弁護士は眠気と戦う。
本橋が眠い目を擦りながら病室のドアを開くと、制服を着た警察官が二人立っていた。思わず目をぱちくりさせる。
「・・・これは・・・なにごと?」
「あ、啓哉・・・」
警官二人が、共にこちらを振り向いた。
本橋は二人の警官を素早く検分する。
一人は、まだ若い警官。背は180はあるだろう。それなりに鍛えてあるようだが、如何せん制服が体に馴染んでいない。
もう一人は、腹が樽のようにせり出した中年の警官。見たところ50手前といったところだろう。スポーツ刈りの額がM字に後退している。制服姿はさすがに様になっている。
年嵩の警官の手には、紙とボールペンが挟まれたクリップボードと濃紺の帽子。若い方は片腕に帽子を挟んで佇立している。
ただ立っているだけでなのに、どうしてこう警察の制服ってのは威圧的なんだろう?
本橋は密かに嘆息すると、病室に足を踏み入れた。
「あなたは?」警官が誰何した。
「あ、私は彼女の友人で本橋といいます。職業は弁護士です。」
「・・・ほお、弁護士さんが何用ですか?」
「単なるお見舞いです」
「・・・そうですか」
二人の警官は胡散臭げに本橋の全身を検分する。午後から仕事が入っている本橋は、ディオールのスーツ姿だ。
若い方の警官は、ホストじゃないのか?と訝しげに眉を顰めた。
まだ制服が体に馴染んでいない若い警官を一瞥すると、自分の着こなす高級スーツを、これ見よがしに整えてみせた。縁なし眼鏡がきらりと光った。
若い警官が不快そうに眉を顰めたが、そこには羨望が混じっているように見えた。
本橋は手荷物を持ったまま、ベッドを回り込んで丸椅子に腰掛けた。
ベッドを少し起こした状態の梢は、ホッとしたように笑みを浮かべた。
腕を伸ばして前髪を整えてやる。
「だいぶ顔色がいいみたいだね。」
「・・・啓哉は・・・なんだか顔色が悪いわ・・・」
「・・・ん~・・・ちょっとね。ああ、柿崎サン、今日は用があるから遅くなるって。」
「・・・そう・・・」
僅かに寂しそうな顔をすると、小さく頷いた。
「寝不足って、お仕事?」
「ああ・・・それがさぁ、」
本橋が一部始終を語ろうとしたとき、ごほん。警官がわざとらしく咳払いをした。二人が同時に警官を見上げた。
「事情聴取をしたいんですがね?」
「・・・事情聴取?なんのですか?」
ぽかんと年嵩の警官を見上げると、警官は刑事ドラマのように威圧的な態度で本橋を見下ろした。
「アパート火災の時の。です。」
「ああ。」
本橋は、「思い出した。」と暢気に頷きながら呟いた。
警官達は、火災現場に入り込んだ梢に、その危険行為に及んだ経緯に付いて聴取に来たと言った。
まあ要するにお説教に来たのだろう。本橋は必死にあくびを噛み殺す。が、堪えきれず大きなあくびが溢れた。その豪快なあくびに、警官はムッと眉間に皺を寄せる。
「ひ、啓哉ったら…」梢が慌てて嗜めると、眼鏡を外して滲んだ涙を拭った。
「あふ・・・失礼。それで、火災の原因は?」
どうにか弁護士の仮面を取り戻す。警官は口をへの字に曲げて、不快感を露にした。
「・・・一階の103号室に住む大学生が、ハロゲン式の電気ストーブの前に洗濯物を干したまま外出し、出火したのが原因です。」
「・・・外出?どこへ?」
「コンビニにタバコを買いに行ったんだそうです。」
本橋の隣に立つ若い警官がそう付け加えると、上司が部下を振り返り僅かに眉を顰めた。
「つい立ち読みをしていて、戻ってきたら火が出ていたとのことです」と、恰幅のいい上司が言葉を続けた。
椅子に座ったまま、弁護士は中年の警官を威圧するように腕を組んだ。眼鏡の奥から鋭い視線を感じる。
「それで?昨日、意識が戻ったばかりの彼女に、何が聞きたいんですか?」
「・・・別に逮捕しようというわけじゃないんですから。睨まんで下さい。」
警官は深い溜め息をつくと、ボールペンの後ろで短く刈られた頭を掻いた。
