零れ落ちた雫。
翌朝、朝食を作りながら夕べの話しを改めて反芻した。
まずは、課長へ梢の事故の報告と、有給休暇を貰わないと。と頭に刻む。
皿にふっくらと焼き上げたオムレツを乗せ、彩りにレンジで熱を通したブロッコリーと人参を乗せた。仕上げに、パリッと焼き色を付けたウィンナーを二本添えた。
「おい。本橋!飯だぞ。」
いい色に焼き上げたトーストと、ドリップしたコーヒーなどを手際よくテーブルに並べた。
匂いを嗅ぎ付けた本橋は、リビングのソファから勢い良く起き上がると、テーブルに駆け寄ってくる。
「おお〜♪すげぇ!!」
シャツのボタンを三つしかとめず、引き締まった肌を晒した本橋が、テーブルの朝食をみて歓喜の声を上げた
そのまま寝たため、シャツはしわくちゃだ。
「・・・・・屈辱だ。なんで野郎に飯作ってんだ?俺・・・」
柿崎はブツブツ文句をいいながら、自分の分のオムレツを手早く焼いた。
それらをテーブルに並べると、いつものように両手を合わせた。顔はむっつりと眉を寄せている。
「あんた料理得意なんだ!俺、超ラッキー!」
「いい年して【超】とか言うな!恥ずかしい!!」
柿崎はうんざりとそう言うと、香ばしい香りを漂わせるコーヒーを飲んだ。
本橋は嬉々としてフォークを取り上げると、オムレツを掬い上げ嬉しそうに頬張った。目を閉じてじっくりと味わう。
蕩けるようなオムレツに、今は何を言われようと怒りは湧いてこない・・・寧ろ顔は幸せそうだ。
「・・・おれ、梢の一個上って言わなかったっけ?」
本橋がオムレツをもう一口頬張る。
「そうはいっても、もう二十九だろう?」
柿崎がトーストをちぎって、口に放り込む。
「そう言うあんたは、三十五だろう。おっさんめ」
本橋はマーガリンが染みたトーストの角にかぶり付いた。憎まれ口を叩きながらも、顔は終止幸せそうである。
「まだ、三十四だ。」むっつりと訂正するが、幸せそうに頬を膨らませる本橋は聞いていなかった。
梢以外に食事を作るなんて…と思っていた柿崎だったが、こうも旨そうに食べてもらうと、さすがに悪い気はしなかった。
柿崎は、ブロッコリーにフォークを突き刺すと、マヨネーズを付けて一口で頬張った。すこし加熱し過ぎたようだ。
梢はもう少し歯ごたえがある方が好きだったな。もぐもぐと租借しながら、美味しそうに食べる梢の顔を思い出していた。
食べるのが早い柿崎は、あっという間に完食しコーヒーを飲んだ。
「・・・家賃は貰うからな。」
「・・・・けち。」
「食費も追加な。」
「ええ〜!無職の人間を労ろうって気はないわけ?」
本橋はコーヒーカップを持ち上げ、あんまりだと首を振った。
向かいに座る柿崎は、ふん。と鼻であしらい新聞を開いた。
「どうせたっぷり退職金せしめて、預金もどっさりあるんだろう?アルマーニのスーツなんか着やがって。」
「それはそれ、これはこれ。」
「すかしやがって。この腹黒弁護士!」
「うお!ひでぇ言われよう・・・」
本橋は大げさに肩を竦めたが、満足げにオムレツの最後の一口を頬張った。
新聞を適当に畳むと、バサッとテーブルに置いて上着を羽織った。
「後片付けくらいしとけよ。」
「へいへい。いってらっしゃ〜い」
テーブルの上の新聞を広げた本橋は、適当に手を振って返事をした。
チッと舌打ちすると、コートとカバンを持って会社へ向かった。
「課長、ちょっといいですか?」
「うん?どうした?」
出社したばかりの篠山は、椅子に座るなり柿崎に連れ出された。
オフィスの隣に小さな応接室がある。重要な商談の時に使う以外は滅多に使わない。
部屋に入ると、梢の身に起こった出来事を話して聞かせた。篠山の顔が青ざめる。
「み、深山くんが・・・火事で意識不明!?」
「・・・課長。声がデカイです。」
「お、お、す、すまん・・・」
しぃっとすぼめた唇に指を立てる柿崎をみて、篠山は慌てて両手で口を押さえると、ドアの方を伺った。
「そ、それで、話しとは?」
