セピア色の思い出
黒を基調にしたドアを静かに開くと、薄暗い寝室に男がそっと忍び込む。
音を立てないようにそっと閉じられる。
ベッドまでは数歩の距離。男は足音を忍ばせそっと近付いて行く。
松葉杖を付いてもカーペットが音を吸収し、ベッドに横たわる人影は気付きもしない。
ふかふかの羽毛布団と肌触りのいい毛布に包まり、気持ち良さそうに眠っている様は、さながら眠り姫のようだ。
寝相の悪い眠り姫。
『・・・起こさない方がいいかな?』
そう思いながら寝顔を見詰める男は、松葉杖を床に起き、床に座って寝顔を堪能した。
顔の下半分は布団に埋もれて隠れているが、閉じられた瞼や、寝乱れてくしゃくしゃの髪そのすべてが愛おしい。
起こさないようにそっと柔らかな髪を撫でる。その心地よさに眠り姫の眠りはさらに深くなる。このままでもいいが、やっぱりちゃんと顔を見て名前を呼んでほしい。
男はそっと髪にキスを落とす。
「・・・梢、朝だよ・・・」
小さく囁いた途端、梢がガバッと体を起こした。何やら切羽詰まったような顔をしている。
「梢?」
「柿崎さん。課長から急ぎの書類を預かってきました!」
「書類?・・・おまえ何言ってんだ?」
柿崎は首を傾げ、梢の顔を覗き込んだ。言葉はハッキリしているが、この顔はどう見ても・・・
大きな手で、くしゃくしゃになった髪を撫で付けてやると、梢の顔が真っ赤になった。
「・・・・あ・・・れ・・・?」
梢は真っ赤になって、寝惚けていた事を誤摩化そうとしたが、頭が上手く回らないらしく妙な汗を浮かべている。
「ぷっ!・・・寝惚けてたのか?」
「・・・あ・・・う・・・」
恥ずかしさで顔が熱くなる・・・。仕事をしてる夢を見ていたところで声をかけられたのだ。不可抗力だと言いたいところだが、寝惚けていた事には変わりはない・・・
「くっくっくっ・・・お前が寝惚けるの・・・初めて見た・・・くっくっくっ」
『そんなに笑わなくたって・・・』梢は唇を尖らせ、口元を隠して笑いを堪える男を睨んだ。
「くっくっくっ・・・こずえ、可愛いなぁ・・・」
「~~~~~~~わ、笑い過ぎです!!」
いつまでも肩を震わせている柿崎に「~~~きらい!」と叫ぶと、梢は毛布を頭から被って引きこもってしまった。
「いいじゃないか、寝惚けるくらい。恥ずかしがるなって♪」
「しらないっ!向こうに行って!!」
恥ずかしさに毛布の砦から叫ぶ梢に、柿崎はその大きな体で襲いかかった。
容赦なく体重をかけられ、とにかく重い・・・
「~~~~お、重いです!どいてください!!」
毛布の下から抗議の声が上がるが、構わず伸し掛かる。
「さっさと降伏しろ。そんで、さっき言った言葉を取り消せ!」
さもないと押しつぶしちまうぞ? そう言って、わざと体重をかけると、梢はあわてて毛布から顔を出した。
待ちかねたように唇が塞がれる。直ぐに舌が絡み付いた。
「・・・ん・・・ふぅ・・・さっきの・・・言葉って?」
濃厚なキスからようやく解放され、潤んだ瞳で伸し掛かる男を見上げた。
男は僅かに拗ねたような顔で見下ろしている。
