不器用な涙。
梢!梢!梢!
裕一郎は旅館の中を探して回った。しかし、梢の姿を見付けることができず、フロントに声をかけた。
「花柄の・・・ああ、その方でしたら、コンビニの場所を訪ねられたので、そちらに向かったのでは?」
「・・・コンビニ?それはいつですか?」
「そうですね・・・もう一時間前になるでしょうか?」
「・・・一時間・・・」
場所を聞けば、コンビニは旅館と目と鼻の先。直ぐに戻れる距離だ。
しかし、一時間も戻らないというのは心配だ。
急いで旅館を出ると、梢が向かったであろうコンビニを訪ねた。
しかし、狭い店内に彼女の姿はなく、一応店員にも訪ねてみる。
「一時間ほど前・・・?」
「ほら、さっき来たじゃん!あの人じゃね?」
パッサパサの金髪に、ルーズリーフかと思うほど耳の端に輪っかのピアスが並んだバイトの男が口を開いた。唇にもピアスが嵌っている。就職する気はないんだろうな・・・。柿崎は人事部の苦労を思った。
話しかけられたもう一人のバイト(こっちはまだマトモそうだ)が、レジを打ちながら記憶を辿った。
「ああ、あの人かな?花柄のスカート着た女の人が来たかも」
「・・・それで?」
「コーヒー牛乳の小さいパックのとブラックの缶コーヒーを買ってったっす。」
「・・・コーヒーとコーヒー牛乳?」
「そうっす。」
「それ、いつ?」
「ん〜、すんません、覚えてないっす。」
「・・・どーも」
俺が人事やってたら絶対コイツ等採用しないな。柿崎は別の確信を持ってコンビニをあとにする。
温泉街は、浴衣を着た観光客が多く歩いている。
どこをどう探していいのか分からず、柿崎は周囲を見回しながら旅館の方へ戻った。
『・・・コーヒー牛乳と缶コーヒー』
千佳子に聞いた、コーヒー牛乳の話を思い出していた。
飲むとどうなるのかは聞かなかったが、自傷行為だと言うのだから、酷いことになるのだろう。
その両方を飲んだとしたら・・・柿崎は焦った。
旅館に戻っても梢を見付けることは出来なかった。フロントに訪ねても、戻っていないということだ。
初対面の人間に、あれだけひどい仕打ちを受けたのだ、帰ってしまったとしても梢を責めることは出来ない。
力なく部屋に戻り、窓の外を眺めた。
ついさっき、二人で眺めた景色が酷くよそよそしい。
梢と見た時は輝いて見えたのに、今は色を失ったようだ。
滔々(とうとう)と流れる川を見下ろすと、旅館のすぐ前がさんぽ道になっているのが見える。柿崎は、二人で散歩でもできたらと思っていたのだ。
「!!」
日が暮れ始めたその場所に、見覚えのある人影が座っているのが見えた。
五階の窓からなので、人影は酷く小さいが、間違える筈がない。
男は脱兎のごとく部屋を飛び出した。
草が生い茂る川縁は、風が通る度にさわさわと心地いい音を立てる。
川幅はあるものの、深さはなく、中州にも草が生えていた。
殆ど手つかずの自然は、都会に住む者にとって、心癒される風景であった。
・・・水音が癒しになるとはホントだなぁと梢は思う。
コンビニから真っ直ぐ川を見ようとやってきた梢は、さんぽ道の端に足を投げ出して座ると、ぼんやりと景色を眺めていた。
紙パックのコーヒー牛乳にストローを刺したまま、飲もうか飲むまいか思案していた。
「・・・久しぶりだし、いけるかも。」
梢はコーヒー牛乳を一口飲んだ。甘くてほろ苦い飲み物は、すーっと喉を通っていく。
「味は・・・おいしいと思えるんだけどね・・・」
独り言を言いながらも、胃に入った液体はすぐに異物とみなされ、胸焼けと共に胃を締め上げ始めた。
「・・・うう・・・やっぱり、駄目かも・・・」
