【番外編】砕けた恋と大きな愛
同期の千佳子ちゃん。彼女の恋を綴ってみました。
入社して配属された営業課。同期は男女合わせて四人。
岡部真弓・深山梢・植村直也・井上千佳子は、朝礼で簡単に紹介されると、指導者を紹介された。
「井上くん、深山くんの二人は、鈴木さんに教わって下さい。鈴木さんお願いします」
鈴木恵子(40)は、女子社員の中で一番の年長で、いわゆるお局であるが、童顔な彼女は実年齢より10歳は若く見える。少々口うるさいときもあるが、物腰も穏やかで仕事ができる彼女は、誰からも頼られる存在だった。
「深山さん井上さん、はやく仕事を覚えて戦力になってね」
優しく微笑む彼女に、緊張していた二人はやっと笑みを浮かべた。
千佳子がオフィスに入って一番に目についたのは、大きな体躯に優し気な笑みを浮かべる男だった。
『かっこいいかも・・・』千佳子は頬を赤らめた。
男は笑顔を浮かべて二人に歩み寄ると、大きな手を梢に差し出した。
「柿崎です。よろしく」
「深山梢です。よろしくお願いします」
梢は差し出された手を握り、大きな相手を見上げて挨拶をした。梢は口元にだけ笑みを浮かべている。
柿崎は、そんな彼女の様子を笑みを深めて見詰めた。
やがてその大きな手は、隣にいた千佳子の前にも差し出された。
「よろしく。」
「あ、あの・・・井上千佳子です!よろしくお願いします!!」
思わず声がうわずってしまったと、千佳子は真っ赤になってしまった。
その顔をみて、柿崎は思わず声を上げて笑った。その顔に、千佳子は心拍数が跳ね上がるのを感じた。
「ははは!元気がいいね、頑張ってくれよ」
そう言って力強く握ってくれた手の熱さに、千佳子は心臓まで掴まれてしまったように、うっとりと見上げた。
『一目惚れって、ホントにビビビってくるんだぁ・・・』千佳子は柿崎の温もりが残る右手を、宝物のように左手で包み込んだ。
その日から、千佳子の頭は柿崎一色になった。
「ねえ、梢ってば!聞いてるの?真弓も!」
「・・・はいはい。」
「聞いてる聞いてる。」
昼休み、千佳子は同期の三人と共に、公園のベンチで食事をとっていた。
廊下でも昼食の間も、千佳子はずっと柿崎の話しばかりしている。
真弓はそれなりに相手をしているが、梢は早く仕事を覚えるために、鈴木から教わった内容をノートに書き留めるのに忙しく返事も適当だ。
「もう!梢ってば!」
「・・・な、なに?」
パンを齧りながらペンを走らせる梢の手を掴んだ。驚いた表情を浮かべた梢は、ようやく千佳子をみた。
「梢、仕事しながらご飯食べたら消化に良くないよ!今は仕事しないで!」
「あ・・・うん、ごめん・・・」
・・・柿崎さんの話しを聞けと?梢は少々うんざりしたが、仕事しながらというのは、さすがに二人に悪いと思った梢は、筆記用具をトートバッグにしまった。
「・・・千佳子が柿崎さんを好きなのはわかったけど、それで千佳子はどうしたいの?」
「・・・え?ど、どうって?」
千佳子は口を開けば柿崎の話しばかりなのだ。ネクタイの色が素敵だとか、コーヒーはブラックが好きらしいとか、今日は目が合ったとか・・・梢にはまったく共感できない内容ばかりだ。それを延々と話したところで何の発展もない。
結局のところ、彼女は柿崎とどうなりたいのか。それを聞いた方が早いだろう。と梢は思った。
千佳子は顔を真っ赤にしてお茶のペットボトルを握りしめた。
「考えてないの?柿崎さんと付き合いたいんじゃないの?」
「つつつつつきあ・・・う??」
千佳子は真っ赤になって慌てふためいている。梢と真弓は、その様子に呆れ返った。
「なぁに?千佳子はプラトニックなままがいいの?」
真弓が二個目のクリームパンにかぶり付きながら尋ねた。千佳子は真っ赤な顔で俯くと、ペットボトルのキャップを閉めた。深く溜め息を吐く姿は、恋する乙女そのものだ。
梢はクスッと思わず笑ってしまった。