「・・・俺を嫌いって言ったろ。取り消せ。」
「(気にしてたんだ)・・・いや。って言ったら?」
梢が挑戦的に片眉を上げると、柿崎は不敵な笑みを浮かべた。
「・・・・好きって言うまでくすぐってやる。」
「!!」
言うや否や、逃げ出そうとする梢を毛布の上からくすぐり始めた。梢は悲鳴混じりの笑い声を上げながら、毛布の中で身悶えた。伸し掛かる男の大きな手は、容赦なく脇腹をくすぐってくる。
「さあ!言え!好きって言え!」
「きゃははははは!!や、やだーー!!ず、ずる、い!あはははは!!」
毛布を捲って潜り込むと、華奢な体を背後から抱き締め首筋に吸い付いた。
「ひゃあ!!」
「まだ言わないか?」
舌が首筋を這う感触に首を竦めると「ご、ごめんなさい!!」慌ててそう言った。
絡み付いてくる腕から逃れようと必死に暴れる。
「梢・・・答えが違う。」
「やぁん!!」
パジャマの上から体を探られ、梢は体を捩って抵抗した。柿崎は唇を尖らせて梢の頬にすり寄る。
「なんで抵抗するよ?」
「・・・・朝っぱらから何考えてるんですか!」
「ん?俺は起こしに来ただけだけど?梢こそ何考えたんだ?」
「・・・・・・」
ニヤニヤと笑いを浮かべて見下ろす男の言葉に、梢は思わず赤面する。
この男には勝てる気がしない・・・梢は深い溜め息を吐く。
「・・・起きますから、どいてください」
「おっと、忘れるところだった。」
柿崎は体を起こすと、梢も体を起こした。
「なんですか?」
「・・・まだ好きって聞いてないぞ?」
目の奥を覗き込むように顔を寄せる柿崎に、梢は思わず顔を背けた。
「梢?」
「・・・・・」
「言え。」
梢は少し躊躇ってから、意を決したように両腕を伸ばすと、その行動に意表をつかれた顔をしている男の頭を抱き寄せた。
形のいい耳に唇を寄せる。
「裕一郎さんが好き・・・」
「!!」
ぞくりと首筋の毛が逆立つ。細い腕が弛んで離れると、そこには勝ち誇ったような顔が。
「これでいいですか?」
そう微笑む梢に、今度は柿崎が顔を赤らめる番だった。
『やられた・・・』赤らんだ顔を両手で覆い、動揺する自分を宥めた。
「裕一郎さん?」
「・・・上出来だ。」そう言ってキスを落とすと、松葉杖を拾い上げて立ち上がった。
事故から一ヶ月、驚異的な回復を見せている柿崎だが、医者からはあと一ヶ月はギプスを外すなと言われていた。
白いギプスには、営業部のメンバーからの寄せ書きが所狭しと書かれている。
「さて、朝飯が冷めちゃったな。」
「・・・余計な事してるからです」
ぼそっとそういうと、さっさと柿崎を部屋から追い出し、手早く身支度を済ませた。
簡単に化粧を済ませると、リビングに向かった。
リビングはキッチンと対面式になっており、大きな窓からは燦々と朝日が降り注いでいる。
大きくはないダイニングテーブルには、和の朝食が揃っていた。
焼きシャケにほうれん草のおひたし、出し巻き卵にご飯とみそ汁。白菜の漬け物まで添えてある。
ここまで完璧な朝ご飯を彼氏が用意するというのは、彼女としては嬉しいが、嫁としてどうなんだろう?
