(二)
中学生までは通学路だった住宅街も、高校へ入り、方向が逆になったというだけで、随分と懐かしく感じるものだ。
美味しいケーキを食べた翌日の放課後。
容器は洗って町内会会館に置いていてくれれば取りに来るから、という話だったけれど、興味半分で私はトオル君の家を訪ねることにした。
本格的なお菓子だったから、市内のケーキ屋さんにでも勤めているのかと思っていたが、そうではなく、家庭で作ったものだという。
通りを二、三本越えた程度の距離だけれど、私の家と違って、トオル君の家の近くは潮の香りがする。
あぁ、そうだ。この匂い。懐かしいな。
あの坂を下りて、子供たちで海へ遊びに行ったこともあったなぁ。
岩場で足を滑らせて、大泣きした私を、トオル君があわてて背負って連れ帰ってくれたこともあった。その時から、私にとってのトオル君は「お父さん」ポジションになって、恋がどうのとか、そういう相手ではなくなったんだと思う。
昔の事を思い出しながら、私は目的の家を見つけた。
昔と変わらない、白壁の平屋建て。表札には「河野」とだけ。
ちょっと緊張して、チャイムを鳴らす。
おばさんとも、しばらく会っていないから、不審に思われないだろうか。ドキドキする。
インターフォンはなく、何度か押してから間延びした声が返ってきた。若い男の人の声。…あれ?
「すいません、遅くて。……えー、と」
擦り切れたジーンズ、くたびれた黒のTシャツ。頭に巻いていたタオルを外しながら姿を見せたのは……
「トオル君?」
その容姿に昔の面影は見い出せないが、年格好から判断して、呼びかけてみる。こんな時間に、大の大人がどうして実家にいるのだろう。お仕事は?
「そう、ですけど」
戸惑ったように、男の人は眉をひそめる。う、一重瞼で目を眇められると、なんだか睨まれているみたい。細身だけどガッシリした骨格は見てとれて、貧弱な印象を与えない。
記憶の中の、幼いトオル君の笑顔が崩れてゆく。それ位の、変貌ぶりだった。
「小林さんのところの良子ちゃんかー 久しぶりだね」
本当に覚えているのだろうか、妙にドキドキしながらも、私は何年か振りに、河野家にお邪魔した。
懐かしい匂いのリビングに通され、ソファに適当に座る。
「容器、届けてもらって悪いな。急がなかったのに」
物腰の柔らかさは変わっていないかもしれない。少しだけ、ほっとする。
「あ、いえ。とても美味しかったので、感想も言いたくて」
「…………」
「あの?」
カチャカチャとコーヒーメーカーをセットしていたトオル君が、驚いた表情でこちらを見つめていた。
「良子ちゃん、何年生になるんだっけ」
「高校……二年、ですけど」
校名も告げると、納得したように、それでいてまた驚いたように、「あぁ」と声を上げる。
「剣道やってたんだよね。それでか!」
「どれですか」
「言葉遣いが綺麗なの。俺の職場の高校生ったら酷くてさー
支配人にもタメ口よ。どこから矯正すればいいのか、わからん」
「あぁ……」
それは。確かに。
運動部や吹奏楽部などといった、上下関係の厳しい部活以外だと、私の学校も酷いよなぁ というより、部内ではしっかりしているけれど、それぞれのクラスに戻ると酷い。
私は親の躾とか、それこそ剣道だとかで叩き込まれてしまっているから、今更、担任の先生へ粗暴な口調で話しかけろと命令されても絶対無理。
「トオル君は今日は、仕事お休みなの? ケーキ屋さんじゃないって聞いたけど」
せっかく褒められたというのに、私は、小学生の気分に戻ってしまっている。しかしトオル君は気に留める様子はなかった。
「うん、そう。 今はファミレス。」
「ファミレスの厨房? 料理も作るの?」
「いや、ホールだ。ウェイターだよ」
カタン、テーブルの上に、クッキーが数枚乗った皿が差し出される。形を見るに、先日のケーキに使った飾り用のもののようだ。
「え、え、えええ?」
もったいない。そう言おうとした矢先に、チャイムが鳴った。
トオル君はピクン、と一瞬だけ身体を強張らせ、それから「ちょっとごめん」と続け、玄関へ向かった。
会話の内容は解らなかったけれど、声の高さから女性だということは判断できた。
それからザワザワと気配がして、二人揃ってリビングへ。
トオル君と並んで現れた小柄な女性は、肩口で切り揃えられた黒髪を揺らし、小首を傾げて微笑んだ。切れ長の目が、猫のようにすぅっと細められる。年はトオル君と同じくらい、かな?
