2.夾竹桃―common oleander―
視点変更です。交互に書いていきたいと思います。
王子様なんてどこにもいない。
そんなこと、誰だってわかってる。
だから、自分のことは自分で守るしかない。
深い深い荊の森の奥で、私はすべてを拒絶して眠り続ける。
私は、荊の姫。
◆
あの日を境に、私の世界は一変した。信じられるものを、居場所を失った。
そして、逃げ出した。
「ただいま」
その逃げ出した先、私のやり直すべき世界で、私は強くなりたい。そうすることでしか私は私を守ることができない。味方なんていらない。もう一度、信じるべき誰かを失うようなことに、私は耐えられない。
「おかえりなさい。」
裏口から入った私を母が迎えてくれた。正直なところ、私は誰にも会いたくない。それが、家族であっても一緒。弱みは作りたくない。
私は母の言葉には答えず、部屋に向かった。
わかってる。母は、私が帰ってくる時間を考えて家にいてくれたのだ。それでも、それが嫌だ。
部屋に入ると私は持っていた鞄を床に叩きつけ、制服に皺がつくのもお構いなしにベッドに倒れこんだ。転校初日。この日を迎えるためにしてきた努力は並じゃなかったと思う。人を信じることはできないけれど、それでももう一度学校に行けるように記憶にふたをした。だというのに。
「…あの女誑し」
本人は否定していたけど、あれは絶対にそうだ。男の癖に花を育てるのが趣味だとか、悪趣味すぎる。帰る前のあいつの姿を思い返してみる。教室に飾られていた切花の手入れをしていた。
ふと、最近まで大きな黒い物体が鎮座していたスペースに眼を向ける。ここに来るまで、私はそれに必死だった。必死になって、それのためだけに私立校にまで行かせてもらった。
「…全部、なくなっちゃった」
努力する意味を失い、私にはもう何もない。自分の部屋でさえ、我が家でさえ、自分のいるべき場所ではない。そう思えてならない。
本当は、今でも覚えてる。
指の運び、感情と感動、会場との一体感、そして喝采。自分と、他の人たちに向けられる健闘を称える喝采。
私は、もうそのどれをも手にすることはない。
「鈴、1人でいるならお店にいらっしゃい」
部屋の外から母が声をかけてくる。言いたいことと思惑が嫌というくらいにわかる。だから、嫌だ。
「行かない」
そして、いつものように拒絶を返した。
「新しい学校の子が来てるわよ、家の手伝いで」
…嫌な予感がした。その予感は確信に限りなく近い。
「帰らせて」
「そうもいかないわよ。注文してたお花を届けてくれたんだから」
…あぁ、やっぱり。あの女誑しだ。学校だけじゃ飽き足らず、家にまで来て私を乱すのか。
「行くわ」
行って、蹴散らしてくる。決意新に、拳を握り締める。
私が扉を開いてすぐに、母が閉めた。
「その顔と、握り締めた手を緩めなさい」
あっさりとばれていた。まぁ、事実上、血のつながった母親だ。わかるんだろう。私には、母のことも父のこともわからないけど。
取り敢えず、拳だけは開いた。顔は無理だった。母が「仕方ないわね」と溜息混じりに言って、私を連れて我が家の一室へと向かう。
これが、私が父と母がわからないといった理由だ。私が連れて行かれた一室は、元は客間だったスペース。今ではカフェになってしまった。
