廊下で・・・
梢ちゃんが頑すぎて、話が進みません…。
就業時間を越えても、梢は未だデスクの前にいた。
柿崎との約束をすっぽかしているのではなく、単に残業である。
「仕事が入ったので、今日は行けません。では。」
約束の時間に、一応広場にいる柿崎に伝えに行くと、彼の返答も待たず、さっさと仕事に戻ってきた梢は、黙々と仕事をこなした。
誰もいないオフィスは、昼間の喧噪が嘘のように静まり返り、梢が叩くキーボードの音だけが、妙に大きく聞こえる。心なしか、キーを叩く梢の指も軽いようだ。
「・・・ホントに残業してたんだ。」
「ーーー!!」
不意に声をかけられ驚いて振り返ると、すぐ後ろに柿崎が腕組みして立っていた。
どこか怒っているような顔ではあるが、仕事をしているのだから文句は言わせない。
「・・・確認に来たんですか?」
「いやいや、激励に来たんだよ♪」
『うそくさっ』とはさすがに言わず、梢がすぐに画面に目を戻すと、柿崎が後ろの席に座ったのが分かった。
視線を感じて落ち着かない。
梢は小さく溜め息を着くと、後ろの柿崎に顔を向けた。
「・・・帰らないんですか?」
「気にしないで、仕事続けていいよ」
椅子の背もたれに両腕と顎を乗せ、にこやかな笑顔を返してきた。
『・・・後ろから視線を浴びていては、落ち着かないんだけど。』ブツブツ言いながらも、ひたすらキーを叩いていた。
それでも、持ち前の意地と根性で、黙々と作業を続けているうちに、もともと集中力がある梢は、あっという間に柿崎の存在を忘れ去った。
どれくらい時間が経っただろう。
打ち込んだデータを処理し終えて、パソコンの電源を落とすと、椅子の背もたれを利用して思い切り伸びをした。
「ん~~~!!終わったーー!!」
「お疲れさん。」
「ーーーーわぁ!!」
誰もいないと思っていた梢は、椅子ごとひっくり返りそうなほど驚いた。
「・・・なにビックリしてんの?」
柿崎はにっこりと微笑んで覗き込む。
少々散らかり気味のデスクの上に、紙コップに入った飲み物を置くと、自分はコーヒーの紙コップを持って、すぐ隣の席に座った。
梢はコーヒーが飲めないのだが、紙コップの中身は紅茶だった。
コーヒーが飲めないことを知っているのは、同期の千佳子くらいだが、なぜ柿崎が・・・っと思ったが、やはりトキメキの方面に向かない梢は、偶然だろう。と、勝手に脳内完結していた。
「紅茶、ありがとうございます・・・・・まだいらしたんですね?」
「まぁね。」
多少、嫌味っぽく言ってみたのだが、柿崎は気にするでもなくコーヒーを飲んでいた。
梢は諦めたように溜め息を着くと、柿崎が持ってきた紅茶にふーっと息を吹きかけてから、そっと口に含んだ。
『あれ?熱くない・・・』自販機の飲み物は、梢にはかなり熱い。しかし、今持って来た筈の紅茶は飲みやすい温度だった。『自販機の温度調節、変えたのかしら?』梢は不思議そうな顔で紅茶を飲んだ。
それが彼の気遣いであったと気付いたのは、もっと後になってからだった。
「深山。話を聞く気になった?」
「・・・聞くだけでしたら・・・」
梢は、とりあえず聞くだけ聞いてみようと思った。
時刻はもう10時を回っている。柿崎はずっと待っていてくれたのだ。
何故【嫁】なのか。その理由が知りたかった。
普通は【結婚を前提に】お付き合いから始まる筈なのに、いきなり今週末に嫁になれとは、人権無視というか、横暴というか・・・とにかく、梢には柿崎の考えが理解できなかった。
しかし、彼は『嫁のフリでいい』と言っていた。
それくらいなら、話を聞いてみてもいいかもしれない。
さすがの梢も、柿崎の粘り強さに根負けし、態度を軟化させざるを得なかった。
「・・・とりあえず、着替えてこい。帰るぞ。」
「え、あ・・・はい」
どうしてこの人は、こんなにも上目線なんだろう?梢は少しムッとしながらも、まあ、先輩だし、そう言う人なんだろう。ということで、やはり自己完結した。
