酒は飲んでも飲まれるな。
梢は寝苦しさで目が覚めた。体が熱くて酷く気分が悪い。
何時頃なんだろうとぼんやりと目を開けた。
目の前は暗く、まだ夜が明けていないのだろうと安心すると、もう一度目を閉じた。
耳には静かな寝息と、閉じられた窓の向こうを流れる水の音が聞こえてくる。
眠っている誰かの気配・・・・・凄く・・・近い。
・・・頭の・・・うえ?
梢が顔を上げると、見覚えのある顔が、瞼を落とし気持ち良さそうに寝息を立てていた。
『・・・なぁんだ、柿崎さんか・・・』梢は再び枕に顔を落とした。
・・・・・・・・
・・・・・・・・ん?
確か、自分は美枝子の部屋にいた筈だ。ここに柿崎がいる筈がない。
梢はもう一度顔を上げた。髪が顔にかかっているが、確かに柿崎である。
今度こそパッチリと目を開けると、眼前には裸の胸板が規則正しいリズムで揺れている。
梢が顔を寄せていた枕は、逞しい裸の二の腕・・・もう片方の腕は、梢の体をやんわりと抱いていた。
「ーーーーなっ!!」
ガバッと勢いよく上体を起こすと、打たれたように頭が痛んだ。
「・・・う・・・あたま痛・・・」
頭全体がガンガンと痛む・・・完全に二日酔いだ。
夕べ美枝子の部屋で飲んだっけ。彼女が作ってくれたハイボールがとても美味しくて、三杯くらい飲んだかな?そこまでは何とか思い出せる。その先は、何も覚えていない。
何か喋ったような気もするが・・・あのまま酔い潰れてしまったのだろうか?
つい先日の失態を思い出した。酔った勢いで妙な約束をしてしまい、梢はここにいるのだ。
デジャブとはこの事か・・・。梢は、もう酒は止めようと心に誓った。
あとで美枝子に謝らなくてはと、反省しきりだが、よもやその彼女の罠に掛かったのだとは想像もしていない。知らない方がいい事もあるのだ。
それにしても、と梢は現在の状況に混乱していた。
何故ここに柿崎がいるんだ?!美枝子は?
状況を把握しようと、痛む頭で辺りを見回す。それは二人に用意された部屋だった。
美枝子の部屋に持って行った筈のバッグまでちゃんと置いてある。
一体、何があったんだろう?改めて隣にいる人物に目を戻した。
柿崎は、腰から下に布団を掛けた状態で、梢の方を向いて眠るっている。その上半身は裸である。
程よく筋肉が付いた体が、カーテン越しに照らす朝日に浮かび上がっていて、ちょっと男らしい。
梢は、恐る恐る布団を捲り、中を覗てみると、柿崎はちゃんと下着は履いていた。
どうやら心配した事態に陥っていないとわかり、ホッと胸を撫で下ろした。
思い出したように自分を見れば、肘だけで起こした上半身の浴衣は、肌も露ではしたない姿だったが、ちゃんと下着は付けていた。もぞもぞと襟を直しながら、どうして柿崎はパンツ一丁なのだろう?首を傾げた。
布団の周りを見てみても、脱いだ筈の浴衣も見当たらず、代わりに水の入ったポットと濡れたタオルなどが置かれ、どこか騒然とした印象だ。何かあったんだろうか?と、梢はさらに首をひねった。
とりあえず、この状況を何とかしたい。どうして自分が柿崎と添い寝をしているのか、その理由も知りたかった。
ふと、襟の内側に違和感を感じた。覗くと胸の膨らみの上に一つだけ赤い点が。
・・・ん?虫さされ?
しかしよく見ればそれは鬱血痕・・・キ○マーク!!
