ワンコ。
唇が角度を変えて何度も押し付けられる。
梢の両手が、覆い被さる男の服を縋るように掴んだ。
二人はうっとりと目を閉じて、お互いの温もりに酔いしれた。
『ねぇねぇ、なんか取り込み中みたいだよ?』
『あらホント。なかなか下りてこないと思ったら』
ひそひそと声が聞こえた。
それも、すごく近い場所から。
・・・空耳?
『もう少しほっとく?』
『でも、みんな待ってるわよ・・・』
・・・・空耳ではない。
「ーーーーーー!!!」
二人が同じタイミングで声がする方を振り返ると、開けっ放しになっていた襖から覗いている人物と目が合った。
「きゃあ!!」
「なっ!ーーーわ!」
梢は伸し掛かる裕一郎を、思い切り撥ね除け背を向けた。
撥ね除けられた裕一郎も、急いで座り直した。
何故か正座している。
「な、何やってんだよ二人とも!!ーーーっつか、ばーちゃんまで!!」
よく見れば、両親の陰で喜代もニコニコと二人を見ていた。
恐ろしく恥ずかし場面を見られてしまった!
梢は真っ赤な顔で、いつの間にか外されていたワンピースの胸ボタンを急いで止めた。
「あ~ごめ~ん邪魔だった?一応ノックはしたんだよ?」
「(邪魔だよ!)・・・なんで呼び鈴押さないんだよ。」
「あれ?そんなのあったっけ?登紀ちゃん気がついた?」
「気がつかなかったわねぇ。お義母さんは?」
「さぁてねぇ・・・」
すっとぼける両親・・・絶対に確信犯だ。(祖母は関係ないだろうが)
忘れていたが、この旅館の客室はオートロックではない。戸締まりは自己責任だ。
せっかくいいムードだったのに。と、むくれる裕一郎に構わず、梢は改めて居住まいを正す。
「お義母さま、先ほどはお薬をありがとうございます」
「・・・ちょっと、梢さん?!」
「は、はい?」
二人の間に妙な緊張感が走る。梢は自然と背筋を伸ばす。
梢に何を言う気だろうかと、裕一郎も緊張する。
「お義母さんって呼ぶの止めてくれないかしら?老け込んじゃうわっ!」
「母さん、何言ってんだよ?」
「おまえは黙ってなさい。」
息子の言葉をピシャリと封じると、登紀子は眉を厳しく吊り上げて梢を見た。
登紀子は未だ梢を嫁とは認めていないんだろうか・・・?梢の胃が密かに反応した。
義母と呼ぶな・・・?梢は登紀子の目を見ながら、今投げかけられた言葉を反芻する。
暫くして、何か思いついたように梢の顔に笑みが浮かんだ。
「・・・では、登紀子さん・・・とお呼びしてもよろしいですか?」
傍らの男が驚愕した顔で梢をみる。しかし、その小さな顔は、先ほどの憂いは感じられず、穏やかに笑みを浮かべている。
「そうしてちょうだい。」
「か・・・かあさん?梢?」
「い~な~登紀ちゃん!梢ちゃん、僕も真くんって呼んで?」
うちの両親は揃いも揃って何を言っているんだ!?裕一郎は信じられない面持ちで、厳しかった筈の両親をみている。
「と・・・父さんは駄目!」
「・・・意外に独占欲強いんだね。おまえ。」
「そうですよ!真さんは駄目です!梢さん、真さんは駄目ですからね!」
「は・・・はい・・・」
登紀子も眉を吊り上げて夫を叱った。裕一郎の威圧感と独占欲は母譲りで、妙な甘え方は父譲りなのだと分かり梢は笑いを噛み殺す。
「登紀ちゃん?そろそろ、みんなお腹すかせてるんじゃないの?」
喜代がほくほくした顔で大事なことを思い出させた。
「そうでしたっ!ほら、裕一郎も梢ちゃんも、はやく宴会場に来て!みんな待ってるんだから!」
いつの間にか、呼び名が砕けている。梢の口元が思わず緩む・・・が、聞き捨てならない言葉が・・・
「・・・みんなって?」
「あ・・・忘れてた・・・」
今度は何だと言わんばかりの顔で梢が見上げてくる。
目を反らし、格好が付かないと言う風に頭を掻いた。
「あ~ごめん・・・実は・・・親戚が集まってるんだ・・・」
「・・・・・え?」
