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安全と堕落

 次第に、中間地点と呼ばれる島に着こうとしている。

「ねえ、あの島なんて呼ぶ?」

 メアリーが突然言い出してきた。

「休憩所」

 俺は素っ気無く言った。

「何それ、センスない」

「悪かったな」

「じゃあ、僕は・・・・・中間島」

「小島もセンスがないな」

 日本人の俺たちは完全に全滅した。

「私は光の島って呼びたいんだけど?」

「お前もそのまんまじゃないか」

俺は同じ突っ込みをした。

「けど、響きは悪くないですね」

 小島は妙に納得している。

「どうでもいいさ。好きに呼べばいい」

「ノリが悪いわよ。神路」

 アフマドのことが頭から離れないのだ。彼の過去は俺の想像をはるかに超えるものであった。理不尽がさらなる理不尽を生む。そんな人生しか歩めなかったアフマドに対して勝手な罪悪感や悲壮感を抱いている。そんなことをしたってどうにもならないことは分かってはいるが、そうせざるをえないのだ。

 そんな不毛なことを考えながらも島は刻々と『光の島』へと近づいていく。

 島の輝きは近づくにつれ、大きくなっていく。それはまさに『聖なる光』といっていい。どこか癒される光は島全体を覆っている。これが何かの罠ではないことを心の底から祈りたい。

 メアリーと小島は立ち上がり、近づいてきた光の島を眺めている。俺は精神的な疲労が残っているため、地べたに座った状態で光の島を見ている。

 どうか、変な試練がありませんように。

 俺は自分の運に願った。神には祈ってはいない。この世界に来て、俺は神や天使という存在、いや概念そのものが嫌いになった。

 もし、この世界が神によって創造されたのなら俺は神を恨む。しかし、天使たちからは『神』という言葉を一度たりとも聞いてはいない。本当に神様は存在するのだろうか?

 少なくとも、俺はキリスト教を信じていない。イエス・キリストが神になったとかそういう話は一切信じていない。ましてや、ギリシャ神話なども信じることができない。

 この世界は分からないことだらけであり、きっと最後までわからないまま天国へ向かうだろう。

 空にはあいかわらず太陽がない。先ほどまで暗闇に満ちていたのが嘘のように晴れ渡っている。朝になったと解釈していいのだろうか?

 疑問が頭に蓄積し、疲れてきた俺は何も考えないようにしたが、人間何も考えないようにすることもまた難しいようだ。どんなにくだらないことでも何かを考えてしまう。それが人間だ。

「また、変なところに行くのかよ。くそが!」

 その汚い言葉使い。マイケルコスナーが俺たちの所にやってきたのだ。

 あの記憶の洞窟で耐え切ったということだ。俺はてっきり、記憶負けしたかと思っていた。

 しかし、こいつが来ると、本当に不愉快だ。もし、アフマドのことを話したら、彼を馬鹿にするだろう。どこまでも意地の悪い男だ。気分が悪い。

 こんなやつ、消えてしまえば良いのに。

 俺は最低なことを考えていることは分かっていたが、どうしても思わざるをえない。俺は今まで生きていた頃から死んでこの世界にきて出会った中で一番嫌いなやつだと思っている。

 まさか、そういう人間に死して初めて出会うとは思ってもみなかった。そう考えると、やはり俺は地球で恵まれた生活を送っていたと改めて実感させられる。

 マイケルは俺のそばを通り過ぎ、メアリーや小島のいる望遠鏡に近づいている。そして、偉そうな態度をとった。

「おい、そこどけよ。この俺が望遠鏡を使うんだからさ」

 すると、メアリーがその言い方に対抗した。

「何、その言い方。最低!」

 メアリーのその性格が初めて好きになった。

「うっせーな。黙れよ。負け組み!」

「何が負け組みよ。有名俳優だからって調子に乗らないで!」

「貧乏人が! うせろ!」

「あなた、最低よ。悪魔たちより不愉快!」

「何?」

 悪魔という言葉にマイケルはカチンときたらしい。

「てめぇ、誰に対して口を聞いているんだ?」

 マイケルはメアリーの胸倉をつかんだ。まさか、女の子に手を出すとは思ってもいなかった。

「何するのよ。離しなさいよ!」

「その態度、気にイラねぇ。海に落すぞ!」

 こんなところで実にくだらない茶番劇が行われている。マイケル・コスナーとメアリー。互いにアメリカ人ゆえ、一歩も譲ることがない。謝るということを知らない人種だ。

 すると、いいタイミングで天使たちが舞い降りてきた。それと同時に洞窟を生き残った少数の人々も天使たちの誘導で集まってきた。それを知ったマイケルたちはけんかを一時中断した。

「皆さん。中間地点に差し掛かりました。あそこに見える光に包まれた島がその中間地点です。あの島について説明します。この航海の中間地点であり、一時的にあの島で休憩を取ります。あの島には悪魔などの試練は存在しません。あの場所に残り、地球で生きる家族や恋人たちを待つ権利が与えられます」

