしつこく要求してくるんで俺は過去の記憶をさかのぼり、特徴のない人生を見返した。

「そうだな・・・・学校生活とは違うけど、野球の話ならある」

「教えてください」

「小学校時代にな。少年野球団にいたんだけれど、一度だけ奇跡を起こしたことがあったんだ」

「何ですか。奇跡って?」

「俺は見てのとおり、体育会系とはほど遠い体つきだろ。だから、中学生以降は運動部には入らなかったんだ。小学校時代に戻るけど、その筋肉質とは程遠い俺が野球をやってたから決していい選手ではなかったんだ。ほとんど補欠でね。足はそこそこ速かったんだがパワーがなくてね。だからランニングホームランもなければ、遠投も大の苦手でね。フライは取れたから一応外野だったんだけど」

「使えない選手だな」

 マイケルは俺を馬鹿にしてきたが、相手にはしなかった。

「ランニングホームランって何ですか?」

 そうか、小島は野球を良く知らないのか。

「ランニングホームランはバッターがボールを打って、そのままホームインすることだよ。プロ野球で言うホームランは基本的にフェンス越えをした場合だけど、リトルリーグは別にして基本的に少年野球で使用するグラウンドはフェンスがなくてそのままボールが飛んでってしまうんだ。仮にフェンス有りのグラウンドを使用したとしても、フェンスを越えるほどの野球児はそうそういないんだよ。だから、少年野球で発生するホームランは基本的にランニングホームランが多いんだ」

「日本の情けない惨めな野球だな」

 マイケルはこの後に及んで嫌味を言ってくる。しかし、そんなやつは無視するに限る。相手にするだけ時間の無駄だ。まあ、今となっては時間も何もないんだが。死んでいるので人生の浪費とかそういう考えはもはや不要だ。

「まあ、そんなわけで中途半端な野球少年だったわけだが、そんな時に天気がやってきたんだ」

「レギュラーになれたんですか?」

「そうなんだよ。味方チームの一人が怪我して代わりに俺が出ることになったわけ。本当にあの時はうれしかった。あの時が絶頂期だったんじゃないか?」

 あんなことが絶頂期といっている俺はある意味終わっているな。

「まあ、いろいろあって俺に打順が回ってきたわけ。そうしたら、監督が見事にあるサインを出したわけ」

「何のサインを出したんですか?」

「バントのサインだよ。ランナーが二塁にいてノーアウト。俺の打率が悪かったから監督がサインを出したんだ。しかも、ファースト方向へのバントだ」

「かっこ悪いなお前。バントとかメジャーリーグでもほとんど目にしないぜ!」

「マイケル。お前には話してない。会話に入るな!」

 さすがに頭にきたのでどすの聴いた声で言った。

「俺に指図するな。日本人はアメリカ人の言うことを聴いてりゃ良いんだよ」

 どこまでも性根の腐った馬鹿俳優だ。

「戦争しかできない愚かな国はほっといて話に戻るけど」

「おい、戦争しかできない国ってどういうことだ!」

 マイケルは再び癇癪を起こした。

「そういう意味だ。君の国はすぐ力を行使しようとする。イラクにアフガニスタン。君の国の介入でどれだけの人々がなくなったか分かってないようだな。坊や」

「何だと!」

 マイケルは俺の制服の胸倉をつかんだ。

「離せ! お前とは会話すらしたくない。不愉快なんだよ。お前の存在そのものが!」

 俺はマイケルに本音をぶつけた。

「アメリカを侮辱するんじゃねー」

「なら、日本人を馬鹿にするな!」

 実にくだらないけんかだ。天使たちの進行を妨げてしまう。

「まあまあ、二人とも」

 小島が俺たちをなだめた。

「っけ! 覚えてろ! モンキーやろう」

 マイケルは不機嫌のままその場を離れ、早足で前に向かった。

「あの人、本当にうざったい」

 後ろにいた上野がポツリと言った。

「アメリカ人の全員が全員あういうやつではないはずだがな」

 不快な空気だけを残し、去っていくマイケル・コスナーを俺は若干哀れんでしまった。あの性格で友達がいたとは考えにくい。仮にいたとしても、それは金目当てのろくでなしの連中だろう。パパラッチに追われる生活を俺は知らないので彼の抱えている闇を理解することはできない。

「話の続きをしてよ」

 上野が言い出したので俺は少し驚いた。

「俺の話、おもしろいか?」

「うん、とっても」

「どうして?」

「だって、自分を飾ってないから」

「飾ってない?」

「男子ってすぐかっこつけるでしょ。話にも装飾加えて美化しようとするし。でも、あなたの話には現実味がある」

「話を続けましょう」

 小島にも促されてはしかたがない。俺は話の続きをした。

 俺たちは天使たちの誘導の元、ひたすら歩き続けた。天使たちが言った別の選択という言葉を理解できないまま、俺は自分のくだらない話を続けた。

「バントのサインが出たんで俺はその指示に従ったんだ。もちろん、セーフティーバントをするだけの技量はなかったから、小さなゴロをすればよかったんだ。そうしたら、そのバントでスリーベースヒットになったんだよ」

「どうしてですか?」

「それがさ、俺誤って内角のボールにバントをしたから三塁方向に行っちゃったんだよ。そうしたら、意外といい感じのゴロボールでピッチャーが慌てたわけだ。それで俺が走っているファースト方向にボールを投げたらそれが大暴騰。しかも、普通外野のライトの人がファーストのカバーに入ってなきゃいけなかったんだけど、カバーするのを忘れて、ボールはそのままファーストの後ろを転がってっちゃって。おかげで俺は三塁ベースを踏むことができたってわけ。試合には勝つことができたから良かったんだけど、監督には怒られたんだ」

「どうしてですか? 大活躍じゃないですか?」

「野球ってのは結果だけがすべてじゃないんだ。監督の命令どおりに行動する。これが野球の基本なんだよ。しかも、コーチがつけていた選手の記録票にはしっかりと俺の欄にはエラーによるヒットと記されてたってわけ」

「その後は、どうだったんですか?」

「永久補欠で終わったよ。やっぱり、打てない選手はレギュラーには入れないさ」

 そう考えると、少し悲しかった。補欠も立派な仕事だという人はいるだろうが、そんなことはない。補欠は辛い。ただ、試合を見ることしかできないし、ランナーコーチや応援をするくらいしかできない。この辛さは同じ補欠の連中にしか理解できないさ。もう一回くらい試合に出たかった。あの緊張感を楽しみたかった。また、後悔が一つ増えてしまった。

