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嫁ですがなにか?!  作者: 暁
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出張-8



梢は呆然と目の前の男に見入った。



ーーー本橋啓哉もとはし ひろや。嘗て、梢が愛した男・・・



梢の脳裏には、切なくなるほど愛しい日々がフラッシュバックする。燻らすタバコの香りさえ鮮明に思い出せた。



「・・・啓哉・・・」その名を口にするだけで、涙が出そうになる。



梢はぎゅっと唇を噛んで涙を堪えた。



「なに?梢ちゃん、知ってるの?」


真が不思議そうに訪ねた。登紀子もまた、訝し気に振り返った。

梢は努めて平静さを装っていたが、男と目が合うと視線が辺りを彷徨った。


「・・・あ、はい、あの・・・大学のときの・・・先輩で・・・」


梢は居たたまれず視線を落とすと、そのまま俯いてしまった。





父のリストラで在学が危ぶまれた時、学費を工面するためアルバイトに明け暮れたあの頃。

朝から晩まで働き通せたのは、彼がいてくれたから・・・梢は今もそう思っている。


だが、逢う時間も無くなった中で、いつしか彼の心は放れていった。

久しぶりに会った夜の公園で、彼が静かに別れを告げた。



『・・・君は一人でも生きて行けるよ』思っても見なかった言葉。




言葉の衝撃に打ちのめされ、一言も言葉を発する事が出来ずにいた彼女を残し、一度も振り返る事なく去って行った。



『違う・・・貴方がいたから・・・わたし頑張れたのに・・・』



一人残された梢は、ただ泣く事しかできなかった・・・

枯れる事を知らない湧き水のように、涙は夜毎梢の頬を流れた。




大学に行けば逢えるとわかっていても、逢いに行く勇気がなかった。

生きている事すら苦痛だった日々に耐えきれず、アルバイトを増やしてひたすら働いた。



朝はビジネス街の喫茶店・昼は弁当屋の配達・コンビニの店員・ビルの清掃・・・早朝から深夜まで、寝る間を惜しんで働いた。大学を留年する事なく卒業できたのはまさに奇跡だった。





