出張−9
梢は凛と背筋を伸ばして本橋に対峙した。その目からはもう迷いが消えている。
「・・・参ったな・・・仲いいんだね」
本橋は呆れたように溜め息を着くと、無造作に頭を掻いた。その仕草は、昔から困った時にする彼の癖だ。
「・・・じゃ、本題に入りますか」
本橋はそう言うと、持っていたカバンから一枚の紙を取り出すと、柿崎が横たわるベッドの上に書類を乗せた。
梢がその書類を覗き込んだ。
「・・・これは?」
手に取ると、それは示談書だった。
事件発生日時や場所のほか、事件の状況が書かれている。
=====<事件の状況>======
・乙が甲を殴打したことにより、甲は傷害を被り全治2週間の加療を要した。
・第二条
乙は甲に対して与えた損害に対する責任を認め、慰謝料として金30万円を甲に支払うこととし、一括で支払うものとする。
・第三条
本示談以外に甲乙間においては何らの債権債務のない事を確認し、今後一切の請求をしない。
以上の通り示談が成立したので本書二通を作成し甲乙各一通を所有する。
==================
最後の被害者(甲)には、川村冴子の名前と判が押してあった。
ということは、乙というのが自分なのか・・・複雑な心境だ。
正式な書類を初めて目にし、梢は自らの考えが甘かった事を思い知った。
自分の方が被害者にも関わらず、やってもいない事に対して謝罪し慰謝料を支払う・・・あまりにも理不尽な現実だった。
真っ青な顔をしている梢から書類を取り上げたのは登紀子だった。
「・・・あらまぁ、なんて図々しい・・・」呆れたように呟くと、本橋に顔を向けた。
「示談はいたしません。そちらこそ、被害届を取り下げるよう説得なさった方がよろしいのでは?」
登紀子が厳しい表情で示談書を押し返すと、本橋は気にするでもなく口元だけの笑みを浮かべ、別のファイルを開いた。
「そうですね、裁判になれば、こっちが不利になる内容ばっかりなんですよね。証拠はすでに警察によって回収されていますし、警備員からの聞き取りも済んでいるそうだし。診断書も偽装だったようですし・・・まあ何と言うか、被害届は出したもん勝ち的なところがありますからね・・・」
「・・・それで刑事告訴まで持って行くっていうのは・・・ちょっと乱暴な話ね」
本橋は肩を竦めた。
「もっともです。・・・ぶっちゃけると、川村氏は柿崎氏を気に入ったようなんです。いずれ政界に出るために彼を後継者にしたかったんでしょう。その手始めとして娘の婿にしようと考えた。で、柿崎氏の恋人の存在が知れた時、その恋人が梢だったので、僕が名乗り出たんです。梢と寄りを戻した振りをして、柿崎氏から遠ざけるからって。そう言ったんですが・・・お嬢様は我慢が出来ない人でして・・・」
本橋は事も無げに暴露した。驚いたのは登紀子の方だ。
「・・・クライアントとの内容を話しちゃっていいの?」
「弁護士としては最低です。」
・・・ですが。と、本橋は右の中指で眼鏡を押し上げた。先ほどとは違い、優し気な笑みを浮かべて梢を見た。
「あんなキスシーンを恥ずかし気もなく見せつけられちゃ、僕の出番なんてないでしょう?」
あはははと本橋は愉快そうに笑った。梢は耳まで真っ赤になって、その原因を作った男を睨んだ。
「・・・確かに、ビックリしたねぇ」真が吹き出した。
「まったく・・・我が息子ながら、異常な程の独占欲ね。」登紀子は首を振った。
「・・・恥ずかしかったです」
「愛じゃん。」平然と言って退ける柿崎を、梢と登紀子が同時に睨んだ。
彼らのやり取りを見ていた本橋は、人懐っこい笑顔を浮かべて眺めると、示談書を黒いカバンの中に戻した。
「本当は脅してでも示談させろって言われてたんですが、ろくな結果にならなそうなんで、止めときます。」
「あら。随分殊勝だこと。」
登紀子が嫌味を含んでそう言うと、本橋が呆れたように半目になった。
「どこぞの誰かが、まだ内密だった川村氏と有力政治家との黒い関係をマスコミにタレ込んだからですよ。」
「へぇ〜そんな事があったんだぁ」
「タレ込みがなくたって、いずれすっぱ抜かれたんじゃないの?」
真と登紀子は顔を見合わせて頷きあっている。
『・・・あんたらじゃないのか?!』本橋はのど元まで出かかった言葉を、口をへの字にして飲み込んだ。
バチンと音を立ててカバンを閉じると、機能的な黒カバンを重そうに持ち上げた。
登紀子が腕組みを解いた手を腰に当てた。
「クライアントに逆らって大丈夫なの?」
「最悪クビでしょうね。」
「ずいぶんアッサリしてるね?」
真がベッドに腰掛けて本橋を見上げた。
「・・・地検が動いてるみたいだし、この辺が引き時かな?って思ってたんで、いいんです」
それに。と梢をみた。
「この作戦(?)が失敗すればクビだって言われてたし。梢、俺の事忘れてたみたいだから、クビ決定かな?って思ってはいたんだ」
「え?・・・・・ああ!」
梢は少し考えると、処置室で会った人物が彼であると初めて気が付いたのか、大きな声を上げた。
登紀子達が一斉に梢を見た。
「・・・いま気が付いたの?・・・地味に傷つくなぁ・・・」
