表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

(二)

 中学生までは通学路だった住宅街も、高校へ入り、方向が逆になったというだけで、随分と懐かしく感じるものだ。


 美味しいケーキを食べた翌日の放課後。

 容器は洗って町内会会館に置いていてくれれば取りに来るから、という話だったけれど、興味半分で私はトオル君の家を訪ねることにした。

 本格的なお菓子だったから、市内のケーキ屋さんにでも勤めているのかと思っていたが、そうではなく、家庭で作ったものだという。

 通りを二、三本越えた程度の距離だけれど、私の家と違って、トオル君の家の近くは潮の香りがする。

 あぁ、そうだ。この匂い。懐かしいな。

 あの坂を下りて、子供たちで海へ遊びに行ったこともあったなぁ。

 岩場で足を滑らせて、大泣きした私を、トオル君があわてて背負って連れ帰ってくれたこともあった。その時から、私にとってのトオル君は「お父さん」ポジションになって、恋がどうのとか、そういう相手ではなくなったんだと思う。

 昔の事を思い出しながら、私は目的の家を見つけた。

 昔と変わらない、白壁の平屋建て。表札には「河野」とだけ。

 ちょっと緊張して、チャイムを鳴らす。

 おばさんとも、しばらく会っていないから、不審に思われないだろうか。ドキドキする。

 インターフォンはなく、何度か押してから間延びした声が返ってきた。若い男の人の声。…あれ?

「すいません、遅くて。……えー、と」

 擦り切れたジーンズ、くたびれた黒のTシャツ。頭に巻いていたタオルを外しながら姿を見せたのは……

「トオル君?」

 その容姿に昔の面影は見い出せないが、年格好から判断して、呼びかけてみる。こんな時間に、大の大人がどうして実家にいるのだろう。お仕事は?

「そう、ですけど」

 戸惑ったように、男の人は眉をひそめる。う、一重瞼で目を眇められると、なんだか睨まれているみたい。細身だけどガッシリした骨格は見てとれて、貧弱な印象を与えない。

 記憶の中の、幼いトオル君の笑顔が崩れてゆく。それ位の、変貌ぶりだった。


「小林さんのところの良子ちゃんかー 久しぶりだね」

 本当に覚えているのだろうか、妙にドキドキしながらも、私は何年か振りに、河野家にお邪魔した。

 懐かしい匂いのリビングに通され、ソファに適当に座る。

「容器、届けてもらって悪いな。急がなかったのに」

 物腰の柔らかさは変わっていないかもしれない。少しだけ、ほっとする。

「あ、いえ。とても美味しかったので、感想も言いたくて」

「…………」

「あの?」

 カチャカチャとコーヒーメーカーをセットしていたトオル君が、驚いた表情でこちらを見つめていた。

「良子ちゃん、何年生になるんだっけ」

「高校……二年、ですけど」

 校名も告げると、納得したように、それでいてまた驚いたように、「あぁ」と声を上げる。

「剣道やってたんだよね。それでか!」

「どれですか」

「言葉遣いが綺麗なの。俺の職場の高校生ったら酷くてさー

 支配人にもタメ口よ。どこから矯正すればいいのか、わからん」

「あぁ……」

 それは。確かに。

 運動部や吹奏楽部などといった、上下関係の厳しい部活以外だと、私の学校も酷いよなぁ というより、部内ではしっかりしているけれど、それぞれのクラスに戻ると酷い。

 私は親の躾とか、それこそ剣道だとかで叩き込まれてしまっているから、今更、担任の先生へ粗暴な口調で話しかけろと命令されても絶対無理。

「トオル君は今日は、仕事お休みなの? ケーキ屋さんじゃないって聞いたけど」

 せっかく褒められたというのに、私は、小学生の気分に戻ってしまっている。しかしトオル君は気に留める様子はなかった。

「うん、そう。 今はファミレス。」

「ファミレスの厨房? 料理も作るの?」

「いや、ホールだ。ウェイターだよ」

 カタン、テーブルの上に、クッキーが数枚乗った皿が差し出される。形を見るに、先日のケーキに使った飾り用のもののようだ。

「え、え、えええ?」

 もったいない。そう言おうとした矢先に、チャイムが鳴った。

 トオル君はピクン、と一瞬だけ身体を強張らせ、それから「ちょっとごめん」と続け、玄関へ向かった。

 会話の内容は解らなかったけれど、声の高さから女性だということは判断できた。

 それからザワザワと気配がして、二人揃ってリビングへ。

 トオル君と並んで現れた小柄な女性は、肩口で切り揃えられた黒髪を揺らし、小首を傾げて微笑んだ。切れ長の目が、猫のようにすぅっと細められる。年はトオル君と同じくらい、かな?