「深山に、一ヶ月の有給休暇を申請したいんですが。」
「ん?それは構わんが・・・彼女、いつ意識が戻るか、わからないんだろう?」
「・・・そ・・・れは・・・」
胸の奥がズキッと痛んだ。命に別状は無い。検査しても脳にも異常は見られない。原因がわからないのだ。
「有休か・・・ちょうどいいかもしれないね。彼女、今月の残業時間が超過してるんだよ・・・上が煩くなってて・・・」
二人が労災申請をしたのはつい最近なのだ、篠山はその事指摘されないかと危惧していた。
「確かに。深山はこれまで一度も三日以上の有休取ってませんからね。その時の二日間だって、会社が無理に取らせたものだったし」
「・・・ああ、そうだったね・・・あれは、しょうがないでしょう。監査が入る時期だったし・・・」
「彼女のこれまでの働きを評価するべきです。」
「・・・う・・・うん・・・僕は評価してるけどね・・・」
上がね・・・と、口籠る。舌打ちしたい衝動をどうにか堪えた。
幸いだったのは、彼女が過労で倒れた訳ではない。という事だ。もし、過労だとされた場合、会社の出方も変わって来る。
会社のイメージもあるので、表立って【過労で倒れた】と言われるのは困るのだ。体よくリストラされるのがオチだ。
「深山の件はこれでいいですね。ところで、課長にお願いがあるですが」
「なんだね?」
篠山は藍色のハンカチを取り出すと、禿げ上がった額に浮かぶ汗を拭った。
「どちらかと言えば、こっちが本題かと」
篠山は、ギクリとしたように、汗を浮かべてごくりと唾を飲み込んだ。柿崎がこんな頼み方をするときは碌な話しじゃない。
怯える篠山に、柿崎は黒い笑みを浮かべて声を潜めた。
「暫くの間、俺がする事を黙認してください。」
「・・・・な、何をする気なんだい?」
ハンカチを両手で皺になるほど握りしめる課長は、冷や汗を浮かべている。
「佐々木を締め上げます。」
「・・・ぼぼぼぼ暴力はいかんよ?」
オロオロしている篠山に、柿崎はニヤリと笑みを浮かべた。
「ある意味、殴られた方がマシって目に遭わせるだけですよ。」
「・・・・柿崎くんが悪魔に見えるよ?・・・いったい何があったんだい?」
篠山は、眉間に皺を寄せ額から頬に掛けて流れる汗を拭った。
「佐々木は、このところ碌な仕事をしていない。だが、羽振りが良すぎるんです」
「・・・羽振り?」
「あいつ、あの火事があった日、残業を梢に押し付けて女と逢っていたらしい。しかも、高価なブランド物のバッグを贈っている」
「・・・よく調べたねぇ柿崎くん!興信所の調査員みたいだよ?」
「・・・・・それは、褒めてるんですか?」
「そうだよ?あれ?そう聞こえなかった?」
「・・・・」
篠山の天然っぷりに、柿崎は頭を抱えた。
「じゃあ、了承してくれますね?」
「・・・う、うん・・・なるべく、穏便にね?」
真っ黒な笑みを浮かべる柿崎を目の当たりにして、篠山に何が言えただろう。
篠山は止まらない汗を必死に拭いながら、「それにしても」と言葉を続けた。
ドアノブに手をかけていた柿崎は、振り返って低い位置にいる課長を見下ろした。課長は背が低い。
「いっそ寿退社すればよかったんじゃないの?」
「・・・・・それも、考えました・・・ですが・・・」
自分が知らない間にそんな事になったと知ったら、梢は怒るだろう。
「俺は、梢と一緒に結婚を報告したいし、これからどうするかは、彼女自身に決めてほしいんです。だから、黙って辞めさせる事はしたくありません」
そうか。篠山はふっくらとした顔に、満足気な笑みを浮かべた。
それに釣られるように口元を緩めると、オフィスに戻って行った。
それから仕事の合間を縫って、佐々木のあらゆる情報を集め始めた。
残業申請の書類と退社時間の矛盾。勤務態度。有給休暇の日数や頻度。領収書からレシートの果てまで調べ上げた。
松葉杖をついた足が、四階の病室の前で止まる。ドアノブを握り、梢が目を覚ましている事を祈って扉を開けた。
「よぉ。おかえりぃ」
