第1話
二話同時投稿です。
葵の葬式は、いつまでたっても降り止むことを知らない梅雨の雨のなか、梅雨の重苦しさを遥かに凌駕するほど重苦しい空気のなかで、粛々と執り行われた。
享年十五歳。
彼女の訃報はそれこそ町中に広がり、ほんの少しでも関わりを持っていた人は余すところなく参列し、早過ぎる死を悲しんだ。
両親は人目も憚らず泣きくずれ、葵の同級生たちは口々に嘆きの言葉を発し、様々な人達が無念から唇をかみしめ、鳴り響く木魚の音とお経、そして悲嘆が支配する空間にじっと居続けた、耐えるように。
俺は――――――。
俺はどうだ。
俺はそこにいれたのか?
確かに、肉体だけは皆と同じ空間にあった。
しかし、俺を支配していたのは皆と同じ感情ではなく、後悔の念であり、憤りの念だ。
事情を知っている人達は誰もが俺を慰め、決して俺を責めるようなことは言わなかった。
心の中では俺のことを責めていたのかもしれないが、少なくとも表立って俺を責める人は残念ながらいなかった。
しかし、俺は知っている。誰よりも理解している。
解らない訳が無いのだ。
そう――――――全ての責任は俺にある。
結果だけを見るなら、トラックの運転手こそに責任があるとするのが普通かもしれないが、そうではないし、そんな訳が無い。
何がきっかけかは誰がどう見たって一目瞭然、俺の明らかなミスによるものだ。
それに、トラックの運転手は、まるで自分の出番が終わった役者が舞台袖にはけるように、さながら、あの日あの場所で葵を轢き殺すことが役割であったように死んでしまった。
葵を轢く寸前に心臓麻痺で。
今の俺は、何にでも陰謀説を唱えているようなものかもしれない。
端から見れば妹の死を受け入れることができず、ありもしない妄想に囚われているように見えるかも知れない。
真実はただ単に、前後不覚による悲しい事故なのかも知れない。
だけれど、どうしても弁当を忘れたという一つの行動を俺が起こした時点で、そうなるように決め付けられたような気がしてならないのだ。
あそここそが、ターニングポイントな気がしてしょうがないのだ。
どうしてもそう思えてしまうのだ。
俺が怨んでいるのは、だからやはり俺自身に他ならない。
責められる対象があるとしたら、他ならない俺でないといけない。
運命なんてものを信じるつもりも、運命のせいにするつもりもない。
『運命』?
台本?
そんなものは負け犬の遠吠えだ。
しかし、そんなことを言い出してもどだいどうしようもないということも、解りきっている。
いますぐ弁当を忘れたあの時の俺をブッ殺してやりたいと思っても、葵を生き返らせたいと思っても、俺には力がない。
どうしようもないほどに無力。
そんな今まで気にも留めなかった事実が重くのしかかってくる。
今までこんなにも無力なくせに、妹一人護れないくせに、俺は一体自分の何を信じて生きてきたのだろうか?
こんなわかりやすい罪を今まで見逃してきてしまった意味が分からない。
力が有ろうと無かろうと、現実には逆らえなかったのだろうか?
葵の死を変える方法は本当に何一つ存在しえないのだろうか?
考えても考えても、納得の出来る解答など出てくるはずもなく、無為に時間だけが過ぎていき、葬式は進行していく。
ここで、運命には逆らえないし時間は逆流などしない、と当たり前のことを当たり前に受け入れることができたらどれ程楽になれるだろうか。
だが、当たり前のことを当たり前にするのは非常に難しい。
そうすれば、葵の死という現実は変わらなくとも、これからの人生に折り合いを付けながら生きていくことは、そう難しいことではないだろう。
誰だって人生に折り合いを付けながら生きていっているのだ、それは恥ずべきことではなく、人間としての当たり前の防衛本能に違いないのだ。
俺だってそうだった。
しかし、ここで折り合いを付けてしまったら俺の罪はどうなる?