「・・・な、なに?」千佳子は平静を装って右隣の梢をみた。
「柿崎さんのリサーチもばっちりなんだし、思い切って食事とかに誘ってみれば?」
梢は事も無げにそういうと、お気に入りの紅茶を飲んだ。
真弓は、口一杯に三個目のメロンパンを頬張りながらうんうんと頷いた。
「そ、そんな事言ったって・・・」
「柿崎さんって、独身なんでしょ?なら遠慮しないでぶつかればいいじゃん!・・・んっ、ありがとう。梢」
500mlの牛乳パックに、直接ストローをさして飲んでいた真弓が、ニコニコしながらそう言いった。梢はティッシュを畳んで真弓の口元のパン屑を拭ってやった。
「・・・千佳子は、まだ新入社員だから声がかけにくいんでしょ?」
梢が紅茶を口に運びながらそう言うと、千佳子は小さく頷いた。
「柿崎さんて外回りしてる事が多いし、他の先輩達にも人気があるから、まだヒヨっこな私が声かけれる雰囲気じゃなくて・・・」
「確かにねぇ」
真弓は食べ終わったものをコンビニ袋に入れて口を縛ると、うーんと背伸びをした。
「じゃあ、千佳子も頑張って仕事覚えて、柿崎さんから信頼されるようになればいいのよ!」
「・・・真弓ちゃん、パン屑ついてるよ。もう・・・簡単に言わないでよ・・・」
「んん?」
千佳子は口を尖らせると、口元にパン屑が付いたままの真弓を恨めし気に睨んだ。
真弓は慌ててコンパクトを開いてチェックしている。
「じゃ、まずは仕事を覚えるのが先ね?」
梢はそう言うと、トートバッグを片手に立ち上がった。
「早く戻って仕事しなくちゃ!私、まだまだ打ち込みが遅いから頑張らくちゃ!」
「・・・そうだね・・・仕事も出来ない女なんて、きっと柿崎さんも相手にしないよね・・・」
頑張る!そう言って千佳子は立ち上がった。
『なんでも柿崎さん中心で回ってるのね・・・』梢は、恋に前向きな彼女を少し羨ましく思った。
「井上、この資料を30部ずつコピーして、第一会議室に持って来てくれ」
「は、はい!」
午後の業務が始まるとすぐに柿崎がやってきてそう言った。千佳子は資料を受け取ると、まるでラブレターでも渡されたように頬を染めてコピー機に向かった。
柿崎さんに頼られる人間になろう!そう決意を固めた千佳子は、その日からがむしゃらに働いた。
入社して一ヶ月が経った頃、先送りになっていた新入社員の歓迎会をする事になった。
居酒屋の二階を営業課で貸し切った盛大なものだった。
千佳子と梢は並んで座り、真弓はその向かいに座っていた。両側からそれぞれ酒を注がれた千佳子は、すでに酔っぱらっていた。
「・・・ちょっと千佳子、大丈夫?」
「ら、らいじょ~ぶ・・・う・・・」
「あ、まって!トイレ行こう!」
吐き気を催した千佳子を伴ってトイレに連れて行くと、嘔吐の間ずっと背中を撫でた。
少し落ち着いた千佳子を、座敷の隅に寝かせた。
眠り込んでしまった千佳子に、冷たいおしぼりを額に乗せた梢は、自分のショールで足下を覆った。
「・・・深山、井上の具合はどうだ?」
覗き込むように声をかけて来たのは柿崎だ。梢は千佳子を起こそうか迷ったが、ぐったりしている彼女が気の毒で、そのまま寝かせておく事にした。
「大丈夫だとは思うんですが、酷く酔っていて・・・今日はもう帰らせてあげてもいいでしょうか?」
梢がそう言って柿崎を見上げると、微笑んで自分を見詰める柿崎と目が合った。
『・・・千佳子が具合悪いっていうのに、なに笑ってるのこの人?』梢は真面目な顔の裏で、柿崎に小さな反感を抱いた。
柿崎が自分に好意を持っている・・・などという発想に至らないのが梢なのだ。
柿崎は千佳子の傍に片膝を付き、おしぼりを持ち上げて顔を伺うと、その方がいいな。と、すぐにタクシーの手配をしてくれた。
フラフラな千佳子を支えてタクシーに乗せると、梢もその隣に乗り込んだ。が、柿崎もさらに乗り込んで来た。
「・・・どうして柿崎さんもいらっしゃるんですか?」
「深山一人じゃ運べないだろう?」
