君への想いはこの手の中に。
柿崎と本橋が病院に駆けつけると、救命救急センターで処置を施されている所だった。中には入れず、二人は救急外来の待ち合い室でうろうろと歩き回った。
総合病院の救命救急センターはひっきりなしに患者が押し寄せ、まさしく戦場だった。
いつになったら梢に会えるんだ!二人がジリジリしていると、マスクで顔を覆った看護師が声を上げた。
「深山 梢さんのお身内の方は?」
「ーーーーーはい!俺です!」
二人はハッと顔を上げ、柿崎が前に出ると、こちらにどうぞ。と案内された。
慌ただしい救命の現場から扉一つ隔てたところに、薄いシーツが掛けられた人物が横たわっていた。
ぞくりと背中を冷たいものが走る・・・
「いま、先生は手が離せないので、少しおまちください」
そう言って、看護師は戦場のような救命救急の現場へ戻って行った。
二人は恐る恐るベッドに近付いた。
非現実的な光景に、柿崎は松葉杖を強く握って崩れそうになる自分を支えた。
青白い顔は所々が煤で汚れ、閉じられた目はくぼみ、酷く窶れている。まるで別人のような姿の梢がそこにいた。
毎日、会社で会っていた筈なのに、彼女の変化に気が付かなかった自分が情けなかった。
点滴の針が刺さっている腕が、記憶にあるそれより細く見えた。小さな顔の半分を覆っている酸素マスクが、酷く痛々しい。
柿崎と本橋は、唇を噛み締めて梢を見下ろした。
「・・・梢・・・」
本橋は苦しそうにそう呟くと、やおら柿崎の胸ぐらを掴んだ。弾みで松葉杖が床に転がる。
「・・・梢に何をした?!」
「・・・・・」
「梢は、自分に非がある時は、こんな風になったりしない!一方的に攻めたんだろう!何を言った!」
歯を食いしばり低く抑えた声で詰め寄る本橋に、柿崎は何も言えず目を閉じた。
本橋は殴りたい衝動をどうにか堪えた。胸ぐらを掴む腕が怒りに震える。
「・・・いい訳も・・しないのか?」
「・・・梢を傷付けたのは・・・ホントだからな・・・」
胸ぐらを掴んでいる手を振り払い、襟を直すと松葉杖を拾うことなく、椅子に座って梢の顔を覗き込んだ。
そっと頭を撫でる。いつもの滑らかな髪が煤にまみれ、ザラザラしていた。
「・・・・・触るな・・・」
本橋が唸るように言っても、柿崎は振り向きもしなかった。
大きな掌で髪を撫で付けてやる。あの日の朝のように・・・
「・・・梢に・・触るな!」
本橋が、柿崎の肩を掴んだ。柿崎は梢からゆっくりと傍らの男へと視線を向けた。
「・・・間違えるな。梢は俺の女だ、お前のじゃない。」
本橋を睨む男の目は刃物のように鋭い。本橋は怯む事無く、掴んだ腕に力を込めた。
「梢を傷付けておいて、ぬけぬけと・・・」ギリッと歯噛みする。
「・・・離せよ。お前と違って、俺は梢を捨てた訳じゃない」
「!!」
ぐっと言葉に詰まった本橋の手を肩を振って剥がすと、布団の中の梢の手を取った。
取り上げた左手が固く何かを握りしめている。
「・・・何を握ってるんだ?」
柿崎はその手を開こうとするが、細い指は頑に開くのを拒絶する。
意識があるのかと顔を見るが、酸素マスクが規則正しい息づかいで白く曇るだけだ。
「・・・確か・・・何かを取りに戻ったって・・・それか?」
本橋が拓也の話しを思い出した。
「・・・なんだろう?・・・開かないな・・・」
柿崎は細い指に負担をかけないように気をつけながら、指を開こうとしたが、やはり頑に開かない。
「・・・そんなに大事なものなのか?」
本橋は柿崎の隣から梢の手を覗き込んだ。柿崎は瞼を閉じ眠っている女を見詰める。
梢・・・こんな時まで頑固だな・・・。切ない笑みが口元に浮かぶ。
「・・・梢・・・好きだよ・・・」
柿崎は梢の握った左手に唇を寄せた。
何度も・・・何度も・・・
本橋が、見ていて恥ずかしくなるほど、情熱的にキスをした。まるで愛撫を思わせるキスは、映画のワンシーンのようだ・・・
「・・・ん?」