うやむやにされて、いつしか俺は自分の罪を忘れ去ってしまう時が訪れてしまうだろう。
だからこそ、そうだからこそ、俺は受け入れることができないのだ。
誰も俺を裁いてくれないのなら、他ならぬ俺が国友徳利を裁くしかないではないか。
無力という罪を。
自分の手で。
俺の妹を殺してしまうようなクズを、例えそれが誰であろうと、俺は許しはしない。
罪を償うのだ。
理由が自分のためでも、この際気にしている場合ではないのだ。
物語りが次の幕を開いたのは、火葬が終わり火葬場から家へと、葵のいない家へと独り歩きながら帰っていく途中のことだった。
雨は降っているし、火葬場から家までは結構な距離があるし、とのことで、両親は俺が独りで歩いて帰りたいと申し出た時は、反対されはしたが、どうしてもと言う俺の言葉に不承不承ではあったが了承してくれた。
もちろん、どんなことがあっても事故にはあわないようにと言い含められはしたが。
雨が降りしきる中、傘を差しながら薄暗い道を歩いていきながら、俺が思うことは、やはり葵のことであった。
俺のせいで死んでしまった俺の妹。
なにも赦してもらえるなどと、都合のいいことなど思ってはいない。
奴隷だろうが下僕だろうがなってやる。
だから、どうか俺にチャンスを与えて下さい。
触れれば切れてしまいそうな、蜘蛛の糸であろうとかまわない、それが可能性ならば死んだってかまうものか。
天にいるどこかのだれかの気まぐれでも、地獄に住み憑くだれかの策略でも何でも。
対価が必要ならどんなことだってしてみせます。
だから、どうか神様、俺に逆転のチャンスを。
そう。
願った。
「本当に?何でも?嘘偽りなく?」
最初はその言葉がどこから発せられたのかは、瞬時には理解することができなかった。
『そいつ』がいつからそこにいたのかは解らない。
ただ、気がついたら――――――。
そこにいた。
本物の銀でできているのではないかと錯覚してしまうような、見るものを虜にしてしまうような銀髪。
まるで世界を見渡しているかのような澄んだコバルトブルーの瞳。
携える微笑みは女神の如く。
肌はみずみずしくあまりにも白く、しかし一切の病弱さは見受けられず。
列挙していくと、それこそその描写だけで一冊の本ができてしまいそうなほどに『それ』の美しさは総てが黄金比率だ。
白い、見るからに上等なスーツに見をつつんだその姿は身長も相まって、男女の区別がつかない。
更に、『そいつ』の背後にはパンツスーツ姿の背の高い黒い髪を肩の辺りで切り揃えた女性が付き従うような形で佇んでいる。
凛々しい美しさと、鋭いナイフのような鋭利な雰囲気だ。
とにかく浮世離れしている、いや超然としている。
一体これはなんなんだ?
「………………………」
「ん?んん?もしかして僕が誰だか解らないの?失礼しちゃうなぁ、君がどうしてもというから、君がチャンスをくれと言うから、こうして出てきたっていうのに」
「………………っ!?」
今、こいつは何だと言った?
『君がどうしてもと言うから』だと?
それじゃあまるで。
「そう。この僕こそが『神様』だ」
そう、おっしゃった。
そして、自称『神様』は言葉を続ける。
「『神様』って云うと最初に何を思い浮かべるかな?イエス・キリスト?ゼウス?オーディン?天照大神?まあ、その辺かな。だけど本気で彼等の存在を信じている人間なんて極少数だ。うふふ、その点僕という神様はこうして実在してる分、彼等より神様っぽくはないかもね」
だからこそ存在を信じてもらえているんだけどね、と続ける。
俺はどうだろう?
この正体不明の言っていることを確かな現実として、今、目の前にいる存在を『神様』だと思っているのだろうか?
いや、違う、『そいつ』が一体何物だろうとそんなことは今はどうでもいいことで気にする必要さえない。
俺が気にするべきなのは、『それ』が顕れたという事実そのものなのだ。
「あんた……いや、貴方がおっしゃったことは、本当ですか?俺がチャンスを願ったから来てくださったってことで、いいんですよね?」
尋ねると、『それ』は少し驚いたような顔をして、またすぐに表情をほころばした。
「信じちゃうんだ、どうしてなかなかいい眼をしているみたいだね。まあ、でも、敬語を使ってくれなくていいよ。別に君に尊敬してほしくて神様やってるわけではないし」
「どうなんですか?俺の願いは聞き届けられたんですか?」
「それについては、最初に聞いたとおりだよ。あるのかい?君に、勇気が、現実よりも現実な地獄へ行く勇気が」
答えは、既に俺の中に用意されていて、すぐにでも出すことが出来る。
決まっている。
是非もない。
迷う余地などない。
俺は葵を救って見せる。
「あります」
決意表明。
俺はたとえ何があろうと、必ず葵がしんでしまうような、ふざけた現実を死に物狂いで変えて見せる、この手で。
「いい返事だね、来た甲斐があったよ」
すると、後ろに控えていた女性が、懐から封筒を取り出しながらこちらに歩いて来て、その封筒を手渡してくれた。
触れてみた感じ、中には手紙のようなものが入っているようだ。
封筒の表には、綺麗な字で『招待状』と書かれている。
どうやら、俺は文字通り、地獄へと招待されてしまうようだ。
「それが妹さんを生き返らせるための、いや、生き返らせるチャンスを得るための招待状さ、国友君」
「どういうことだ?」
聞き返してしまう。
チャンスを得るための招待状?