「・・・じゃあ、柿崎さんにお願いしても・・・」
「いや・・・それはさすがにね。まずいでしょ?」
降りようとした梢を引き止め、後部座席の真ん中に押し込むと、柿崎の大きな体が密着した。『・・・狭い・・・どうせなら前に乗って欲しい・・・』窮屈な車内で、梢は小さな苛立ちを覚えた。千佳子の想い人である柿崎と密着している状況が、ひどく落ち着かない・・・。いっそ、千佳子を真ん中に・・・既に走り出しているタクシーの中で、梢は今更ながらそんなことを考えた。
沈黙する二人と酔っぱらいを乗せたタクシーが、商店街の陰に建つ千佳子のアパートに到着した。
千佳子の部屋は三階で、しかもエレベーターが付いていなかったため、柿崎が千佳子を背負って運んでくれた。
『確かに一人じゃ無理だったかも・・・』梢は、付いて来てくれた柿崎に少しだけ感謝した。
泥酔状態の千佳子をベッドに寝かせると、柿崎は手際よく千佳子に水を飲ませた。
「柿崎さん・・・ずいぶん慣れてますね・・・」
「まぁ、これくらいはね。」
感心したように言う梢に苦笑を漏らすと、梢から上着を受け取って帰り支度をした。
「あの、運んで頂いて助かりました。ありがとうございました」
上着を羽織った柿崎は、傍らで見上げてくる梢が帰ろうとしていない事に気が付いた。
「・・・深山、泊まるの?」
「え?いえ、もう少し様子を見たら帰ります。」
「・・・終電なくなるぞ?」
「あ・・・」
時間は11時を回っていた。千佳子のアパートからだと一度乗り継がなくてはならず、そうなると終電に間に合わなかった。
「帰るなら駅まで一緒に行こう」
「・・・いえ、結構です」
「なんで?」
「・・・明日は土曜日で仕事も休みなので、ここに泊まります。」
「ふ~ん。まあ、夜道を歩くよりその方がいいかもな。じゃ、おやすみ」
柿崎はそう言うと部屋を出て行った。
梢はとりあえず千佳子の上着を脱がせ、シャツを緩めてから布団を掛けてやった。
ちらっと時計を見ると、走れば終電に間に合いそうだった。
しかし、足が遅い自覚がある梢は、間に合わないと確信し、ベッドの下で毛布を借りて横になった。
翌朝、始発が動く頃、梢はそっとアパートを抜け出し帰宅した。
「梢!この前はありがとう!・・・迷惑かけてごめんね・・・」
日曜の昼に、千佳子が梢の元まで謝りに来た。梢は部屋に招き入れると、紅茶を淹れた。
「二日酔いは大丈夫だった?」
「そりゃもう・・・地獄の二日酔いだったわよ・・・」
小さめのマグカップに紅茶を注いで千佳子に差し出すと、二日酔いを思い出した千佳子はうんざりとした顔をして紅茶を啜った。
「梢が運んでくれたんでしょ?ごめんね・・・」
「千佳子を部屋に運んでくれたのは、柿崎さんなのよ?」
「ええーー!!」
ふふふっと笑顔でそう告げると、千佳子は期待以上のリアクションで驚いていた。
危うくマグカップを落としそうになっている様が、何とも可愛らしかった。
「千佳子をおぶって階段を上がって、ベッドに寝かせてくれたのよ?」
「ええ~~~!!お、おぶってくれたぁ!!・・・はぁ~~私、ぜんぜん覚えてない・・・」
千佳子は残念そうに溜め息を吐いた。
柿崎さんのあの広い背中・・・覚えてないなんて・・・千佳子は思わず涙ぐんだ。
「ち、千佳子・・・何も泣かなくたって・・・」
「うっ・・・だって・・・だって・・・」
泣き出した千佳子に、梢が困った顔をしてティッシュを渡した。
梢はやはり起こした方が良かったのかと申し訳なく思った。千佳子はその気配を察し、無理に笑顔を作った。
「そ、それよりも、梢は?好きな人いないの?」
「・・・私?」
いきなり話しを振られ、梢は少し首をかしげると、首を振った。
「いまは、恋愛よりも仕事がしたいの。」
「どうして?恋人がいても、仕事できるじゃない」
梢が出してくれたお菓子を口に運び、自分なら柿崎と一緒なら頑張れるだろうなぁと淡い夢を見た。だが、向かい座る彼女の表情は冴えない。
