(一)
高校二年生の夏休みが来る前に、退部届を出した。
春に痛めた膝のリハビリをしていたところ、このまま過激な運動を続けることは無理だと診断されたから。
嘘。
部活を辞めたのは、本当。けれど、退部届なんて、何日間も悩んで悩んで書き直して握りしめて汗でシワシワになったそれは、顧問の先生に受け取ってもらう前に「そう」の一言で片づけられてしまい、日の目を見る事なくゴミ箱へ捨てられた。
膝を痛めたのは、本当。リハビリだって続けていた。だけど、順調に回復していて、この夏には復帰できるということだった。
辞める為の嘘の言い訳ならいくつでも挙げられた。けれど、本音だけは形にできなかった。ならなかった。
辞めよう、そう思った事だけは、本当。
ジワジワと暑くなり始めた青空を見上げながら、一人きりの放課後を、私は自転車で駆け抜けた。
短くカットされた髪の先を、風がさらってゆくのが心地よかった。
胸のざわめきごと、このまま全て風に溶けて消えてしまえばいいのに。
「おかえり、良子。早いわね」
「うん。部活、辞めてきた」
習慣づけられた「ただいま」の声に対し、キッチンに立っていた母がリビングへ顔を覗かせた。そして続けた私の言葉に、一瞬だけ目を見開き、「そう」と返す。なんだ、その反応。
「当たり前、っぽい?」
「驚きを、精いっぱい隠してるの」
小柄で童顔であるため、実際の年齢より若く見られがちな母が、可愛らしくも困った表情で笑って見せて、「とりあえず着替えてらっしゃい」と追い立てる。
私は唇を尖らせながら二階の自室へと向かった。その間にも、大きく息を吐く。
自分にとっては一世一代の大決心も、他人様の目には然程の事でもないんだ。そりゃ、そうだ。
……部活は 小学生の頃から続けていた習い事の延長で、高校進学を機に、教室から「部活動」へと切り替えた。
そして目の当たりにする壁。
「勝たなくちゃいけない」、三年間という短い時間の中、運動部として目指すそれは当たり前の心理なんだろうけれど、ついて行けなかった。ついて行きたくなかった。気持ち悪いと思った。負けたらオシマイ? なんだ、それ。
自分を磨くためのものではいけないんだろうか。身体を動かすことを楽しむだけじゃ、駄目なんだろうか。
それは、自分が結果を出せないからの、言い訳なんだろうか。
それは実の無い理想、幻想でしかないの?
一年生の頃は、矛盾や疑問に挟まれながら、何とか乗り越えられた。でも。
二年になり、膝を痛めた。成長期に起因するそうで、重大なダメージじゃない。けれど、そうして部活と距離を置くことで、ますます自分のモチベーションって奴がわからなくなった。
軽い運動なら参加できるよ、そう許可が下りた事は、誰にも内緒にして、通院日ではなくても学校を抜けるようになった。
多分、顧問の先生も気づいていたんだろう。コイツ、秒読みだな、って思っていたんだ。
入部当初から勝負に関して気の薄かった私に、同期の部員達もしつこく声を掛けることは無くなっていた。
でも、部活を辞めて、そうして。私はどうしたいんだろう。あの場に居たくない、その意識ばかりが強くて、先なんか見えなかった。
気持ちを切り替えるように、ドアノブを捻って部屋へ入る。
殺風景な自分の部屋を見渡して、もう一つため息。
部活をさぼることはあったけど、良心の呵責があったから、悪い遊びに手を出すことは無かった。その結果としての、「女子高生らしくない」無駄の無さ過ぎる部屋。強い意志を持たないまま、時間を過ごしてきた証明のように思えて、なんとも気まずい。
また教室へ戻ろうか。それもスッキリしないな。
勝負事を持ち込まれるのは嫌いだったけど、それを別にしても自分はその競技自体が好きなのかと問われれば、ちょっと違うように思える。
暑いのも疲れるのも痛いのも好きじゃない。
どうして、こんなものを五年以上も続けていたのかね?
人よりちょっと背が高かったから、優遇はされた。でも、個人的な賞を取ったことはない。出席率の高さだけでもらえる「努力賞」、それが、私が個人としてもらった、唯一の特別なもの。
簡素な飾り棚に大切にしまわれているそれを眺めて、苦笑いをこぼした。
バイバイ、剣道。
やってるの?って聞かれると面倒だから、この盾は箱か何か、目につかない場所へ隠すべきだろうか。
セーラー服のタイに指を伸ばしながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
部屋着に替えて、リビングへ戻る。
ふわり、とフルーツ系の香りが鼻をついた。
「紅茶? 珍しいね」
「町内会でね、お菓子をもらって来たのよ」
トレイに、紅茶ポットとカップ、それからこの角度では見えないけれど、何やらお菓子の乗ったお皿を載せ、母が運んでくる。
「……町内会」
そこで紅茶に合うようなお菓子?