梢の目から涙が溢れた。それが心の痛みから出たものだと思いたくない梢は、胃の痛みなのだと自分に言い聞かせ、小さなパックの飲み物を一気に飲み切った。
空のパックを袋に戻し、直ぐに次の缶コーヒーを開けた。
「ここまでくると、本気で馬鹿だと思うわ」
そう言いつつ、缶コーヒーをグビグビ飲んだ。その苦さに眉根が寄る。
梢には毒かと思うほど苦い。
「うう苦〜い・・・みんなよくこんなの飲めるなぁ・・・」
梢は缶コーヒーに文句を言いながら、柿崎がいつも砂糖もミルクも入れず、濃いコーヒーを飲んでいたのを思い出していた。
梢の胃はどんどん痛みを増していき、胃液が逆流しそうになる。
溢れる涙を拭い眉間に皺を寄せ、さらにコーヒーを口運ぼうとする。
その細い腕をいきなり掴まれた。
「なにやってんだ!」
「ーーーか、柿崎さん?」
汗だくで息を上げてる柿崎は、梢の手から飲みかけのコーヒーを取り上げると、梢が飲まないように一気に飲み干した。中身は半分も残っていなかった。
コーヒーが飲めないのにこんなにも濃いコーヒーを飲むなんて・・・。
・・・それも、泣きながら・・・
梢が泣くのを見たのは・・・実は二回目だ。
昔、彼女が夜の公園で独り声を殺して泣いていたのを見かけた。
だが、自分は声をかけることができなかった。
今は自分のせいで泣いているのだ・・・
自分だけでなく、自分の母までも彼女を深く傷付けてしまったのだと思うと、平気だったコーヒーが酷くまずく思えた。
「コーヒー飲めないんだろ?なに無茶やってんだよ。。」
「・・・どうして知ってるんですか?」
「・・・・・・それはナイショ。」
「なんですか、それ?・・・うう・・・」
「梢?!大丈夫か?!」
梢は腹と口を抑えてうずくまった。疲れた体に精神的な痛み、その上飲めないコーヒーが追い打ちをかけ、梢を苦しめ涙が止まらない。
自業自得なのはもちろん分かっている。
だが、辛い現実を痛みで忘れたかった。泣いている言い訳が欲しかった。
「・・・な、泣くな・・・」
「お、お腹が・・・痛いんです・・・」
「・・・いつもそうやって、コーヒーを理由に泣いてたのか?」
「・・・・・・」
図星を突かれ、梢は黙り込んでしまった。涙は、まだ頬を伝う。
「案外、不器用なんだな・・・とにかく部屋に戻ろう」
梢の肩を支えて立ち上がるも、梢の腹痛は酷くなっていた。
胃が腫れ上がったような、絞られるような感覚が、絶え間なく押し寄せる。
「う・・・ぐ・・・」
猛烈な吐き気が襲う。口を抑えても溢れてきそうなほど強烈な吐き気。
柿崎はコンビニの袋を梢の口に当てた。
「梢!ここに吐け。」
「や、やだ・・・うう・・」
「何言ってんだよ!辛いだろう!?吐いて楽になった方がいいって!!」
こんなところで吐きたくない。乙女心を理解してほしかったが、柿崎にそれを望むのは無理というものだ。
「・・・どうせなら・・・部屋で吐く・・・」
「・・・そ、そうか・・・」
梢の肩を支えて部屋へ戻ると、梢は宣言通りトイレに籠った。
柿崎の母、登紀子がそっと訪ねてきた。
「どうしたの?」
「・・・ちょっと・・・苦しんでるの・・・」
「悪いものでも食べたの?」
「・・・・コーヒー牛乳・・・」
「なにそれ?」
「・・・・・いや・・・その・・・」
登紀子は呆れたように溜め息をつくと、薬を貰ってくるわと言って部屋を出た。
「・・・くすり?」
とりあえずフロントに水を持ってくるように頼むと、トイレの戸を叩いた。
「こ、梢、一度出てきてくれ!」
「うう・・・む、むり・・・」
「だ、だよな・・・そこをなんとか・・・ならないか?」
トイレの前でオロオロする柿崎の姿は、さぞ情けなかっただろうと想像すると、梢は見れなかったことが残念だった。