「大体ですね、あの状況で現場に入られて、こっちとしては大変迷惑してるんです。マスコミには叩かれるし、消防にも警察にも苦情が殺到するしで大変だったんですから」
「・・・・・」
「おまけに」
中年の警官は堰を切ったように、職務に関係ない苦情を並べ立てた。息子にまで責められたと嘆く警官に、公私混同も甚だしいな。と、本橋は半目になった。
若い警官は、そんな上司を呆れたように見ていたが、とりあえず両手を後ろで組んだまま沈黙を守った。
「火が回る前に救出できたとはいえ、一歩間違えたら死んでたんですよ?!」
警官は眉間に深い皺をこさえてボールペンを握りしめた。長々と続く説教に、本橋は襲い来る眠気と戦うのに必死だった。
「・・・あ、あの・・・」
話しを遮るように呟かれた声音に、三人の視線が集中する。見れば、梢が申し訳なさそうに眉を下げていた。
「・・・・す、すみませんでした・・・」
「・・・ぅ、む。」
しょんぼりと眉を下げて詫びる梢を見て、警官は我に返ったのか、きまり悪そうに目を反らし、咳払いを一つ落とした。
「・・・そ、それでは伺いますが、あの日、どうして部屋に戻ったりしたんですか?かなり煙も出ていたし、酷い状況だったのに」
梢は俯くと、左手の薬指に嵌った指輪をそっとなぞった。
「・・・彼に貰った指輪を・・・どうしても取り戻したくて・・・」
「彼とは、この方ですか?」
警官は、丸椅子に腰掛け壁に凭れ掛かる本橋に視線を向けた。本橋は頭の後ろで手を組み、まんざらでもない顔でにこりと笑った。
「俺。って言いたいけど、残念ながら人違い。」
「ん?」
「い、いえ。この方は違います・・・今日は、仕事なので来ていません。」
「まったく・・・恋人の留守に他の男がくるとはね、見かけに寄らず・・・」
「今のその発言は、セクハラととらえて構いませんね?」
「ーーえっ!!」
年嵩の警官は、本橋の鋭い言葉に慌てて口をつぐんだ。
頭の後ろで手を組みにこやかに微笑んでいるように見せているが、その目は『てめぇ、ざけんじゃねーぞ、こらっ!』と雄弁に語る。警官は額に嫌な汗を浮かべて視線をそらした。
「・・・そ、それでは、経緯を詳しく話して下さい。」
「あ…はい。あの日、アパートから煙が上がっているのが見えて、指輪を部屋に置いたままにしていたのを思い出して、警察の方が見ていない隙に部屋に入りました。」
まだ体力が戻っていない梢は、深呼吸をするように言葉を切った。
「大丈夫か?」
「・・・・うん」
本橋がポットに入っていたお湯を注ぎ、梢に手渡した。細い両手でカップを口に運ぶ様が危なっかしく、本橋は片手で支え介助した。こくりと喉を鳴らして飲み込む。
「・・・ありがとう」仄かに微笑んでそう言うと、話しを続けた。
「ドアを開けると、既に部屋には煙が充満していたので、避難訓練の要領で姿勢を低くして進みました。」
警官は梢の言葉を書面に書き留めて行く。時折顔を上げて梢の表情を見るのも忘れない。
「ベッドサイドの引き出しから、指輪を取り出したところまでは覚えているのですが・・・」
「意識を失ったわけですね?」
「・・・はい」
もう一口お湯を飲んだ。警官は書類にペンを走らせている。
「・・・質問は以上です。とにかく、こういった無茶は、今後はしないで頂きたいですな。」
とりあえず、皮肉は忘れない。
「・・・はい、もうしません・・・」
それでは。と、警官は書いていた調書を梢に差し出し、内容に間違いない事を確認させると、署名させた。
「あとは、こちらに両手の指紋を採らせて頂きます。」
そう言って、調書の下に横一列に並んだ十個の枠を指差し、朱肉を渡した。
小指から一本ずつ指紋をつけて行く。本当に犯罪者になった気分だ。
内容と署名と指紋。それらを確認すると、メタボ気味な警官は、ようやく愛想を崩し「お大事に」と、ぺこりと頭を下げて病室を出て行った。若い警官は本橋のスーツを羨ましそうにチラ見しながら会釈して出て行った。