母は何かと携わっているようだけれど、私自身は資源ゴミの持ち込みなんかで覗いたきりのその場所は、年輩の方が多く出入りしているイメージ。紅茶に合う、洒落たものを食べる様子が想像できない。
「河野さんのお兄ちゃん、覚えているかしら」
「河野さん……。トオル君?」
それはまた、懐かしい名前だ。
近所に住んでいて、幼い頃によく遊んでもらったお兄さん。
かなり年が離れていたから、彼が高校に入学する頃には、遊ぶことは無かったし、その後の進路も知らない。
「そう。そのトオル君が作ってくれたのよ」
「へぇ……。えええええ?」
私は大袈裟に驚いた。私が部活辞めた事よりびっくりだ。
そりゃあ、お母さんも私の告白に動じないよ。
「あのひと、そっちに進学してたんだ」
「みたいね。詳しくは聞いてないけど。とっても美味しかったから、あんたの分まで貰って帰って来たのよ」
「それは……、ありがとう」
食卓に、ストンと座る。その前に、ティーカップとお菓子が並べられた。
普段から紅茶なんて飲む家ではないから、なんだか不思議な気分。
お菓子は、プラスチック製のプリンカップに、スポンジケーキと生クリ―ムが層になったもので、てっぺんにはラズベリーとミントが可愛らしくトッピングされている。それから、小さな星型のクッキーが立っていた。なんですか、この愛らしさ。そこらのケーキ屋さんのショーケースに並んでいるような姿だ。
記憶の中のトオル君は、非常に手先が不器用で、ちびっ子の私にさえ笑われていたものだけれど。
段取りも悪くて、私や他のチビ達に冷やかされて、拗ねたような表情と、仕方がないなという笑顔と。それでも飽きずに、よく面倒をみてくれたものだと、今にしては思う。
当時、近所では共働きや片親で鍵っ子だった子供らの、相手をするのがトオル君の役割のようになっていた。今日は河野のお兄ちゃんと遊んでね、と言えば伝わるし、お礼だからと持って行ったお菓子を分け合って食べるのが楽しみだった。
今でこそ、我が家の母も専業主婦をしているけれど、昔はお世話になったもの。
あぁ、そういえば
柔らかな表面にスプーンを差し入れて、私は思い出した。
トオル君と遊ばなくなったのは、剣道を習い始めてからだった。
そうして……、辞めた途端に、こんな形で近況を知ることになろうとは。
これって運命? だったら素敵。
残念ながら、決して見栄えが良いとは言えないトオル君は、私の初恋相手ではなかったけれど、それでも悪い気はしなかった。
「……ね。怒ってる?」
「何を? あぁ、」
冷たく甘いものを口に運びながら、私は上目遣いで母に尋ねる。あ、生クリームだと思ったらレアチーズ。しかもお約束のレモンじゃなくて、オレンジ風味なのが優しい。口内に広がる優しい味に、私の緊張も幾分かほぐれていた。帰宅前の、破裂しそうな思いは和らいでいる。どんな説教も、大人しく聞き入れる覚悟が出来ていた。
「いつまでも子供じゃないんだもの、あんたがそう決めたんだったら、止めないわよ。『辞めてきた』んでしょう?」
事後承諾であることを強調して、母はニッコリと笑った。
「中学に入った頃からかしらね、あまり楽しそうに通っていたようではなかったから、周囲に変な気を遣ってズルズル続けるよりは、良いと思うわ」
「そ、……っか」
見抜かれていたとは。
ズズズ、と啜る紅茶の香りがまた良い。アプリコットの香りは、オレンジ風味のレアチーズケーキに合っていて、幸せな気分にしてくれる。
「ケーキ……美味しいね」
「そうね」
話を逸らそうとしたわけではなく、純粋にポトリと感想がこぼれる。
なんだ、この幸せな気分。
フワフワで、スルっと溶ける。鼻を抜ける香りが爽やかで。
「お父さんがね。あんたが膝を怪我したときに、言っていたわ。望むようにさせてごらんなさい、って。」
だから、気に病まないの。
カップにおかわりの紅茶を注ぎながら、母は優しくそう言った。
……なんだ、それ。泣きたくなるじゃないか。
いつもは仕事ばかりでほとんど顔を合わせる事のない父が、そうやって私の事を気にかけてくれていたなんて初めて知った。今度の休みは、肩でも揉もう。そう思った。
部活を辞める。
私にとって、一大決心だったそれは、そうやって受理された。