(三)
部活を辞めて。長く続けていた剣道を辞めて。何かが変わるのかと思った。勝負事に臆病で卑屈な、厭な自分を変えられると思った。
変わったと言えば、変わったのかもしれない。けれどそれは、自分一人による変化ではない。自分一人の変化だけで済ませられることではない。
休み時間の廊下を、同学年の剣道部員が走る姿を見かけた。端のクラスの子への伝達だろう。以前は、ここへも顔を出してからだったのに、迷うことなく彼女は通り過ぎる。
私は辞めるべくして辞めたのだ。後悔は無いけれど、こうして世界が断絶されたのかと目の当たりにすると、流石に胸が痛んだ。
引き止めて欲しかったわけではない、そうだとしても自分は辞めていた。苦いものを飲み込む思いで、私は自分の気持ちを確認する。
漫然と続く日常も、勝利だけを追いかける理念も嫌だった。けど、部活を通して知り合った仲間達は嫌いじゃなかった。
私は、どうなりたかったんだろう?
全ては終わってしまったこと。
好きだったんだろ、と語尾を下げたトオル君の声が、頭の中で回る。
それから、先日のトオル君が作ったケーキを思い出す。夢みたいに美味しかった。あんなの、お菓子作りが趣味だという友達のお母さんにだって作れない。それくらいは、私にも解る。それに、安藤さんに頼まれて作ったという焼き菓子。驚く事に五十セット。家庭の趣味の範囲なんて軽く飛び越えている。
どうして、トオル君は、それをお仕事にしなくなったんだろう。身体を壊しただなんて言っていたけど、あんなに美味しいお菓子を作れるじゃないか。
冷たい机に突っ伏して、私は教室の扉で四角く切り取られた廊下を眺めながら考えた。
あの人は今、レストランでお仕事中かな?どこのお店か、聞くのを忘れたなぁ。
今の仕事は、楽しいのかな。好きで続けているのかな。
お菓子の事は趣味だって、本当に、割り切っているのかな。
嘘を吐く必要も無く、まっすぐ帰宅する事を許された放課後。
一週間経つけれど、なかなか慣れる事が出来ない。胸を張ればいい、そう思いはするけれど、理屈ばかりが空回りして、体育館の離れにある格技場を目で追ってしまう。竹刀の打ち合う音が、気合いの入った声が懐かしい、と感じてしまうなんて。
こんなの、ただの感傷だ。そのうち忘れる。目を閉じて首を振って、私は駐輪場を後にした。
私の気持ちを代弁するように、雨を降らすでもなく、灰色の雲が重く垂れていた。
そのまま帰宅する気分にはなれなくて、ルートを少し変更する。教えてもらった、安藤さんの勤めるカフェを目指す。
ランチが絶品だというそのお店は正直言って、女子高生が、それも一人で行くような所じゃない。
それでも、安藤さんと話がしたいと思って……行ったところで出来る確証も無いけれど、具体的に何を話したいかなんて無かったけれど、ただ今はその店を目指した。
観光地区の外れにあるそのお店は、急勾配の坂を登ったところにあり、見下ろす海がとても綺麗。晴れていたなら、きっともっと素敵なんだろうな。
額の汗をぬぐいながら、アーリーアメリカン調の建物の横へ自転車を停め、恐る恐る、蔦のアーチをくぐってドアを開ける。カラン、と可愛いドアベルが鳴った。
平日の十六時。カフェとしてはお客さんの引く時間帯らしく、店内には一組のカップルが居るだけだった。
「良子ちゃん、来てくれたんだ」
キッチリした白いシャツに黒のパンツ、濃緑のエプロン姿の安藤さんが、笑顔で出迎えてくれた。もともと短い髪をピンできっちり止めて清潔感がある。トオル君の家で会った時とは、なんだか印象が違う。これが「お仕事モード」というものなのかな。
「学校の帰り?」
「あ、はい」
制服姿だから悪目立ち……でも、視線を気にする必要が無い事は、静かな店内を見ればわかる。
「景色が売りの店だけど。よかったら、カウンターへどうぞ。」
私が何事か抱えているのを察してくれたのか、そう誘ってくれた。お言葉に甘えて、私はカウンター用の高い椅子に腰を掛けた。
差し出されたメニューを見て、所持金を確認しながらケーキセットを頼む。その時に、安藤さんがクスッと笑った。
「ここのケーキは、河野が作っているわけじゃないからね」
そう、意味深に付け加えて。
セットと一緒に頼んだ紅茶は、安藤さんがオススメだというスリランカティー。ウヴァ、というその茶葉は、軽い飲み口と、後から来るキュッとした渋みが利いていて、どことなく日本茶みたい? 飲み易くて、とても美味しかった。
ケーキメニューは、ベイクドチーズにクラシックショコラ、プディングの三種から選ぶことが出来て、私はチーズケーキを頼んだ。
カッチリ焼かれた、ニューヨークタイプのチーズケーキ。レモンの風味が利いて、うん、美味しい。美味しいけど、……?