「・・・はぁ・・・」
気を張っていた梢は、ようやく安堵の息を吐いた。その様子は、少し辛そうに見える。
「お疲れさま。ま、今回のは梢の自業自得なんだから、ちゃんと反省するように。」
「・・・・・・はい」
ベッドに頬杖を付き、しょんぼりと項垂れる梢を見上げながらそう言うと、本橋は大きなあくびと共にぐいっと伸びをした。
よく見れば、目の下に隈も浮かんでいるようだ。
「さっきからあくびばっかり・・・寝不足なの?」
梢が心配そうに尋ねると、本橋は恨めしそうな顔を梢に向けた。
「・・・柿崎サンが寝かせてくれなかったんだよ。」
「何かあったの?」
「・・・まあね。」
不思議そうに首を傾げる梢に、本橋は再び大きなあくびをした。
「あのさ…梢のアパートの荷物なんだけど…殆ど使い物にならなくて、業者に頼んで処分してもらったんだ。」
「あ、そうなんだ・・・ありがとう」
「いや、お礼は柿崎サンに言ってよ。大事な物はなかった?」
梢は指輪が嵌った薬指をじっと眺めた。
「・・・大丈夫。貴重品とか大事な物は、殆どは裕一郎さんの部屋に移してあったから」
「そう。一応、段ボール箱一個分は残ってるから、退院したら整理して」
「うん。ありがとう」
梢はゆっくりと頷くと、すっかり冷めたお湯を飲んだ。本橋は眠そうにあくびを繰り返している。
「それで、いったい何をしていたの?」
「ん?掃除。」
持っていたカップをベッドサイドに置くと、改めて尋ねた。本橋はベッドに俯せて目を閉じている。
「あの後、掃除を始めたの?帰ったのはずいぶん遅い時間だったのに・・・」
「・・・まったくだよ。もう寝ようかと思ってたら、夜食出されてさ・・・」
本橋はよほど眠いのか、ベッドに伏せたままのろのろと答えた。
「もしかして、野菜がいっぱい入った春雨スープ?」
「そう。」
「おいしかったでしょ?」
梢は自慢げに微笑んだ。しかし、本橋の方は、顔を少し上げると苦い顔をした。
「・・・旨かったけどさぁ・・・食ったからには働けとばかりに大掃除さ。」
佐々木の件は梢には言うなと、柿崎から堅く口止めされていた。何か聞かれたら【大掃除】だと言え。とも釘を刺されている。
まあ、掃除は掃除なので、間違いではない。本橋は清潔な病院のシーツに顔を埋めあくびをした。
「じゃあ、それで寝不足なの?」
「ふぁ〜!・・・うん。梢が退院したらゆっくり休めるようにって言ってさ、寝室のシーツ交換だとかカーテンの交換だとか・・・ふぁ〜」
大きなあくびが言葉を遮った。
「・・・・し、シーツ・・・?!」
自分の荷物が柿崎のところに運ばれる事は予想していたが、よもや恋人の元カレを使って、今使っている寝室のベッドメイキングをさせるとは思いもしなかった。
梢は顔から火が出そうだった。
「・・・あ、あの・・・なんか、ごめんね?」
梢が頬を赤らめてそういうと、眠そうに目を擦っていた本橋が苦笑いを浮かべた。
「・・・まぁ、弁当も作ってもらえたし、今回はこれでいいや♪」
「お弁当?」
梢はあの暑苦しいメッセージ付き弁当を思い出した。
「柿崎サン、俺に掃除を手伝わせるために、朝食と弁当で釣るんだぜ?自分は怪我人だからっつってさぁ。あんだけ動けりゃ松葉杖なんて必要ないじゃん」
「ぷぷっ!」
本橋は悔しそうに眉根を寄せてブツブツと文句を言った。その顔が可笑しくて、梢は必死に笑いを堪えた。
「・・・笑い事じゃねーよ」
ムスッと口を尖らせてそう言う本橋に、肩を震わせて笑いを堪える梢は、返事が返せなかった。
「ふふっでも、それだけ寝不足になってるってことは、結局は柿崎さんに乗せられたんでしょ?」
目尻に笑いの名残りを滲ませて、クスクス笑いで図星を指した。本橋の口がさらにへの字に歪んだ。
「・・・梢、呼び方が名字になってるよ。柿崎サンにチクっちゃうぞ。」
「あ、うん・・・ふふふふふ」