「・・・私、不器用だから、両方は無理よ・・・」そう言って紅茶を口に運び、熱っと口を押さえた。
「?ぜんぜん熱くないよ?」
そう言って、マグカップを口に運んだ。
「・・・ね、ねこ舌なの・・・」
涙目になってる梢をみて、千佳子は思わず笑ってしまった。
梢とは面接時に知り合った。就職難で二年間アルバイトをしていたと、その時聞いた。
張り詰めた表情の梢に、千佳子は興味をそそられ、自分から声をかけた。話してみると、随分印象が違うんだなぁと思ったものだ。
就職が決まり部署も同じだとわかると、二人はすぐに友達になった。
付き合ってみると、梢は意外なところが多かった。
妙に頑固だったり、おっちょこちょいだったり。それは、同性から見ても可愛いものだった。
見た目も可愛らしい彼女が、いまもってフリーだというのは、千佳子には不思議でならなかった。
千佳子のマグカップに紅茶が注がれると、ふわりとダージリンの香りが立ち上る。
そういえば、梢がコーヒーを飲んでいるところを見た事がない。
「そういえば、梢はいつも紅茶のんでるけど、コーヒーとか飲まないの?」
「う~ん・・・コーヒーが体質に合わないみたいで・・・」
「じゃあカフェオレとかコーヒー牛乳なら大丈夫なんじゃない?牛乳はいってるし」
梢は眉根を寄せて顰め面をこさえると、コーヒー牛乳は辛い時に飲むの・・・とぼそっと言った。
「飲むとどうなるの?」
「・・・聞かないで・・・」
顔を背ける梢を見て、余程大変な事になるのだろうと直感した。
悲しい時に飲むってことは、一種の自傷行為なのだろうと結論を下した。
そんな会話をしてからの二人は、それまで以上に仲良くなった。
それから四年。
千佳子も梢も真弓も、それぞれ営業課では欠かせない存在として、機能していた。
柿崎に仕事の資料作成を頼まれる事が多くなり、それが千佳子の自信にも繋がっている。
資料を柿崎に渡した時、思い切って食事に誘った。
「あ、あの、柿崎さん!」
「ん?どうした?井上。」
資料の確認をしていた柿崎は、書類をよけて千佳子を見下ろした。
「こ、今夜、お時間ありますか?」
「ん?今夜?・・・大丈夫だけど、なに?」
千佳子は心拍数が危険値にまで跳ね上がるのを感じていた。顔も急速に熱を持っている。
死ぬんじゃないかと思うほどの緊張に、足が小刻みに震えた。
「あ、あの・・・お、食事に・・・いきませんか?」
「食事?みんなでか?」
「い・・・いえ、ご、ご迷惑でなければ・・・二人だけで・・・」
「ん?」
柿崎は小さくなって震えている千佳子を見下ろしながら、少し考えた。
「いいよ。どうせなら飲みに行くか?」
「え!は、はい!!よろこんで!!」
「大げさだなぁ。じゃあ、六時に。そうだな・・・会社の前の公園でどうかな?」
「はい!」
天にも昇る気持ちとはこう言う気分なのか!千佳子はウキウキと仕事を片付けた。
その様子をみて、梢は嬉しそうに目を細めた。
「じゃ、お疲れさん!」
「お、お疲れさまです」
ビールのジョッキをカチンと合わせると、柿崎は旨そうにぐいぐいとジョッキを仰いだ。
男らしい飲みっぷりに、千佳子はうっとりと見詰めていた。
食事の変わりになるような品が運ばれてくると、二人はそれぞれ箸を進めた。
「仕事は面白いか?」
柿崎はつくねを食べながら話しを振った。千佳子がまったく喋らないからだ。
「あ、はい。日々学ぶ事が多くて、とてもやりがいがあります」
「そうか、事務っていっても、俺たち外回りの営業には大事な存在だから、頑張ってもらわないとな」
「は、はい!頑張ります!」
柿崎がビールの残りを煽ると、ニッと笑った。千佳子はその笑顔に頬を染めた。
「・・・ところでさ、井上は深山と仲がいいけど、人付き合いってどうなんだ?」
「梢?どうしてですか?」
「ん?いや・・・あんまり飲み会とか来ないし」