 その言葉に誰もが驚いた。

「待つことが出来るのかよ?」

 マイケルはすぐに質問した。

「ええ、いつまででも待つことができます。そのため、地球での時間軸で何百年もいる人もいます。一定時間を過ぎれば島は再び動き出し、天国へ向かいます。その時が着たら、お知らせしますのでしばしのご休息をしていてください」

 俺は肩の力が抜けるような感覚に襲われた。この世界に来て緊張の連続であったからだ。それは小島やメアリーも同じで顔から笑みが自然と出ている。

「やっと、安心できますね」

 小島は両腕を上げ、前身を伸ばしている。

「旅には休憩は必要よ」

 この移動島でのんびり航海できればこのようなことを考える必要はないんだけれどな。しかし、メアリーの言うとおり、今は休憩が必要だ。いつ、体が透明化するか分からないので休んで体力を回復させることもまた必要だ。

 しかし、気になっていることがある。あの島には邪悪な感じがまるでない。だから、旅を中断し、あの島に残るという選択肢が生まれたのだろう。

 無制限に待機することができるなら、ここで旅を終了し、あの場所をゴールにすることも選択肢の一つだ。魂が消えたり、悪魔になるということがなければそれもいい。

「あの島で旅をやめるっていうのもアリだな」

 俺は小島とメアリーにはっきりと言った。

「確かに。この先も危険な旅が続くのであればそれもいいですね」

「・・・・・」

 小島に対してメアリーは何も言わなかった。迷っているのだろう。

「まあ、今すぐ決める必要はないから。まずはあの島に行ってからゆっくり考えようぜ。何も問題もないようだしな」

 正直な話、もう旅をやめたかった。楽になりたい。この海に飛び込めばそれもできるのであろうがそれもできない。自殺するみたいで嫌だったからだ。それに一度死んでいるので二度死ぬのは嫌だ。しかし、悪魔になるのは最悪である。

 どの選択肢も容易に選ぶことも出来ないこの過酷な旅は俺に何を求めているのだろうか?

 そして、移動島は光の島に到着し、浮かんでいる島同士が接触した。俺たちは天使たちに誘導され、光の島へと入っていった。そこは本当に光に包まれ、少しまぶしくらいだ。しかし、心が妙に楽になった。そして、驚いたことがいくつかあった。島から見た大きさよりも内部が無限に広いのである。どこかのSF漫画のいような光景に俺たちは驚いてしまった。