少々複雑な気分だが、あまり料理に自信がない梢は、柿崎に丸投げしていた。柿崎の作る食事はおいしいのだ。
二人そろって両手を合わせ、いただきます。と言うのが柿崎家のルールらしい。梢は違和感なく従う。
「梢、引っ越しの準備はどうなってる?」
「進んでますよ。」
北海道での出来事の後、松葉杖をついたまま梢の両親に挨拶に行った。
28になっても結婚しない娘を心配していた両親は、柿崎をことのほか気に入ったらしく、逃がさないように直ぐに結婚しろと捲し立てた。そんな両親の様に梢は赤面したが、当の柿崎は、俺が彼女を離しません。と宣言し、さらに両親を喜ばせた。
婚姻届の方も、すぐに出しに行くのだろうと思っていた梢の予想を裏切り、どうせならクリスマス・イブに出そうといいだしたのだ。
「レストランで食事をして、その後出しに行こう」と、笑顔で言った。
デカイ図体に似合わず、そういうイベントが好きなようだ。こんなに女心をくすぐるくせに、あの給湯室でのプロポーズはなんだったんだろう?梢は首を傾げた。
そして、どうせ結婚するんだし、一緒に暮らそう。と言う事になり、仕事の合間をみて荷物をまとめているのだ。
「俺の怪我がなかったら、もっと早いんだけどな・・・」
柿崎は申し訳なさそうにワカメと豆腐のみそ汁を啜った。
「ある程度まとめてしまえば、あとは業者さんがやってくれますから大丈夫です。」
梢は軽くそう言って、ふっくらと焼き上がっている塩シャケを口に入れた。
程よい塩加減にご飯が進む。
「とりあえず、今日は俺も手伝うよ」
「え?でも・・・」
梢は、出来るならギプスが取れるまで安静にしててほしかった。北海道から帰っても、一日休んだだけで、いつも通りに出社しているのだ。足への負担が気にかかる。
「ん?大丈夫だよ。俺は早く梢と暮らしたいから」
「・・・そう・・・ですか・・・」
ほどなく食事を終えると、コーヒーと紅茶をだしてくれた。至れり尽くせりである。
カップを口に運ぶと、温度は梢好み。いつもながら絶妙なのだ。
「・・・ねえ、裕一郎さん。私が猫舌なのどうして知ってるんですか?」
「ぐっ。」
柿崎がコーヒーを吹きそうになった。
「・・・そりゃ・・・梢への愛だよ」
「うそくさ。」
梢はカップを口に運びながら、遠慮なくバッサリと切り捨てた。
「・・・誰かに聞いたんですか?」
片眉を上げて様子を伺うのは、梢が嘘を見破ろうとしているときの癖だ。柿崎は、嘘発見機にかけられているような気がして、カップを持つ手に汗が滲んだ。
「・・・別に・・・」
「・・・怪しいなぁ」
首の後ろにもこっそり汗が滲む。これ以上追求しないでくれ・・・。柿崎は誤摩化すようにコーヒーをぐいっと飲み干し、食器を片付けにキッチンへと逃げて行った。
対面式なので、食器を洗う柿崎は丸見えなのだが、美味しい手料理を堪能できた事に免じて、これ以上の追求するのは止める事にした。
梢のアパートには車で向かった。
幸いと言うべきか、骨折したのが左足だったため、オートマチック車の運転に支障はないのだ。
部屋に入ると、あらかた荷物が片付いてさっぱりしていた。
「とりあえず、服とか必要と思えるものは先週の内に運んだので、ゆっくりでいいかなって思ってたんです」
「暢気だなぁ。俺はいますぐ暮らしたいんだ。」
「もう!駄々っ子みたいなこと言わないで下さい。」
梢は小さなヒーターのスイッチを入れると、片付けの途中だった荷物を隅に避けた。
「さて、どっから始める?」
「柿崎さん、まだ怪我をしているんですから、座ってていいですよ」
「それじゃ、来た意味がないだろう」
ベッドに腰を下ろし、呆れたように梢の後ろ姿に溜め息を吐いた。
ふと、積み上げてあるCDの間に数枚の写真が挟まっているのが見えた。
何となく一枚を引き抜いて・・・
・・・見てしまった。
そこには、幸せそうに満面の笑みを浮かべた梢と、その頬に口付ける本橋の色あせた写真だった。
別の一枚を引き抜くと、本橋の頬に口付ける梢が・・・
『・・・なんで、こんなものを・・・』柿崎は残りの写真全てを手に取った。
どの写真にも、幸せそうに笑う恋人達がいた。