どれくらいそうしていたのか、柿崎が不意に自身の手の中の変化に気が付いた。包んでいた手を見ると、花が綻ぶように指が緩んだ。
「・・・これは!」
小さな手が握っていたものに、柿崎は目を見開いた。覗き込んだ本橋が首を傾げた。
「・・・指輪?」
「・・・俺が・・・贈ったんだ・・・」
これを取りに戻ったのか・・・無茶な事を・・・。柿崎は愛しげにその掌に唇を落とす。
「なんだか、結婚指輪みたいだな」
「・・・結婚指輪だよ。」
本橋を睨むと、男は呆れたように眉を寄せた。
「あんた、婚約指輪もなしに、いきなり結婚指輪贈ったのか?ムードが無いっていうか、だいたいさ!」
「・・・・・うるせぇな。」
痛いところを突かれ、閥が悪そうに口を歪めた。余計な説教までしそうだったので、勝手に話しを打ち切った。
緩んだ手から指輪を摘まみ上げると、細い薬指にそっと嵌めた。
宮城で初めて指輪を交換したときの、はにかんだ笑顔が脳裏に浮かぶ。
「・・・これで、無くさないだろ?」そう言って、薬指に口付けると小さい手を握った。
前髪を撫で上げ、未だ煙の匂いが残る髪と額に唇を落とす。
『暖かい・・・生きてるんだ・・・』柿崎はぐっと溢れそうになる涙を堪えた。
「お待たせしました」
まるで甚平のような水色の白衣を着た医師が、スリッパをパタパタさせて足早に顔を出した。
医師は疲れたように腰に手を当てながら、作成したばかりのカルテを検分しつつ口を開いた。
「彼女、煙をだいぶ吸い込んでしまっているようですね。」
重なっている一枚を捲り、その下にある検査結果に目を通している。
「僕は外科医なので、詳しくは言えないんですが・・・・ん〜」
医師は不意に言葉を切った。『まさか、もう目覚めないって言うんじゃ・・・』最悪の事態を予想して二人は息をのんだ。
「ま。命に別状はないでしょう」
変なところで溜めるなよ!!男二人は同時に同じ突っ込みが出そうになったが、口からは安堵の溜め息が漏れた。
「・・・そう・・・ですか・・・」
「意識が戻ったらもう一度検査します。病室に移動してもらいますので、入院の手続きをして来て下さい。」
医師はそういうと、新たな患者の元へ呼び戻されて行った。
柿崎が入院の手続きをしている間に、梢は4階の病室に運ばれ、本橋が付き添う。意識が無いため部屋はナースステーション近くの個室だ。
六畳ほどの個室に落ち着くと、本橋は椅子を引き寄せて座った。ひやりとする右手を両手で包み込む。
「・・・梢・・・目を開けてくれよ・・・」
酸素マスクは、規則正しいリズムで白く曇る。看護師に拭ってもらった顔は、火傷もなく白い。
点滴を受けているお陰だろう、顔色もだいぶ良くなって来ていた。
あとは、梢が目を覚ますだけだ・・・。本橋は祈るように梢の手を握りしめた。
「・・・俺の女に触んな。」
低い声に本橋が顔を上げると、柿崎が松葉杖をつきながら部屋に入って来た。片手に持っていたコートをベッドの足下に掛けると、梢の小さな顔を両手で包み込み額を押し付けた。
「・・・梢・・・早く目を覚ましてくれ・・・」
大きな手で髪を撫でる。ざらついた髪は、やはり煙の匂いがした。額に唇を押し当てる。いつもなら薄く目を明けて、名前を呼んでくれるのに・・・柿崎は奥歯を噛み締め、苦痛に耐えた。
「あのぉ。患者さんの容態も安定してますし、面会時間が終了しましたので、明日またおいで下さい。」
病的に痩せた看護師が、神経質そうに言った。二人は低く唸ると、眠っている梢に「また明日。」そう言って病室を後にした。
「・・・俺に送って行けってぇのか?!冗談じゃねーぞ?!」
柿崎は病院の駐車場で、当たり前のように助手席に乗り込んで来た本橋に苛立ちを向けた。
「・・・柿崎さん。俺しばらくあんたん家に厄介になるからね」
「はあ?!断るっ!!なんでお前を泊めなくちゃならねーんだよ!!」
「梢が目を覚ますまで俺が付き添う!」
「駄目だ!梢は俺の嫁だ!元カレはすっこんでろ!!」
「まだ入籍もしてねーだろ!!梢を泣かせておいて、嫁嫁偉そうに言うなっ!!」