「はじめまして、安藤です。河野の友人よ。怖くないから安心して」

「あ……、えぇと、小林良子です」

 ぎこちなく名乗り返すと、安藤さんは「良子ちゃん」、と口の中で呟き、私の隣へ腰を下ろした。

「河野、注文のラベル作ってきたから。さっさと終わらせる前にコーヒーが飲みたいわ」

 そして淹れたてのコーヒーの香りを嗅ぎつけ、家主へリクエスト。

 トオル君は鼻を鳴らして笑いながら、お茶の時間の準備を始めた。

 その合間に、私は安藤さんへ質問を投げかける。

「あの、ラベルって?」

 テーブルの上のクッキーへ手を伸ばした安藤さんは動きを止めて、膝の上に置いてあるA四サイズの封筒を見せた。

「焼き菓子の原材料ラベル。河野に、焼き菓子の詰め合わせをお願いしてたのよ。これは、その仕上げ」

「詰め合わせ……。へぇ」

 汚さないように、その封筒を受け取り、中を覗かせてもらう。

 プレーンクッキー、ココナツサブレ、スティックパイ、ガレット、マドレーヌ。小洒落たケーキ屋さんに並んでいそうなラインナップ。

 それらの材料がズラリと印刷されたラベルが……、何セット分あるんだろう?

 あ、製造責任者が『河野通』だって。住所と電話番号はこの家。店を構えているわけではないのに、何だか本格的。

「私の家がね、明日、法要なの。そんな大人数が集まるわけでもないんだけど、お土産用に配りたくて、ね」

「へぇ……」

 トオル君は、そういうことをしているんだ。ファミレスで働いていると言っていたから、これは副業なのかな。

 ほどなくして、コーヒータイム。

 空容器を返しに来ただけの私が、居ていいものなのだろうか。なんとなく居心地の悪さを感じながらも、美味しいコーヒーとクッキーに、つい引きとめられてしまう。

 他愛ない会話の中で、トオル君が東京のケーキ屋さんで働いていた事、身体を壊して去年帰郷した事、安藤さんは観光地区の外れのカフェで働いている事を知った。

 そして当然ながら、話の矛先は私にも向けられる。

「そっか、あの高校かぁ。運動系の部活が強いよね。良子ちゃんは何かやってるの?」

 予想通りの質問に、私はキュッと心臓を掴まれた気がした。絞り出すように、答える。

「う あー、剣道部を……辞めました。昨日。」

 両親にも、周囲にも承諾を得たというのに、気まずさはどうしても抜けない。まだ、抜けない。

 けれど、慣れなくちゃいけない。悪いことではない、はずだ。

途中で体がついて行かない、飽きた、厭になった、そういって離脱する人間なんて、私だけじゃないでしょう?自分で決めた事に、後ろめたさなんて要らないはずだ。

「なるほど。だからか」

 合点がいったと、安藤さんが呟く。その口元には、柔らかな笑みが刻まれていて、私は驚いた。

「指先が綺麗。変にいじってないのね。髪も」

「それは……まぁ」

 ネイルなんてプチ程度にも試した事はないし、髪は小学生の頃から黒のショートで通してる。ちなみにピアスも空けていません。思えばそれらは全部、「剣道をやっているから」だった。

 さっきの言葉遣いもそうだけれど、大人から見れば、そんなところが好印象なのだろうか。

「財産ね」

 ふふ、と安藤さんが猫のように笑う。財産?これが?私は思わず手を止めて、己の両の手をまじまじと見つめる。それから耳に触れる。

「若さってのは有限資源で非売品の貴重品だよ。遊びなんて大人になってから出来るんだから。大切にね」

「非売品は、そりゃ貴重だよな」

 ぽん、と私の肩を叩く安藤さんの言葉に、トオル君が声を重ねた。

「俺の財産は、これかね」

 そうして、手を閉じ開きする。よく見ると、シャツから伸びる筋肉質の腕には、小さな傷がいくつかあった。私の視線に気づいた安藤さんが、オーブンでの火傷痕だということを、小声で教えてくれた。

「トオル君、いつかはお店を開くの?」

 他意はなく、口をついた質問だった。

 東京のケーキ屋さんで働いて……身体を壊して帰ってきたというけれど、先日の、そして今のお菓子を食べていると、その辺りにあるケーキ屋さんに負けないくらい美味しい。ううん、ずっと美味しい。こんな腕前だったら、いつだってお店を持てるんじゃないだろうかって思う。

 期待を込めて、トオル君を見上げると、予想に反し、彼は苦い表情をしていた。聞いてはいけない事、だったのだろうか。

 長く間をとって、それからトオル君は私の目を見て、口を開いた。

「うーん。良子ちゃんは、また剣道をやり直したい?」

「……え」

 それは、予想外のパンチだった。

 だってそんなの、比べる事じゃないよ。高校生の部活と、大人の職業なんて。

「同じだよ。好き、ってだけじゃどうにもできないことがあるし、好きって気持ちさえあれば、どうとでも出来ることもある」

「そんなの……わかんない」

 そもそも、部活を辞めた理由なんて、話していないじゃない。

 トオル君がケーキ屋さんを辞めた理由も、詳しくは知らないけれど。

「嫌いで辞めた剣道部員が、そんな規則キッチリの格好をしているワケないだろ。ちっちゃい頃から習っていてさ」

 言葉を失っている私に、トオル君は笑いながら教えてくれた。

「好きだったんだろ」

 断定的なその言葉に。どうしてか、泣きたくなってしまった。

 トオル君も、それ以上は何も言わず、安藤さんがクッキーを齧る音だけが、静まり返ったリビングに響いた。


 その日、焼き菓子のラベル貼りを手伝った私は、帰りがけに「御褒美」と、余分に作られた一袋をもらって帰った。ふんわりと、良い香りがして、心が緩んで、私は誰も見ていないところで少しだけ、泣いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