「スポーツってやっぱり厳しいんですね」

 小島はテンションの低い声で言った。

「もし、また生まれ変わったりしたら、今度は個人戦ができるスポーツでもやるかな?」

「例えば、何ですか?」

「卓球とかかな。野外スポーツはやっぱり辛いよ。特に夏は。しかも、それで補欠だと本当に惨めだから。ただ、日に焼けるためにいるみたいでな」

「でも、いいじゃないですか。外で動けるって」

 小島はうらやましいのだろう。

「もしさ、小島が健康だったら何をしていた?」

 俺は小島に興味がわいてきた。

「そうですね。僕もあまり体育会系ではないので、卓球とか陸上とかですかね」

「やっぱりスポーツなのか?」

「サッカーとか野球は補欠が生まれますからね。卓球とか陸上ならどんなに下手でも試合には出られますから」

「陸上なら科目は何にする?」

「そうですねぇ。短距離、中距離、長距離のほかに何がありましたっけ?」

 そうか、入院生活の長かった小島には分からないことだらけか。

「槍投げ、ハンマー投げ、ハードル、走り幅跳びなんかかな。まあ、俺も陸上は詳しくないからな。そうだ。上野は部活とかどうだったの?」

 俺は不意に上野に話を振った。

「え、私・・・・・私帰宅部だったから・・・・」

「帰宅部って部活もあるんですか?」

 小島の予想外な言葉に俺と上野は笑ってしまった。

「違うよ。帰宅部ってのは部活に入っていない人をさすんだよ」

 そうか。高校に入って部活には入部しないという選択肢もあったわけか。そういう発想は俺にはなかった。

「そうなんですか。失礼しました」

「いいのよ。別に」

 上野は低い声で言った。

 しかし、女性の考えていることは分からん。小川事件のときもそうだが、どうにも女性とは理屈で片付けられない存在だ。この上野もきっと何か重いものを持って歩いているに違いない。暗い過去、皆には言えない秘密というやつが。

 しかし、それを無理に聞こうとするつもりはない。皆死んでここに来たのだ。死とは不幸そのものだ。悲しいことであり、可能性を完全に奪われたことを意味する。

「でも、学校は部活以外にもいろいろあるぞ。やっぱり、メインは勉強だ」

「勉強したかったです」

 小島の発言は俺以外の多くの学生を驚かせる発言であろう。

「そんなことをいう子供がいるとは」

「神路先輩は勉強嫌いですか?」

「嫌いに決まってるだろう」

 俺ははっきりと答えた。

「それは贅沢ですよ」

 小島からすれば勉強の機会を与えられている俺はまさに贅沢三昧なのだろう。人生の大半を病院で過ごした小島からしてみれば、学校に行けるということ自体が贅沢であり、嫌いという俺はわがままな金持ちと同じ意味合いを持つのだろう。

「そうかもしれないな。でも、勉強はどうしても好きになれなかった」

「好きな科目とかなかったんですか?」

「そうだな・・・・・」

 今思い返してみても、好きな勉強など存在しなかった。テストではよく友人たちといっしょに冗談半分で競っていたりしたが、得意科目が存在しなかったことは事実だ。

「無いな。国語や英語は駄目だったし、数学や理科なんかの数字もいまいちだった。特に社会は酷かったな」

「どうしてですか?」

「ただ、暗記するだけの勉強だったからだよ。歴史は特に苦手だった。ただでさえ漢字が苦手な上に、年号まで覚えなければならない苦痛は尋常じゃなかった。しかも、担当の先生の教え方がこれまた酷い。教科書に載っているものをそのまま黒板に書くだけの退屈な授業だったからな。専門の教師なら、教科書には載っていない裏話とか細かい話をして説明するとかいろいろあったはずなのにな」

「実技教科って言うんですかね。体育とか。どうだったんですか?」

「最悪だったとしか言いようが無かったな。楽器は弾けない。音符は読めない。絵はかけないし、時間もかかる。縫い物や料理はもう最悪。運動もたいしたことはない。もう最悪の科目だった」

 つまり、五教科七科目すべてが駄目だったのだ。しかし、偏差値五十前後の普通高校に入れたので俺はそれで満足だった。

「神路先輩は何か得意なこととかあったんですか?」

 これはもっとも聴かれたくない質問であった。

「いや・・・それがないんだ。得意だったこととか」

 これは後悔しきれない最大の欠点だ。俺には何のとりえもなかったのだ。よく、自己紹介文で長所を記入する項目が設けてあるが、実に不愉快であった。何を書けばいいのか散々悩まされたからだ。短所ならいくらでも浮かぶ。しかし、長所となると何も浮かばない。だからと言って、嘘を書くことも俺にはできなかった。

「気がつかなかっただけですよ。神路先輩は自慢できる長所はあったはずです」

 小島は本当にいいやつだ。

「後輩に励まされるとは俺も情けない。人生を無駄にしたな」

「そんなことはないよ」

 上野がポツリと言った。

「え?」

 俺はまた意標をつかれた。

「神路先輩はいい人生を送ったと私は思います」

 暗い感じで言うので何か気に障ったことを言ってしまったのではないかと俺は思ってしまった。

「そうかい? 俺には情けない人生だったと思うけどな」

「人なんて情けない過去を持っているものよ。かっこいい人生を送れる人なんてほんの一握りよ」

 上野の発言には妙な説得力を感じた。それと同時に上野が発する言葉一つ一つに重みを感じる。

「上野さんの言うとおりですよ。僕なんかよりよっぽどおもしろい人生を送っていますよ」

 入院生活が長かった小島にまで言われてしまっては反論する余地がない。認めるしかないだろう。

「二人の言うとおりかもな」

 それからしばらくして、多国籍集団たちはただひたすら歩き続けていた。違う選択の意味を互いに理解できないままに歩き続ける。その先に答えがあるのなら。

 湖から陸へ出てきた後、緑色をしていた草原が黄色に変わっていくのを目の当たりにした。

「見ろよ。草原が黄色に変化しているよ」

「本当ですね」

「本当だ」

 俺たち三人はこの不可思議な現象を楽しんでいた。しかし、心の奥底には悪魔にされるかもしれないという不安を隠そうとしていることは分かっていた。しかし、この世界は地球とは違う。まさにダークファンタジーと呼ぶ代物だろう。

 全体が黄色になったが、空は虹色のままだ。この景色の変化は日本の春夏秋冬にどこか似ている。言葉では分かっていても、実際に春夏秋冬を実感するのは景色ではなく、気温の変化であった。暑さや寒さだけで季節を知ることしかできなかった俺はまた一つ悔いを残してしまっている。

 景色の変化は美しかったはずなのに、俺はそれを見ようとはしなかった。それは人生で遣り残したことのである。

 俺は馬鹿だったのだ。学生など所詮、勉強して卒業し、社会に出て、貢献し、誰かと結婚し、子供をもうけ、育て、次の世代への礎を築いていくものだ。しかし、学生の勉強途中で俺は死んでしまったので非常に狭い価値観のまま、死後の世界に来てしまったのだ。学校は勉強を教えることしかできない不器用な空間だ。その空間内にある価値観を超えられなかった俺は馬鹿だったのだ。

「黄色って言うより、小金色といったほうが、夢があっていいんじゃないですか?」

 小島がいいことを言った。

「そうだな。黄色じゃロマンがないか。黄金だな。この景色は」

 すると、景色の変化に気がついた多くの人々はその方向に顔を向け、そのすばらしき芸術的光景に目を取られた。

「きれいだな」

「なんてすばらしいんだ」

「この世界はファンタジーだ」

 国籍が違っても、共通する感性はそう変わらない。それはすばらしいと俺は思う。国籍の壁は大きいが、いつか人類はその壁を壊し、人種や国籍を超越した世界になるのと俺は信じている。この世界で俺が信じられると思ったことだ。

人類は同じ種でありながら、対立を繰り返し、戦争を起こし、互いを憎みあうことができる生き物だ。知能と理性を備えながら、そのような動物的思考を優先させてしまうのは社会がそうさせるのだろうか? 