「美味しいでしょう」
「無難な味ですね」
思わずポロッと答え、それから私は咽込んだ。
「すっ、すみません……!」
カウンターの奥に居る調理スタッフの人の動きが止まるのが見えてしまった。
私ったら、なんて失礼な…!
「これが、商売の味と言う奴よ」
「……え」
「万人好みの最大公約数にして、作り手との利害の一致。好きってだけじゃ、どうにもならないってものね」
「あ……」
トオル君が、話していたこと。私が納得いかない気持ちでいた事を、察してくれていたんだ。
「ちなみにここの調理はオーナーが一手にやっていてね。軽食メニューには余念がないわ。あと紅茶。今度はランチタイムに来てみてね」
「……はい。ごめんなさい」
ま、まさか奥の人がオーナーさんだったとは。二重に気まずい。
ショボくれる私の様子を見て、愉快そうに安藤さんは笑っていた。
その頃、ポツ、と雨が降り出した。窓際に座っていたカップルが声を上げたので振り返ると、抱え込んだ水分を堪え切れなくなったとばかりに雲から雫が落ち始めたところだった。
男性が片手を挙げ、追加オーダーをする。返事をしながら、安藤さんはそちらへと足を向けた。
ケーキセット七百円でどれだけ長居をしていいものやら解らないけれど、私もこの雨が止むまで、お世話になろうかと考える。
陽が落ちる前の、薄暗い雨降りのカフェで紅茶。田舎の女子高生が過ごすには、あまりにも贅沢な時間。
コンビニやファストフードで友達と騒ぐのも良いけれど、これはこれで悪くなかった。
雨音を振り返りながら、滲み始めた景色を眺め、
「ファンタジックですよね」
そんなことを呟くと、戻ってきた安藤さんが猫のように笑った。
「ロマンチック、じゃないの?」
と。
「あぁ、そうか。でも、なんだか 現実味の無い感じで。ファンタジーって感じが、します。」
温かなカップを手に、そう答えると、なるほどと安藤さんは頷きを返してくれた。
「河野も、同じ事を言ってたなぁ」
「え?」
「夢や希望なんて幻だー そんなものはファンタジーだーって」
「夢や希望、って。それはまた、意味が違ってくるんじゃないですか?」
「んー。んー? どうだろうね。現実にしようと思っていた身からすれば、叶えられなければ幻想ってことなんじゃないかな」
「……それって、どういう」
叶えられ、なかった? トオル君が……夢、を? それは、お菓子の事なんだろうか。
私が疑問を形にできないまま口を半開きにしていると、乱暴にドアベルが鳴った。
「噂をすれば」
決して待っていたわけではないと安藤さんが肩をすくめ、来客を出迎えた。
「わり、ちょっと雨宿り。コーヒー一つ。ホットで」
「一杯につき滞在可能時間は三十分です」
「嘘つけ!」
入り口で、雨に濡れた上着を脱ぎながら、トオル君は安藤さんと軽い掛け合いをする。
私にそこへ口を挟む事が出来るわけも無く、ぼんやりと近づいてくるトオル君を見上げるしかできなかった。
「お 良子ちゃん。元気そうだね。久しぶり」
そんなことを言うトオル君は、少し疲れているように見える。
「……うん。トオル君は、お仕事終わったの?」
「いや、今日は……別件」
言葉を濁しながら、私と一つ席を空けたところに腰掛ける。
「あの」
「うん?」
出された水を一気に飲み乾し、おかわりを要求する横顔へ、私は思い切って声を掛けた。
「お菓子は また作ってるの?」
しばらくは町内会でのイベントは無いから、そちらでの需要は無い事は知っている。他に、以前の安藤さんの時のように、誰かの為にたくさん作ったり、なんてしているのだろうか。
自分なりに、出来る限り当たり障りの無い質問をぶつけたつもりだった。トオル君は、少しだけ渋い顔をして、それをパッと戻して。
「夏はかき入れ時だからね。本業に専念してるんだ」
「お菓子じゃないの?」
「あれは趣味。」
「嘘でしょ」
「本業ではないよ」
否定はしない。肯定もしない。短く答える声音に苛立ちを感じ取り、私はそれ以上、何も言えなくなってしまう。
「こら、可愛い子を苛めないの」
安藤さんが窘めながら、トオル君の前に淹れたてコーヒーを置いた。温かな香りがこちらにも流れてくる。
「良子ちゃんには、話していないんでしょう? だったら、飛んできて当たり前の質問じゃない」
「……」
あ、トオル君が拗ねている。女子高生から見てもそれと解るほど、あからさまに拗ねている。遊んでもらった頃を思い出させる、幼い表情。
それから眉間にしわを寄せ、項垂れて、溜息を盛大に吐き出し、そうして改めて顔を上げた。私に向き直る。
「俺さ。東京のケーキ屋、体壊して辞めたって言ったろ?」
「うん」
ただ、具体的にどこをどう、とは聞いていない。
「体壊してさー ……ついでに心も壊してな。帰ってしばらくは、もう、人として使い物にならなかった」
「…………」