声を発したのは本橋だった。梢は昨日と同じく眠ったままだ。
小さく溜め息をつくと、書類を納めた封筒を持って病室へ入った。
一日が終わって、やっと顔がみれる。松葉杖をつくのももどかしくベッドに向かった。
「・・・ただいま、梢」
そっと額に口付ける。消毒の臭いが切ない・・・髪を撫でると、さらりと滑らかになっていた。
鼻を近づけると、仄かにフローラルの香りがする。
「・・・髪を・・・洗ってくれたのか?」
ベッドに俯せていた本橋は「ドライシャンプーが売ってたからね。」と言った。
正直おもしろくない。だが、ありがとう。と礼を言った。
「礼を言われる覚えは無いよ。」首を傾げて柿崎を見上げた。
「それより、会社の方はどうなった?」
体を起こし、柿崎に席を譲った。松葉杖を壁に立てかけ腰掛ける。
「課長に頼んで、今日から一ヶ月の有休を取ってきた。」
「一ヶ月か。まぁ妥当だな。」
ふむ。と、腕を組んで考え込んだ本橋は、思い出したように振り返った。
「佐々木の件は?」
「いまはこれだけだ。だが、総務の友人にも協力を頼んだから、明日にはもっと集まるだろう。」
書類ケースから書類がごっそり出て来る。取り出して、本橋は目をむいた。
「一日で良くこれだけ集めたなぁ!二人で興信所でもやる?」
「冗談じゃねーよ。」
顔を顰めると、コートと上着を脱いで、窓際に乗せた。
梢の手を握ると、その顔を覗き込む。
「・・・梢・・・早く目を覚ませ・・・」
早く微笑んでほしい・・・祈るように手を握る。
「なぁ、柿崎。」
「呼び捨てかよ。なんだ。」
ムッとしながらも、反対側で別の椅子に座る本橋をみた。
本橋は横たわる梢の上に書類を広げていた。
「・・・おまえ・・・なにやってんだよ」
「作戦練ってんの。あのさ、この領収書なんだけど、おかしくない?」
「ん?どれ?」
書類を覗き込む。本橋は領収書のコピーを指差した。
「ほらここ。金額の所が妙だろ?」
「・・・ああ」
確かに、その部分だけ上からなぞった跡が見えた。書き損じとも違う。名前や品名の部分と明らかに違う書体。
「・・・ひょっとしたら、コイツ横領とか着服とかしてるかもしれないぞ?」
「・・・やれやれ・・・」
これは思った以上に大事になりそうだ。と柿崎は肩を落とした。
「ところで柿崎サン、晩飯なに?」
本橋は書類を手早くまとめて書類ケースに戻すと、小さな子供のように期待に満ちた顔を向けた。
「・・・晩飯も食うのか?」
「食わなきゃ死んじゃうだろう?」
「・・・・いっそ、死ね。」
面倒くさそうにそう言うと、梢の顔を見詰めた。
「梢、明日は残業で遅くなりそうなんだ・・・頑張るけど、来れなかったら、ごめんな?」
そう言って髪を撫でた。一瞬、梢の顔が寂しい。と言っている気がした。気のせいだろうか?
もう一度声をかけようとすると、それより先に本橋が悲痛な声を上げた。
「ええ!残業?!じゃあ明日の俺の晩飯は?!」
本橋が頭を抱えて訴えている。柿崎は顔を上げると、口をへの字に曲げた。
「・・・・てめぇでどうにかしろ。オトナだろう?弁護士さん。」
「なんか刺を感じるなぁ・・・」
「今ごろ気付いたのか?」
柿崎は呆れたように片眉を上げた。
「・・・それ、梢もよくやるよ・・・」
「あ?」
柿崎が何の事だ?と首を傾げると、本橋は面白くなさそうに自分の眉を指差した。
「その、片方の眉毛を上げる癖。」
「・・・・・そうか」
柿崎はそっと眉毛に触れると、傍らで眠る梢を見下ろした。
「いつの間にか、癖って移るもんなんだな・・・」ぽつりと言葉が零れ落ちた。
そっと梢の髪に手を伸ばす・・・暖かい肌・・・
「・・・暖かい・・・なのに・・・なんで目を覚まさないんだ?・・・梢・・・」
堪えきれず、柿崎の目から涙が溢れた。
いくつも・・・いくつも・・・梢の頬を涙が濡らした。
「・・・・こずえ・・・寂しいよ・・・」
涙と共に零れ落ちた声は、微かに震えていた。
柿崎・・・旦那に欲しい。