名前。
出発の朝です。
予告通りの時間に呼び鈴が鳴った。
一応チェーンロックをしたままドアを開けると、上機嫌の柿崎が覗き込んだ。
梢は溜め息をつくとロックを外し、ドアを開けた。
「迎えにきたよハニー♪」
「・・・行くの止めようかな・・・」
朝に弱い梢は、ドアを開けるなりハイテンションな柿崎にうんざりと肩を落とす。どうしてこの男は、いつもこんなに元気なんだろう?
「荷物これで全部か?」
「はい。あ、自分で・・・」
「いいって、いいって♪」
柿崎は、玄関に置いてあったガーメントバッグとボストンバッグを取り上げた。
梢はその後から続き、ドアにカギをかけた。
「ん?それは?」
梢はバッグの他に紙袋を下げている。
その大きい紙袋は、大手百貨店のもののようだが・・・。
「・・・えっと・・・一応、ご両親への・・・お土産です・・・」
「・・・いい嫁だ♪」
「・・・・・ど・・・どうも。」
普段から気が利く女だと、同僚からの評価も高いだけのことはある。
残業が早く終わり、駅で別れた後に買いに行ったのだろう。梢の気遣いに感動した。
柿崎の考えはどうあれ、挨拶するのだから手土産は当然だ。
梢にしてみれば普通のことだったのに、それを褒められて、妙に恥ずかしくなってしまった。
梢が恥ずかしそうに下を向いているので、男は遠慮なくその様子を眺めた。
柿崎は、梢を誘うのに必死で、土産のことまでは考えていなかった。
気付かず両親に会っていたら、梢の印象が悪くなる・・・柿崎は自分の不手際を叱責したくなった。
梢の気遣いに、救われた気がした。
「そんじゃ、行きますか!?」
「・・・はい・・・」
二階建てアパートの階段を下りると、一台の白いステーションワゴンが目についた。
「・・・車・・・ご自分のなんですか?」
「そうだよ?」
都会では、駐車場代も馬鹿にならない。梢の周囲では、運転免許は持っていても、車はレンタカーという友人が殆どだった。最近では、赤の他人と一台の車をシェアするんだとか・・・。
自分のものではない車に乗るということ自体、免許のない梢には到底理解できるものではなかったので、自家用車を持っているだけで、柿崎が凄い人物に思えた。
「俺の実家は田舎だから、車がないと不便なんだ」
「ご実家はどちらなんですか?」
「白石だよ。宮城県の。」
「・・・はあ・・・」正直なところ、梢には、県名以外よくわからない地名だった。宮城県といえば、やっとこさ仙台が思い浮かぶ程度である。
梢を助手席に乗せ、荷物を後部座席に置いて運転席に乗り込むと、愛用のサングラスをしてエンジンをかけた。
持ち主同様、車も上機嫌に唸りを上げた。
思いの外、柿崎は運転が上手かった。
アパートの周辺は道幅が狭い。角の家は塀に沢山の傷がついている。そんな道を苦もなく通り抜け大きな道路へと出た。土曜日の早い時間であるが、わりと交通量が多い道に出ても、全く危なげない。
「柿崎さん、運転上手いんですね」
梢は素直に感動していた。褒められた運転手は「そうか?」と一言いい、ハンドルを握り直した。
「あのさ深山、名前・・・お互いに呼び慣れておいた方がいいと思わないか?」
「・・・・・はあ」
急にそんなこと言われても・・・と内心思ったが、確かにこのままではまずいだろう。
だが梢は、そうですね。と言ったきり、視線を窓の外に流してしまった。
二人の間に妙な沈黙が広がる。
柿崎は、サングラスの下で半目になった。胸に【もしや】と疑惑が沸き上がってくる・・・。
低い声が命令口調で降ってきた。
「・・・深山。俺のフルネーム言ってみろ。」
「え。フルネーム?」
ギクリとしたように肩が竦んだのを、柿崎は見逃さなかった。
「そう。早く。」
「か・・・・柿崎・・・かきざきぃ~~~・・・」
梢は柿崎のフルネームを知らなかった。というより、必要がなかったので覚えていなかった。
信号で車が停止すると、柿崎はハンドルに額を押し付けて、大げさに溜め息を着いた。
「深山・・・正直に言え。」
「すみません。覚えていません。」
「・・・・酷いなぁ」
柿崎は、虚しい溜め息を吐くと、名刺は?と訪ねた。携帯の番号を書いて渡したのはほんの三日前だ。
「・・・会社の引き出しに。」
「名前、見てないの?」
「見たような気もしますが・・・すみません、忘れました。」
「・・・・・あっそ」
率直なのは結構だが、もうちょっと自分に関心を持ってほしかった。
悔しいような悲しいような・・・柿崎は複雑な気分だ。
「あ~あ・・・俺ってかわいそう・・・」
情けない声でそう言うと、信号が青に変わるのと共に静かに車を走らせた。