「この島、広すぎですよ。一体どういう技術なんでしょうかね?」

 小島が言った。

「技術って概念じゃ説明できないぜ。この世界は」

 これは俺の本音だ。

 地面は完全な緑色の芝生で望遠鏡も多く設置してあった。そして、何よりこの島には数え切れない大勢の人々がいたのである。

 何千、いやそれ以上の多くの人々がこの世界たたずんでいる。しかも、皆幸せそうな顔をしている。

 ここが天国なのではないかと思ってしまうくらいであった。

 この島には悪魔が出る要素がまるで感じられない。それだけでも十分に休息がとれる。

「ここでしばしの休みをとっていてください。島の出航時間になりましたら、お知らせしますので。

 そう言うと、天使たちは空へと羽ばたいていった。

「やっと休めますね!」

 小島は芝生の大地に寝そべった。

「そうだな。俺も寝るか!」

 俺も勢いよくヘッドスライディングするかのようにうつむけになって芝生の上に倒れた。

「かっこ悪いわよ!」

 メアリーは憎まれ口を言っているが、顔は笑っていた。

 すると、島内が急に騒がしくなった。

「あれ、マイケル・コスナーよ」

 ハリウッド俳優であるマイケル・コスナーの登場で光の島で待機していた人々が騒ぎ出したのだ。

 マイケルは笑みを浮かべながら、島に入り、大勢の死者のファンたちに囲まれた。

「まったく、あんなやつどこがいいのかしら」

 メアリーが本音を言っている。

「まったくだな、メアリー。しかし、ファンなんか所詮映像の中のあいつが好きなだけさ。実際に関わったらさすがに嫌になる」

「あいつ、私生活は最悪だから、私嫌いなのね」

「俺や小島じゃアメリカの有名俳優のスキャンダルとかは少々疎くてね。どうだったの。あのくそやろうの私生活って」

「女の子が大好きで大勢の子役女優や有名人と付き合っていたって話。未成年でお酒やドラッグにもはまっていたし、駄目人間よ」

「けど、俳優業で人気を集めるってのはやっぱり才能じゃないですかね」

 小島はそう言った。

「けど、あいつ。演技面ではちっとも評価されてないんだよ。ルックスだけでのし上がったって感じ。演技では何の賞も取ってないし、ノミネートすらされてない」

「へぇ、まあ、そんな感じなんだな」

人気と才能は必ずしも一致しないということか。日本でもかわいいだけでテレビに出ているやつは大勢いいる。どこも変わらないんだな。

「まあ、あんなのはどうでもいいさ。これからどうするかの方が重要だ」

 俺は本題に入った。

「そうですね。ここにいると、なんだか落ち着くんですよね。まるで天国みたいに」

 小島は穏やかな顔になっている。

「でも、海の中間地点で天国はおかしいでしょう」

メアリーはすぐに矛盾をついた。

「じゃあ、天国ってもっと居心地のいい所なんでしょうかね?」

 もし、それが本当なら天国への旅に対する味方が変わる。この場所と同等かそれ以上の場所なのかもしれないと思うとやる気が復活してきた。

「でも、そのためにリスクを犯す勇気がもてるかどうか?」

 メアリーの言うことにも一理ある。一歩間違えれば、悪魔になり、一生の苦しみを感じながら、他の死者たちを道ずれにする魔物になってしまう。

 そんな考えをしていると、小島から思いがけない言葉が飛び出してきた。

「ここって待機場所なんですよね」

「そうだよ」

「ここは魂も消えないし、悪魔も現れない究極の安全地帯なんですよね」

「そうだよ」

「なら、死んでいった友人や家族がいるかもしれませんよ」

「・・・・あっ!」

 俺とメアリーは同時に驚いてしまった。

「つまり、昔の出会いができるんですよ」

「そうね。思いつかなかったわ。小島、ありがとう」

「いえいえ」

 小島は照れくさそうに言っている。しかし、非常にお手柄であった。もし、それに気がつかなかったら、ただ休んでいるだけのだらけた時間を過ごすことになるはめになった。

「しかし、この島めちゃくちゃ広いし、それに人が多すぎる」

「だったら、こうしない。別行動を取るっていうのは。終わったら、この場所に戻るの」

 メアリーの提案はすぐに可決され、俺たち三人は別行動をとることになった。俺は右側中心に移動することになった。

 俺は側面に巨大なカーテンのように覆われている光が気になり、端に移動した。そして、その光に触れてみると、何のことはない。透明で貫通してしまう。しかし、光を通して見る海はきれいであった。

 島の側面には多くの望遠鏡が設置してあり、金色や黒の望遠鏡を多くの人々が鑑賞している。俺の前に死んでここに来た多くの死者たちは楽しそうに地球やこの景色を鑑賞している。

 俺は再び歩き出し、死者探しに出かけた。

 しかし、一体誰を探そうか? 祖父祖母は俺が幼いうちに亡くなったので顔も覚えていない。仮に覚えていたとしても、この島まで来られたという保証もない。しかも、多くの人種が入る中で人探しは容易ではない。

 自分の親しい人で亡くなった人はいなかっただろうか・・・・・

 そんなことを考えながら、俺はただ前に進んでいく。近くにいるのは欧米人ばかりで祖父祖母がいる気配すらない。

 特別、会いたい人もいないまま俺はただ歩き続けていると、三人組の男女を見つけた。女子一人に男子二人の彼らの顔はアジア系でしかも、会話の内容から日本人であることは容易に理解できた。

 彼らは望遠鏡で地球を見ている。一体地球の何を見ているのだろうか?

 同い年くらいでもあったので話かけやすかった。

「すいません。日本人の方ですよね」

 すると、女の子が笑みを浮かべながら返事を返した。

「そうです。あなたは今来たばかりね?」

「そうです」

 同じ日本人を見つけて俺は少し安心した。

「来たばかりでこの島のことをよく知らなくて。皆さんはずっとここにいるんですか?」

「ええ、私たちは友達が死ぬのを待ってるから!」

「・・・・・はぁ?」

 俺は耳を一瞬疑った。

「死ぬのを待つというのは、どういうことですか?」

 たぶん、大切な友達だったのだろう。だから、寿命尽きるまでその友人の人生を見ながら待っているのだろう。

「早く、自殺するのを待っているのよ。私たち皆自殺してここに来たんだから。彼が自殺するのを待ってこの島までたどり着いたら、四人で天国へ行こうとしてるの」

 本人は至ってまじめな顔で言っているが、その中身は非常に狂っている。関わる相手を間違えたのかもしれない。

 俺は非常に恐怖してしまった。

「なぜ、自殺したんですか?」

 俺は単調な質問でその場の空気を壊さないようにした。

「皆、いろいろよ。あの社会に適応できなかったから。でも、間違ったことをしたとは思っていないわ!」

 その女の子は堂々と言っている。至ってまじめなのだ。

「そうなんですか」

 ああ、早くこの場から離れたい。

「君は何で死んじゃったの?」

 質問を受けたので返すしかなかった。

「交通事故です」

「そっか。でも、いいんじゃない?」

「いい? 何がですか?」

 俺はこの自殺クラブらしきメンバーから早く離れたかった。

「生きていても、意味なんてないんだもん」

「それはあなたたちの理屈です。俺は生きていたかった!」

「それもあなたの理屈よ!」

 その女の子に同じ言葉を返された。

「私たちはあの社会に適応できなかった人間なの。分かる? この言葉の意味?」

 俺は黙ってしまった。彼女の目は真剣そのものだ。狂気などを感じさせない純粋な目をしている。

「人間の価値観は一つじゃない。でも、あの地球の社会は一つ。それに適応できる人間もいればできない人間もいる。努力では解決できないことだってたくさんある。あなたはその社会に適応できたかもしれないけど、私たちにはそれができなかった。もし、適応できたとしても、それは自我を捻じ曲げることよ。アンデンティティの崩壊。私たちはそれが許せなかった。けれど、社会を変える力は私たちにはないわ。だから、あの地球から逃げてきたの」