ようやくコーヒー牛乳を吐き切ってしまうと、ふらふらとトイレから顔を出した。
げっそりとした顔は、まだ青ざめている。
洗面所でうがいをするも、まだ気分が悪い・・・
柿崎は、梢の顔を見ただけでホッとした。そこへ、軽いノックと共に登紀子が顔を出した。
「あら、丁度良かったわね」
「・・・母さん?」
「とりあえず、胃薬と水を貰ってきたから飲ませてね」
それだけ言うと出て行ったが、梢の胃が違う意味で痛んだ。
「こ、梢、とりあえず薬飲んで!」
「・・・す、すぐは無理・・・」
腹を抱えて踞る梢を、柿崎は戸惑いながら見ていたが、徐に梢の背後に回ると、その体を抱えるように抱き、大きな掌を梢の腹に当てた。
「ち、ちょっと!柿崎さん?!」
「大人しくしろ。胃をあっためた方がいい。」
「あの・・・でも・・・」
狼狽える梢に構わず抱き締めると、熱い掌がじんわりと胃を温め、痛みが軽くなってきた。
しばらくそのままじっとしていると、さっきまでの痛みがずいぶん楽になったのが分かる。
呼吸すら辛かったのが、解放された気がした。
「・・・梢・・・いろいろと・・・ごめん・・・」
「・・・どうしたんですか?」
梢は振り向こうとして、恥ずかしいのでやめた。包み込むような柿崎の腕が、暖かくて心地よかった。
「・・・改めて言うよ、俺と、結婚を前提に付き合ってくれないか?」
「・・・・・・・」
「・・・だめか?」
急にしおらしくなった柿崎に驚いた梢は、ゆっくり背後の男を振り返った。
そこには、自信に溢れるいつもの柿崎はいなかった。
情けないくらいしょんぼりとした男が、至近距離で自分を見下ろしている。
その目は、まるで子犬のようだと思った。
その顔に、愛しさがこみ上げてきたが、口には出さなかった。
「お義母さまに叱られたの?」
「・・・どっちかっていうと、父さんにね」
「・・・そうなの?」
やはり、柿崎家の力関係は父が握っているようだ。梢は叱られる姿を想像し笑いが込み上げてきた。
必死に笑いを堪えていると、柿崎もさすがに気がついて「・・・なに笑ってんだよ」と、不機嫌そうに言った。
「柿崎さんも、お父さんには敵わないんですね」と、クスクス笑った。
もう二度と笑顔を見れないと思っていた柿崎は、その笑顔に心底ホッとした。
腹に当てていない左腕で、梢の体を抱き締めた。
「・・・それで、答えは?」
「・・・答え?」
「だから!・・・俺と・・・その・・・」
梢をすっぽり包めるほどのデカイ図体で、もじもじしている柿崎に、梢は笑いが止まらなかった。
「わ、笑ってないで・・・答えろよっ!」
「あはははは!!ちゃんと私の意見も聞いてくれるなら、付き合ってあげてもいいです!」
「上目線だな・・・」
「どーしますか?」
すぐ近くから挑戦的に見詰められ、心臓が異様な早さで高鳴る。
梢の体を自分に向けると、正面から梢の瞳を覗き込んだ。
「聞く!ちゃんと梢の意見を聞く。だから・・・結婚を前提に、俺と付き合ってほしい!」
「いーですよ」
梢があまりにもあっさり答えたので、柿崎は呆気にとられ、すぐに理解できなかった。
「・・・・・・・・・ホント?」
「柿崎さんじゃあるまいし、嘘なんてつきませんよ!」
「お、俺だって嘘をついたわけじゃないぞ!」
「そうでした。我が儘だったんでした」
意地悪く片眉をあげでそう言うと、悪戯っぽく微笑んだ。
柿崎の心臓が高鳴る・・・。顔が熱い・・・きっと俺、いま赤くなってるかも・・・
「・・・梢・・・キスしていい?」
「ダメです」
「即答かよッ!なんで?!付き合ってくれるんだろう?」
「・・・・ダメなものはダメ!」