梢の髪はいまよりも長く、ゆるくウェーブがかかっている。
服装も、いまよりずっと華やかで可愛らしい。
柿崎が出会う前の・・・自分が知らない梢がいた・・・
男の中に、これまで感じた事のない感情が沸き上がってくる。
「・・・・梢」
声が唸るように低くなる。
「なんですか?」
細々したものを選り分けていた梢が振り向くと、テーブルに写真を放り投げた。
「・・・これはなんだ?」
「ああ、それ?掃除してたら出て来たの」
梢は事も無げにそういうと、写真に手を伸ばした。
その手を大きな手が掴む。思っていた以上に力が入ってしまい、梢は思わず顔を顰めた。
「ゆ、裕一郎さん?」
「・・・見付けただけなら、どうしてCDの間にあったんだ?」
「・・・別に、深い意味なんて・・・い、痛い離して!」
柿崎は大きく息を吐くと、手を離した。
「・・・まだ・・・あいつが好きなのか?」
「・・・どうしたんですか?柿崎さんらしくありませんよ?」
ーーーー柿崎。
何気なく言った言葉だった。しかし、柿崎は眉根を寄せ、さらに厳しい顔になった。
梢はなかなか自分を名前で呼ばない。徐々に慣れればいいさ、と思っていた柿崎だったが、いまこの時に名字で呼ばれた事に、酷く腹が立った。
「あいつと今も会っているのか?」
あの事件のあと、本橋は事務所を辞めたと聞いた。その後、本橋がどこにいるのか柿崎は知らないのだ。
昔の写真だとわかっていても、沸き上がる嫉妬を抑える事が出来なかった。
「もう啓哉とは会ってないし、たまたま見付けた写真の上にCDを重ねてただけじゃない!」
ーーーー啓哉。
柿崎の苛立ちが怒りに変わった。
「じゃあ、これはいらないんだな?」
そう言って本橋に口付ける梢の写真をビッと破った。
何度も破ると、細切れにした写真をテーブルの上に蒔いた。
「ーーーや、やめて!!」
二枚目の写真を引き裂こうとした手から写真をむしり取った。
他の写真も掻き集めると、胸に抱き締めた。泣き出しそうな顔する梢に、柿崎は余計に腹が立つ。
「・・・昔の男が・・・そんなに大事か?」
(言ってはいけない)と頭の中で警報が鳴る。
「・・・今も・・・・好きなのか?」
(やめるんだ!)
もう一人の自分が警告するが、嫉妬に狂った男の言葉は止まらなかった。
「そんなこと!・・・私は、柿崎さんが好きって・・・言った・・・」
目を潤ませて放つ梢の言葉は本物だろう。そんな事はわかっている。
自分をこんなにも苛立たせるのは、ついこの間会った、梢の嘗ての恋人・・・その男の影が急に存在感を持ったからだ。
今は自分が傍にいるのだからと、あの時は気にも止めなかったのに、何故いま、こんなにも心を掻き乱されるのか。
「・・・それなら、その写真はどうするつもりだったんだ?」
「・・・ど、どうって・・・別にどうもしませんよ?」
眉間の皺がより深くなる。
「・・・昔の男の面影ごと俺に抱かれる気か?」
「そんなこと!」
梢の言葉を遮り、「冗談じゃない。」吐き捨てるようにそう言うと、片足で立ち上がり上着を羽織った。
梢はどうしていいのかわからず、松葉杖を付いて玄関に向う後ろ姿に呼びかけた。
「こ、これは、私の手で捨てようと思っていたんです!」
「そうだな。【お前とあいつ】の思い出だもんな」
振り返る事なくそう言うと、部屋を出て行った。
鉄製の扉が、二人の間を分けるようにバタンと閉じた。
ぎこちない足音が遠のいて行く。
ーーーどうして、信じてくれないの?
自分の部屋なのに、まるで知らない場所のように感じた。
これまで見た事のない柿崎の怒りに初めて触れた梢は、力なく床に座り込んだ。
体の震えが止まらない・・・
床には嘗ての恋人との写真が散らばっている。
こんなものに思い入れなんてなかった。ただ、自分の手で捨てたかっただけだ。
それなのに・・・
散々振り回して来たのは柿崎の方だった。
でも、今は柿崎と生きて行こうと決めたのに。
その想いを踏みにじられた気がした。
・・・私がいけないの?
・・・私・・・また捨てられたの・・・?
柿崎が出て行った扉を見詰め、梢は、ただ静かに涙を流した。
少し修正しました。