『逃げてきた』という言葉に俺は動揺した。彼らはある意味で俺と同じなのだ。辛い現実から逃げたい。その気持ちは俺と変わらない。方法が違うだけだ。

「いろいろあったんですね」

 俺が言える言葉はそんなものであった。彼女らの苦しみやその感じ方は人間によって違う。絶対的な定義など存在しない。

「じゃあ、あなたたちはその友人がここに来るまで待っているんですね」

「そうよ。彼がここまで来れたら四人いっしょに天国へ向かう。それまでは待つしかないもの」

 彼女らの出会いは小島やメアリーには伏せる必要がある。絶対に激怒するからだ。

「あなたはどうするの?」

 彼女が聞いてきた。

「まだ、決めていません。この場所がどういう所かを見極めてから決めます。ただ、友人や家族が死ぬのを待つという選択肢は俺にはありません」

 彼らを望遠鏡で長い時間見続けることは俺にはできない。なら、早く答えを見てみたい。天国がどのような場所なのかを。

「そうなの」

 彼女は素っ気無い言い方で言った。

「でも、俺にはこの場所がある意味天国に見えますけどね」

「本当にそう思う?」

 彼女からの予想外な言葉に俺は息が詰まった。

「どういう意味ですか?」

「この無限に広がる世界を見れば分かるわよ。私たちみたいにここに来て日が浅い人はいいんだけど・・・・・」

 口にしたくない現実がこの世界にはあるようだ。

「分かったよ。じゃあ、この世界を探検してみますかな」

 そして、俺はこの世界のダークサイドを見るために彼らから離れた。

 歩きながら、俺は考えていた。この世界の現実とは一体なんだろうかと。

 この世界には悪魔はいない。魂を疲労させ、消滅させるようなものも存在しない。望遠鏡もあり、見たいものが好きな時に見ることができる。

 俺は海の景色を見ながら、両腕を組み、歩き続ける。

 俺に映る景色は海と島とその大地にいる人々だけだ。しかし、次第にこの島の現実を知ることになる。

 三十分以上くらいだろうか。俺はただひたすらに歩き続けた。島は無限に広まっているのでゴールが見つからない。望遠鏡の数も減り、芝生とそこに座る人々だけになった。誰か有名人にでも会えば、テンションが上がるのだろうが、知らない異国の人ばかりだ。

 すると、妙な光景を目にすることになった。

 芝生に寝転んでいる人々を他の人たちが無理やり引きずりながら、どこかへ運んでいる光景が至る所で見えるのである。

 何であんなことをしているのだろうか? ここでも、人種の差か何かで理不尽なことでもされているのだろうか?

 俺は恐る恐るその場所へと近づいていく。恐怖心よりも好奇心が勝ったのだ。

 そして、引きずっている人の所に行くと、予想もしないことが怒った。

「何だ! このにおいは・・・」

 俺はあまりの悪臭に口を開いてしまった。まるで死骸の腐ったにおいが当たり一面に広がっていることに気がついた。そして、鼻を腕で覆った。

「あの、すいません。何でこの人たちを運んでいるんですか?」

 俺は人を引きずっている黒人男性に聞いてみた。

「こいつら、何百年もここにいちまったせいで、腐っちまったんだよ」

「腐る? 魂だけの存在なのに?」

 俺は理解できなかった。

「そうかい、あんた。ここに来たばかりかい? そういえば、島が来てたっけな」

 そう言うと、黒人のおじさんは運んでいた人を手から離し、俺にやさしく説明してくれた。この世界の実態を。

「天使から説明は受けたよな。魂は消滅しないし、悪魔も現れないって」

「はい。伺いました」

「なら、結構だ。だから、この島を天国だと思わなかったかい?」

 その問いに俺は即答した。

「思いました」

「だろ、だから俺も本当の天国に行くのを諦めたんだ。こいつらもそう。しかし、この場所は俺たち地球人でいう極楽島でもあるんだ。もし、苦しみもない。ただ、生きているだけの人間がそういう生活をしたら、どうなると思う」

「・・・・・・堕落しますかね」

「そう、まさにそれよ。こいつらは長い間、ただ島にい続けた結果、目標も苦しみもない何もしなくてもいい島に堕落して魂が腐っちまったんだ。しかも、性質の悪いことに悪臭を放ちやがる。しかも、腐ったって言っても、魂自体は消滅しねえから腐ったまま永遠にこのままさ」