「病院からじゃ、せいぜい枯葉くらいしか見えなかったからなぁ」

 小島の言うことには説得力があった。

「なんか悲しくなるだろ。そういうの」

 小島が病魔に倒れ、枯葉が落ちていく光景がテレビに映っているかのように想像してしまう。

「しかし、天使たちが行った他の選択って一体何だろうな?」

 俺が二人に質問すると、二人とも考えてしまっている。

「この世界って一体何なのだろうな。試練なんか必要あるのかどうか。それにあの悪魔たちはどうしてこの世界にいるのか? 疑問が尽きないんだよな。俺」

 それはこの二人とて同じであった。いや、この二人だけではない。他の人々も皆同じ考えだろう。

「死後の世界は僕にはよく分かりませんが、ただ僕は健康でいられるのがうれしんです。だから、この旅をやり遂げます」

「旅をやり遂げるか・・・・・天国って一体何なんだろうな?」

 疑問は数多く膨れ上がる。まるでウイルスが増殖するかのように。

「いろいろありますからね。天国の価値観って。僕はやっぱり来世で蘇る場所だと思うんですよ」

「オーソドックスな回答だな。上野はどう思う?」

「私は・・・・分からない」

「そうか」

 そうだよな。行ってみないことには分からない。しかし、そのへ行くまでに数多くの試練があるのなら、行く価値のある場所かどうかを知りたい。俺たちにはそれを知る権利があるのではないだろうか。

 俺は隣に歩いている黒人系の天使に話を聴こうと近づいた。

「すいません。天国って一体どんな所なんですか?」

 すると、天使はこちらを向いて言った。

「行けば分かる」

 その回答に俺はがっかりした。

「教えてくださいよ。それとも、そういう掟か何かあるんですか?」

 俺は歩きながらもしつこく聴いた。

「言えないんだ!」

「どうしてですか?」

「言えないものは言えない」

「そんな・・・・・」

 これでは頭に浮かんだ疑問が消化不良で機能不全に陥ってしまう。

「少しくらい教えてくれたっていいじゃないですか。でないと、この後にある道の選択がスムーズに行われないかもしれませんよ」

「確かに」

 少しは手ごたえがあったようだ。しかし、次の言葉に俺は愕然とした。

「しかし、言えないのだ。なぜなら、我々は天国へ行ったことがないからだ」

 その言葉に俺は口を空けることしかできなかった。

「天国に行ったことがないんですか?」

「ああ、天使は皆行ったことがない。でなければ、天使にはなっていない」

 おかしいだろ。天使って神の使いだろ。あれ、違うのか?

「どうして、天国に行ったことがないんですか?」

 なら、質問を繰り返すしかない。

「行く理由がないからだ」

「理由がない?」

「我々はあくまで死者を導くことが仕事だ。それゆえに天国に入る理由はない」

「あなた方は天国に入って天使になったんじゃないんですか?」

「それは違う」

「では、どうやって天使になったんですか?」

「それは後に分かることだ」

 この天使はそれ以上何も言わなかったので、感謝だけしてその場を去った。そして、小島と上野がいる列に合流し、先ほどの経緯を説明した。

「そんな、それじゃ天国がどういう所か分からないまま進むんですか?」

 小島がうろたえている。

「そうなんだよ。だから、もしかすると天国は今以上に危険な場所かもしれないってこと」

「そんなのいや!」

 上野が金切り声を上げた。それを見た俺と小島は驚いてしまった。

「あ、ごめんなさい」

「いいよ。別に」

 驚くのも無理はない。ガイドが終点を知らないようなものだ。これじゃあ、ここにいる天使たちは地球でやっていけないぞ。

「苦しいのは嫌よ」

 上野は口を再び開いた。

「悪魔になったら、一生苦しみながら仲間を求めて這い上がってくる。それだけは俺もごめんだ」

「僕だってそうです」

「しかし、危険を冒してまで天国に行く必要性が果たしてあるかどうかだ。これは究極の選択が待っているな」

「選択ですか?」

「選択ね」

 俺たちは意気消沈してしまった。

 気分治しに景色を見ると、草原が黄金色から銀色へと変色していくのを見た。

「おい、見ろよ。今度は銀色だ」

 下を向いていた二人は右方向に顔を向け、景色の変化を目の当たりにした。

「本当に不思議な世界だよな。ここ」

「そうですね。地球では絶対見れない景色です」

 銀色は地球では絶対見られない。その独特の輝きはこの世界だけのものであろう。この不可思議な自然には俺をひきつける魅力がある。地球では経験できなかった壮大さと感動がこの世界には・・・・しかし、同時にこの世界には悲しみもある。悪魔という汚らわしき姿をした存在。苦しみを味わい、仲間を増やしていく悪しき根源。この対照的なものが存在する世界。これが死後の世界だ。

「この景色はこんなにもきれいなのに、どうして悪魔なんているのかしらね?」

 上野は銀色に輝く草原を見ながら言った。

「そうだな。全員の魂が天国へはいけないのか? 疑問は募るばかりだ」

 一体何のために俺たちは旅をしているのだろうか?

 天使たちは天国のことを知らない。しかも、天国に行くためには悪魔を退けなければならない。悪魔になってしまえば、一生の苦しみを背負いながら、この世界で魂のままに存在し続けなければならない。しかも、天使たちは翼を使って空へ逃げ、俺たちを助けてはくれない。自分たちだけで悪魔たちと向き合わなければならない。

 しばらく、俺たちは会話をせずにもくもくと歩いていた。緊張していたのだ。選択という言葉に。そして、その意味がついに判明する。

 俺たちは無限に続くと思っていた草原を歩いていると、とても不自然な『扉』を見つけた。それは俺たちの進行方向の側面にあり、しかも扉が設置してあるだけであった。

 すると、前方を進行している天使が皆を止め、言葉を発した。

「皆さん。横に見えるのがドロップアウトできる扉です。このまま、悪魔にされるリスクの高い天国の旅を続けるか、このまま諦め、別の道を選ぶ選択のときです」

「あの扉は何なんだよ。ただ扉だけがあるだけじゃないか!」

 マイケル・コスナーが同じ白人同士に囲まれながら言った。

「あの扉の先には道があります。地球に繋がる道です」

 その言葉に一同は黙り込んでしまった。

「皆さんが住んでいた場所にいける扉といっても良いでしょう。ただし、肉体は滅んでいるため、魂だけの存在で地球に存在し続けてもらいます」

「つまり、幽霊になれと言うのですか?」

 長宮さんが尋ねた。

「人間的に言ったらそうです」

 辺りのざわめきは増すばかりだ。

「幽霊になったらどうなるんだよ!」

 マイケルはかなり動揺しているようだ。

「幽霊の存在になれば、人間からの視覚に捉えられることはなく、ただ地球を漂うことしかできません。しかし、地球内は自由に浮遊することができ、地球内を旅することが許されています」

 旅することができるのは少しうれしい。

 俺は冒険心にかられ始めた。しかし、それは同時に恐怖心を抱く結果にも繋がる。幽霊になれることが必ずしもメリットばかりではないということだ。この旅でそれがよく理解できたのだ。