「裕一郎!言ってなかったの?!ホントに馬鹿だねおまえ!梢ちゃん、こんな馬鹿いつでも見捨てていいからね!」
「分かりました。」
「おいおいおいおい!!」
急に意気投合した嫁と姑に、裕一郎は慌てて梢を抱き寄せた。
喜代と真はのんびりとした笑い声を上げた。
「今日はお忙しいところ遠くから集まってくれて、本当にありがとうございます。
本当なら明日、法事の後で一席設ける予定だったのですが、皆さんの都合もあり今日に持ってきました。
今日は懐かしい話に花を咲かせてもらえればと思います。」
主催者である柿崎家の当主が、大きな宴会場で居並ぶ出席者に挨拶した。
そしてもう一つ。と真が裕一郎と梢を呼んだ。
「この度、息子の裕一郎が結婚しました。嫁の梢さんです」
「・・・はじめまして、梢です。よろしくお願いします」
まだ正式に夫婦になったわけではない・・・梢の良心は胃を攻めた。
それでも、気持ちがどうにか通い始めたこともあり、この際、嫁ということにしておこうと思った。
会場から拍手があがった。
親戚は、真の弟妹二人とその家族。そしてその子供の家族達。
裕一郎のイトコ達の家族も含めて総勢二十二人勢揃いである。
梢の方は、両親が共に一人っ子で兄弟がいないため、当然従兄弟もいない。
親戚筋といっても、殆ど顔を合わせることがなかった。
食事が始まると、真は自分の弟や妹と語らい、登紀子も姪たちと語らいながら、喜代の食事を介助した。見渡せば、裕一郎のイトコ達は、家族を持ち幸せそうに微笑みあっている。
「はじめまして、美奈子です。あと、娘の樹理亜です!」
「はじめまして、梢です。よろしくね、樹理亜ちゃん」
ビール瓶を持ってやってきたのは、真の末弟の娘の美奈子。まだ二十一歳だがすでに三歳の子供がいた。
ニコニコと笑う顔は、まだどこかあどけなく見える。樹里亜と紹介された娘は、恥ずかしそうに梢を見上げていた。
「はじめまして〜!美枝子です!美奈子の姉です!」
「梢です、よろしくお願いします」
美枝子は二十四歳で、アパレル関係の仕事をしている。独身なんだと裕一郎が言うと、仕事が恋人なんだと胸を張った。
「ねえ梢さん、裕にぃちゃんとの馴初め教えて♪」
「・・・・馴初め・・・ですか・・・」
チラリと裕一郎を盗み見たが、笑顔でビールを飲んでいる。
馴初めといっても、こんなに親しくなったのは、ついさっきだ。
「同じ会社なんですよね?じゃあオフィスラブ?」
「・・・ど、どうだったかなぁ?」
梢は曖昧に答え、話を反らそうとしたが、返って興味をそそられてらしい娘達は喰らい付いてきた。
「ねえねえ!じゃあ、裕にぃちゃんがどうやって口説いたのか教えて!」
「・・・お前ら、何考えてんだよ・・・」
裕一郎は呆れ顔で言うが、彼女達はへこたれない。
「いーじゃない!女子はこう言う話が好きなのよ!?ねぇ梢さん!」
「・・・あははは・・・」
まあ、確かに女子が集まると、話題は大体において俗っぽいものである。
給湯室や女子社員だけで食べる昼食、休みに友達と出かければ、小洒落たカフェに入っても赤面するような話ばかりである。
ずっと働き詰めで、大学の頃の恋人以外は誰とも付き合ってこなかった梢は、そう言った話は実際苦手だ。しかし、目の前の娘達は、目をキラキラさせて梢の話を聞き出そうとしている。
正直、逃げ出したかった。
さっきのコーヒーは、まだ暫くは梢を苦しめる。そのため飲酒を控えていた。
いっそ酔っていれば・・・引き攣った笑顔の下で、密かに溜め息をつく。
「ねえ梢さん!告白はどっちから?」
「・・・ゆ、裕一郎さん・・・から・・・」
ほんの三日前の話なのに、酷く昔のような気がした。
「なんて告ってきたの?!」
「・・・俺の嫁になれ・・・って。」
裕一郎が盛大にビールを吹いた。
「きゃー!なにそれーーー!?」
「それで?それで?」