 俺は運ばれている人を見た。皆、ただ空を眺めているだけの人形のような状態である。

「堕落して何の気力もなくなったら最後。一度腐って元に戻ったやつはいねぇ。ついてきな。おもしれぇもの見せっから」

 その黒人のおじさんは腐った人を再び運びながら、移動島から離れていく方角へ俺を案内してくれた。俺はせっかくなのでその腐った人の足を持ち、運ぶのを手伝った。

「悪いね」

「いいえ、気にしないでください」

「あんた、日本人だろ」

「どうして分かるんですか? アジア系の人は大勢いるのに」

「中国人や韓国人なんかは絶対にあんたのように手伝ってはくれないからさ。日本人はいいねぇ。やさしいし、見ていて気分がいい」

「ありがとうございます」

 まあ、日本人の全員がやさしわけはないが。世界から日本人はそう見られているのかもしれない。

 そして、生きた屍というべき男性を運びながら進んでいくと、大きな壁が立ちはだかっているような霧が存在していた。

「あの霧の中に入るんですか?」

「ああ、腐っちまった死者の悪臭を遮断できるんだよ」

 俺たちはその霧をくぐった。白い空気が漂い、道に迷うのではないかと一瞬恐怖したが、すぐに抜けることができた。そして、俺はこの世界の現実を知るのである。

「この臭い!」

 俺はあまりの悪臭に魂の腐った男性の体を離してしまった。

「無理もないよな。俺も最初入った時は同じ反応をしちまったぜ」

 酷いのは、悪臭だけではない。魂の腐った人々が数千以上の身体が大地に転がっているのだ。まさに生きる屍、いや死しる屍か。

「ダークサイドへようこそだ。さあ、早くこの遺体を置いちまおう」

 肉体が滅んでいるとはいえ、この人を遺体と呼んでいる。もうこの光景になれているということだ。

 俺たちは空いている芝生に動かない悪臭の塊である男性を置いた。

「この先もこういう遺体が増えるとなると憂鬱になってくるな」

「あの・・・」

「何だい? 少年」

「あなたはこの島から出ることは考えないんですか?」

「ああ、そのことかい。俺はもうあの旅にうんざりしちまったんだよ。君だって体験したろ。多くのやつらが悪魔になったり、消えちまったりでさ。怖くてもう旅ができねーよ」

「その気持ち、分かります」

「だからさ。この島の望遠鏡を使って地球のすべてを見ているよ。だから、当分は屍にはならないと思うぜ」

「あの、差し支えなければ伺いたいんですが、亡くなったのは寿命か何かで?」

 俺は失礼な質問をしたことを自覚していた。しかし、この男性に妙に興味がわいて出てきたのである。

「ああ、俺はベトナム戦争でくたばっちまったんだよ。だから、軍服着ているだろ」

「そうなんですか?」

 その男性の衣服のことなどまったく気にしていなかったので気がつかなかった。

「しかし、アメリカは相変わらず戦争が好きだね」

「そう思いますか?」

「そうに決まってる。イラク戦争なんて悲惨すぎるだろ。もうアメリカにはうんざりしたよ。おかげで愛国心がなくなっちまった」

 アフマドと同じようにこの人も戦争の犠牲者なのだろう。また、身勝手な罪悪感が俺の心からでしゃばってくる。

「しかし、その点日本人はすげーよな」

「え? なぜですか?」

「だってよ。日本人は戦争しないだろ。何でも、憲法で異国の攻撃のみに武力を行使するんだろ」

「まあ、そうですけど」

「そんな国日本くらいだぜ。第二次世界大戦で俺たちアメリカ人が日本に原爆まで落したのに今じゃ、立派な先進国だ。もし、アメリカ人が同じことをされたら日本のようにはいかないぜ」

「ありがとうございます」

 まるで自分のことのように俺は喜んだ。

「君とは馬が合いそうだ。霧の外で話そうぜ」

「はい」

 俺たちは『ダークサイド』から出た。そして、芝生の上に腰を下ろしながら、俺たちは自己紹介から入った。俺は先に自分の名前を言った。

「俺はボビー。よろしくな」

「はい、ボビーさん」

 そして、俺は死んでからここまでの経緯を説明した。すると、ボビーさんからアフマドの件が話題になった。

「その少年には悪いことをしたな」

「え? どういうことですか?」

「敵地に行くとな。敵味方の判別が難しいんだよ。アフマドの両親はきっと、テロリストと勘違いされたんだよ。戦場ってのは理不尽な所だ。何の罪の無い人ばかりが犠牲になる。俺はなかったが、戦友たちの中には村に住んでいたただのベトナム人を誤って殺しちまったやつも大勢いた。皆罪悪感で病んだやつもいれば、薬に走ったやつもいる。人間は本当に不器用な存在だよな」

「そうですね」

 ボビーさんの話には深みと重みがあった。

「ボビーさんの旅はどうだったんですか?」

「死んでからのか?」

「はい」

 また、残酷なことを聞きたくなってしまった。

「君と同じように大変だったぜ。何せ、世界各地の人種が一同に集まるんだもんな。しかも、俺と同じアメリカ兵がいたんだが、同時にベトナム兵もいたんだよ」

「それってかなりやばくないですか?」

「やばかったな。死者の世界でも戦争だったよ。まあ、武器がなかったんで取っ組み合いになったんだが、天使たちが仲裁に入ってくれたから良かったぜ」

「天使たちが・・・・・」

 俺たちの時はそんなことしなかったがな・・・・・

「まあ、時間によってガイド役の天使たちは違うから一秒でも死んだ時間が違っていたら、また変わってたんだろうな」

「俺の時の天使はかなり冷たいです」

「そうか、それは残念だったな、ははは」

「笑わないでくださいよ」

「俺はもう何年もここにいるからお前さんのような意見もあれば違う意見も多く聞いてきた。天使も人間同様いろいろいるんだろ」

 多くの天使がいるということか。

「やっぱり、ボビーさん以外にも軍人の方はこの世界にいるんですか?」

「それがさ、ほとんどいないんだよ」

「え?」

「君も通っただろ。記憶の洞窟を。あそこで大半の軍人がやられちまったんだよ。過去の記憶が悲惨だからな」

「そうだったんですか・・・・」

 アフマドのことを考えれば、理解するのは容易であった。

「あの洞窟だけはさすがにきつかった。洞窟を抜けた時は体がほとんど透明だったからな。あせっちまったよ。しかも、近くにいた兵士仲間やゲリラの連中は誰もいなくなっていやがった。恐怖の洞窟だったぜ」