前に進むために、愛しかった日々を記憶の底に追いやった。





この頃は思い出す事もなくなった。それは柿崎の存在が大きいのだと、今ならはっきり言える。




・・・・なのに・・・・





・・・なぜ、いまさら動揺するんだろう・・・





梢はぐっとシーツを握った。






「・・・梢・・・」


自分の手の中に収まる小さな手が、微かに震えながらシーツを握りしめたのがわかった。


柿崎は、きつく唇を噛む梢を心配そうに見詰める。彼女の様子を見れば、この男が嘗ての恋人である事は一目瞭然だ。


夜の公園で泣いていた姿が浮かび、柿崎は奥歯を噛み締めた。



あの頃の自分は、何もしてやれなかった。声をかける事も、傍で支えてやる事も・・・・

だが、いま自分は彼女の傍にいる。手の届くところにいる。



柿崎が小さな手をしっかりと包み込むと、それに気付いた梢が振り向き、僅かに微笑んだ。


『・・・なんて顔してやがるんだ・・・』柿崎は、梢の痛々しい笑顔に眉根を寄せた。



紺地に細いストライプが並ぶスーツを着た男は、重そうなカバンを片手にへらっとした笑みを浮かべた。


「やだなぁ先輩だなんて他人行儀な。恋人って言ってよ♪」

「ーーーーっ!」


男の言葉に、梢の顔がかぁと赤くなった。その反応に柿崎はムッとしたが、真は興味をそそられたように目を輝かせた。


「へえ、そうなんだぁ♪・・・おっと。」


真は、好奇心を剥き出しにした顔で梢の方を振り返ると、鬼の形相をした息子に睨まれた。

梢を見ると、酷く戸惑った顔で視線を彷徨わせている。


「・・あれ・・・なんか、ごめんね・・・?」真は小首を傾げつつとりあえず謝ってみた。

「い、いえ・・・昔の事です・・・」梢は俯いて赤い顔を隠した。


「え~!冷たいなぁ!」


彼女の反応を楽しむように、男は軽口を叩く。


梢は再び唇を噛んで俯いた。真は何か思案するように、梢と恋人を名乗る男を見比べた。

『・・・なるほど』真は、彼が現れた真の目的を理解し、厄介な事になりそうだと眉根を寄せた。





「・・・それで?誰なんだよお前は。」


柿崎は不機嫌さ隠そうともせず男を睨んだ。男は降参とでも言うように、片手をひらひらさせた。


「ああ、失礼しました!石館いしだて法律事務所から参りました本橋啓哉もとはし ひろやといいます。弁護士で、梢の元カレです♪」


「・・・弁護士?」

「はい。お見知りおきください」


本当か?というように片眉を上げる。本橋と名乗る男は、さらに嘘くさい笑みを浮かべて眼鏡を直した。




柿崎は改めて眼鏡の男に視線を向けた。

ダークブラウンに染めた髪が僅かに肩にかかる長さで、弁護士というよりホストといった風体だ。

『うちのチャラい高橋といい勝負だな。』柿崎はふんっと鼻を鳴らした。



柿崎は、目の前の男への評価がさらに下がるのを感じ、睨まれた男はわざとらしく肩を竦めた。






「それでは、お話を伺いましょうか。」


頃合いを見ていた登紀子が、腕組みをした格好でその場を仕切った。

弁護士はクスッと笑うと、困ったように眉を下げた。


「・・・できれば、梢さんと二人でお話したいのですが。」


本橋の言葉にビクッと身をすくめると、柿崎の手の下でぎゅっと拳を作った。


その様子に苦笑いを浮かべ、一歩室内へ足を進めた。

梢の表情が強張っているのがわかる。今更何を話そうというんだろう・・・梢の戸惑いは誰の目にも明らかだ。



「僕らがいては都合が悪い話でもなさるんですか?」


本橋の行く手を遮るように立ちふさがったのは真だった。スラックスのポケットに両手を突っ込み、上目遣いに本橋を見据えた。一見温和そうに見える顔だが、その目は厳しい色を隠そうともしていない。


「いえいえ、梢さんに幾つか伺いたい事と、お伝えしたい事があるだけで、お手間は取らせませんから。」


本橋は真の視線を受け流し、己の主張を曲げなかった。それどころか、感情のこもらない笑みを浮かべている。


登紀子は嫌そうに顔をしかめた。そして、本橋という若い弁護士を検分する。

まだ若いのに、服装や身のこなしに隙がない。川村とは随分付き合いが長そうだ。会社関係というより裏の仕事絡みだろう。どちらにしても胡散臭い。と、登紀子は結論を下した。


その男が梢と恋仲だったという。川村はそれを知っててこの男を寄越したのかしら・・・?

