出張−2
柿崎が仕事で北海道へ向かって丸二日が経った。
毎日連絡すると言っていたわりに、初日から音沙汰なしなのは拍子抜けだ。と思いつつ、彼は仕事しに行っているのだ。接待もあるだろうから、連絡が出来ない事くらいどうという事はない。
・・・筈だった。
仕事しに行っていると分かっているのに、胸の奥がもやもやする。これは一体なに?梢は自分の感情を持て余して落ち着かない。仕事も、さっきからミスばかりしてる。らしくないっ!
梢は小さく溜め息を着くと、気分転換にお茶汲みに行った。本来なら新人の仕事である。ついこの間まで指導していた新人の岩崎香奈が、慌てて席を立ってやってきた。
オフィスの片隅に、給湯室と呼ぶには簡易的すぎる一角がある。目隠し程度に衝立てが置いてあるそこは、いつでも自由にお茶やコーヒーが飲めるように全てが揃っている。
ここで柿崎に『俺の嫁になれ』と言われたのだ。もう随分前のような気がする・・・梢は独り苦笑いを浮かべた。
「深山先輩、気が付かなくてすみません・・・」恐縮する香奈に、梢は他にも出したいから手伝ってもらえる?と優しく微笑んだ。
梢は課長愛用の湯のみを取り出すと、急須にお湯を入れ少し温めてから、お湯を湯のみへと移した。
暖まった急須に茶葉を入れ、熱いお湯を注ぐと蓋をして蒸らす。
湯のみのお湯を捨てると、ゆっくり煎茶を注ぎ入れる。
「課長、お茶です」課長のスッキリと片付いているデスクの、邪魔にならないところに湯のみを置いた。
「おお!ちょうど飲みたかったんだ!ありがとう」
課長は嬉しそうに微笑んでお茶を啜った。旨そうにお茶を飲む課長を見て、梢は少し気分が和らいだ。
香奈ともう一人の新人、斎藤佐和子と三人で手分けをし、他の社員にもコーヒーやお茶を出し終え、席に戻る頃には気持ちがスッキリしていた。そこから先、梢はミスをすることなく仕事をこなしていった。
昼食で友人と他愛無いお喋りをしているうちに、もっと気分が上がってきた。
今夜はさすがに連絡が来るだろう。そう思うと、さっきまで気にしていた自分が恥ずかしくなった。
今日も、残業せずに帰ろうかな・・・そう思っていると、終業間近になって大量の仕事が持ち込まれた。
「深山、これ今日中に頼む!」
「・・・これ、全部ですか?」いつも一日かかってこなす程の量が、梢のデスクに積み上げられた。
「そう。いつも残業してるじゃん、このくらい大丈夫だよな?」
「・・・限度がありますが・・・」普段の残業はこの半分以下だ。それに、見ればそのファイルの大半は、彼が仕上げるべき仕事であった。彼は一日何をしていたんだろう?梢は佐々木を見上げ、訴えようとしたが、言葉を発する前に佐々木が蔑んだ目で見下ろしてきた。
「おまえ、どうせ彼氏もいなくて家に帰っても暇だろ?俺は“大事な用”があるんだよ。」
実に身勝手な言い分と、女性に対する侮辱を吐いた佐々木は、残業申請しとくから!とだけ言い残し、さっさと帰って行った。
女性が社会に進出してきているといっても、佐々木のような男はまだまだ多いのだ。権力と実力を持つ女には、表向きは諂い陰では舌を出す。評価しているようでいて、実質は自分より上にいて、自分より仕事ができる女は気に食わないのだ。そしてそういった輩は、自分の恋人には、必ずと言っていい程、自分より弱そうな女を選ぶのだ。自分の言いなりになり、甘え上手で、面倒がない楽な女。
佐々木の恋人は、出会い系サイトで知り合った女子高生だった。彼女は、佐々木の自尊心を満足させるだけの強かさを持ち合わせ、かなり高額な品を貢がせていた。彼が真実に気付くのは、もう少し先だろう。
どうせ、梢に恋人がいたとしても残業を押し付けただろう。梢は佐々木の身勝手さに腹が立ったが、それを口にしたところで、梢に待っているのは更なる侮辱の言葉だけである。仕方なく、梢はファイルを広げた。終電までには帰れそうにないな・・・。梢は小さく溜め息をついた。おまけに、残業申請すると言っていたくせに、佐々木は書類も書かずに帰ってしまった。つくづくいい加減な男だと思いながら、課長に残業申請の書類を提出した。
「・・・深山くん、よく働いてくれるのはいいが、連日だね。倒れても自己責任だからね。」
課長の言い分はもっともだ。社内で一番残業時間が多いのは梢だからだ。
会社という組織内において今もっとも問題になっているのが【過労死】だ。
残業になるのは、その社員の仕事の要領が悪いからで、会社の責任ではない。という事だろう。
言いたい言葉をぐっと飲み込むと、「気をつけます」それだけ言って席に戻った。
一度、着信履歴を確認してから、それを引き出しに入れて仕事を始めた。
「・・・梢、これ全部やるの?今日中??」
真弓が声をかけてきた。梢が埋まってしまう程のファイルの量に驚いている。
「うん。佐々木くん【大事な用】があるんだって。」
ファイルの数字を目で追いながら、指が的確に数字を打ち込んで行く。
「あ〜。写メ見せてもらったけど・・・頭の悪そうな女子高生だったねぇ。髪なんて電車の屋根に着くんじゃないかって程盛ってたよ!」
