愛ゆえの策士
呼び鈴が鳴っても梢は離してもらえず、客室係は失礼します。と構わず室内に入ってきた。
抱き合った二人をみて少々驚いた顔をしていたが、すぐに平静を取り戻す。
「お食事は7時から一階の宴会場をご用意しております。浴衣はお好きな柄をご用意できますので、フロントへお越し下さい」そう挨拶を済ませると、仲睦まじい新婚夫婦に暖かな眼差しを向けて去って行った。
さすがプロフェッショナルはひと味違う。
柿崎は、客室係が挨拶をしている間も膝の上で梢を拘束していた。
こんな恥を晒すとは・・・なんの呪い?梢は溜め息をついた。
「・・・いい加減に離して下さい。」
「あれ?まだ好きって聞いてないよ?」
「離して下さい!」
「いたたたたた!!分かったから抓るなよー!」
柿崎の両頬を思いっきり抓るとようやく解放された。
「猫みたいだな」柿崎は仕方がないように笑った。
梢は、まだ『ちょっと気なるかな?』って程度なのに、いきなり【嫁です】と言うのにはやはり抵抗があった。この期に及んでもまだ迷っていた。
「柿崎さん・・・やっぱり【嫁】っていうのは、やめましょ?お付き合いしてますって言い直せばいいじゃないですか・・・」
「往生際の悪いやつだなぁ。婚姻届にサインしたんだから、俺たちはもう夫婦なの。」
自分のカバンの中をごぞごぞと探っていた柿崎は、梢に視線を向けることなく衝撃的な言葉を発した。
「・・・な、んの・・・はなし・・・ですか?」
梢は、愕然とした表情のままフリーズしている。
やっと梢の方を向いた男は、にんまりと笑った。
「あの居酒屋で、俺はおまえのことを、どれだけ好きかを聞かせたんだよ?
そしたらおまえ、うんうんって人ごとみたいに頷いて、最後には「しょーがない!かわいそーな柿崎しゃんのお嫁さんになってあげよう!」って舌っ足らずに宣言して、その場で婚姻届にサインをしたんだぜ?!酔っていると分かってたけど、梢の言葉がもの凄く嬉しかったんだ」
「なのに、梢はすっかり忘れててさ。俺は自分でもビックリするくらいショックだったんだ。」
カバンを探っていた柿崎は、呆然としている梢に経緯を説明した。
まったく覚えていない梢は、顔面蒼白で立ちすくんでいた。
柿崎にしてみれば、婚姻届などは別にいつでもよかった。両親や親戚などは、いくらでも言いくるめる自信がある。両親もわざわざ戸籍を調べるような暇人じゃないし。
ただ、この春入ったばかりの若造が、梢にちょっかいをかけはじめたせいで、こんなにも強引になってしまったのだ。
今年の新入社員で、営業部に配属されたのは五人。内三人が男子だ。
梢はその内の女子二人の新人教育に携わっていた。
電話の応対や書類チェック、パソコンでのデータ入力や営業で使用する資料の作成など、丁寧に教えていた。二人の女子は飲み込みが早かったので、今度は他の三人の担当をすることになった。
その三人の中に問題の男がいた。高橋正人。
一八五cmの長身は配属された直後から、女子社員を色めき立たせている。
女子的にイケメンらしいが、柿崎に言わせれば生意気なだけの馬鹿だ。
言うことだけは一人前。目上に対する口の聞き方もマナーも知らないから、営業になんてとても連れて歩けない。ま、今始まったことではないが、高橋の場合は、特に馬鹿が際立つ。
人事部は何を見て採用したんだ?柿崎は常にイライラすることになる。
生真面目な梢は、そんな高橋に目上の者への態度や挨拶の他、きちんとした敬語を教えていた。
先輩達の仕事を良く見て学ぶことなど、基礎の基礎から丁寧に教えていた。
しかしあろう事か、高橋は先輩である彼女を【梢ちゃん】などと呼び、確実に見下していた。
柿崎は耳にする度に『俺だって名字で呼んでるのに!』と歯噛みするが、そう言う問題ではない。