両手で口を覆い、笑いのツボをどうにか処理しようと試みる梢を見て、ようやく本橋も笑みを浮かべた。
『やっと、いつもの梢に戻ったな』どこか寂しいような気持ちで、本橋は梢の笑顔を見詰めた。
「そう言えば、どうして啓哉が東京にいるの?」
「ん?札幌の事務所を辞めたから。」
「え!それって・・・」
梢は、自分のせいではと顔色を変えた。本橋は眠そうな顔でクスッと笑うと、腕を伸ばして頭を撫でた。
「大丈夫。梢のせいじゃないから。」
「・・・でも・・・」
「大丈夫。心配いらないよ」そういいながら、ふと、梢の傍らにある時計を見て、今度は本橋が顔色を変えた。
「うおっヤバっ!!もうこんな時間!!行かなきゃ!!」
本橋は自分のカルティエでもう一度時間を確認すると、傍らに置いた荷物を引っ掴んだ。
「仕事?」
「うん、来週の離婚調停の打ち合わせ!!またなっ!!」
「・・・いってらっしゃい」
勢い良く出て行く本橋を見送り、梢はほんのり心配になった。
『・・・裕一郎さんのお弁当かぁ・・・』梢は、本橋が驚くであろう姿を想像し「一応、注意しておいた方が良かったかしら?」と呟いて、本橋が去った扉を暫し眺めた。
この日の午後、やっと時間が取れた梢の両親が、妹の楓と共にやってきた。
そして、妹から嵐のような説教を受け、両親からは柿崎に心配をかけるなとお叱りを受けることになった。
「裕一郎さんから電話があったときは、心臓が止まるかと思ったわ!無茶も大概にしなさい!」
ビル清掃会社から介護ヘルパーになった母が、娘の頭を愛おしげに撫でながら涙を零した。
「ホントだよ!梢ちゃん運動音痴の自覚なさすぎっ!!」
区立図書館で司書を勤める妹が、顔を真っ赤にして怒っている。
「・・・・・無事で良かった・・・」
普段、口数が少ない父が、涙を浮かべて俯いた。どれほど心配してくれていたかは、その憔悴した顔が物語っている。
「・・・心配かけて、ごめんね・・・」
それぞれが握りしめてくれる手の温もりが嬉しくて、梢はそっと握り返した。
「みんな、仕事があるのにありがとう・・・お母さんも疲れてるのに・・・」
「何言ってるの?!家族なんだから当たり前でしょ!?」母が梢の頬を軽く抓る。
「ただ、休みが貰えなかったから、そろそろ帰らなきゃならないけどね・・・」楓が姉の頭を抱き締めた。
「・・・・・すまんな」父は娘の手を両手で握った。
梢は改めて、家族の暖かさと愛しさを感じて涙が溢れた。
暫し水入らずで過ごした後、「また来るからね」と言い残し、三人は名残惜しそうに帰って行った。
病室に誰もいなくなると、梢はベッドに深く身を沈めた。
久しぶりに会った両親のこと、いつも元気な妹のこと、本橋のことなどをぼんやりと考えていた。
しかし、いつの間にか柿崎のことを考えている自分に気が付いた。
「・・・裕一郎さん・・・」
その名を口にすると、胸の奥がざわざわして落ち着かない。
布団を持ち上げ頭から被ってみた。
思い出すのは、高い位置にある笑顔と、仕事をバリバリこなす背中。抱き締めてくれる腕の強さや暖かさに、思わず頬が染まる。
エプロンをして料理をする姿や、まして、色鮮やかな可愛いお弁当に、レトロなメッセージを添えるなんて、きっと会社の女子社員は想像もできないだろう。
自分だけが知る柿崎のことをあれこれ考えていると、自然に笑みが溢れてしまう。
『・・・こんなに好きなるなんて・・・考えもしなかった・・・』梢は布団から顔を出し、ふぅ。と溜め息をついた。
衝撃的なプロポーズから半年。いろいろあり過ぎて、何年も経ったような気さえする。
薄いカーテンが引かれた窓から、傾いた夕日が低く入り込んで病室をオレンジ色に染めていた。
それをぼんやりと眺めている内に、梢はいつの間にか眠りに落ちていた。
『・・・裕一郎さん・・・早く逢いたい・・・』
左手を抱き締めるように小さく踞る梢の寝顔は微笑んでいた。
あと少しだけ、お付き合いください。