つまり、この招待状を持って行った場所で、何かを成し遂げれば葵が生き返れるというわけではないということか。
だが、そこまで甘いとも思ってはいない。
人を一人の死をなかったことにする冒涜的な行為が、一つ何かを成し遂げた程度で可能なほど、この世界が慈愛に満ちあふれているはずがない。
むしろ、ツーステップでも少な過ぎるぐらいだ。
「んー、言い方がまずかったかな?チャンスといってもほぼ百パーセントだと思ってくれていいよ。
なんせ、君を過去へ連れていくだけだから。いや、生き返らせることも出来るには出来るけど、なるべくやらないのが僕のスタンスなんだ」
なんと。
過去へ連れていくだと?
確かにそれなら、葵の死を回避できる。
しかし、
「一つ……いいか?」
「どうぞどうぞ」
「疑う訳じゃないんですけど、本当に可能なんですか?」
そう。
まだ俺は、このどこか超越的とさえ思えるような雰囲気を身に纏ったやつの神様的行為を眼にしていない。
こちらの事情を全て把握しているようではあるが、それでは決定打に欠ける。
「哀しい事を言うね、君。自分のことは信じられなくても、神様の言うことくらい信じようよ。ま、それじゃあ何かリクエストはあるかい?」
「………何でもいいです。信じられるようになれるようなやつでお願いします」
ほんの少しでも可能だと思えたら、俺は間違いなくその可能性に飛びつく。
蜘蛛の糸に。
それがなんであろうと飛びつくまでに俺は切羽詰まっているのだ。
すると『そいつ』は、右手を高く持ち上げて、その手を握りしめた。
「………何だこれ?」
何が。
何がおこったのかはさっぱりだ。
何かが起こったのにそれに対してほとんどリアクションもとれやしない。
事実だけ答えると、俺の周りから光がなにもかも消えてしまっていた。
家の明かりも、街灯の明かりも、そして、沈みかけていた太陽の明かりさえ。
完全なる暗闇と化していた。
いや、それでも、二人の、俺の、前に、顕れた、やつら、のみは、まるで、発光、してるが如く、俺の、眼に、映って、いた。なんだ、これは――――――?
「とりあえずこんなかんじでいいかな、それともお金をかけたらこのぐらいできてしまうか。ちょっと待ってね、台風の二、三個作り出すから」
「………いや」
声をなんとか絞り出す。
「もう………いい」
理屈で説明しきることが、残念ながら俺には到底出来そうもない。
ヒシヒシと感じとることはできる。
ああ、こいつは間違えようもなく、どうしようもなく神様だ。
「そう。ならいいや」
神様が手を降ろすと、再び世界に光が戻ってきて、今まで俺がいた道路に戻ってくる。
本当に世界から光が消えていたのか、それとも別空間にでも飛ばされていたのかは解らないが。
そんなことはどっちでもいいことだろう。
「さてさて、それじゃあおおまかな説明だけはさせてもらおうかな。質問のある人は手を挙げるよーに」
神様によるレクチャーが開始された。
「国友君がこれから向かうのは、異世界だ。
そんな露骨に疑うような顔をしないでよ、信じてくれたんだろ?胡散臭さいだろうけど、事実なんだからしょうがないじゃないか。
事実は事実。人間にはなかなか変えがたいものさ。
そこで君は妹さんのために、一生懸命頑張るのさ。何を頑張るのかはまだ秘密。まあ、一筋縄では無理だろうけど、国友君ならきっとできるさ、命を削って頑張ればね。
うふふ、君の覚悟とやらが試されるってことさ。諦めるのも自由だけど。
え?
諦めたらどうなるか?