「・・・真弓ってば・・・」明け透けな物言いをする友人を嗜めるように見上げた。
それにしても、一人で抱えるには量が多すぎる。佐々木にはそれなりの報復をしてやろう。と真弓は決意した。
「・・・手伝おうか?」
「・・・そうしてもらえるとありがたいけど・・・」
既に帰り支度を済ませている真弓の服装が、コレからデートなの♪と物語っている。さすがに頼むのは気が引けた。二人でやっても終電まで帰れるかどうかという量なのだ。
「・・・真弓も、用があるんじゃないの?」
「う・・・ごめん・・・」真弓は閥が悪そうに顔を顰めると、何度も謝りながら帰って行った。
佐々木に渡された仕事は、思った以上に量が多く、気が付けば既に午前1時を回っていた。
梢は疲れた目を揉み解し、椅子の背を使って伸びをすると、引き出しから携帯を取り出し。開いた。
ーーー着信なし。
ーーーメール0件。
・・・そんなに忙しいのかしら?梢は柿崎の番号を見詰めて、今から電話すれば出るかしら?と、通話ボタンを押した。しかし、時間が遅いし・・・と、呼び出し音が聞こえるとすぐに電話を切った。
携帯を閉じると引き出しに戻し、深い溜め息を付いてから仕事に戻った。
梢が全ての仕事を終えたのは、始発電車が動き始める頃だった。
データの処理を施して電源を落とし、デスクの上の電気を消すとようやく帰り支度をした。
疲れ切った体を引きずって電車に乗り込むと、のろのろと自宅へと向かった。
部屋に戻ると、梢は化粧を落とす余裕もなくベッドに倒れ込み、そのまま気を失うように眠りこんだ。
いつもの時間に携帯のアラームが鳴る。
たった2時間の睡眠で起き上がると、顔を洗ってメイクをし、着替えをして朝食もとらずに再び部屋を出た。通勤電車はすし詰め状態で、疲れた体にはキツかった。
梢の携帯は、相変わらず沈黙を守っている。
柿崎から連絡が来なくなって、三日目の朝だ。梢は、疲れと寝不足の体を引きずって駅の階段を上る間、連絡が出来ない何かが起こったのではないかと心配になってきた。
でも、もしそうならとっくに課長に連絡が入っている筈だ。昨日の様子から言って、そういった事態には陥っていないだろう。それなら、どうして連絡をよこさないのか・・・梢には見当もつかない。
彼は、上手く行けば三日で帰れると言っていたが、連絡が来ないところをみると、まだ長くなるのかもしれない。声が聞けないだけで、どうしてこんなにも心が掻き乱されるのか・・・梢は目に刺さるような朝日の下を歩きながら、自分の中で、柿崎裕一郎という男の居場所が大きくなっている事を知った。
「おはようございます」
梢がオフィスに入ると、課長が青い顔で電話を受けているのが目に入った。
なんだろう?妙に嫌な予感がする・・・。梢は聞き耳を立てた。
「それで、柿崎の容態は・・・うん・・・うん・・・そうか。いや、専務にお怪我がなくて本当に良かった・・・うん・・・うん・・・わかった。先方にはこっちからも連絡するから、お前達はとりあえず戻って来い」
『いま・・・・・柿崎って・・・言った?』梢は課長の方を振り返った。
「課長!柿崎さんどうかしたんですか?!」真っ先に駆け寄ったのは、柿崎の腕にしがみついた女子だ。
「う、うん・・・商談は昨日無事に済んだらしいんだが、駐車場へ向かう途中、運転操作を誤った車が柿崎と、先方の専務のところへ突っ込んできたんだそうだ」
「柿崎は、とっさに専務を庇って怪我をしたという事だった。」
梢は、立ち上がって課長の言葉を聞いている。顔は青ざめ、体が震える・・・
オフィスは水を打ったように静まり返った。
「とりあえず、頭を打っているから入院したそうだ。今日の午後には精密検査も行われるそうだが、まあ、それほどの大事ではないようだ。専務さんが病院から入院の手続きまでしてくれたといっていた。」
ハンカチで禿げ上がった額の汗を拭うと、課長は先方の会社に電話を入れた。
一同に安堵の声が上がったが、梢は震えが止まらなかった。膝から崩れそうになるのを必死に堪える。
頭を打った?どの程度?他に怪我はしてないの?梢には聞きたい事が山ほどあったが、付き合っている事を秘密にしていたため、それ以上聞く事は出来なかった。
「・・・そんな顔してると、みんなにバレちゃいますよ?」
背後から降ってきた言葉に、梢は我に返った。振り仰ぐと高橋は口元をニヤリと歪め見下ろしていた。
「・・・だ、大丈夫よ」唇を噛み締めると、梢はパソコンに向かった。
梢にとって、この日は果てしなく長く感じられた。彼女は昼食を抜くことにした。昼に真弓が昼食に誘ってくれたが、食欲がないからと断り、片っ端から仕事を片付けていった。
ただ一度だけ、【怪我をしたと聞きました。具合はいかがですか?】とだけメールした。
やはり、柿崎からの返信はなかった。病院にいるのだから、電源を切っているからだろう。そう思うことで、梢は折れそうになる心をどうにか支えた。
梢は無性にに柿崎の顔が見たくなった。込み上げそうになる涙を、唇を噛み締めて堪えた。
柿崎氏、名誉の負傷。