それから暫くは、お互い口もきかず、景色だけが流れて行った。
途中、大きな渋滞にも合わず、車は順調に東北自動車道へと入った。
風景も畑や田んぼが多くなり、周囲は山ばかりになってくる。
車内には、梢が好きな曲がかかっていた。柿崎も聴くんだなぁと思いつつ、それに耳を傾けた。
ほぼ毎日残業していた梢は、朝が早かったのもあり、いつの間にかうとうとしていた。
「ーーーーーだ。」
「・・・え?」
突然の声に、梢は目を覚まし、声を発したであろう運転手をみた。
柿崎は、サングラスをしたままチラリと梢を見る。
「・・・悪い。寝てたのか。」
「・・・なんですか?」
「裕一郎・・・俺の名前だ。覚えとけ。」
「・・・はあ。」
臍を曲げたような柿崎に、少し呆れたが、そもそも名前を覚えていなかった自分が悪かったのだ。
ここは腹を決めるしかない。これは【柿崎に依頼された仕事なのだ】梢はそう思うことにした。
どうすれば、夫婦に見えるだろう?梢の思考はこれから会う柿崎の両親に向けられていた。
梢の胸の中に、小さな違和感が一つ芽生えるが、その正体に気付くまえに、沈黙を破ったのはやはり柿崎だ。
「俺のお袋は、裕次郎のファンでさ、その名前を付けたかったんだが、長男に次郎はないだろうって親父に言われて、裕一郎になったんだそうだ」
「ふふっお母さん、残念だったでしょうね」
「いやいや。おまえにはもったいない名前だから、付けなくて良かったって言ってるよ」
「あははは!」
声を立てて笑う梢を横目で見ながら、やっと笑顔を見せてくれたと、目を細めた。
「そう言えば、ずいぶん長時間走ってますね。次のサービスエリアで休憩にしませんか?裕一郎さん。」
「ーーーえ?!」
呼べと言ったのは彼であるはずなのに、柿崎は素っ頓狂な声を上げた。
「・・・み・・みや、ま?」
「なに驚いているんですか?呼べと言ったのは、そっちでしょ?」
「あ・・・う・・・うん」
妙に狼狽える柿崎が面白かったが、運転中なのでこれ以上は刺激しないでおこうと思い、助手席で大人しく風景を眺めた。
山っていいなぁ・・・。梢はうっとりと景色に見入っている。いつもは高いビルに囲まれているので、緑に囲まれるのは凄く新鮮だと、梢は嬉しそうにしている。
・・・柿崎の心中は・・・特に心臓が、異様に跳ね回って苦しいくらいなのに。
たった二日間だけなのだからと、梢は腹を決めて、開き直ることにしたのだ。
【仕事】なのだと割り切ってしまえば、なんでも出来そうな気がした。
サービスエリアに入ると、柿崎は車を降りてその大きな体を延ばす。
昼食にはまだ早かったが、小腹が空いた柿崎は、梢と共に軽食を取ることにした。
たくさん並ぶ店から、いい匂いが漂ってくる。
「いい匂いですね!裕一郎さん、何を食べますか?」
「あ・・・う・・・そう・・・だな・・・」
梢は名を呼ぶことに慣れたようだが、柿崎は呼ばれる度に挙動不審になった。
柿崎に散々振り回されてきた梢には、名前を呼ばれて狼狽える姿がなんとも面白かった。
外のテーブル席に座り、柿崎は大盛りの焼きそばを頬張る。
梢は『どの辺りが軽食なの?』と、首を傾げつつ、普通のサンドウィッチを食べた。
「・・・ホント、頭の切り替え早いな・・・深山は・・・」
大盛り焼きそばは、あっという間に胃袋に消え、缶コーヒーを飲みながら、柿崎はしみじみと呟いた。
「梢ですよ。裕一郎さん!」
「・・・うっ・・・は・・・はい。」
子供の頃は、裕一郎なんて年寄りの名前みたいで嫌いだった。
だが、梢の声で呼ばれると、自分の名前がなんだか耳に甘く、特別な感じがした。
くすぐったい気持ちで、名を呼ばれる毎に、柿崎の口数が減っていく。
柿崎自身も、かなり動揺していることに驚いている。
『なんでこんなに顔が熱いんだ?!耳も熱いぞ?』照れている自分を持て余し、何度も座り直している。
そんな柿崎の様子に、梢も落ち着かなくなってきた。
「て・・・照れないで下さいよ柿崎さん!・・・こっちまで恥ずかしいじゃないですか!」
「あ・・・うん・・・ごめん」
二人とも俯いたまま、暫くもじもじとしていた。
「い、行くか・・・梢」
「は、はい・・・裕一郎さん」
顔を赤らめた初々しい二人は、買い足したお土産と、飲み物を手に車に戻った。
食事を含め、四十分ほどの休憩で、再び高速へ合流した。
その後、何度か休憩をとりながら、ごく自然にお互いの名前を呼び合い、普通に会話できるようになったころ、目的地の旅館に到着した。
七時間もかかった長距離ドライブは、柿崎が思っていた以上に、梢との距離を縮めた気がした。
いろいろ突っ込みたいでしょうけど、お願いです!堪えて下さい!