『おのれ、柿崎ぃ!』梢は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
寝ている女子になんて事を!!思わず叩き起こしてやろうかと思ったが、この状況では分が悪い。
とりあえずここから離れよう!梢は布団から出ようとさらに体を起こした。
しかし、腰に回された腕がやたらと重くて、丸太の下敷きになった気分だった。
だからと言って、起こすと厄介そうだし。と、梢は思案した。
やっぱり起こさない方がいい。そう結論を下す。
そっと、起こさないように重たい腕を持ち上げ敷布に下ろすと、そこから這い出そうと身を捻った。
突然、帯の後ろを掴まれ強い力で引き戻された。
「わわっ!」
驚きの声を上げ、慌てふためいているうちに、力強い腕で柿崎の胸に戻されてしまった。
しっかりと両腕で拘束される。
「梢、起きた?・・・気分は?」
「あ、あの・・・離して・・・」
「やだ。」
眠そうに片目だけ開けているが、柿崎は先に梢の体調を気遣ってくれていた。
怠そうに枕元に腕を伸ばし、梢を片手で抱いたまま携帯を取り上げると時間を確認した。
四時過ぎか・・・まだ眠れるな。そう呟くと、梢を抱き直して目を閉じた。
何故か柿崎の顔は疲れ切っている。梢が訳を訪ねる前に、彼は梢の髪に鼻を埋めてすぐに寝入ってしまった。静かな寝息を立てる柿崎に、梢は困り果ててしまった。
何より、柿崎の体に添うように腰と背中を抱かれ、まったく身動きが取れない。
落ち着かないし、苦しいしで眠れるわけがない。髪にかかる息が熱い。
恋人の太く逞しい腕に包まれて眠るシーンは、ドラマとか漫画でよく見るが、みんなこんなに苦しい思いをしているのかと梢は思った。好きだと我慢できるのかしら?梢はふとそんな事を考えた。
実際にされてみると、人間の体というものはとにかく重い。力を抜かれた腕までも重い。女優は大変だな・・・と、関係ない事で一瞬現実逃避した。
身じろぎ逃れようと頑張ってみるが、腕の深くまで抱き込まれて抜け出すのは容易ではない。
『誰か助けて・・・』こんな状況を見られるのは恥ずかしいが、何とかしてほしかった。
じたばたともがいていると、今度は足を挟まれた。プロレスの技かと思うほどがっちりとホールドされ、さらに身動きがとれなくなってしまった。
頬を剥き出しの胸に押さえつけられ恥ずかしい・・・のも通り越しひたすら苦しい。
拷問ですか?梢は窒息するのではと思い始めた。
法事に参加しにきて、自分が三途の川を渡ったのでは笑うに笑えない!
自分にも柿崎の親類にも嘘を吐いたことへの、これが罰なんだろうかと本気で思った。
肘を使って何とか大きな体を押し退けようとするがビクともしない。
それどころか、腕に力が入りさらに絞められた。
こ、殺される?!梢はついに声を上げた。
「んん!柿崎さっ・・・苦し・・・離してっ!」
「・・・うるさいな・・・逃げようとするな。じっとしてろ」
眠そうに命令を下す【俺様】柿崎は、梢の頭に頬を擦り寄せ眠ってしまった。
【抱き締める】という漢字。今のこの状況はまさしく絞め技だ。
書くなら【抱き絞める】と表記して頂きたい。(梢リクエスト。)
本気で苦しい!
彼の体温は熱いし・・・。潰されそうだし・・・。
とにかく離してほしい!!
柿崎は、加減ってものを知らないのだろうか?と、梢は怒りが込み上げてきた。
二日酔いで頭が割れそうなのに、締め上げられて息も苦しい。
「か、柿崎さん!離して下さい!」
「っん・・・なに?」
柿崎は面倒そうに目を開けると、腕の中でもがく梢を見下ろした。
梢は苦しくて涙目になってる。寝惚けた柿崎にはキスをねだっているように見えた。
ん~っと顔を寄せてくる柿崎の顔を、両手で思い切り押し退けて突っ張った。
「寝ぼけないで下さい!!はーなーしーてー!」
「え~~なんで?」
「苦しいんです!!殺す気ですか!?」
「我慢しろ。」そう言いながらも、少しだけ腕を緩めてくれた。
はふっとようやく息を吐くと、これまた色っぽいと柿崎が顔を寄せてきた。
向けられた唇を、梢はいい加減にしろとばかりに容赦なく捻り上げた。
「ん~~♪いででででで!!なにすんだよ!!」
「ふざけないで下さい!」