転校が決まって、まず母がパートをやめてきた。暫く経って、父もそこそこの企業の管理職だったのに、突然やめてきた。それだけでもわけがわからないのに、突然工事業者を入れて部屋の改造を始めたと思ったら、今度はカフェを開店してしまった。おかげで、両親共にほとんど家にいる。
「春馬くん、改めて鈴よ」
「ああ、本当に連れて来てもらえるんですね。まぁ、学校では隣の席ですけども」
母が「そうなの」と言って笑った。カウンターの奥にいる父も笑っていた。本当にわけがわからない。この状況は一体何なんだ。
「玄関のあたりに注文の鉢植えはディスプレイしてあります。で、こっちの花束が今回が初めての注文ということでしたので、今後もごひいきお願いしますの意味合いを込めて僕からです」
「まぁ。でも、お金は払いますよ?」
母がレジからお金を出そうとするのを誑しは手で制した。
「いいんです。これ、僕が配達するとき必ず自分の株から持ち出してる、本当にサービスなんです。家族には、本当にお世話になって…しかも、家にいてくれる仕事だったんで、それにも助けられて。だから、少しでもその助けをしたいんです」
…何だろう。今、何かがすとんと、心に落ちてきたような気がする。何かが何なのかはわからないけれど。
「じゃあ、肥料代か新しい種か苗のお金だと思って」
そこまで言って、母が誑しの耳元で何かを囁いた。
そして、誑しは驚いた顔をしてすぐに、いつもの表情に戻った。
「そういうことでしたら、尚のこともらってください。そういう風に言ってくれる人にはそれこそ、本当に何かしたいです」
「…そこまで言うなら。今回だけよ。次からはきちんと払うわよ」
誑しは無言で頷いた。
「で、鈴はいい加減に挨拶ぐらいしなさい」
ちっ、忘れられてはいなかったか。
「今、舌打ちしたでしょう」
ばれた。それもあっさりと。
「用が済んだなら帰れば?」
まぁ、今は母と喧嘩してる場合じゃない。これ以上、私の中に誰かを入れてたまるか。それも、男なんて論外だ。
「鈴。春馬くんには、今コーヒーを出すところなんだ。鈴も一緒に何か飲んでいきなさい」
漸く父が口を開いたと思えば、これ。私の味方はどこにもいない。わかりきっていたことだけど。信じられるものも、居場所も、私には何もないんだ。
◆
結局、誑しの隣でコーヒーを一緒に飲むことになってしまった。不愉快だ。
「ありがとうございます。出来た頃から来てはみたかったんですが、家を手伝ってるとそういう機会にも恵まれなくて」
父からコーヒーを受け取りながら誑し。二度と来るな、と心の中だけで呪詛を送っておく。
「そう言ってもらえるなら嬉しいな。こんな何もない家の一室を改造しただけの店だけど、また来てくれよ。仕事だろうとそうでなかろうとね」
「喜んで」
謹んで辞退するところよ、そこは。
「鈴はずいぶんと不満そうだね?」
父は何もかもわかってるふりをして言う。私は父のそういうところが嫌いだ。当事者でもないのにすべてを分かったような顔をして踏み込んでくる。
母も、私が望まないことを知っていてお節介を焼くのが気に入らない。
そして、隣に座るこの誑しも。まだ、会ったばかりなのにこいつが私を脅かすのが分かる。こいつは、私が私を守るために用意した障害を、簡単に乗り越えて中に入ってくる。そんなふざけたことがあってたまるか。
「…宿題してくる」
結局、この場にいるのが嫌で逃げることにした。宿題なんて出てないけど。でも、学校に通っているんだから出ていても不思議じゃないでしょう?
