2 (森坂透視点)
授業終わりのチャイムを聞きながら、透は小さく伸びをした。授業が終わって用済みになった教科書とノートを鞄に入れ、友人であり敬愛する生徒会長に会いに、弁当片手に教室を出ようとした時。その時、ふと彼が目に入った。
今日このクラスに入ってきた、転入生。
頬杖をついた憂いの横顔。目は何かを思い、ずっと細められている。動くたびに揺れる、烏の濡れ羽色。その髪が今、鬱陶しそうに掻かれた。その仕草は乱暴だがどこか品があり、しかし行動するたびに周りから熱い視線を受けているのは、何故か透の胸を不快に思わせる。少ししか話していないのに、それが誇らしく思う。
彼は転入してから初日で、周りの視線を奪った。男子校ゆえでそちら側の趣味の者が多く、一目惚れをした生徒もいるようだ。あの容姿ならおかしくもないが、人数が尋常ではない。移動教室の時、授業終わりの休み時間、今朝廊下で彼の姿を見た時。耳に入るのは彼の話ばかりだ。
彼は、法堂七夜と言った。
あの法堂家の一人息子ということもあり、注目を浴びるのは慣れているのかもしれないが、堂々としているその姿は、つい惚れ惚れと眺めてしまう。
彼は日の温かさに当てられ、細めていた目を完全に閉じ、机に突っ伏した。眺めていた周りは不満そうに眉を下げる。
そして、また見惚れていると、彼に近づく二人の影。クラスの中ではリーダー格の二人は、一人が河内将大、もう一人が山本秀明だ。
「おーい、起きろ新入り!」
「寝てんじゃねーぞ!」
「…………うん?」
彼は二人に、さも今気付いたかのように反応した。その二人は足音が大きく、彼が気付いてないわけがないのだが、きっと知らないふりをしたかったのだろう。あの二人は見るからに野蛮で、そして面倒だ。
だが、彼は知らないとはいえ、二人はクラスのリーダー格。去年、転入してきた生徒を脅して仲間に入れていた二人を、迂闊に彼に近寄らせてはいけないだろう。
話を始める前に、透は二人と彼の間に入る。睨んでくるのは、河内の方だ。
「どこかに連れ込もうとしてるんじゃないですか? まさか、去年の一年のように、溜まり場に連れて行って拒否権がないようにするつもりですか?」
「さあ、それは知らねえなあ。俺らは仲間んとこ連れて行こうとしてるだけだしな。俺らが必ず何か企んでいると考えるのは流石に被害妄想が過ぎるんじゃねえのか?」
「転入してきたばかりの法堂くんをそちら側に取り込もうとしているのが見え見えです。今までの前例を上げましょうか?」
「あん? 今は違うかもしんねえだろ?」
「前例があるから、彼を貴方たちに接触させないようにしているんですよ、分かりませんか?」
否定はしているが、顔があからさまに肯定している。そもそも、そうじゃなかったのなら、転入したての彼に用事はないだろう。だが、話し始めた後から注意しても、どうにもならないのだから。
だが、彼らの言っていることも正論でもある。このまま口論しておけば負けるのはこちらだ。透は彼を盗み見るが、彼は逃げることも話に入ろうともせず、無表情で二人と透を見ているだけだった。
どうしようかと思っていた時、ドアが開く音。
見ると、そこには二年トップの真中一晃が、少々焦った顔で教室に入ってきているところだった。一匹狼で、笹本和真から認められていることで有名の真中一晃を見た時、表情には出さなかったが、透は内心驚いていた。透だけではなく、この学校の誰も、真中一晃の焦った姿など見たことがなかったのだから。
しかし、透とクラスメイトが驚かされたのはそれだけではなかった。
「一晃……」
「すぐに来られなくてすみません、七夜さん。何もありませんでした?」
「…………………………多分」
「何かあったんですね。誰に何をされました?」
本人にしては何気ない会話なのだろう。だがその会話で、周りに与える衝撃は凄まじいものだった。
(笹本和真にも敬語を使ってない真中一晃が、さん付け、っ!?)