「ああそうですね・・・彼女、恋より仕事に生きるみたいですよ?」
お代わりのビールを飲みながら、柿崎は興味がなさそうにへぇと相づちを打った。
酒が進むうちに、千佳子の舌も滑らかになり、柿崎に誘導されるまま梢の情報を話していた。
「それでね、梢ってば猫舌でぇ、ぬるぅいのじゃないと飲めないの!コーヒーは牛乳を入れても飲めなくて、飲むと大変なことになるんだそうです。」
「・・・大変な事?」
初めて興味をそそられたフリをして身を乗り出すと、千佳子は秘密を暴露するようにテーブルに身を乗り出した。
「私は、一種の自傷行為だと思うんです!」
「自傷行為?コーヒー牛乳で?」
「はい!だから、梢がコーヒーを飲もうとしたら、それは精神的にダメージがあるときだから、全力で止めなきゃ駄目です!」
「・・・なんだかなぁ?」
呆れた風を装い、それは重要な事だ。と頭に刻み込んだ。
「他にはないか?」
「ん〜他には・・・何もないところでよく躓くことくらいかな?」
「ぷっ。そう言えば、たまにコケてるな」
柿崎が思い出したように吹き出すと、千佳子は初めてムッとした顔になった。
「どうして柿崎さん、さっきから梢の事ばっかり聞くんですか?」
「え・・そうか?」
「そうですよ!・・・私のことはちっとも聞いてくれない・・・」
酔いが回っているのは千佳子も自覚がある。しかし、柿崎が自分から何を聞きたいのかを察して、悲しくなって来た。
柿崎は・・・梢が好きなんだ・・・
千佳子は巨峰サワーを一気に飲み干すと、乱暴にテーブルに置いた。
「梢のこと・・・もっといろいろ知ってるけど、もう教えてあげません!!失礼します!!」
「あ、おい!井上?!」
千佳子はカバンを掴むと、ふらつく足取りで居酒屋を飛び出した。駅までの道をつかつかと踵をならして歩く間、千佳子の目からは涙が溢れて止まらなかった。
「お、おい井上!待てって!!」
柿崎が会計を済ませて後を追って来た。腕を掴まれてときめく自分が虚しくなる・・・
「離して下さい!」
「井上・・・」
仕方なく腕を離すと、千佳子は涙で一杯の目で柿崎を見上げた。
「私も柿崎さんに伺います!」
「・・・なんだ」
「・・・梢が・・・好きなの?」
「・・・・・・・・・・・・ああ」
柿崎は小さく呟くように認めた。千佳子は涙を拭うと、ウォータープルーフマスカラで良かった。と、関係のない事でほっとしていた。
「梢・・・ホントはすごい天然だから、大変ですよ?」
「・・・・・・そうか」
柿崎の控えめな笑顔を見て、千佳子は完全に希望が絶たれた事を知った。彼の心は、始めから梢のところにあったのだ。
それなのに、自分と飲みにきて・・・梢の事を聞いてくるなんて・・・なんて酷い男なの・・・
涙が止まらない・・・酷い男だと罵ってやりたくても、やはり柿崎の事が好きだった。
「梢の事は、本人に聞いて下さい!」
千佳子は踵を返し、そのまま走り去った。
翌朝、オフィスで梢に会っても、いつものように笑えなかった・・・
いつもの場所でランチを取りながら、食事に行ったのだと告げると、二人はとても祝福してくれた。
・・・彼は梢が好きなのに・・・
千佳子は胸が苦しくなり、その日以降、梢を避けるようになった。
いつものランチも、用があるからとごまかし、その内声をかけられる前に逃げ出すようになっていた。
梢が困惑しているのはわかっていたが、今は独りになりたかった・・・
ひと月の間、同僚や友達とショットバーや居酒屋で飲んだ。しかし、いつの間にか独りで飲みに行くようになっていた。
柿崎からハッキリと振られたわけじゃない。だから余計に辛い・・・千佳子はバーテンダーにカクテルの追加を注文した。
「・・・隣、いい?」
「・・・え?」
ショットバーのカウンターで飲んでいた千佳子に声をかけて来たのは、経理課の斎藤満だった。
一度、合コンであった事がある。真面目そうな彼が、どうしてこんなところにいるんだろう?千佳子はぼんやりとした顔で、眼鏡の向こうで微笑む男を見詰めた。