「お前は梢を捨てたんじゃないか!!」
怒りを露にする柿崎に、本橋も断固として譲らない。車の中での無意味に近い言い争いが続いた。
「だいたい!なんでお前が東京にいるんだよ?!」
「はあ?!今ごろ何言ってんだよ?!さっきから何時間一緒にいると思ってんだ!気が付くのおせーんだよ!あんた馬鹿か?!」
「やかましいわ!!何しに来たのか言いやがれ!!」
「俺は、ーーーーーー」
馬鹿馬鹿しい言い合いがヒートアップしたところで、コンコン。と、いきなり窓をノックされた。
柿崎はハッと振り返り窓を開けた。
「もしもし?どうされました?」
息を切らせて言い合う二人を見て、警備員が声をかけて来たのだ。
「あ・・・いえ・・・」
柿崎が口籠っていると、本橋が営業用の仮面を被って微笑んだ。
「いえ、ご心配には及びません。僕が泊まるところが無いっていったら、どうしても自分のところに泊まれって言うもんですから・・・」
「ーーーーーなっ!!」
柿崎は愕然とした表情で本橋を見た。彼は白々しく嘘を並べ立てている。
口を挟もうとすると、人差し指が言葉を押しとどめる。
「彼・・・僕に気があるみたいで・・・」
何言ってんだてめぇ!んなわけねぇだろう!!!と叫んだつもりが、怒りのあまり音にはならず、ただ口をぱくぱくさせていた。
「はぁ・・・人の色恋に口は出しませんけど、痴話喧嘩なら他所でやって下さいね」
中年の警備員は複雑そうな顔で二人を見ると、やれやれ、と首を振って立ち去った。
「ああ、気色悪ぃ〜〜〜!!見てよ、このトリハダ!!」
本橋は身震いしながら袖を捲った。我に返った柿崎もまた、全身にトリハダを立てて本橋の胸ぐらを掴むと前後に揺すった。
「もぉとぉはぁしぃぃぃ!!きさまぁ!!何のつもりだァ?!」
髪の毛まで逆立って見える剣幕に、本橋は余裕の表情で襟を掴む手を振りほどいた。
「柿崎さんが、素直に泊めてくれないからですよ?」
本橋はけろっとした顔で嘯いた。それが返って柿崎を怒らせる。
「なんでてめーを泊めなくちゃならねーんだっ!!ホテルにでも泊まりやがれ!!」
「嫌だね。梢が目を覚ますまで居座ります。駄目だって言ってもね。」
「いい加減にしろ!!」
もう一度、胸ぐらを掴んだところで本橋がニヤリと笑った。
「・・・傷害で訴えましょうか?」
「な!!」
胸ぐらを掴む右手をちょんちょんと突くと、柿崎は慌てて襟を離した。
くそう!これだから弁護士は嫌いなんだ!一瞬、脳裏に登紀子の不敵な笑みが浮かんだ。
弁護士はぐっと顔を寄せる。
「今は仕方がないが、目が覚めた後、彼女を守れるのは俺だけだ。」
「どういう意味だ?」
苛立たしげに声を低くする。
「考えてもみろ、梢の残業時間なんて、労働基準を遥かに超えてるんだ。この機会にリストラされるのがオチだね」
「!」
確かにそうなのだ。喧嘩をしたあの土曜日も、午後から佐々木に呼び出され休日出勤させられていた。
その量は尋常ではなく、日曜まで引きずったのだ。
しかし、梢もまた仕事で柿崎との喧嘩を忘れたかった・・・必然的に労働時間が伸びてしまう結果になった。
週が明けても、梢は片っ端から仕事を引き受け残業をしている。それは上の人間にとって、厄介な問題になり得るのだ。
「労働時間超過でのリストラなんてさせない!俺が覆してやる。」
「・・・そんなこと出来るのか?」
柿崎が眉を潜めると、弁護士は黒い笑みを浮かべた。
「それには佐々木ってやつの素行が知りたいんだ・・・協力してくれるよね?」
「・・・・・おまえ、恐ろしいな・・・」
口をへの字に曲げ、眼鏡の奥で不敵な笑みを浮かべる弁護士を見やる。
「どうなんだ?梢を守りたいだろう?」
「(泣き所を付いてきやがる)・・・・・わかった。」
柿崎は、悪魔に魂を売り渡したような居心地の悪さを感じた。
そして、男二人の奇妙な共同生活が始まった。
梢を想う気持ちは、二人とも同じなんですが・・・
本橋さん、当初の設定からどんどん壊れて行くのは何故?(汗)