「は、始めは断ったんですけど・・・」
「おおおおおい!梢!!」
何を言い出すのかと、裕一郎は冷や汗をかきながら梢の手を掴んだ。が、美枝子と美奈子に阻まれてしまう。
「裕にぃは黙ってて!!翔!裕にぃをおねがーい!」
裕一郎が慌てて静止しようとするが、勢いづいた女子を止めるのは不可能である。
それどころか、彼の一つ下、出来ちゃった婚したイトコの翔が呼ばれた。
水割り片手にニヤニヤとやってきた翔は、俺に任せろ!と、裕一郎に水割りを出した。
「それで?断ったのに、どうして結婚することになったの?!」
「・・・えっと・・・あの・・・」
正式にはまだ結婚していない。それどころか、ついさっきやっと【好き】になったばかりだ。
妙な汗を浮かべて自分を凝視する裕一郎を意識しつつ、どうこの場を切り抜けるか考えていた。
「・・・・あの・・・あ、あとは・・・ナイショです!!」
「ええ〜〜!!その先が知りたいのにぃ!」
・・・そう言われても、話すことがないのだ。
これでようやく解放されるだろうと思った梢だったが、勢いを増した姉妹は攻撃の角度を変えてきた。
「じゃあ、梢さんは裕にぃのどこが好きなんですか?」
「・・・・・え・・・」
それはこの男が一番知りたいところだろう。思わず目が合ってしまった。
裕一郎の目も興味津々(きょうみしんしん)で見返してくる。
梢はさっきのキスを思い出し顔を真っ赤にして俯いてしまった。
ど、どこが好き・・・なんだろう・・・?改めて考えた。
「・・・え、えっと・・・」
「うんうん!」女子に加え裕一郎も身を乗り出してくる。
『柿崎さん!なんで助けてくれないのよーー!!』梢は心の中で絶叫する。
ついさっき、自分を情けない顔で見下ろしていた裕一郎の顔を思い出した。
置いて行かれた子犬みたいな・・・・
「・・・・こ、子犬みたいな目をする時・・・かな?」
「・・・・こいぬ?」
「・・・裕にぃが?」
「・・・・・・・・は?」
美枝子と美奈子は目が点になり、そのまま首まで真っ赤になっている男に向けられた。
そして二人の脳裏には、しっぽをフリフリして小首を傾げる子犬仕様の裕一郎を想像した。
・・・・・・・
・・・・・・・
あーーっはっはっはっはっはっ!!!!
二人は笑いの発作に襲われた。
「あははははは!!!こ、こいぬーー!!裕にぃが子犬ってーーー!?あはははははは!!!」
「梢ちゃんサイコーー!!!あははははは!!!」
二人は腹を抱えて笑い出し、周囲の人間は何事かと注目した。
「・・・な、なんだよ・・・子犬って・・・」
裕一郎は同じく真っ赤になっている梢に視線を送る。
これまで自分を子犬だと表現した女はいなかった。
というより、そんな形容詞が想像できないほど、裕一郎はがっちりとした大男なのだ。
「だ、だって・・・さっき、そう思ったんだもん・・・」小さく言い訳してみるが、笑い声にかき消されてしまった。
のたうち回るように笑う姉妹は、裕一郎を見る度に笑いの発作が起こり、息も絶え絶えといった感じだ。
美奈子の娘は、拳で畳を叩きながら笑う母を、親指をしゃぶりながら不思議そうにしている。
「そ、それで?裕にぃはどんな時に・・ぷぷっ・・こ、子犬っぽくなるの?ぷぷぷっ」
笑いを堪えながらさらに追求する美奈子に、未だ腹を抑えて笑っている美枝子が口を開いた。
「ば、馬鹿ね美奈子!ぷぷっ!・・・野暮なこと聞かないの!くくくっ」
あーーっはっはっはっはっは!!と再び笑いの発作に襲われた姉妹は、お互いの肩を叩き合って爆笑していた。
『・・・仲のいい姉妹だこと。』あまりに笑われた梢は、すでに恥ずかしさから立ち直っていた。
・・・野暮なこと?まだそんな関係じゃないもん!そう言おうとしてやめた。どうせ信じないだろう。
梢は黙ってお茶を飲んだ。
元気な姉妹は、暫く大笑いが止まらなかった。
デカイ図体のもふもふワンコ。(爆)