「・・・こんな酔っぱらいの隣で良かったら、どうぞ。」
そういうと、斎藤はありがとう。といって隣のスツールに腰掛けた。ネクタイをきちんとしめたビジネススーツがやけに浮いて見える。
「井上さん、どうして一人で飲んでるの?」
「・・・別にいいじゃない・・・」
千佳子は唇を尖らせむっつりとカクテルを啜った。そんな千佳子の横顔を、斎藤は優しい眼差しを向け見詰める。
「井上さん、彼氏・・・いる?」
「・・・なんですか?薮から棒に。」
千佳子は眉間に皺を寄せて、さらにムッツリするとカウンターに俯せた。
聞いてほしくなかった。特に今は・・・我慢していても涙が溢れてくる・・・
カウンターに俯せたまま鼻をすする千佳子の髪を、斎藤は静かに撫でた。
「・・・・失恋したの?」
「・・・そーですよ。告白する前に玉砕したんですっ。笑うなら笑って下さいよ」
自棄になってそういうと、髪を撫でていた手がとまった。
「・・・・笑ったりしない・・・ねえ、顔をあげて?」
斎藤は千佳子の耳元に顔を寄せて囁くと、千佳子はようやく斎藤と目を合わせた。
泣きはらした目は、すっかりマスカラが滲んでパンダのようだ。
「・・・なんなんですか?」
むすっと言い放つと、カクテルグラスの淵についた塩を舐めて、ソルティードッグを一気に仰いだ。
正直、酒量は限界値を超えていて、いつでも吐ける自信があった。
苦いものを噛んだように顔を顰める千佳子に、斎藤は穏やかに告げた。
「・・・俺・・・井上さんが好きなんだ」
「なにそれ・・・馬鹿にしてるんですか?」
千佳子はムスッとそう言うと、ふらりと立ち上がった。ふらつく足取りで会計を済ませると外へと出た。
風が気持ちいい・・・
千佳子は千鳥足で地下鉄へ向かう。斎藤は急ぎ足で千佳子を追って来た。
腕を掴まれ、めんどくさそうに見上げると、その華奢な体がぎゅっと拘束された。
「・・・・な、なんですか?!」
「俺と付き合ってくれないか?」
「・・・・・・なんで?」
千佳子が見上げると、斎藤は頬を染めて微笑んだ。
「・・・合コンからずっと、好きだったんです・・・」
そう言って唇を重ねた。千佳子はただ口付けを受けた。
一筋溢れた涙を拭った斎藤は、もう一度千佳子の瞳を覗き込み、答えを待った。
千佳子はぼんやりと斎藤を見上げる。
「・・・振られてぐだぐだな所なんて・・・見られたくなかったわ。」
そういうと、ぷいっとそっぽを向いた。斎藤はにっこりと笑むと、素のままの君が好きなんだ。と抱き締めた。
その胸がとても暖かかった。聞こえてくる鼓動が跳ね回っている。
千佳子はその胸に縋ると、一目も憚らず泣いた。
小さな子供のように声を上げて泣きじゃくった。
斎藤は、千佳子が泣き止むまでずっと抱き締めてくれていた。
ようやく落ち着いた千佳子が、恥ずかしくて顔を上げられずにいると、斎藤がもう一度想いを告げた。穏やかな声音が千佳子の胸にストンと入り込む。
「・・・物好きですね」そう憎まれ口を叩く千佳子に、「貴女が相手なら、悪くないと思いますよ?」そう言って、額に口付けた。
その日をきっかけに、千佳子は斎藤と付き合い始め、そして一ヶ月経った頃には一緒に暮らしていた。
あれだけ柿崎に拘っていたのが嘘のように、千佳子は満ち足りた私生活をおくっていた。
心残りは、自分の嫉妬から梢を避けて来ていた事だ。
このままじゃ、駄目だよね・・・ちゃんと会って謝ろう・・・
そして、自分を愛してくれる彼と、来春結婚するのだと伝えよう。
梢はきっと、満面の笑顔を浮かべて祝福してくれるだろう。
その笑顔は、容易に想像ができた。
梢には幸せになってほしい・・・きっと、柿崎さんが梢を幸せにしてくれるはず・・・
千佳子は、頑な友人がどうか幸せでありますようにと心から祈った。
柿崎氏、好きな女以外眼中なし。(鬼畜め☆)
だいぶ修正しました。