「遅いよ、深山。」
着替えを終えて更衣室を出ると、柿崎がドアの前で待っていた。
遅いと言われても・・・。結構急いで支度をした梢は、眉間に皺を寄せた。
「腹減ったろ?飯食いに行くぞ」
「せっかくですが、それは、お断りします」
「なんで?」
さすがにイラっとした柿崎が、梢を振り返った。
軽く上げていた髪は、今は下ろされている。すこし地味に思える服装も、彼女らしいと柿崎は思った。
しかし、彼女のこの頑さはなんなんだ?と柿崎が渋面で梢を見下ろすと、梢もまた渋面を柿崎に向けていた。
「二人で食事など、周囲にいらない誤解を生むような行為は、社会人としてするべきではないと思うんです」
「・・・あたま固いねぇ・・・」
「そうでしょうか?」
釈然としない梢の表情に、柿崎は呆れたように半目になった。
『そういえば、食事に誘っても絶対にYESと言わない女だと、加藤が言ってたっけ・・・?』
柿崎は同僚が話していたのを思い出した。
梢はまったく気にする様子もなく、真っ直ぐに柿崎を見る。
ふー。と柿崎が深い溜め息を着くと、無造作に頭を掻いた。
「話を聞く気になったんじゃないの?」
「・・・聞くだけです。ここで伺います。」
間もなく11時となる時刻、会社の廊下で立ち話で済まそうとする梢に、柿崎は実力行使で連れ出すことにした。細い腕を掴んで引っ張った。
「ここじゃ無理。行くぞ。」
「えっ、ちょ、離して!」
梢の高い声が廊下に響く。そろそろ警備員が回る時刻なだけに、大声で騒がれるのは都合が悪い。
腕を引っ張り顔を近づけた。
「うるさいぞ、深山。口塞ぐぞ?」
「ふざけてないで!離してください!!」
「・・・俺は、本気。」
「ーーーやっ!!」
顔が近付き、反射的に反らそうとする梢の小さな顔を、柿崎の大きな右手が包み込んだ。
梢が声を発する前に、柿崎の唇が強く押し付けられた。
「ーーーー!!」
突然の出来事に、梢の思考は停止してしまった。
僅かに残った理性でスーツの胸元を押し返してみるが、離れるどころか、背中に腕を回され、さらに強く抱きしめられた。
有無を言わせない柿崎の行動に、梢は確かな苛立ちを感じた。
歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じた梢は、柿崎の腕から逃れようと必死に身じろいだ。
『何なの、この人!』梢の思考はすでにパニック状態である。
唇が触れている時間が、途方もなく長く感じた。だが、実際はほんの数秒であった。
唇が離れ、すぐ近くから梢を見詰める柿崎は、酷く優しい笑みを浮かべていた。
激しく動揺している梢は、ただ唇をぱくぱくさせる。
「お、静かになったな♪」
「ーーーなっ」
我に返り、震える腕でスーツの胸元を押すと、以外にもすぐに解放された。
梢は、壁に張り付くように素早く離れ、真っ赤に染まった顔で、涙目のまま発した声は酷く弱々しかった。
「な、な、なにするんですかぁ!!」
柿崎の頬を打って、大声で叫んで、痴漢だ!セクハラだ!と叫びたいのに、それ以上声が出なかった。
自分が酷く弱々しく感じた。だが、当の柿崎は全く意に介さない。
それどころか、満足そうに笑っている。
「何って?そうだなぁ・・・味見?」
「あ、あ、あじ、み?」
「うん、なかなか悪くない♪」
冗談めかしてペロリと舌を出されても、梢には、もはや怒りしか湧いてこない。
わなわなと全身を震わせながら、取り落としたカバンを掴み、柿崎を置いて出口へ走って行った。
「おーい!深山ーー!!置いてく気かぁ?」
「柿崎さんのバカーーー!!!」
遂にキレた梢は、大声で悪態をつくとひたすら廊下を走って行った。
思いがけずいいものを見たなぁ。と、柿崎は悪びれもせず、梢の後を追った。
柿崎さん、なかなか思いが通じません。