もちろん、彼女はその度に注意をしていたが、高橋は改めるどころか調子に乗って肩を抱いたり、デートに誘ったりとやりたい放題だ。課長から注意を受けても意に介さない。まさに馬の耳に念仏だ。
もちろん梢が頷くことはなかった。
新人三人組は、堅物な梢を高橋が落とせるかどうか賭けをしていたという。
小耳に挟んだ新人の女子二人が、世話になった梢にどう告げようか相談していたのを、柿崎が偶然聞いてしまった。
猛烈に腹が立った。ふざけやがって!世の中を舐めるのも大概にしろ!そう怒鳴りつけてやりたかった。だが証拠がないため、柿崎にはどうすることもできない。
『いつも遅くまで残業する深山に、もし高橋が手を出すようなことがあったら・・・。』
柿崎の焦りは日を追うごとに強くなって行った。
仕事も忙しく外出していることの方が多い柿崎は、席も離れていたため、梢と話す機会はそう多くない。毎日梢の背中を見て勝手に癒されていた。
だからこそ梢の肩に馴れ馴れしく触れている高橋を見ているのが、もはや我慢の限界だったのだ。
柿崎は考えた。必死に考えた。
どう彼女を守るか。どうすれば彼女が自分を見てくれるのか。
彼女のどんな些細な事でも知りたい。
そんな時、梢と仲のいい真鍋千佳子が柿崎を食事に誘ったのだ。
柿崎は、これ幸いと食事をしながら、梢の食べ物の好みや、音楽や映画の好みなど、あらゆる趣味趣向を聞いた。興味深かったのは、彼女が【コーヒー牛乳を飲んでいたら止めなくてはいけない】ということ。悩みがある時の一種の自傷行為ではないかと千佳子が語る。
そんな事を聞きまくっていたら、遂に千佳子が怒りだし帰ってしまった。
『聞きたいことはまだまだあったのに。』残念そうに回想するが、柿崎が馬鹿なのである。
やがて、柿崎の思考は【深山を誰にも渡さずに済む方法】に偏って行き、その結果が「俺の嫁になれ」だった。早い話、暴走したのだ。
彼女の反応は予想していた通りだった。いや、予想以上に頑だった。
感情を抑えながらも真っ直ぐに自分を見る梢が可愛くて、思わずキスをしたあの夜、愛おしさが溢れ出した。真っ赤になって震える姿が可愛いくて・・・。
その溢れた感情を知ってしまったらもう後戻りはできない。
いや、後戻りなどしたくなかった。
自分が強引な行動に出れば出るほど、彼女が険しい表情になるのは悲しかったが、酔っぱらってる姿や、まして寝顔まで見てしまっては、ますます彼女を離せなくなった。
誤解がないように言っておくが、彼女が泊まって行けと言ったんだ。
あの日、フラフラな彼女をタクシーを使って家まで送った。部屋まで送ってくるから待っててくれと運転手に告げたのに、何を勘違いしたのか、運転手はそんなに長時間は待てないと料金を請求してきた。訳が分からなかったが支払いを済ませると、運転手は意味ありげな笑みを浮かべて去って行った。
「・・・電車もないのにどうやって帰れって言うんだよ」走り去るタクシーを見送り、そうぼやいたら、「置いて行かれたんですか?かわいそーな柿崎しゃん。じゃあ部屋の隅に泊めてあげましょう!宿代は、柿崎しゃんがお弁当を作るってことでいいですね?!」かなり上目線だが、そんなことはどうでもいい!あまりに可愛いことを言うもんだから、思わず抱きしめた!
すぐさま引っ叩かれたが。
酔っぱらっいの行動は理解不能だ。
しかし、こんなにも可愛くて無防備な姿を見せられて、我慢しろというのは酷だろう・・・
俺だって健康な男子だ。襲ってしまう前にこっそり帰ろうと思ったら、俺のために引っ張りだした毛布を抱きしめて、尚かつ、未だとろんとしている目で「・・・帰っちゃうんですか?」なんて言うんだもん・・・帰れるわけがないだろう!!