本橋は前髪を掻き揚げて天井に嘆息した。
「あ、あの・・・ごめんなさい・・・夢かと思ってた・・・」
「あ~~もういいよ。梢らしいしね」
そう言って笑った。懐かしい笑い声に、梢も微笑んだ。
「・・・なんだ?」
急に親し気になった二人を、柿崎が不機嫌そうに睨むと、梢は処置室での事を話した。
目が覚めたら本橋がいて、頭を撫でてくれたと。
「・・・頭を撫でた?他には何もしてないだろうな?!」本橋を睨んだ。
「ふふふvそれはど~かな~♪」っと、本橋はにやりと笑う。
「じょ、冗談はやめてください!!」梢は真っ赤になって声を上げた。
口をへの字に曲げた柿崎は、梢の腕を掴むと体を起こした。
「梢!もうちょっとこっち来い!」
ぐっと顔が近付いてきて、梢は慌てて柿崎の顔を押し退けた。
「な、何する気ですか!?嫌ですーー!!」
力では敵わないものの、梢は腕を突っ張って必死に抵抗した。
じゃれあう二人を見て小さな溜め息を吐くと、カバンの持ち手を握り直した。
「さぁて、これ以上ここにいると、馬に蹴られそうなんで失礼します。これから川村親子を説得なきゃならないしね。」
「あ、あの・・・本橋さん・・・」
心配そうな梢の顔に、心配いらないよ。と笑顔を浮かべ出ていた。
本橋が、被害届が無事取り下げられたと伝えに来たのは、そろそろ面会時間が終わろうかという頃だった。
そしてもう一つと、茶色い封筒を梢に手渡した。
中身は、新たな示談書だった。
今度は乙の部分に川村冴子の署名と捺印がしてある。
「よくあのお嬢様が納得したわね!!」
登紀子は書類をしげしげと眺めて感心した。
「それはもう、脅してすかして」肩を竦めてニヤリと笑った。
「・・・十分染まっちゃってるみたいね・・・」
その手際に、登紀子はやっと表情を緩めた。
「クビになったらうちの事務所で働く?」と、登紀子が珍しい程の愛想を見せると、真が珍しくムッとした顔になった。
「こんなイケメンくんが事務所にいたら、僕心配で仕事にならないよう!」と、登紀子を背後から抱き締めた。
「あら!私は真さん一筋よ!」
「ホント〜?」
登紀子は頬を染めて背後の真を見上げた、真も登紀子の顔を笑顔で覗き込んでいる。息子の事を非難できないほど、この夫婦も仲睦まじい。
「・・・お、お気持ちだけで結構ですから・・・」引きつった笑顔でそう言うと、病室に初めて笑いが溢れた。
「じゃ、名前と判をここに。」
「・・・はい。」
梢は、よもや印鑑がこんなところでも役に立つとは皮肉だと、内心複雑だった。
「それから、梢の治療費もこっちで持つから、診断書をここに送ってね」と名刺を出した。
「・・・そこまでは・・・」言いかけると、梢から名刺を取り上げ裏を返した。
裏には【いつでも連絡して】とメッセージ付きで、表と違う番号が記してあった。
柿崎の眉間に皺が刻まれる。
「・・・これ、あんたの携帯番号?」
「・・・まあね。」
無言で握りつぶした。
「あー!ちょっとちょっと!!なんで握りつぶすよ!!」本橋は慌てて取り返そうとして、かわされた。
「やかましい!俺の女にちょっかい出すな!」
「・・・ゆ、裕一郎さん、大人気ないですよ?」
「何とでも言え。」
丸めた名刺をポイッとゴミ箱へ放り投げると、ぷいっとそっぽを向いた。
「・・・梢、いつでも俺んとこに戻っていいからね」
そう言って、もう一枚名刺を渡した。今度は取られなかった。
実はそっちにも番号が記してあるとは、さすがの柿崎も気が付かなかった。
「・・・啓哉・・・」
梢が困ったように笑うと、登紀子が得意げな笑みを浮かべて一歩前に出た。
「残念だけど、梢さんは駄目よ!」
「どうしてですか?」
「梢さんは、もううちのお嫁さんだから♪」
「ーーーえ?!」
本橋は固まっていた。
「え・・・でも、名字違うし・・・」
「あ、あの・・・まだ入籍とかは・・・してなくて・・・」
「なぁんだ!じゃあまだ俺にもチャンスはあるね!」
「ーーーーない!」
「きゃっ!」
柿崎は苦いものでも噛み潰したような顔で梢を抱き締めた。
「おまえ、もう帰れよ。」
「はいはい。わかりましたよ」
「もう!柿崎さんってば!!離して!!」
腕の中でもがく梢を、本橋は複雑そうな笑みで見詰める。
「やれやれ、それじゃ俺は帰ります。お二人ともお大事に。」
「あ・・・啓哉、ありがとう・・・」
背中を向けて手を振ると、病室を出て行った。
「あ〜あ・・・自業自得・・・かな・・・」
廊下を歩く本橋の背中は、どこか寂し気に丸まっていた。
その翌日、柿崎夫妻が宮城に戻り、梢はもう一泊するように篠山に言われたが、梢が退院するまで一緒に居たいと告げると、篠山からはあっさりと許可が下りた。
それから三日が経ち、経過も良好だという事で退院が決まった。
梢は柿崎と共に帰路についた。
「今度は遊びにこよう」柿崎は、飛行機の中で梢の手を握ってそう言った。
思わぬ災難と出会いに、散々だった梢の出張はこうして終わりを告げた。
後日、新聞やテレビは、川村氏と有力政治家の逮捕をこぞって報道した。
やっと出張編終了です・・・。
思った以上に長引いてしまいました。
一部修正しました。