弱気だなあー、ダメだよそんなんじゃ。
答えは簡単、そのままズルズルと生きていくだけ。諦めるのも自由。人生と同じ。簡単に諦めてしまえるものだよ。
よくいるだろう、君の周りにだって。ほとんどの人間が持ち合わせている特技のようなものだもの。
何で内申書には書かないのかなあ、特技・諦めること。
おっと、脱線してたね、ゴメンゴメン。
ゲームに感覚的には近いものがあるかな。
プレイヤー体験型超リアルRPG、人とか死にます。キャッチフレーズはそんな感じ。
現実よりハードなゲームって需要あるのかなあ。
とにかくありきたりなアドバイスをするとしたら、やっぱり他人の数百倍は頑張らないとクリアーできないから、としか応援できないかな。うーん、なんだかこれだと僕が君の味方みたいに聞こえちゃうかもしれないけど、誤解はしないでね。
別に僕は君の味方ってわけではないんだから。神様っていうのは大抵の場合はどっちつかずなものなのだから。
だから世界観についても秘密。
それでも僕はおしゃべり好きの神様だから、ちょっとだけ教えちゃおう。
君がこれから行く世界は死がより日常的になる。
今の世界だって沢山人が死んでるじゃないかって?
よく言うよ、まったく。もっと身近になるんだって。
お隣りさんどころか、ルームシェアしてる。酷い場合はそのレベルだ。まあ、少なくとも君はそうなるべきだ。
運命に逆らいたいっていう反骨精神を持っているんだったらね。
ああ、国友君は運命って言葉が嫌いだったんだっけかな。僕は好きだけどね、運命。
神様が運命を好きでいちゃあいけない法律なんてないだろう?
………とりあえずはこんなところか。詳しい事情はあっちに着いてから説明して貰ってね。ここまでで質問は?」
一口でまくし立てた後に、質問を促してくるのは、果たして頭の中を読まれたりしているからだろうか?
途中、一回も手を挙げなかったけれど勝手に説明されたし。
ここまでの説明は、やはりフワフワしていて、あまり輪郭が見えてこない。
異世界って。
まるで小説のようなセリフだ、現実でそんな話をされるとは、招待状の時点である程度予想ができていたとはいえ、どうしてもへんてこりんな響きに聞こえてしまう。
「どこに行くかとかはいいんですが、それって今からだったりします?」
そこまで言って気がついた。
家族はどうなるのだ?
今の今まで、葵を生き返らせることしか考えていなかったが、俺が異世界とやらに行ったら、残された家族はどう思うだろ。
娘を亡くした直後に、息子まで行方知らずになったら、両親はどうなる?
どう考えたって、簡単には行き来などできないだろう。
となると下手をすれば最悪の事態だって十二分に起こりえてしまうだろう。
葵を生き返らせました、しかし代わりに両親は死んでしまいましたでは、意味がなさすぎる。
俺の命はともかく親の命を犠牲にして助けられたとしても、葵を助けられたとは断じて言えない。
すると神様は、俺の考えを見透かして、
「家族のことなんか気にしなくても大丈夫だよ」
と、告げた。
………どうして気にしないなんてできようか。
「だーかーらー、今いる国友君はいなくなってしまうけど、別の国友君がこの世界に新たに造りだされるだけさ」
「俺じゃない俺が……」
「君と全く同じ性格と人格を持ったドッペルゲンガーがね。とは言っても君に確認する方法は皆無なのだけれど、そこは頑張って過去に戻れたら関係ないだろう」
家族は気づかないのだろうか、自分たちの息子が変わってしまっても。
それに、こんな親不孝な話もないだろう。
………違う。
そうじゃないだろ。
そんなものは、負けるための準備をしているようなものだ。何を失敗した時の言い訳をかんがえているんだ、国友徳利!
成功してさえしまえば、何一つ問題などない!
「いや今からじゃないよ。それじゃあ招待状の意味がないからね」
「………それじゃあいつならいいんですか」
気持ちがはやる、だが、それでいい。
今は冷静になっている場面でも、状況でもない。
垂らされた糸を、気まぐれで切られてしまう前に、なんとしてでも熱さに任せて登りきらないといけない状況なのだ。
「いつならいいんです」
「………なかなかアグレッシブだね。それじゃあ明日の零時にあの交差点においで」
あの交差点とは、葵が撥ねられた交差点のことを言っているのだろう。
あそこが日常の終わりにして、非日常の始まりとなるわけだ。
成る程、俺にはおあつらえの場所だな。
時間にして後、四時間。
「持っていかないといけないのは、この招待状だけか?」
「うん。ていうより、それ以外の持ち込みは禁止。君はコンタクトしてないみたいだから別にたいした問題ないよ。あ、服は着てきてね」
「わかりました」
頷いてから、まだ一言もお礼を言ってないことに気が付く。
人に親切にされたらどんな状況でも礼を言えと、葵が言っていたなあ。
だから俺は、家に戻る前に神様に向き直り、頭を下げる。
「本当にありがとうございます」
それは日常との決別でもあった。
そして俺は走り出す。
「まだお礼を言うには早いよー」
そんな声を背中に受けながら。
振り向きはしない。
死んだって後戻りなんかしてやるものか。
なんとしてでもあの神様に約束を守らしてみせる。
見てやがれ。
この俺にチャンスを与えたことを、これでもかってほど後悔させてやる。
絶対に!