「・・・ったく、暢気な女だな・・・大変だったんだぞ?」
「・・・何がですか?」
やっぱり忘れてやがる。と呟いた柿崎は、梢の腰に腕を回したまま、自分だけゴロリと仰向けになった。
昨夜、柿崎はイトコ達と酒を飲んでいた。
今更だが、事を急いだ自分をぶん殴りたい心境だった。
焦らず、もう少し時間をかけて口説くべきだった。柿崎は梢に拒まれた事が酷くショックだった。
考えてみれば当たり前だ。商談だって、事前の下調べや準備を万端にして挑むのだ。
自分のやってる事は、初めて営業に出たときの自分よりも無様だと思う。
ビールが酷く苦く感じた。
もう梢の気持ちは自分に向く事はないのではないか・・・そんな事を考えていると、携帯が鳴った。
相手は美枝子だ。
『裕にぃ!すぐ来て!!梢ちゃんが大変なの!!』
「ーーーーーなっ!!」
切羽詰まった美枝子の声に、柿崎の体は考えるより早く飛び出していた。
美枝子の部屋に飛び込むと、梢が畳の上に転がっていた。
「なっ何があったんだ?!」
「酔っぱらって寝てるだけよ」
「な、なにやってんだよ!」
梢の様子に青ざめる柿崎を他所に、冷静な美枝子が背後で仁王立ちして睨んでいた。
「何飲ませたんだ?」
「ウィスキーのハイボール」
「・・・何杯?」
「六杯」
「・・・そんなに・・・おまえは鬼か!!梢はおまえとは違うんだ!なんでこんな・・・」
急性アルコール中毒になっていないかと、顔を覗き込んでいる柿崎に、美枝子は冷ややかな言葉を投げつけた。
「そんなに大切な人なら、なんで正攻法で落とさなかったの?」
「・・・・なに?」
梢を抱き上げようとしていた腕を止め、美枝子の方を振り返った。
恐らく、酔わせて全てを聞き出したのだろうと、直ぐに理解できた。
これまで見た事がないほど美枝子は怒っていた。だが、理由はどうあれ、梢をこんな状態にした美枝子は赦せないと柿崎も睨み返す。
しかし、美枝子は怯える素振りすらもみせない。
「梢ちゃん。たぶん裕にぃのこと好きだよ。でも、裕にぃがそんなだから、梢ちゃんも迷っちゃってるんだ・・・このままじゃ、あっさり他の男に盗られちゃうよ。これは確信をもって言える!」
「・・・な・・・なに・・・言って・・・」
柿崎の声が震えた。自分が一番恐れている事だからだ。
長い付き合いの美枝子だからこそ、今の柿崎をどうにかしてやりたかった。
腕組みを解いて腰に手を当てた美枝子は、さらなる現実を突きつける。
「裕にぃ。どんなに好きな相手だろうと、外堀埋めて逃げ道を無くすような事されたら、普通怯えるよ?
そんなやり方、裕にぃらしくない!」
反論できなかった。自分でもらしくないと分かっている。
美枝子は畳み掛けるように言葉をぶつける。
「もし今、裕にぃと正反対の男が現れたら、梢ちゃん絶対そっちを取るよ。それが分からない裕にぃじゃないでしょ?」
「・・・・・・・・」
美枝子の言葉が耳にも心にも痛かった。最初から正攻法で口説けば良かったんだ。
どんなに時間がかかっても、そうするべきだった・・・そんな事は分かっている。
戦略を誤るほど余裕が無かったのも確かだ。そして、それは今もそうなのだ。
梢の傍にいられれば、何もかも捨ててしまえる!そう思えるほど盲目になっていた。
だが、それはきっと梢を苦しめ、いずれ彼女の心まで壊してしまうだろう・・・それだけは避けなくてはいけない。
『俺は、出会ったあの頃と全然変わってない・・・ただのヘタレだ』柿崎は、梢の寝顔に視線を落とし、今更ながら後悔に狩られていた。だが、時間は巻き戻す事はできない。
なら、新しい作戦を練ればいい。
どうすれば彼女を幸せにしてやれるのか。
何が彼女の幸せなのか。
だがもし、自分と離れる事が幸せなのだと梢が言ったら・・・その願いを叶えてやれる自信はない・・・
柿崎はぐったりとしている梢をそっと抱き上げ、部屋へと連れて行った。
美枝子は止めなかった。言うべき事は言ったのだ。この後どうするかは彼次第なのだ。
「・・・柿崎さん?」
急に黙り込んでしまった柿崎を、不安そうな声が小さく呼びかけた。
物思いに沈んでいた柿崎は、腕の中で自分を見詰めている彼女に愛しさが増して行く。
やっと腕に閉じ込めた彼女を、いまさら手放したい男なんていないだろう。柿崎はもう一度強く抱き締めた。