「悪魔の方はどうだったんですか?」

 俺はボビーさんの旅に興味を示し始めていた。

「そっちのほうが楽だったんだよ。俺たち兵士は訓練されているから、悪魔が這い上がってきても、拳で立ち向かった。だから、ほとんど犠牲者はでなかったんだ」

「俺たちとは大違いですね」

「人それぞれだよ。気にすることはねーよ」

 ボビーさんは俺の肩を叩いた。

「そうですね」

 俺は話の話題を大きく変えた。

「しかし、この世界に留まるかどうか迷っているんですよ。こんなものを見せられちゃ・・」

 俺は霧を指差しながら言った。

「まあな。俺もいつああなるかが心配だ。今は望遠鏡のおかげでおもしろいものがたくさん見れっからいいけどさ。いつか、堕落してああなっちまったらどうするかって悩むぜ。しかし、だからといって旅を続ける勇気もないしさ」

「本当に、死んでからこんな思いをするとは思っても見ませんでしたよ」

 俺たちは落胆した。死んだら天国に行ける。その考えは地球にいる全人類の考えでもある。それは間違ってはいなかった。しかし、天国に行くまでに数多くの試練が立ちはだかることを誰が予想したであろうか。

「俺、一度でいいんで霧の向こうを冒険してみたいんです!」

 その言葉にボビーさんは驚きを隠せないようであった。

「正気か? 何を考えている?」

「せっかくこの島に着たんです。この世界を知り尽くしたい。それだけです」

「まったく、最近の若いのは何を考えているか分からん。まあ、危険はないだろうから問題はないが・・・・・」

「一つだけ心配なことがあるんですけれども」

「何だい?」

「移動島の出航時間のことです」

「ああ、それは大丈夫だよ。天使たちが知らせてくれるから遅刻するってことはないさ。ずっと、この世界にいるから俺が保障するぜ」

「ありがとうございます」

 そして、俺は立ち上がり、再び霧の中に入っていった。白き幕が俺の視界を遮ぎっているが、すぐに『向こう側の世界』へと入ることに成功した。

 悪臭を払うために俺は鼻呼吸を止め、口呼吸に変えた。少し息苦しいが仕方がない。悪臭に満ちた妙に薄暗いこちら側の世界を俺は歩き始めた。

 数多くの人々は仰向けでいる。空を眺めるだけで何もしない。ただ、魂の状態で存在しているだけの物体。

 俺は彼らを踏まないようにゆっくりと進んでいく。目標地点などない。ただ歩くだけの旅。死体のたまり場のような場所で旅をすることは悪趣味なのかもしれない。しかし、ボビーさんやアフマドのように戦場に生きていた人々にはこの光景は日常茶飯事だったはずだ。彼らに比べれば俺の苦しみなどたかが知れている。

 しかし、行けばいくほど動かない人の遺体が増えていく。もしかすると、いつかは遺体に埋め尽くされてこの待機島が使用できなくのではないだろうかと思った。

 悪臭はどんどん強くなる。口の中にばい菌が入っているような不快感に襲われながらもこの世界を旅し続ける。すると、遺体の中には大昔に生きていたであろう人々が生きる屍と化している。

 歴史で習った十字軍の甲冑をきた人や時代劇に出てくるような服を着た日本人など。この世界でも多くの文化に触れることができる。

 しかし、皆目だけは開いているのだ。しかし、その目に輝きはない。何もやる気を失い、堕落した人々。彼らを助ける方法はないのだろうか?

 俺はメアリーのような正義感に駆られてしまい、近くにいた西部劇に出てくるような服を着た白人男性に問いかけた。

「ねえ、起きてください!」

 肩をゆすったが何も反応がない。しかし、確かに目は開いている。

「見えているんでしょ。何か反応してください!」

 けれど、反応なし。まるで、クラスメイトから無視されているようなむなしさを感じる。

 本当に腐ってしまっているというのか・・・・

 この悪臭はその事実を証明している。一度腐ったものを再生することはできない。しかし、この世界は肉体の存在しない魂だけの世界。心は時として再生するものだ。俺はそう信じている。

 しかし、そんな俺の考えはもろくも崩れ去ることになる。

 この世界のさらに向こう側へ進んでいくと、一人の女性が腐らずに生きていたのだ。俺はすぐに近寄った。すると、その白人女性は一人の白人男性をひざの上に抱いている。

「あの、すいません。日本人のものなんですが、なぜここにいらっしゃるんですか?」

 すると、その女性は笑みを浮かばせながら、俺の方に顔を向けてくれた。

「私は、この人の面倒を見ているのよ」

 彼女は動かず、腐ってしまっている男性をいとおしく見ている。俺にはこの光景がどこか『歪んでいる』ように見えた。

「旦那さんですか?」

「そうですよ。ほぼ同じ時期にこの島で再会しましてね。それ以降ずっといっしょにいるんです。これからも。永遠に。フフフ」

 その笑いは俺を恐怖させるものであった。どこか歪んでいる。もし、俺がその立場なら彼女と同じようにしているのだろうか?