「別れの手紙………は書かなくてもいいのか」
家に帰るなりとりあえず両親や友人に、別れの手紙でも書き残して行くべきかとも思ったが、よくよく考えてみると、俺がいなくなったら新しい俺が俺の代わりに生活をするのだと思い至って、取やめた。
国友徳利が存在するのにお別れの手紙があっても、それを見た人は首を傾げることだろう。
それに、異世界に自分の意志で行くのだったらこちらの世界に余計な未練を残していくべきでもない。
あくまで裸一貫。
余計な物は持ち込めないのなら、キレイさっぱり忘れてしまえ。
必要なのはダイヤモンドより固い決意のみ。
「とりあえず服は着替えておくか」
学ランを脱いで、ハンガーに架ける。
神様の口ぶりから想像するに、これから行く世界は危険が多いはずだ。
となると、やはり出来る限り動きやすい服装がベストだろう。
危険の類が、刃物と悪意を持った人間とかだったら大して意味もなさそうだが、まあ、何もしないよりはマシだと思おう。
いざとなれば走って逃げればいいさ。
箪笥からジャージを取り出して着替える。異世界に行くにしては不格好かもしれないが、少なくとも俺が持ち合わせている衣装の中ではこれが一番機動性は優れている。
さて。
そこまで準備するとさすがに持ち込み禁止な以上、準備出来るような物もなくなってしまう。
ううむ、どうしたものか………。
あまり向こうの世界について偏ったイメージを持つのもよろしくないだろうし………。
だからって寝てしまうのもダメだろう。
寝過ごしたらそれこそエライことになるし、この異様に昂ったテンションではそもそも寝れそうにない。
仕方ない、風呂にでも入ろう。
そう思い立ち、風呂場で着替えたばかりのジャージを脱ぎ捨てシャワーを頭から浴びる。両親はショックからもう寝込んでしまっているので、シャワーの音だけが葵のいなくなった家に響いている。
待ってろよ。
ゼッテーお前のこと生き返らせてやるからな。
そんでもって、俺に感謝させてやる。
お前のお兄ちゃんは世界一のお兄ちゃんだと認めさせてやる。
だから、ほんの少しだけ待っててくれ。
風呂から出た後で俺が何をしていたかは、俺自身でも思い出せない。
気が付いた時には、午後十一時十五分をむかえようとしていた。
そろそろだな………。
例の交差点までは十五分もかからないが、早目に着いておくに越したことはない。
これ以上の失敗は絶対に許されない。
失敗はもう。
お腹いっぱいだ。両親を起こさないように、静かに階段を降りて、静かに扉を開ける。
まるで悪いことをしている気分だ。
まるでもなにも、それは両親にとって悪いことに他ならないのだが。
門の前に立ち、十七年間過ごしてきた我が家を見上げると何とも言い表しようのない感情がせりあがってくるのを、どうにか押さえ付ける。
言うべきことは一つ。
「さようなら」
また会う日まで。
別れを済ませて足早に交差点へと向かうと、またしても異様な光景が待ち構えていた。
誰もいないのだ。
それなりの大通りなのにも関わらず、二十四時間営業のはずのコンビニエンスストアにさえ誰もいない。
車も一台も通らない。人がいなくなったと言うよりは、街が人を置き去りにしたかのようにさえ感じる。
そして、始まりの交差点へとたどり着いた俺を待ち構えていたのは、白塗りのリムジンとメイド服姿の若い、二十代前半くらいの二人の女性だった。
「お待ちしておりました。」
「国友様ですね?」
「………はい、そうです」
しっかりと頷く。
「「それでは招待状の確認をさせていただきます」」
手を差し出すメイドに、神様からもらった招待状を手渡す。
彼女たちはそれを確認すると、リムジンのドアを開けた。
「どうぞこちらに」
「案内させていただきます」
「「アナザーへ」」
アナザー。
それが異世界の呼称だというのは、想像に難くなかった。
もう一つの現実となる世界の名前としてはピッタリだとさえ思う。
リムジンに乗り込むと、メイド二人は運転席と助手席に乗り込む。
リムジンの構造なんてよく知りはしないので何とも言えないが、運転席とは仕切られている。
「それでは」
「おやすみなさいませ」
「え?」
助手席のメイドがおやすみなさいと言った直後、白い煙が俺に噴射された。
マジかよ………。
俺は抵抗することなく、意識をフェードアウトさせた。