忙しい厨房だったけど、ペースに飲まれっぱなしで自分のケアをきちんとできなかったんだ。小さく付け足す。
「通院と療養と。ひたすらボンヤリしてたな。地元に居ても誰とも連絡取らなかったし」
香りを楽しむように、トオル君はカップを口へ運ぶ。
「嫌いになって辞めた店じゃなかった。俺がヤワじゃなかったら、もっともっと働いて、成長して…一人前になって。地元戻って店を構えようって……思ってたんだぜ」
小さな火傷だらけの腕をさすりながら、トオル君は言葉を続ける。
「向いてねぇのかなぁ、だから負荷が大きすぎて潰れちまったのかなぁ…… 他に、好きなことなんて見つかるかもしれない。帰って来てからは、そんな自問自答のくり返し。」
骨ばった、その大きな手を閉じ開き、しながら。財産だといった、その手を。
「それでもさ、好きなんだ。馬鹿みてぇに好きなんだ。体調が落ち着いてきたら、真っ先にシュークリームを焼きたくなった」
「で、それを休日で寝てる私の元へ朝一番に持ってきたと」
迷惑極まりない、という表情で、安藤さんが言葉を拾う。
「だって高校出てからも実家暮らしで連絡付くのってお前くらいしかいなかったんだよ」
「見事な消去法をありがとう」
カン、安藤さんはスチール製のトレイでタイミング良くトオル君の頭を叩く。力は入っていない。手で払いながらトオル君は笑う。
「ま そんな感じで、さ。今は町内会のイベントとか……安藤の面倒事なんかで手慣らしさせてもらってるところかな」
面倒事、という言葉に安藤さんの眉がピクリと上がったけれど、それに関して制裁は下されなかった。
「じゃあ、いつかはまた、ケーキ屋さんで働いたり…… お店を開いたり、するの?」
夢みたい。そんな日が来ると良い。目を輝かせ見上げる私に気圧されるように、トオル君は身を引いて、視線を落とした。
「さぁなぁ……。どうだろうな、俺は器用な人間じゃねぇし。」
「それは知ってるけど」
さらりと返すと、トオル君は見るからに凹んだ。
「作っていられれば、それでいい。別に商売にしなくたって、手段は色々あるだろ」
「……うん」
万人好みの最大公約数。安藤さんの言葉が脳裏を掠める。
きっと、それじゃあトオル君の作りたいお菓子は作れないんだ。
「商売はなぁー……。大変だぞ。全てが自分の仕切りだなんてゾッとする。原価計算から始まって設備の維持費だろ、場所だって……。詳しく聞く?」
「いえ……。なんとなく察しました」
指折り数えるトオル君の姿に、私は大きく首を横に振った。
『しょうらいのゆめは、ケーキやさん!』幼稚園児がよく挙げる職業だけれど、個人で動くとなると、そんなにも大変なんだ。
「これだ! って店を定めて、雇われるのが一番なんだけどな。ソレでコレだし」
そして自虐的に笑われてしまえば、反論なんて出来るわけがない。
「蓋を開ければ、ただの幻想。でも、閉じていればファンタジック。同じ意味の言葉なのに違う響きになる。馬鹿馬鹿しいけど、単純な錯覚だよ。……気づいて蓋をして、夢に浸るのも、別に悪いことじゃない」
「……トオル君は、もう夢を見ないの?」
「見るよー 悪夢。ふふ」
笑いついでに、椅子に掛けていた上着から折りたたまれた紙を取りだす。
「伝手があって、菓子を卸してみないかって誘われた。乗ったには良いが……意見が全く合致しない。」
新規オープン予定のカフェのチラシだった。まだ原案段階らしく、予定図、と建物は鉛筆スケッチだ。
「小規模生産の継続には限界があります。かといって設備投資できるほどは、まだ金が貯まってないし、一本に絞るほどの勝算も無い」
今回は御破談だ。コーヒーを飲み乾して、トオル君はぼやいた。
「けど まぁ 好きだからさ。病気みたいに、作ってると思うぜ、この先も」
そして笑う。覇気の無い笑顔だけれど、なんだか心臓が掴まれたようにキュッと鳴った。
「だからさ」
トオル君は、その笑顔のまま、私を向く。
「好きなものって、そう簡単に手放せない。全身に沁み込んじまうんだ。あきらめたふりしたって、捨てたふりしたって、付きまとう。いっそ、幻想だったらって思うもんさ」
なんだろう、その言葉は呪文? 何かの呪いを受けているかのように、私の心音は跳ね上がる。
「振り返って、きっと気づくよ。けど、それはきっと手遅れじゃない。気付いたときに、また手を伸ばせばいい。現実ってのはそんなんだ」
「はっは、年上風吹かせちゃって」
安藤さんが笑ったところで、追加分のサンドイッチが出来上がり、彼女はそれを窓辺の客へと運んでゆく。
沈黙が降りて、強くなった雨音が店内に響く。
トオル君は穏やかな表情で、空になったカップを見つめている。さっきの言葉、まるで自分自身に言い聞かせているみたい。
そんなことを考えながら、私は紅茶の最後の一口を飲んだ。すっかり冷えていて、渋みが舌に残った。