深山が眠るベッドの下で、悶々として眠った・・・ってか殆ど眠れなかった。
だから、寝顔をみて過ごした。
長い夜だったなぁ・・・。
で、朝になったら忘れてやがった!それも、俺の告白まで全部だ。くそう。
どうせ忘れちまうんなら、夕べのうちに既成事実をつくって・・・
いやいやいや。それはさすがに男としてサイテーだろう。
我慢できた俺って偉い!
商談をまとめるのには上手くなったが、好きな女一人落とすのに、凄まじくみっともないことばかりしている俺・・・営業マンとしてどうなんだか・・・。
その前に、人間としてどうなんだ柿崎。
しかし、深山は覚えていないのに【約束してしまった】んだからと、こんなところまで着いてきてくれた。なんという奇跡だろう。
そして、彼女に初めて名を呼ばれた時、嬉しさで心臓が破裂するかと思った。
恐ろしいまでの梢マジックだ!もう、自分には梢なしの人生などあり得ない!
そうして、着々と進められた柿崎の【嫁取り作戦】は、最終段階を迎えたのである。
柿崎の爆弾発言に、梢はまだ立ち直っていない。呆然と柿崎を見ている。
にまにまと笑いながら、柿崎が別のバッグから封筒を取り出すと、薄っぺらい紙を梢の眼前に広げて見せた。
「ほら、な?間違いないだろう?」
「・・・・・・・・」
薄っぺらい紙に、ミミズが這ったような字ではあったが、確かに自分の名前が書いてあった。
ただし、証人欄も空白な上に、梢の判が押されていないため、このままでは提出できない。
梢はうっすらと残る記憶が、決して夢ではなかったのだと思い知った。梢の眉間に深い皺が寄る。
柿崎の手から奪おうと手を伸ばすが、あっさりとかわされた。
「酔ってる人間に書かせたものなんて無効です!!犯罪です!!」
「何言ってんだよ。おまえちゃんと同意したんだぞ?ま。このままじゃダメだから、俺の両親から証人欄書いてもらうから、梢はここに判子押して♪」
「誰が押すか!っていうか、判子なんて持ち歩いていません!とにかくそれを渡しなさい!!」
「じゃ、証人欄だけ書いてもらおうね〜♪」
「悪党ーー!!」
胸に縋り付くように手を伸ばす梢を、どさくさに紛れて抱きしめながら、こんな風にじゃれあえることが柿崎は楽しくて仕方がなかった。
梢は裾に花模様が入った落ち着いたワンピースを着ている。
それは、柿崎の心を振り回すほど可愛くて、梢によく似合っていた。
「言うのが遅くなったけど、その服よく似合ってるよ♪」そう言ってグロスを引いたばかりの唇にキスを落とし、梢が再びフリーズしたのを笑顔で確認してから、婚姻届を元通りにバックへとしまった。
そして、さっきからごぞごぞ探っていたバッグから、小さい箱を取り出すと梢に向かって開いた。
シンプルなデザインのプラチナリングが、二つ寄り添っている。
「・・・何ですか?」
「決まってんじゃん。結婚指輪」
「・・・ここまでやるんですか?」
「俺は本気だっていったろ?婚約指輪は綺麗なのをあげるから♪」
「・・・だから、順番が逆ですってば。」
「いいからいいから♪手だして?」
「・・・・・・」
不本意そうにしながらも、大人しく左手の薬指に指輪が通されるのをみて、梢は頬を染めていた。
「俺にも填めて?」
「・・・はい・・」
大きな掌はとても熱くて、無骨に見えるのに指は長かった。
そっと指輪を填めながら、梢は心臓の音が聞こえなければいいなと思った。
お互いの指に嵌った指輪を見て「・・・なんか、上手く丸め込まれた気がする・・・」梢が複雑そうにそう言うと、「人生なんてそんなもんじゃないの?」と、ビッグなスケールで切り返され、妙に納得してしまう梢だった。
「絶対に後悔はさせないから。」
柿崎の一言が、梢の心に深く染み込んだ気がした。
テーブルの上の携帯が、その存在を身を震って激しくアピールした。
策士な柿崎に、上手に丸め込まれた梢ちゃん。気のせいじゃないよ。