「ただし、魂には寿命があり、早くて一年以内に完全消滅し、長ければ何百年も生きられます」

 魂の消滅? そんなこと考えてもいなかった。

「肉体が滅んだのだから魂は関係ねーんじゃないか?」

「魂もまた命の一部なのです。肉体はあくまで入れ物に過ぎない。その入れ物が崩壊したためにあなた方はここにやってきた。文字通りの死後の世界に」

 どこまで俺を混乱させるのだろうか。もう疑問はたくさんだ。

「では、その扉を選択すればこの旅に参加しなくて済むのですね?」

 長宮さんは一人冷静であった。

「そのとおりです。しかし、一度選択した場合、二度とこの世界に戻ることはできません」

「魂の消滅について。消滅した場合はどうなるんですか?」

「魂が消滅すれば、その人は完全に消滅したことになり、復活することもなく、悪魔になることもありません。完全な『無』になります」

 完全なる無。それはきっと、何も感じることもなく、見ることもできない。完全消滅することを意味している。

「一つ気をつけてほしいことがあります。この扉を選択する人だけなのですが、魂の存在になった方々の中に幽霊ではなく、悪霊になる場合があります。強い怨恨を宿した方々がそれになる可能性があり、悪霊になった魂は現実世界に影響を与える場合があります」

「つまり、ポルターガイストとか人に取り付いたりすることですか?」

「まあ、そうでしょう。そのような悪行を行った魂は『死神』によって強制的に魂を消滅させられますのでお気をつけください。まあ、中には死神から逃げ続けて生き残っている悪霊などもいるらしいですが」

 何だその『いるらしい』言い方は。この世界にも噂という概念が存在するのか。それとも死神と天使は仲が良いのか?

「時間は与えますので、ゆっくり考えてください。分からないことがありましたら、私たちに質問を投げかけてください」

 そして、多国籍の集まりである俺たちは各グループになって話し合いが行われた。

「どうするかな? 俺」

 何も分からない天国に行く道を選ぶか地球に追放され、魂が消滅するまで旅を続けるか。

「僕はどうしようかな?」

 小島も混乱していた。

「消滅するのも悪くないわね」

 上野が暗いことを言い出した。

「上野、何言ってんだよ。魂が消滅したら完全に死んじゃうんだぜ」

 上野の発言に俺は驚きを隠せなかった。

「そうですよ。無になんかになりたくありません。僕は今まで無に近い人生を送ってきたんです。それは駄目ですよ」

「しかし、地球上を旅するのも悪くはないよな」

 旅行に行ったことのない俺にとって、自由に旅できることはまるで夢のようであった。しかし、調子に乗って生きている友人たちに怨恨を抱き、悪霊なんかになったら死神に殺されてしまう。しかも、難を逃れたとていつかは成仏してしまう。けれど、悪魔にならずには済むわけだ。

 まさに、究極の選択だ。これは相当な時間を要するに違いない。

 すると、こちらに近づいてくる集団がやってきた。

「あなたたちは中国人ですか?」

 俺の感に間違いなければ、彼らは中国人だ。しかし、日本人との違いがほとんどない。

「俺たちは日本人です」

「何だよ! 日本人か。違う所行こうぜ」

 悪態をつきながら、その集団は去っていった。

「何だ、あの態度は」

 俺はすこし腹がたった。

「中国人ですよ。彼らは反日ですから毛嫌いしたんでしょう」

「反日か。なるほど」

 領土問題とかで何かと対立しているからな。俺たち日本人が嫌いなのだろう。

「テレビでさ。よく、中国人とか韓国人が日本の旗を燃やしながら、デモしている映像が映っているけど、あれ本当なんだな」

 マスコミは偏向報道する傾向があるので、生きていた頃はすべてを鵜呑みにせずにテレビを見ていた。

「そう言えば、仮に魂だけが地球に言ったとして、幽霊同士でコミュニケーションとか取れるのかな?」

 俺は二人に疑問をぶつけてみた。

「そういえば、どうなんですかね?」

「私は・・・・分からないわ」

「だよな・・・・」

 この世界はどんだけファンタジックなんだ。

「じゃあ、俺聞いてみるよ。他に疑問があったら今のうちに聞くけど」

「じゃあ、神路先輩。寿命のこと聴いてきてくれませんか。どの魂がどのくらいの寿命を持っているかとか」

「OK! 上野は何かある」

 しばらく上野は黙っていたが、口を開いた。

「地球が見える望遠鏡がないか聴いてきてくれる?」

「了解」

 そう俺は言い、その場を後にした。そして、腰を下ろしている各国の人々にぶつからないように歩き、天使たちの所に来た。

「あなたは地球行きを希望ですか?」

 白人の欧米系天使が俺に対応してくれた。

「いいえ。質問しにきただけです。まず、地球に行った場合のことなんですが?」

「何でしょうか?」

「仮に俺が地球に行ったとするじゃないですか。すると、俺以外にも幽霊がいるわけじゃないですか。そういった魂同士でのコミュニケーションってできるんですか?」

「できますよ。その点はご安心を」

「では、言葉の壁はやはりあるんでしょうか?」

「それも大丈夫です。言葉の壁は所詮肉体があった時のことですから」

「では、幽霊同士で地球上を旅できるんですね」

「それも可能です」

 それはすばらしいな。地球行きに魅力を感じてしまう。

「あの、寿命のことなんですけど。どうなんですかね。例えば、国籍によって差が出るとかそういうのがあるのですかね」

「詳しくは、天使の私でも分かりませんが、地球に対する執着心の強い魂は寿命が長いと聴いています。まあ、確定的なことは断言できませんが、地球に戻ったらすぐに消滅してしまった魂もあれば、何十年、時には百年単位で生き残っている魂もあると聞いています。正直、地球に行ってみないと分かりませんね」

 執着心か・・・俺にも執着心はあるが、どちらかといえば後悔といったほうが正しい。魂のまま地球へ戻っても、俺には旅をするくらいしかやることがない。もう、人生を送ることはできないのだから。もしかしたら、すぐに消えて成仏してしまうことも考えられる。

「しつこいようで悪いのですが、望遠鏡はこの近くにありますかね。地球を確認したいのであれば教えてほしいのですが?」

「ああ、すいません。忘れていました。望遠鏡はそこにある扉の裏側にあります」

「え?」

 俺は少し驚いたが、気を取り直して扉の裏側に向かうと、望遠鏡があった。

「ありがとうございました」

 白人の天使に感謝して、急いで小島たちの所へ戻っていった。

「おまたせ」

 そして、俺は今までの経緯をすべて話した。

「そうなんですか。ありがとうございました。先輩」

「ありがとう」

「気にすんなって。それより、望遠鏡で地球を見に行こうと思うんだが、どうする?」

「僕は見に行きます。前の時は見にいけなかったんで」

 小島は乗り気のようだ。

「私は・・・・どうしよう・・・・・怖いな」

 怖い? 一体どういう意味だ。

「どうして怖いの?」

「・・・・・・」

 上野は何も言わない。言いたくないのだろう。

「まあ、いいや。時間はいくらでもある。俺たちは望遠鏡の所に行ってくるから気が向いたら来ればいいよ」

 無理強いは良くない。きっと、上野は生きていた頃に何かあったのだろう。

 俺と小島は望遠鏡のある扉の裏側へ向かった。

「俺も望遠鏡を使うの初めてなんだよな」

「どうします。先に先輩が見ますか?」

 その質問に俺は即答した。

「よし、俺から見よう」

 そして、俺は望遠鏡の中を確認した。

 すると、俺が知っている風景が写り始めた。

 ここは俺の家のある町であった。その町には、大勢の喪服を来た人々が町から町にやってきて、俺の家に入ってきている。

 やっぱり、俺は死んだのだなと悟らざるをえなかった。

 心が急に締め付けられるような苦しみと悲しみが起こりながらも、望遠鏡を覗き込み、動かしていった。すると、家の中を確認することができ、両親が泣いている姿が見えた。そして、俺の写真が高々と飾ってあった。