「はじめまして、安藤です。河野の友人よ。怖くないから安心して」
「あ……、えぇと、小林良子です」
ぎこちなく名乗り返すと、安藤さんは「良子ちゃん」、と口の中で呟き、私の隣へ腰を下ろした。
「河野、注文のラベル作ってきたから。さっさと終わらせる前にコーヒーが飲みたいわ」
そして淹れたてのコーヒーの香りを嗅ぎつけ、家主へリクエスト。
トオル君は鼻を鳴らして笑いながら、お茶の時間の準備を始めた。
その合間に、私は安藤さんへ質問を投げかける。
「あの、ラベルって?」
テーブルの上のクッキーへ手を伸ばした安藤さんは動きを止めて、膝の上に置いてあるA四サイズの封筒を見せた。
「焼き菓子の原材料ラベル。河野に、焼き菓子の詰め合わせをお願いしてたのよ。これは、その仕上げ」
「詰め合わせ……。へぇ」
汚さないように、その封筒を受け取り、中を覗かせてもらう。
プレーンクッキー、ココナツサブレ、スティックパイ、ガレット、マドレーヌ。小洒落たケーキ屋さんに並んでいそうなラインナップ。
それらの材料がズラリと印刷されたラベルが……、何セット分あるんだろう?
あ、製造責任者が『河野通』だって。住所と電話番号はこの家。店を構えているわけではないのに、何だか本格的。
「私の家がね、明日、法要なの。そんな大人数が集まるわけでもないんだけど、お土産用に配りたくて、ね」
「へぇ……」
トオル君は、そういうことをしているんだ。ファミレスで働いていると言っていたから、これは副業なのかな。
ほどなくして、コーヒータイム。
空容器を返しに来ただけの私が、居ていいものなのだろうか。なんとなく居心地の悪さを感じながらも、美味しいコーヒーとクッキーに、つい引きとめられてしまう。
他愛ない会話の中で、トオル君が東京のケーキ屋さんで働いていた事、身体を壊して去年帰郷した事、安藤さんは観光地区の外れのカフェで働いている事を知った。
そして当然ながら、話の矛先は私にも向けられる。
「そっか、あの高校かぁ。運動系の部活が強いよね。良子ちゃんは何かやってるの?」
予想通りの質問に、私はキュッと心臓を掴まれた気がした。絞り出すように、答える。
「う あー、剣道部を……辞めました。昨日。」
両親にも、周囲にも承諾を得たというのに、気まずさはどうしても抜けない。まだ、抜けない。
けれど、慣れなくちゃいけない。悪いことではない、はずだ。
途中で体がついて行かない、飽きた、厭になった、そういって離脱する人間なんて、私だけじゃないでしょう?自分で決めた事に、後ろめたさなんて要らないはずだ。
「なるほど。だからか」
合点がいったと、安藤さんが呟く。その口元には、柔らかな笑みが刻まれていて、私は驚いた。
「指先が綺麗。変にいじってないのね。髪も」
「それは……まぁ」
ネイルなんてプチ程度にも試した事はないし、髪は小学生の頃から黒のショートで通してる。ちなみにピアスも空けていません。思えばそれらは全部、「剣道をやっているから」だった。
さっきの言葉遣いもそうだけれど、大人から見れば、そんなところが好印象なのだろうか。
「財産ね」
ふふ、と安藤さんが猫のように笑う。財産?これが?私は思わず手を止めて、己の両の手をまじまじと見つめる。それから耳に触れる。
「若さってのは有限資源で非売品の貴重品だよ。遊びなんて大人になってから出来るんだから。大切にね」
「非売品は、そりゃ貴重だよな」
ぽん、と私の肩を叩く安藤さんの言葉に、トオル君が声を重ねた。
「俺の財産は、これかね」
そうして、手を閉じ開きする。よく見ると、シャツから伸びる筋肉質の腕には、小さな傷がいくつかあった。私の視線に気づいた安藤さんが、オーブンでの火傷痕だということを、小声で教えてくれた。
「トオル君、いつかはお店を開くの?」
他意はなく、口をついた質問だった。
東京のケーキ屋さんで働いて……身体を壊して帰ってきたというけれど、先日の、そして今のお菓子を食べていると、その辺りにあるケーキ屋さんに負けないくらい美味しい。ううん、ずっと美味しい。こんな腕前だったら、いつだってお店を持てるんじゃないだろうかって思う。
期待を込めて、トオル君を見上げると、予想に反し、彼は苦い表情をしていた。聞いてはいけない事、だったのだろうか。
長く間をとって、それからトオル君は私の目を見て、口を開いた。
「うーん。良子ちゃんは、また剣道をやり直したい?」
「……え」
それは、予想外のパンチだった。
だってそんなの、比べる事じゃないよ。高校生の部活と、大人の職業なんて。
「同じだよ。好き、ってだけじゃどうにもできないことがあるし、好きって気持ちさえあれば、どうとでも出来ることもある」
「そんなの……わかんない」
そもそも、部活を辞めた理由なんて、話していないじゃない。
トオル君がケーキ屋さんを辞めた理由も、詳しくは知らないけれど。
「嫌いで辞めた剣道部員が、そんな規則キッチリの格好をしているワケないだろ。ちっちゃい頃から習っていてさ」
言葉を失っている私に、トオル君は笑いながら教えてくれた。
「好きだったんだろ」
断定的なその言葉に。どうしてか、泣きたくなってしまった。
トオル君も、それ以上は何も言わず、安藤さんがクッキーを齧る音だけが、静まり返ったリビングに響いた。
その日、焼き菓子のラベル貼りを手伝った私は、帰りがけに「御褒美」と、余分に作られた一袋をもらって帰った。ふんわりと、良い香りがして、心が緩んで、私は誰も見ていないところで少しだけ、泣いた。