「あの~ 旦那さんはどうして腐ってしまったんですか?」

 言い方がストレートすぎたために女性を怒らせてしまった。

「私の夫は腐ってなどいません。私がこうやって介護しているんですから大丈夫です」

「しかし、旦那さんは何の反応もないですが・・・・」

「うるさいわね。あっちへ行きなさい!」

 すごい形相で俺を追い払った。

 俺は仕方がないのでその場を離れた。

 まさか、腐りきっている人を愛おしく思うあまり、現実が見えずにこの遺体場のような場所で生きている人もいるということか。俺には人形を愛している人間のような不愉快な感じがした。

 その後も、前進し続けた。周りは腐敗した魂でいっぱいであった。しかも、大地に対して腐敗した魂の数が増えている。

 密度の増加したこの遺体場で俺は悪趣味な旅を続ける。実は誰にも話したことはなかったが、自殺の名所となっている三途の樹海となっている場所を一度訪れたいと思っていた。それは死体が見たいからではない。ただ、死に満ちた雰囲気をかもし出す場所に興味を引かれたのだ。

 もちろん、俺に自殺願望はまったくなかったし、勘違いされたくなかったので堤や石間にも言わなかった。ただ、いずれ一人で行ってみたと思っていたが、まさかこんな形で夢が叶うとは思っても見なかった。

 この世界に来て手に入れたものも多かったが、同時に失うものも数知れず。この不条理な世界は俺を悲しませる。

 そして、更なる現実が俺の視界に入っていく。

 やはり、いたのだ。腐ってしまった魂を塀の隙間から海へと捨てている人が。

「すいません。何をしているんですか?」

 アジア系のおじさんが遺体を捨てている。

「見りゃ分かるだろ。捨ててるんだよ。こいつらをさ」

「どうしてあなたが?」

「誰もやらないからだよ」

 そう言われれば何も答えようがない。

「ここに来て長いんですか?」

 俺は無駄に会話を長引かせようとオーソドックスな質問をした。

「ああ、長いよ」

 実に素っ気無い言い方であった。

「この場所にいて辛くはないんですか?」

「慣れちまったよ」

「そうですか・・・・」

 おじさんはその後、無言のまま、もくもくと遺体処理を続けていた。俺はそれをただ眺めているだけであった。

「あの・・・さっき、近くで女性を見たのですが?」

 俺は先ほどの女性の話を振ると、おじさんは反応を示した。

「会ったのか? あの女に」

「はい、会いました」

「もう会うのは良しとけ。あんたのためだ」

「どうしてですか? 確かに腐ってしまった旦那さんを介護しているのは少し不気味でしたけれど・・・」

「また、そんなことを言ったのか。あの女は」

 おじさんは遺体処理をやめ、俺に話しかけてくれた。

「あの遺体は旦那じゃねーよ」

「え!」

 俺は予想外の言葉に驚きを隠せなかった。

「赤の他人だよ。あの二人は」

「そ、そんな・・・・」

「俺はこの世界が長いから理解しているんだ。あの女も腐ってるんだよ」

「腐ってる?」

「ああ、まああの女はその進行形ってとこだ。ゾンビに噛まれて徐々におかしくなってくるようなもんだな」

「ゾンビですか・・・・」

 言いたいことが俺にはなんとなく分かる気がする。

「こいつらを見てみな。ここの死人たちは目標もやる気も完全に失っちまった抜け殻やろうばかりさ。でも、あの女は願望が歪んじまったんだよ」

「どういうことですか?」

「しつこいやつだな。分かった分かった。説明してやる」

 俺とおじさんは腰を下ろした。

「あの旦那って呼ばれているやつにはちゃんと別の奥さんがいたんだ。旦那は先にこの島に来ちまって奥さんがここに来るのを楽しみにしていたんだ。そうしたら、奥さんが悪魔にやられちまったんだよ。それですべてに絶望し、目標も何もなくなって腐っちまった」

「そうだったんですか・・・・」

「それで問題はあの女だ。あの女はこの島に来た時にはすでに狂ってた。同じ旅の同行者の話じゃ、記憶の洞窟に入った影響で発狂しちまったんだとよ。この島に着いたときには体がほとんど透明化してたらしい。で、あの女も旦那が先に死んじまったららしく、この島で自分を待ってくれていると信じていたらしいんだよ。だけど、その旦那はこの島には来ていなかった。きっと、途中でリタイヤしちまったんだろう。しかし、精神がぶっ壊れちまったあの女は血迷ってすでに腐っていた他人を旦那と称していたわってるわけだ」

 非常に悲しく。歪曲した物語だ。

「しかし、俺も人のことはいえねーな。こうして、悪臭の放っている場所で何十年も遺体を拾っては捨て、拾っては捨てている。しかも、地球にいた頃の記憶がなくなっちまっている」