 ここまで生々しいとギャグではないかと思ってしまう。しかし、両親や親戚、友人たちが悲しみにくれている姿は紛れもなく本物だ。演技なのではない。俺は決して優秀な人間ではなかったが、嫌われるような生徒でもなかったので友人や中学時代の同級生たちから悲しまれていることに少しだけ喜びを感じた。

皆が俺の死を悲しんでいる。それがどこか不思議で悲しくて、うれしい。

 皆に思われていた。それだけで十分であった。しかし、後悔の念が消えることはない。皆に存在を認められていたからこそ、生き続けたかった。それが悔しすぎる。

 俺は望遠鏡を強く握り締めた。

 駄目だ。悲しみと悔しさで耐えられない。

「もういいよ。小島に貸すよ」

 俺は負の感情を押し殺し、小島に貸した。

「どうも!」

 小島は笑顔で望遠鏡を手に取った。

 俺は気分を変えるために、一度空を眺めた。虹色に輝く空は草原のようには変化せず、ただ輝いている。その輝きは俺の心の汚れを洗い流してくれている。

 俺はこの世界が好きだ。確かにこの世界には闇の部分も存在している。しかし、この景色は地球では決して見ることのできない創造空間だ。

 旅ならここでもできる。地球でなくても俺は死んでから旅をし続けているじゃないか。そうか。それが俺の答えなのか。今望遠鏡越しに見た地球を俺は拒否した。それは生きている人々に対する一種の怨恨といってもいい。そういった人間が魂だけ地球に返された所で悪霊になり、死神に狩られるのがオチだ。

 俺は悔しい。自分が死んでしまったことに。そして、友人たちが生きていることに。無性に悔しいのだ。

 小島に顔を向けると、小島も渋い顔をしている。きっと、俺に近い感じの感情が湧き出ているに違いない。しかし、人生の大半を病院で過ごした小島にとって、今の地球をどう思うのだろうか? それは小島にしか分からないか。

 すると、上野がのろのろとした歩き方でこちらにやってくるのがわかった。

「上野・・・・見に来たのかい?」

「・・・うん」

 俺は望遠鏡から少し離れ、上野に場所を譲ってやった。小島はしばらく動かなかった。きっと生きている家族をひたすらに眺めているのだろう。彼は俺と違って自分が死ぬことを理解していたから心の準備ができていたのだろう。俺みたいに生きているのが当たり前だと思っていた馬鹿な高校生とは違って肝が据わっていたのだ。だからこそ、悲しみに負けることなく、望遠鏡に映る地球の光景を見ることができる。

 そして、小島は望遠鏡から離れた。

「上野さん。すいません、気がつきませんでした」

「いいのよ」

 上野は望遠鏡を使い始めた。

「神路先輩はどうでした。地球の光景は?」

「ああ、正直辛かったな。死ぬなんて思ってなかったからな。俺。自分がいかに恵まれていたかよく分かったよ」

「そうですか?」

「そう言う小島はどうだったんだ?」

「なんて言いますかね。まあ、あんな感じなんだなって」

 小島の表情には悲しみはあまり感じられない。

「どういう意味だ?」

「入院している時からあまり表情が変わってなかったんですよ。僕の両親たちは。いつも、死と隣あわせでしたから特別何も感じません」

 そういうものなのか。人それぞれなので否定しようとは思わない。

 俺は上野の方が無性に心配したくなった。彼女は何かを抱えている。安易に人には言えない何かとてつもない重い十字架を・・・・

 すると、彼女は望遠鏡から顔を離し、崩れ落ちた。そして、彼女の顔からあふれ出る涙が零れ落ちている。

「どうした。上野?」

 俺と小島は彼女に寄り添った。

「私・・・・なんて・・・馬鹿なことをしちゃったんだろ・・・」

「馬鹿なこと?」

 俺には上野の言っていることが理解できなかった。

「もう・・・・取り返しが・・・・つかない・・・・」

「どうした! 上野。一体何があったんだ?」

「上野さん。落ち着いてください!」

 俺は上野が見ていた地球の光景を見ようと望遠鏡に顔をつけた。しかし、見えるのは俺に関係した人々だけで肝心の上野のことがまったく見えなかった。

「くそ、駄目か」

 俺は急いで天使の所に向かい、聴いた。

「すいません。望遠鏡のことなんですが、自分には関係のない他者の遺族や友人たちを見ることはできないんですか?」

「それはあまり良い行為とは言えませんね」

 天使は冷たい表情で言い放った。

「別に私事私欲のために見るのではありません!」

 俺は上野のことを説明した。

「そういうことですか。では、望遠鏡の所まで行きましょう」

 俺と天使は望遠鏡まで移動し、上野に話しかけた。

「もし、嫌ならいいんだけど、君のことをこの望遠鏡で見たいんだ」

 プライベートを覗くことは人として最低の行為だ。しかし、口が聴けない上野を知るにはこの方法しかない。

 すると、天使は上野の頭に手を置き、触れている。そして、その触れた手で望遠鏡を触れている。

「これで彼女の人生が見えますよ」

「ありがとうございます」

 そして、俺は望遠鏡の中を確認すると、家に上野の両親らしき人がいた。上野の両親は紙を読みながら涙を流している。

 一体あの紙はなんだろうか? ノートの切れ端のようにも見える。

 俺は望遠鏡の角度を変え、その手紙の内容を確認した。そして、その内容に俺は恐怖し、望遠鏡から目を離した。

「上野・・・・・お前・・・・」

 俺は彼女の十字架を理解した。

「先輩、何か見えたんですか?」

「・・・・・・」

 小島には非常に言いにくい。これは・・・・・

「神路先輩。何か言ってください」

 しかし、俺は何も言えなかった。

「自殺したの・・・私」

「え?」

 小島は口を空けている。

「自分から命を捨てたのよ!」

 上野が強い口調で言った。

「そんな・・・・どうして、そんな愚かなことを!」

 温和そうな小島は怒りを覚えている。当然の反応であろう。健康で外で生きてみたかった小島にとって、自ら命を捨てる上野の気持ちは到底理解できまい。

「小島、よせ!」

「許せませんよ。命を捨てるなんておかしい。ばかげてますよ」

「ごめんなさい・・・」

 上野は涙を流しながら謝罪している。

「一度きりの人生をどうして・・・・」

「小島、落ち着けよ。上野は好きで自殺したんじゃない!」

「意味が分かりません。僕には」

「上野は学校でいじめにあって自殺に追い込まれたんだ!」

「いじめ?」

 小島はいじめをよく理解していないようであった。

「そうだ。上野は俺たちの想像をはるかに超えたいじめを受けていたんだ」

 両親が持っていたノートの切れ端は上野の遺書であろう。今まで受けた数々のいじめの内容がこと細かく書かれていたのだ。私物を隠されたり、壊されていることは当たり前で男子たちも前で裸を強要されたり、罵声と無視を繰り返されたと書かれている。しかも、小学校から続いているいじめであった。

「小島は分からないかもしれないが、陰湿ないじめを苦にして自殺する生徒は多いんだ。しかし、学校側はそういったことを隠蔽するから、マスコミに公になることが少なく、担任の先生もいじめに加わるといった自体も起きている。それが学校なんだ」