登紀子は駐車場で会った川村を思い出し、もし彼の指示であるならば、かなりの曲者だと思った。




「失礼ですが、それは承服できません。」


登紀子が凛とした声でそう言うと、真と並んで本橋に対峙した。

検事と弁護士の威圧感は相当なものだが、本橋は気にする素振りも見せない。むしろ、慣れている感じさえ受ける。



「・・・困りましたね。僕はそんなに信用できませんか?」


傷つくなぁ。と、大げさに溜め息を吐いた。


「うん。僕たち用心深いから」真が冗談めいた口調で切り替えす。

本橋はわざとらしく肩を竦めると、梢に視線を向けた。その眼差しに暖かさは感じられなかった。


「僕は、久しぶりに彼女と話がしたいだけなんです。」

「・・・・啓哉・・・」掠れた声がその名を紡ぐ・・・




「・・・話ならここでも出来るだろう」


柿崎は梢の手を握ったまま、苛立ちを含んだ声を発した。

梢は困惑の色を深め男を見上げていた。一向に助けを求めてこない梢に苛立ちを覚えた。


梢のこんな顔をこれ以上ヤツに見せたくない。

本当なら、今すぐ本橋を(両親ごと)放り出し、梢を思う存分(?)翻弄したい。腕の中に閉じ込めて離したくない。


その衝動を、梢の手を握る事で堪えた。




梢に傷害の容疑がかけられているこの状況で、嘗ての恋人が現われた意味・・・それは恐らく、梢に示談させるためだろうということは、容易に想像できる。



この男は、梢の元恋人だ。二人になれば、頑にみえる梢も簡単に懐柔されてしまうだろう。

示談にはさせない!柿崎は改めて梢を守る方法を考え始めた。



ぐうの音も出ない方法が、何かある筈だ。考えろ。柿崎は、さらに深い皺を眉間に刻んだ。




本橋は、意味ありげな笑顔で梢を見詰めた。


「深山さんは、どう思っているんですか?」

「・・・・・え?」


ビクッと肩を竦めた。本橋は、梢が見た事のない顔で笑みを浮かべている。


「皆さんの意見はわかりました。ご本人である深山さんの意見を聞かせて下さい。」


感情の籠らない薄っぺらい笑顔が悲しかった。




『深山さん・・・』彼に名字で呼ばれたのはいつ以来だろう・・・?そんな事をぼんやり考えた。




「・・・・わ、たしは・・・・」


梢は口籠り俯いてしまった。

本音を言えば、本橋と話がしたい。どんな内容でも、彼ともう一度話がしてみたかった。





しかし・・・





自分が知っている本橋は、上辺だけの笑顔を浮かべるような男ではなかった。

いつでも、誰に対しても誠実だった・・・だが、目の前の男は梢の知っている彼とは思えなかった。




嘗ての恋人に感じるのは、懐かしさよりも恐怖感だ。




「・・・梢」


俯いて返答に困っていると、柿崎が頬に優しく触れた。指先まで暖かい手に導かれ、柿崎の顔を見た。

不機嫌かと思いきや、その眼差しは優しく梢を包み込む。


唇が何かを呟いたが、梢には聞こえなかった。


「・・・裕一郎さん?」

「・・・・・・・・・」再び唇が動く。

「・・・・・なんですか?」


思わず顔を寄せると、小さい声で囁く。


「・・・もうちょっと、近くに・・・」

「・・・?」


内緒話でもするのかしら?と梢が身を乗り出すと、唐突に唇が重ねられた。


「ーーーーーんっ!」


驚いて身を引こうとしても、後頭と腕を掴まれ身動きがとれない。梢が戸惑っている隙に、熱い舌が歯列を割って縮こまっている舌を絡めとって吸いつく。


「・・・う・・・ん・・・ふぅ」


病室にあり得ない水音と甘い吐息が満ちる。逃れようと顔を背けるも、すぐに追いつかれて唇を塞がれる。

いつの間にか、梢の腰に腕を回し覆い被さっていた。


その場にいた全員が、突然のキスシーンに呆気にとられた。

一瞬、ここが病室である事を忘れ、気を利かせようかと思ってしまった。



「〜〜〜〜いい加減にしなさいよ!裕一郎っ!」登紀子が業を煮やして口を出した。


名残惜しそうに唇が離れると、梢がはぁと息を吐いた。潤んだ瞳が男の姿を映す・・・途端に梢の顔が真っ赤になった。それは、すでに見慣れた自分だけが知る表情かおだ。


柿崎はじっくりその顔を見詰めると、書類でも確認するように「よし。」と呟いた。

梢は僅かに腫れた唇を尖らせ、憎らしいほど余裕の笑みを形作る唇を思い切り抓った。


「何が“よし”なんですか?!」

「い〜〜〜でででで!!何すんだよ!」



力一杯抓る細い指を離そうとするが、より力が籠って痛みが増す。

さっきまでの憂い顔から一転、静かな笑顔に怒りが滲んでいた。


「・・・裕一郎さん。いまこの場でこのような行為に及ぶ理由を、速やかにご説明頂けますでしょうか?」


ギリギリと唇を抓る。かなり痛い。

細い手首を掴み、わかったから放せ。と言うとようやく解放された。


「さあ、伺いましょうか?」


梢は居住まいを正すと、真っ直ぐに柿崎を見据えた。


「おまえが・・・いつまでも・・・俺以外の男を見てるからだろう。」


柿崎はムスッとした顔で梢の頬を撫でた。梢はキョトンとした顔で見詰め返すと、呆れたように溜め息を着いた。


「・・・仰ってる意味がわかりません。」


そう言ってぷいっとそっぽを向いた。それでも、頬に触れる手を振りほどく事はしなかった。

どこまで俺様なんだろう。梢はそう思いながらも、暖かい手に自分の手を重ね、仕方なさそうに苦笑いを浮かべた。



方法はこの際置いておくとして、柿崎の突拍子もない行動のお陰で、いつもの自分を取り戻せことに感謝した。梢は本橋に向き直ると、先ほどまでの動揺は消え去り、強い意志を含んだ目で見上げた。




「本橋さん、お話でしたらこの場で伺います。」



「・・・・・・・・・・・・」



いきなり濃厚なキスシーンを見せつけられた本橋は、言葉が出てこないのかぽかんと口を開いたまま立ち尽くした。






・・・梢ちゃん、置いとくとこ違うよ?

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