「・・・く、苦しいですってば!!」
「あ、ごめん。」
腕を緩めて梢を見詰めてくる。梢は自分が一体何をしたのか不安で仕方がなかった。
横になったまま抱き合ってる今の状況も、早くどうにかしたい。
「あ、あの・・・私夕べ何かしたんですか?」
「・・・聞きたいか?」
「・・・は、はい・・・」
怖いが、柿崎の表情も気になる梢は、小さく頷いた。
「・・・おまえを部屋に運んできたら、いきなり俺の懐にゲロッたんだよ。」
「ええ!!」
梢は思わず想像してしまい、酷い醜態を晒してしまったと赤い顔を両手で覆った。
前髪に柿崎の溜め息が掛かった。
「おまえ、かなりヤバかったんだ。救急車呼ぼうかと思ったくらいだ。」
「〜〜〜〜〜〜」
梢は顔も上げられず、さらに肩を竦め小さく踞る。必然的に柿崎の胸にすり寄る形になった。
それを意識してしまうと、歯止めが聞かなくなりそうなので、柿崎は梢の髪を優しく撫でて、自分の気持ちも落ち着かせた。
「とりあえず、水を大量に飲ませて、吐き出させた。」
「水を?」
髪を撫でられて少し落ち着いた梢は、僅かに顔を上げ、生え始めた顎の髭を見詰めた。
柿崎もまた、滑らかな手触りの髪を撫でながら、ある意味の拷問に耐えていた。
「嫌がって暴れる梢を羽交い締めにして、鼻を摘んで口に水を流し込むんだ。そして吐かせるこれを何回か繰り返したんだ。吐かせ方も聞きたい?」
「・・・い、いえ。」
吐かせ方など一つしかない。考えたくないので話を打ち切った。
彼がパンツ一丁だった訳がようやく分かった。
しかし、その後どうして自分は柿崎の腕の中にいたのだろう?どうしたものか思案した結果、とりあえず訪ねる事にした。
「ご、ご迷惑をおかけして済みませんでした・・・ですが、どうして私は柿崎さんと添い寝をしているのでしょう?」
「・・・おまえが布団に入ってきたんだよ」
「えっ!う、うそ!!」
「・・・嘘じゃねーよ。胃にあるものを吐き切って、隣の布団に寝かせたんだ。そんで、後始末をしてからシャワーを浴びて、俺も自分の布団に入ったの。そしたら、おまえがもそもそと入ってきたんだ。」
「・・・・・・・・・・」
真実だった。過度なアルコール接種と嘔吐で、急な寒気に襲われた梢は、殆ど無意識に柿崎の布団に潜り込み柿崎で暖をとったのだ。本能の行動だろうか?
「いろいろ堪えた俺を褒めてくれ。」
柿崎は情けなさそうに呟いた。
しかし、梢には何よりも信頼できる言葉に聞こえた。自分がどれほど大事にされているのかを、今更ながら実感した気がする。
梢は、溜め息を着いている柿崎に、縋り付くように身を寄せて、「…嬉しい」と小さく呟いた。
ーーーおいおいおい!!まだ我慢してるんだっつの!!おまえが煽ってどーするよっ!?
柿崎は歯を食いしばり、この甘美な拷問に必死に耐えていた。
そんな男の事情など知らない梢は、妙な汗を浮かべる柿崎に微笑みかけた。
「柿崎さん、凄い汗ですよ?朝風呂に入りに行きませんか?」
「朝風呂?」
「朝の露天風呂って、初めてなんです♪」
「・・・・別々・・だよな?」
「?当たり前じゃないですか。」
「・・・・・・・・・・・・」
梢は嬉しそうに身を起こすと、背を向けて浴衣を直しもう一度、柿崎を振り返った。
そういえば、汚してしまった浴衣が一番大きなサイズで、この部屋には一枚しかなかったのだ。
他のはきっと、足首が出てしまうだろう・・・と、梢は困ったような顔をしている。
「・・・浴衣・・・どうしましょう?」
「ああ、そこにあるの着るからいいさ」
「・・・でも丈が・・・」
「ああ、べつにいいよ。」
そう言って柿崎も身を起こすと、広縁に設置されている衣装ダンスの扉を開け、乱れ箱に用意してある浴衣に袖を通した。
帯で括るも、やはり、いや、想像以上に丈が短くて、梢は笑いを堪えるのに苦労した。
「笑うなよ。ほら行くぞ。」
「はい」
部屋を出て廊下を歩くとき、いつの間にか手を繋いでいた。
暖かく大きな手が、小さくてほんの少しひんやりする手を包み込む。
どこかくすぐったいようなそのひと時は、大浴場の入り口で別れるまで密かに続いた。
堪える柿崎を褒めてやって下さい。(爆)
ちなみに、この【胃洗浄】の方法は、暁がむかし実際に友達からやられた実話です。