「そんな・・・僕は学校は夢にあふれた場所だとばかり思っていたのに・・・・」

「もちろん、そんないじめはない学校だってあるし、いじめといってもいろいろだ。しかし、学校は楽しいことばかりじゃないんだよ。上野を攻めないでほしい。好きで自殺する人間なんてこの世にはいなんだ」

 俺はふと天使を見ると、硬い表情をしている。いじめという言葉を理解しているようであった。

「そうなんですか・・・・上野さん。ごめんなさい。僕何も知らなかったんです」

「小島君は間違っていないわ。私が馬鹿だった。自殺なんてするから。私が死ねばすべてが収まると信じていた。それなのに学校は何も変わっていない。私はそれが許せないのよ。私は苦しかった。あの地球から離れたかった。私は人生から逃げ出した。けど、両親が悲しんでいるだけで他の人たち何事もなかったかのように生活している。私が死んだから次のいじめのターゲットが変わっただけ。先生は診て見ぬ振り。おかしいわよ。そんなこと」

「いじめが止まってない?」

 小島はますます混乱していった。

「いじめってのはターゲットを変える時があるんだ。その時期やタイミングはそのクラスの人間関係で決まる。上野の死は無意味だったんだよ」

「そんなのおかしいですよ。そんなの・・・・人間じゃない」

「小島、一度上野のいた地球を見てみるといい。そうすれば学校の実態が理解できる」

 俺は望遠鏡から離れ、小島に譲った。そして、小島はその望遠鏡の中を確認する。俺は上野に寄り添うことしかできなかった。

「上野、慰めにはならないかもしれないけど、俺はお前の味方だから。それは小島だって同じだ」

 しかし、上野の涙は止まらない。悲しみと悔しさと後悔が入り混じった状態で流す涙を止めることはできないだろう。

 小島は望遠鏡を眺め続けている。きっと、自身の知らない学校の実態を傍観しているに違いない。

「どうして、私は生まれてきたんだろう?」

 上野がネガティブなことを言った。

「一体何を言っているんだ?」

「小学校からずっといじめに耐えてきて、中学校に進学したらきっと変わると信じてきたのに何も変わらなかった」

「両親に相談はしたのかい?」

 オーソドックスな質問だ。

「ううん。してない。両親は共働きであまり家にいなかったから。相談しにくかった」

「そうか」

 親に相談できる環境なら自殺などしないか。

「友人とかはいたのかい?」

 俺は上野の人生を知りたくなった。俺のくだらない人生の何倍も苦しみ、重い彼女の生きていた頃の記憶を知りたくなったのだ。

「小学校の頃は結構いたんだ。でも、ある日いじめが起きて、私がそのターゲットにされてから友達が皆私を煙たがるようになったの」

「いじめられたくないからか?」

「そう」

「愚かなことを」

 ごく普通の人間である俺は無性に腹が立った。

 上野が一体何をしたというんだ。

「中学に上がってからもいじめが続いたけど、一人だけ私の味方をしてくれる友達がいたの。真理ちゃんって言うんだけど、内向的でとてもやさしい女の子だった。私がいじめられて落ち込んでいると、皆がいない時にやってきて、私を慰めてくれるの。先生にいじめを報告もしてくれた。けど、先生は対応一つしてくれなかった。私が自殺して今度は彼女がいじめのターゲットにされている。それが無性に悔しいの」

 上野の自殺は生徒の心には何も影響しなかったというのか。それでも人間か?

「だから、神路さんの思い出話は聞いてとてもおもしろかった」

「おもしろかった?」

 痛い人生しか送っていないはずだが・・・

「神路さんは自分を飾ったりしない所が長所だと私は思うわ」

「自分を飾らない・・・」

「男子ってすぐかっこつけようと武勇伝を捏造したりするでしょ。もしくは、武勇伝を自慢してくる。でも、神路さんはそんなことしない。小島君だってそう。私のクラスにはそういう男子はいなかった。もし、神路さんや小島君が私のクラスメイトだったら、違った人生を送っていたと思う」

 違う人生か。人生は人との出会いで決まると言うが、間違いではないだろう。上野は出会いが悪かった。それだけのことなのだ。しかし、そんなことで人生が決まってしまうのは発想としては乏しい。

「でも、上野だって決して悪い出会いばかりではなかったと俺は思うよ。だって、味方をしてくれる真理って女の子と出会えたんだから。それを否定しちゃいけないよ。もちろん、いじめを肯定するつもりはないよ」