「今日は出てないだろう。まして、教科書もそろってない人に宿題を要求する先生なんていないよ」
誑しのことを忘れていた。同じ学校、同じ学年、同じクラスで席も隣。こいつが何も知らないはずがない。それを忘れていた。
「うるさい。予習するの」
「そう?じゃあ、僕もそろそろ帰ります」
私が出ようとすると、誑しも残っていたコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。
「じゃ、高宮さん。また明日、学校で」
さよなら、と言い残して誑しは出て行った。と、思ったらすぐに戻ってきた。
「高宮さん。薊も夾竹桃も綺麗な花だけど、それを抱えたままはよくないと思うよ?」
「は?」
言われてから、こいつが学校で私に向かって薊と言っていたのを思い出した。勿論、無視したけど。
「今度こそ、さよなら」
それきり、誑しは戻ってこなかった。
最後までわけがわからない。でも、わかる必要もない。私は誰とも関わらない。1人で生きる。だから、必要ないし関係ない。
そう、思ってた。
「はい、これ」
そう言って母が差し出したのは今日の花の納品伝票とメッセージカードだった。
「さっき春馬くんが言ってた花は、今日納品してもらった花でもあるの。見頃だって言われたしね。でも、このカードを見てびっくりしたわ」
何のことかわからないまま、示されるままカードを読む。
『薊:触れないで、反抗と無愛想』
『夾竹桃:危険な心』
こんなにも奴は乙女趣味なのか。
「びっくりするでしょう?」
奴の乙女趣味以上に、私は次に母が発した言葉に驚かされることになる。
「お母さんたちが鈴に思ってたことそのものなのよ、この花言葉」
「え…」
何も言えない。夾竹桃のほうは自覚がないけど、薊の方は自覚がある。態としていたことだから尚のこと。
だけど、自分の自覚してることもしていないことも、どちらも初対面の男に見抜かれていたってこと?じゃあ、教室で薊って言ったときには、もう見抜かれてたってことになる。
「ぐ、偶然よ。こんなの。大体、ちゃんと学校に行けるもの。危険な心なんてあるはずないじゃない」
本当はある。言われてしまえば自覚するしかない。
「鈴。嘘はその場を取り繕えるかもしれないけど、自分を救ってはくれないよ。少なくとも、そんな嘘じゃね」
もう何なんだろう。父も母もあいつも。誰もが私の中身を見抜いてる。
「それにしても、春馬くんはさすがね」
誑しが何だって言うんだ。
「先達としては申し分ない。見込んだとおり、とでも言うべきかな」
「先達?」
私ひとりが置いていかれてる。その自覚がある。本当はこのまま部屋に帰ってしまいたかったけど、聞いておくべきだと思った。
「鈴は知らなかったの?彼、小学校の頃に自殺未遂をしてるのよ」
一瞬で、血の気が引いた。その自覚がある。
「学校で育ててた花をすべて同級生の男子に目の前で燃やされたらしくてね。あまりのショックでそのまま走り出して車道に飛び出したんだそうだ」
花くらいで。誰もがそう思うだろう。でも、私は理解できた。私が部屋からここへと持って行かせた黒い物体、ピアノと同じことだ。私だって、あの頃の私なら目の前でピアノを壊されれば死にたくもなっただろう。それくらい、世界のすべてだったから。
それにしても。あいつ、私と同じだったの?同じものの匂いを感じ取ってたとでも言うの?だとすれば、余計な同情なんていらない。自分は乗り越えたんだ、何て蔑みだっていらない。
「じゃ、何。あいつ、越えられない私を見下してるってことなの?」
「鈴、そうじゃない」
父が否定するけど、私の耳には届かない。
馬鹿にしてるんだとしたら、許さない。同情なんて、絶対にいらない。
◆
部屋に駆け込んだ私は鍵をかけ、棚に収められたスコアを全部床に放り出した。
こんなもの、もういらない。私があの世界に戻ることなんて、二度とない。
「何もいらない。誰もいらない。何もなくていい、空っぽでいい」
言い聞かせるように、自分の肩を抱いてスコアの散らばった床にへたり込んだ。
私を守るために作った荊の壁が崩されていくような気がした。
あの日のことは嫌というくらいに覚えている。忘れようがない。
そっと、髪に触れた。手入れのされていない、ざんばらな髪。それが、あの日が嘘ではないという証拠。
ふいに、認めたくない感情があふれ出しそうになる。そんなものを認めてしまえば、私はもう1人に戻れなくなってしまう。だから、認めるわけにはいかない。
「…1人でいいの」
そうだ。それでいいんだ。
そう自分に言い聞かせて、私は床に顔を伏せた。
泣いてしまうような、女々しい自分を、絶対に認めない。だから、これは泣いてるわけなんかじゃない。