吐いたばかりでキスなんてしたくない!なぜ分からないのかと、梢は思ったが、柿崎の子犬のような目は可愛いと思ってしまった。
「ん〜〜〜〜じゃあ、おでこにならいいですよ?」
「・・・俺は唇がいい」
「じゃあ諦めて下さい。」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜やだ。」
お預けを喰らった子犬のように、情けない顔をした柿崎は、諦めたように梢の額にキスを落とすと、顎を引いて自分の額を差し出した。自分にもしろというのだろう。
梢はクスッと笑うと、すこし伸び上がって唇を押し当てた。
二人で見詰めあい、改めて微笑みを交わした。
こんなにも簡単な、こんなにも嬉しいことをすっ飛ばしたなんて・・・柿崎は改めて両親の忠告に感謝した。
両親はあの時、梢が無理強いされて断れずにいるのなら、逃げ出すきっかけになるようにとの思いで、梢に冷たい仕打ちをしたのだ。
・・・ちょっとやり過ぎではあったが。梢の気持ちがそれでハッキリしたので、まあいいとしよう。
梢はふと、気になっていたことを訪ねた。
「そういえば、柿崎さん。どうして私がコーヒー駄目なの知ってるんですか?」
「う・・・それは、ナイショって言ったろ?」
「えー!教えて下さいよ!」
ばつが悪そうに目を反らすと、梢がそれを追うように顔を近づけてくる。
心臓に悪い・・・。柿崎はいろんな感情を抑えつつ、梢の細い体を抱き直した。
「・・・教えたら、キスしていい?」
「じゃあ聞かなくてもいいです。」
「え〜〜〜〜!!なんでだよーー!!それより梢こそ、アイツに何もされなかったか?」
「アイツって?」
梢は急に振られた話に虚を突かれ、ぽかんとした顔になる。
柿崎がこんなにも強引に事を進めてしまった現況なのに!梢はぼんやりしすぎてる!
柿崎は眉間に深い皺を寄せた。
「アイツだよ、高橋。アイツに何もされなかったか?」
「高橋・・・?どっちの?」
営業部には高橋が二人いた。
「ほら、新人のチャラい方」
「ああ。正人君ね」
柿崎の眉がピクリと反応した。険しい表情に、梢は思わず怯んだ。
「・・・・・正人・・・くん??なんで名前で呼ぶんだよ。」
「え?だって、二人もいるから・・・きゃっ!!」
いきなり畳に押し倒すと、嫉妬を滲ませた目で覆い被さった。
伸し掛かられ身動きが取れない・・・。
「な、なに?!柿崎さ・・・」
「アイツを名前で呼んでおいて、俺だけ名字なんてずるいッ!!俺の事も名前で呼べ!!」
「ず、ズルくなんてないですよ?!だって、柿崎って一人しかいないから・・・」
「今すぐ呼べ。呼ばないとこのまま・・・いろいろしちゃうぞ?」
「い・・・いろいろって・・・?」
「・・・いろいろ♪・・・呼ばなくてもいいかもね〜♪」
まるで駄々っ子な柿崎に、困ったように溜め息を着くと、小さい声で名を呼んだ。
嬉しかった柿崎は、組敷いたまま梢を熱っぽい目で見下ろす。
彼の声音が甘く響く。
「・・・聞こえない。もっと大きな声で言って?」
「今日は朝からずっと呼んだじゃないですか!なんで・・・今更・・・」
「いま呼んでほしいんだ・・・ね、早く呼んで?」
梢の顔が、どんどん赤みを増していく。心臓が苦しいくらい跳ね回る。
「・・・ゆ、裕一郎さん、離れて下さい。」
「・・・最後の一言は余計だな。やり直し。」
「馬鹿ですか!?」
「ほら、早く♪」
「ゆ・・・裕一ろ・・・っ!」
最後の方は、柿崎に唇を塞がれて言葉に出来なかった。
ずるい・・・そう言いたくても、やはり言葉には出来なかった。
コーヒー牛乳の行は、暁の実体験です・・・。
マジで、これは毒なんじゃないかと思うほど苦しいよ・・・(泣)