 俺は年上だからか、少し偉そうなことを言っている。知ったかぶりの高校一年生だ。

「そうね」

 上野の言い方には肯定と否定の両方が入り混じっていた。

 すると、小島が望遠鏡から離れ、こちらに戻ってきた。

「女の子がいじめられていました」

「そうなの。真理ちゃんがいじめられているの。私のたった一人の友人が」

「あんなこと許せません。上野さんが死んでも誰一人悲しんでいない。むしろ、自分たちがターゲットにされるのではないかと恐れているばかりで。おかしいですよ」

「小島のいうとおりだ。おかしいんだよ。学校ってのは」

「神路先輩からはそういった類の話はでませんでした。なぜですか?」

「なぜと言われてもな・・・・・俺は恵まれていたんだよ。きっと」

 そう言うしかなかった。

「でも、もしかしたら俺の知らない所でいじめはあったかもしれない。俺はそれを知らなかっただけかもしれないんだ」

「そんな・・・」

「悲しいけど。これが現実なんだよ。理不尽な世界さ」

 すると、望遠鏡のことに気がついた他の人々が大勢やってきたので俺たちは扉の裏側から離れた。

「君たちの選択は決まったのかい?」

 世話になった天使から質問を受けた。

「いいえ、まだ決まっていません。これから話し合います」

「そうですか」

 そう言うと、俺たちは望遠鏡からさらに離れ、人気の少ない草原までやってきた。あまり、多くの人々に会話の内容を聞かれたくなかったからだ。

 良いところを見つけ、俺たちは色の変化する草原に腰を下ろした。

「皆はどの選択をする?」

 俺は非常にずるい。自分が答えを見つけていないにも関わらず、皆の意見を聞こうとしている。

「僕はこのまま天国まで行ってみようと考えています」

 小島の選択だ。その言葉に揺らぎを感じない。

「上野はどうだい?」

 俺は落ち込んでいる上野にやさしく聞いた。

「私は・・・・・悪魔になりたくないんだ」

 上野は低い声で話を続けた。

「悪魔になったら永遠の苦痛が待ってる。苦痛は生きているときに散々味わった。生き地獄はもうたくさん。私は地球に戻る。そして、悪霊になって復讐してやる」

 上野は怒りに満ち溢れていた。その怒りは男である俺たちを恐怖させた。

「待て、復讐のために地球に戻るのはどうかと俺は思う。感情だけで選択は危険だよ」

 先輩気取りに言ってみた。

「私は悪霊になって、私をいじめたやつらを呪ってやるの。そして、その使命を果たしたら、死神に殺される」

「まさか、本当はそれが目的なのか?」

 俺は上野の考えが理解できた。

「私はもう苦しみたくないの。悪魔になって苦しんだりしたくないし、天国にも興味はないわ。死神に殺されえれば完全な無になる。私はそうしたいの」

 上野の強い口調には驚かされた。

「おかしいですよ。そんなの。三人でいっしょに天国へ行きましょう。きっと、いい場所に違いないですよ」

「私はね。天国ってきっと生まれ変わる場所だと思うの。前世とか来世とかそういう話。私はもう生きていたくないの」

「もし、それが本当だとして、生まれ変わったら人生やり直せるじゃないですか。いじめが起きない人生だって考えられます」

 ポジティブな考え方だ。

「いや、私は絶対に嫌。もう生きていたくない」

 上野の決意はかたい。俺なんかが想像もできないくらいの苦しみを味わったのだろう。生きていること自体が苦しみ。俺のようなのん気な人間には理解できないだろう。

「じゃあさ。こういうのはどうだい? 他の人の意見も聞いてみてそれで選択するってのは?」

 そうさ。この世界には多国籍の人々が大勢いるのだ。単一民族であった日本国では考えられない光景なのだ。

「そうですね。それいいかもしれませんね」

「どうする。上野?」

 俺は上野に優しく聴いてみた。

「分かったわ」

 上野は下を向きながら承諾してくれた。

「じゃあ、いろいろ聴いて回るか!」

 俺はそう言うと、二人は立ち上がり、移動を開始した。

 最初に話しかけたのは同じ日本人の長宮さんグループであった。五十歳前後のおじさんたちが固まって話し合っている。

「あの、すいません」

 俺はその集団に話しかけると、真剣な顔で俺たちに顔を向けてくれた。

「どうしたんだい?」 

 長宮さんが代表になって答えてくれた。

「皆さんはどのような選択をなさるのかと思いまして」

「ああ、そのことね。正直私たちも困っているんだよ」

「そうなんですか」

 やっぱり、迷うよな。

「君たちはどうなんだい?」

 すると、一瞬も間ができてしまったので、俺が再び解答した。

「まだ、考え中です」

「そうか。そうだよな。では、他の人々にも聞いて回るのかい?」

「はい、そのつもりです」

「元気が良いね。どうも、私たちの年になると、他国の人々とは話しにくい。昔からの根強い偏見があるからね。まあ、いい選択をしてくれ」

「はい」

 俺たち三人は他の集団を捜すことになった。

「やっぱり、皆悩んでいるんだな」

「そうですね。死んでもなお命がけですから」

 小島が妙にうまいことを言ったので俺は笑みを浮かべたが、上野は下を向いたまま何も話さなかった。

 しかし、何人に話しかければいいのだろうか? 日本人はもちろんだが、他の国とはどうなのだろうか? 日本人が嫌いな国の人々も絶対にいるはずだ。慎重に選ばなければ、口論になりかねない。

 俺は比較的安全だと踏んでアジア系の人間を選ぶことにした。すると、少し離れた所に日本人らしき男女の集団を見つけたので、俺たちはそこに向かった。

「あのすいません。皆さんはどのような選択をするかお決めになりましたか?」

 俺は丁寧に言ったが、予想外の反応をされた。

「君たち、どこの国の人?」

「日本人ですが?」

 俺は正直に言うと、その人たちは険しい顔つきになった。

「俺たちは中国人だ。誰が日本人なんかと話せるか! どっかに行け」

 あまりの罵声に俺たち三人は驚いてしまった。

「俺たち何かしましたかね?」

「俺たちは日本人が大嫌いなんだ。人の領土は横取りしようとするし、戦争をしかけてくるで本当に迷惑しているんだ」

 戦争というのは第二次世界大戦のことか。確か、あの時代は日本が中国を領土にしていたからな。詳しくは分からないが、反日思想が強いことが分かった。

「すみませんでした」

 一応謝って、その場を去った。

「やばいな。日本人ってそんなに嫌われていたなんて」

 俺は世間知らずを恥じていた。

「僕も驚きました」

 しかし、そんなことでへこたれている場合ではない。

「日本を嫌っている国はあるけれど、その逆だってあるはずさ。全世界的には日本人は好かれているとテレビで聴いたことがある」

「そうですよね。日本人はそんなに悪い人たちばかりじゃないですよね」

 しかし、俺は世界のことなどテレビでしか知らないのだ。

 知ったかぶりの学生の成りそこないに、何が分かるのだろうか?

 この人知を超越した世界で俺は実につまらないことを考えている。いや、正確にはそんなことしか考えられない頭脳しか持ち合わせていないのだろう。生きているときは、常におもしろいことしか頭になかった。

 俺はふとマイケルコスナーの姿を見た。彼は大勢のアメリカ人に囲まれながら、楽しそうに話している。この状況を楽しんでいるのか、それともそういう振りをしているのかは俺には分からない。ただ、あいつとは話をしたくなかったので、目をそらした。

 その後も、多くの国籍の人々と会話を試みたが、どの国の人間も迷っており、何の結果も得られなかった。

 そして、決断の時が来た。

「皆さん。そろそろお時間です。天国への旅を放棄し、地球へ向かう方は扉の前に来てください」

 白人の天使がそう述べると、大勢の人々が立ち上がり、扉の前にずらりと並び始めた。

「皆、私も行くね」

 上野はポツリと言い、扉の行列へと足を向けようとした。

「待ってください。上野さん。僕たち三人で天国へ行きましょう。三人で助け合えば、悪魔なんて平気です」

「ありがとう。でも、私の居場所はここじゃないの。あそこなの」

 上野は扉に指を指した。

「私は苦しみから解放されたかっただけ。天国とかそういうのにこだわってはいないの。そこが楽園だとしても、私には関係ない。それにリスクを犯してまで天国に行く理由もないし、あなたたちの足手まといになるだけ。もし、私のせいで二人が悪魔にされちゃったら、私もう耐えられない」

 上野の言っていることは理解できる。しかし、本当にそれでいいのだろうか? ネガティブな考え方では本当の答えなど見出せるのだろうか?

「上野、地球に行ってもお前を苦しめるだけだと俺は思うよ」

 これが頭の悪い俺の精一杯の言葉であった。非常に情けない。自分自身がふがいない。

「ここにいても、地球のことで十分苦しんでるよ。私」

 上野の目は怒りより、むしろ悲しみを抱いているようであった。

「地球にいる人々にこだわるな。俺たちは地球の概念をはるかに超えた所に存在する場所にいるんだ。いっしょに前に進もう。後悔なんてさせないから」

「私はこのわけの分からない世界にいること自体後悔しているの。もう、十分」

「そんな・・・・・」

 それ以上、俺は言葉が思いつかなかった。それは小島も同じである。

 できることなら、俺だって地球に戻って人生をやり直したい。しかし、地球に持ったとしても、肉体のないただの幽霊になるだけだ。意味なんて何もない。

「でも、ここにきて良かったこともある。あなたたち二人に会えたこと。もし、二人に会わなければ私は悪魔になって一生の苦しみを味わうだけの化け物になっていた。それに二人ともいい人だった。人を信じられなかった私をあなたたちは救ってくれた。十分に」

「そんな・・・・泣けるようなこと言うなよ。いっしょに旅を続けよう。俺たちを信じてくれよ。これからも」

「これからも信じ続けるよ。あなたたちのたびの無事を見守ってる。魂が消えるまで。じゃあね」

 そう言うと、上野は扉の列に並んだ。

 扉ではすでに多くの人たちが地球へ帰還していく。

 一人ずつ扉をくぐっていく。数は多いが確実に人数が減っていく。

「先輩、上野さんが行ってしまいます!」

「・・・・・・」

「先輩!」

「もういいよ。もう・・・・」

「え?」

「上野の決意は固い。あの固さを崩すことは俺にはできなし、彼女の選択だ。これ以上の否定はできないだろう」

「そうですけど・・・・」

 小島もそれ以上口を出すことはなかった。

 上野が扉に入るまでにまだまだ時間がかかっている。湖で半数、そして扉で半数の人々がこの世界を去ってしまったのだから。

 人々が、俺が思っている以上にこの世界に恐怖し、地球に執着していることに驚いてしまっている。

 この世界はまるで俺たちを『試している』ようであった。なぜ、悪魔が存在するのか?