しかも、その後に彼を庇うように立っている真中一晃が、こちらを睨んでいる。どこからどう見ても主従関係で、真中一晃が従者側になっている。
意味が分からず彼を見ると、彼は不思議そうに首を傾げてから、その後笑った。
背筋の冷や汗が風に当たり寒くなった。ゾクッとしたのは、何も透だけではない。彼が笑った途端、注目していた人は固まり、注目していなかった人は何事かと騒いでいる。
きっと、固まっていた全員の心は一致しているだろう。
彼の笑みは語っていた。分かっているのか、と。
――――分かっているのか。自分が言えば、お前らはどうなるのか。
幻聴が聞こえる程だ。透は卒倒しようになった。
クールなのか、それとも鈍いだけなのかと思っていたが、とんだ腹黒だった。そして、彼の〝演技〟に、今の今まで騙されていたのだ。
ブラックオーラを纏いながら笑う彼は、まるで悪魔だ。彼の影に二本の角と尻尾が見える。知りたくなかった現実。
(腹黒だったなんて……)
背を向けていてその笑みを見ていない真中一晃は、眉間に皺を寄せて何かを言っていたが、驚いた透たちには届いていなかった。いつもならそれで目の前の男の怒りが増すところだが、言い終わる前に無表情に戻った彼が止め、喧騒が終わった。
その後、真中一晃横抱きにされた彼が、真中一晃に見えない位置で、こちらに嘲笑を送っていたことも透には忘れられなかった。
河内と山本も透と同様に固まって唖然としていたが、我に返ると河内が怒りで顔を真っ赤にして、彼の後を走って追った。
追う前、河内が「認めねえぞ!」と叫んだことにより、透は何があったか悟る。そう言えば、彼は真中一晃に憧れていた。他の者にも憧憬や羨望もあるが、河内は一段と熱狂的だったのだ。
溜息を吐きながらその後ろ姿を見ていたが、ハッと気づく。
もしかして喧嘩になるのではないか、と。真中一晃がいるので大丈夫かとも思ったが、逆にその本人がいることで、彼が巻き込まれる可能性も考えられる。
そこまで考えると、透も河内同様追いかけることにした。
既に廊下では姿は見えず、発見したのは目的地である食堂だった。美貌の彼はじっとパンを凝視している。
(焼きそばパン……そういえば、一度も食べたことがなかったな)
透は合併があるまで庶民の味を知らなかったため、一度は驚き二度目は買ってみようと思ったが、結局タイミングを掴めず、すぐそこにあるのにも関わらず味わったことがなかった。
思考していたが、視界の端に河内の姿を見つけ、遮られる。
そこには、彼の頭を狙ってボールを投げつけようとしている不良の姿。そんなことをすれば、今度こそ彼の従者から怒りを買うと言うのに。そうとうに怒っているらしい。
だが、今は気付いてない彼に教えるか、河内を止めなければいけない。透は役に立っていない従者に怒りを感じながらも、彼のところに走った。
しかし間に合わず、ボールは投げられた。硬いあのボールは、少し前に流血沙汰を起こした物だ。真っ青になる。
そして彼にボールがぶつかることは――――なかった。
彼は腰をおり、何かを拾う仕草をして避けたのだ。あまりにも自然で、本当に何かを拾ったのだと勘違いした。だが、それは違う。何かを拾う仕草は、カモフラージュだったのだ。彼は何食わぬ顔で振り返り、真中一晃に殴られた河内を見て首を傾げた。
透は再度ゾッとした。
ただの勘などではない。透は、確かに聞いた。彼が倒れた河内を、〝それ〟と呼んだのを。それは、自分にボールを投げた者に対する態度。その証拠に、茶番は面倒だとすぐに切り上げたのだ。
今度こそそこから動けなくなり、どこかに行く彼と真中一晃の姿を見ながら、透は同じく固まっていた周りに言葉を無くしていた。
僕も、本当に時々、人を「それ」と言ってしまいます。
言葉の綾というものですよ