「記憶がない?」

「ああ、この島は人の思考を堕落させる。天国なんてもんじゃねぇ。ここはあくまで『待機場所』なんだ。一時的な場所に人はずっとはいられない。そのルールを破り、楽をした結果なんだろう。わしも、この遺体処理だけが生きる目標になっちまって。もう腐りかけているのかもな」

 この人が腐っているかは分からないが、この島は決して天国などではないことははっきりとした。

「じゃあ、この島から出ようとは思わないんですか?」

「ああ、そういう考えもあったのぉ。でも、どうして出ないんだっけな・・・え~と。あ、そうそう。仕事に戻らなくちゃ。早く腐っちまったやつらを処理しないと」

 腐っているのか、痴呆なのか俺には分からなかった。ただ、この人にとって島で遺体処理をすることがある意味で生きがいになってしまったのだろう。非常に歪んだ考えではあるが間違ってはいない気がする。

 俺はこのおじさんからも離れることにした。もう何も得るものがないと悟ったからだ。

 この世界はまさにダークサイドだ。しかし、その世界に俺はどことなく魅了されていることに気がついた。もしかすると、俺も腐り始めているのかもしれない。

 しかし、まだこの世界に興味を持つ俺はまた奥へと足を踏み入れる。小島やメアリーを連れてこなくて良かったと安堵しながら一人旅を続ける。

 腐ってしまうという試練が俺を待ち受けている中でそれでも前へと進み続ける俺は何をしているのだろうか?

 次第に自分のしていることに意味を感じなくなってきている。

 そんな時、誰かの歌声が俺の耳に入ってくる。

 欧米系で肌に多くのタトゥを入れているロングヘアーの男性がエアギターを弾きながら、歌を歌っているのだ。音楽の知識が乏しい俺はそれがロックなのかどうかは分からなかったが、本人はハイテンションで声を上げている。とても楽しそうだ。

 俺は観客になった感じでその男性の歌を聴くことにした。正直、趣味な歌ではなかったが旅にかけていた『音楽』はとても新鮮であった。

 俺はその場でその男性の一人ライブをひたすらに聞いていた。それから、何分か経過したが、その男性はただ歌を歌っているだけだ。他に何のリアクションもない。俺は少しおかしいと思い、その男性に話しかけてみた。

「すいません。お話があるんですが?」

 しかし、その男性からの反応がまるでない。きっと、歌うことに夢中になっているに違いない。俺は男性に近づいて、もう一度話しかけたが反応なし。仕方がないのでその人の方を揺さぶってみた。しかし、そのことに気がついていないのかそれでも何のリアクションのない。ただ、歌っているだけだ。

「まさか!」

 俺は悪臭に満ちた世界で鼻の穴を広げた。すると、その男性からすっぱい感じの悪臭を感じた。

 やはり、この男性も腐っている。ただ歌い続ける。永遠に。それしかできない魂になってしまったのか。

 これで結論がでた。この世界は天国ではない。早くこの世界から出る必要がある。

 すると、この腐った世界から早く出たいと思うようになり、俺は走りながらもと来た場所へと向かっていく。遺体を破棄するおじさんや狂った愛を表現する女性たちを横目で見ながら俺は霧の向こうにある世界へと戻っていった。

「よ、意外と長かったな」

 ボビーさんは笑みを浮かべている。

「大変な世界でしたよ」

 俺はこれまでの経緯を述べた。

「それは大変だったな」

「笑い事じゃないですよ」

「しかし、あのおじさんがまだ遺体処理をし続けていたとはな。まあ、あんまり親しくないんでよく分からんが。何せ、あのおじさんと親しかったやつは皆腐っちまったからな」

「そうだったんですか?」

 あの人もまた悲しい人なんだなと俺は思った。

「あのロックやろうも健在か。もう何年もあの中で歌ってるんだな」

「あの人はどういう人なんですか?」

「売れないロックスターさ。ただ歌が好きでよう。至る所で一人ライブやってたんだが、うるさいと苦情が出て、仕方がなくあの腐敗した世界に行っちまったんだよ。そうすれば、誰にも邪魔されずに歌えるからな」

「けれど、その人からの独特の悪臭が出ていました」

「狂っちまったんだな。あいつも。まあ、元から変わったやつだったが」

 ボビーさんは平気で話しているが、俺の心には少し辛かった。長年この場所にいた人とそうでない俺との差だ。そう信じたい。けれど、どうしても信じきれない。なぜなら、ボビーさんからも独特の悪臭が出ていたからだ。この世界に来て多くの人と出会ったが、体臭を感じたことはなかった。この人も気がついていないのだ。自身も腐り始めていることに・・・・・・

 すると、完璧なタイミングで天使の声が聞こえてきた。

「もうすぐで島の出航時間です。搭乗者希望の方はお集まりください」

 天使の声は低く長い声であったために遠くにいるはずの俺たちまで聞こえた。それが天使の力なのかもしれない。

「俺、行きます。天国に」

「そうか。無事天国に行ってくれよ」

 俺とボビーさんは握手を交わし、そして別れた。


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