ゲームのような旅を続ける意味があるかは正直自信がない。上野を止めようとした理由だって、本当は考えに賛同してくれる人が一人でもほしかったからだ。

 天使は肝心なことを教えてはくれない。選択も何もあったものじゃない。ふざけている。

 俺は列に並んでいる上野の横に近づいた。

「君が行ってしまうまでいっしょにいていいかな?」

「うん」

 上野の笑みはとてもかわいらしく、地球に住んでいる女子たちと何等変わらなかった。

「僕もいっしょにいます」

 小島も俺の後についてきた。

 いっしょにいた時間はとても短かった。もっと、上野のことを知りたかったし、仲良くなりたかった。同じ日本人として。友人として。仲間として。しかし、現実はとても残酷だ。願えば願うほど時間はすぐに流れ、短く感じる。つまらない授業を受けているときはあんなに長いと感じるのに、楽しい時間はすぐに失ってしまう。もしかしたら、人類は時を支配することができるのかもしれない。

 非常に馬鹿げている考えではあるが、このような人知を超えた世界を知れば、そう思えてならないのだ。

 次第に俺たちと地球行きの扉までの距離が狭まっていく。それは同時に別れの時間が迫っていることを意味していた。

 扉の両サイドには黒人と白人の天使が立っており、扉の向こうには青い光が映るだけだ。本当に地球に繋がっているのか疑問であった。

「本当に地球に行けるんでしょうかね?」

 俺の疑問を小島が口で言ってくれた。

「私は信じているは。少なくとも天使たちは嘘をついてはいない」

 確かに嘘はついてはいない。しかし、言っていないこともある。

 俺のイメージしていた天使はもっと明るく、幸福に満ち溢れた存在だと思っていた。しかし、俺たちをガイドしている天使たちは翼を持ったただの『人間』だ。俺たちを案内する旅行ガイドと同じといってもいい。しかも、多国籍な天使たちゆえ、まるで人間が天使になったかのようである。

「もしかしたら、天使たちは、元は人間だったのかなぁ?」

 俺は疑問を口にした。

「ああ、僕もそう考えてました」

「私もそう思う」

 俺たち三人の意見は一致した。天使は元人間。なら、この旅でその答えが見つかるかもしれない。

「でも、私にはどうでもいいことよ」

 上野の決意は揺るがない。

「そうだな。でも、旅を続ける俺と小島には重要なことかもしれない」

 天使が元人間ならこのたびを通して天使になる機会が得られるのかもしれない。しかし、特別天使になりたいとは思ってはいない。

 ガイドをするだけが天使の使命なら、悪魔にされてしまう人々を毎回見なければならない。そんな人の不幸を黙って傍観する使命などおかしい。歪んでいる。

 そんなことを考えていると、扉に近づいていることを忘れていた。

 上野といっしょにいられる時間が減っていく。しかし、何を話したらいいかわからなかった。こういう時に言葉が出ないなんてべた過ぎる。

 しかし、それでいいのかもしれない。無理にしゃべらなくても、人間関係が壊れるわけではない。

 けれど、何か話さなければ一生上野と話すことができない。

 俺は頭の中で何か話のネタを必死に考えていた。

 しかし、何も浮かばない。なら、せめて話しておかなければならないことがないかを考えることにした。

 上野の過去はおおよそ分かった。地球に行く目的は悪霊になって彼女をいじめていた生徒たちに復讐すること。そして、その使命が終われば死神に魂を狩られ、消滅する。それが彼女の目的だ。その意思を変えるだけの強い何かがあれば、彼女の暴走を止められるかもしれない。何かないだろうか?

 考えろ。俺。今までろくに機能していなかった脳みそをフルに活用して思いつくんだ。話のネタを。彼女の暴走を止める方法を・・・・

 しかし、着々と扉までの距離は縮まっている。

 考え方を変えるんだ。彼女が地球でしようとしていることを止めるという発想を一旦なくし、別の視点から考えろ。

 そして、俺なりのありきたりで何の特徴もない答えを見出すことができた。

「上野。地球に戻ったら、やっぱり母校に行くのか?」

「そうよ。私は復讐してやるの」

 その言葉には強さがあった。

「もう、地球行きを止めたりしないからさ。一つだけお願いがあるんだ」

「何ですか?」

「旅をしてほしいんだ」

「旅・・・ですか?」

「ああ、そう。旅」

「どうして私がですか?」

「知ってほしいんだよ。俺の代わりに」

「代わりですか・・・・」

「上野は復讐するために地球に戻る。それを止める権利は俺たちにはない。でも、知ってほしいことがある。上野の通っていた学校がすべてじゃないってこと。もちろん、問題のない学校は存在しないけど、君の知らない人間関係が見れるはずさ。友人たちと楽しそうにしている人々。仲間といっしょに目標に向かって努力している生徒たち。俺は小島といっしょに『天国』ってのを目指すよ。だから、もう地球上を旅することは二度とないと思う。俺の勝手なエゴだけど、地球上を旅してほしい。人間は醜いだけの存在ではないってことを知ってほしいんだ」

 どこかで聴いたような臭い台詞ではあったが、これが俺に言える最大の言葉であった。上野には、例え魂だけの存在であろうと、自ら身を滅ぼすことだけはやめてほしかった。肉体は滅んでも魂は残っている。つまり、彼女はまだ生きているのだ。

 半死状態ではあるが、生きている。意思を持ち、感情を抱き、姿がある。

 半分だけ生きているのなら、これはチャンスなのだ。生きることはチャンスであり、奇跡であり、可能性なのだ。

 上野はその可能性を自ら奪ってしまった。彼女を攻めるつもりはない。周りの悪しき生徒たちに邪魔されたのだから。

 そして、その可能性を彼女は復讐という愚かな選択で破滅への道を進もうとしている。それだけはしてほしくない。人生など思い通りにならないことはたくさんあるが、思い通りになってはいけないという法律はどこにも存在しない。

「俺のいた学校へ行ってみてくれないか?」

 俺は上野に提案した。

「え? どうして」

「知らない所に行けば、価値観が変わるかもしれないと思ったからだ」

「価値観」

「上野は学校を負の部分しか知らない。でも、学校には良い所がたくさんある。それを見てほしいんだ。幽霊になった君なら物事をより広く見えるはずだ。もし、それでも憎しみが忘れられないなら、上野の好きなようにすればいい」

 俺は自分のエゴを最大限に上野にぶつけた。

「地球に行ってみないと分からないけど、言うとおりにしてみるわ」

 上野の表情は少しであるが、和らいだ。

 しかし、安堵している間に地球行きの順番が上野に回ってきてしまった。

「皆、ありがとう。忘れないから」

「ああ」

「先輩、さようなら」

 そして、青光りする扉の中へ上野は入り、俺たちの視界から完全に消え去っていった。


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