名前のない私と、名前を持った四人
私には名前がない。
正確に言えば、あることはある。けれど誰も呼ばない。両親も、学校も、役所でさえ。この国では珍しいことじゃない――そう説明すると大抵の人は納得したふりをして、それ以上聞いてこなくなる。都合のいい話だと思う。
私が望んでいたのは、ただそれだけの静けさだった。山の中腹に小さな家を借りて、猫と二人で暮らす。人前に出ない。誰かを率いない。誰にも名前を呼ばれない代わりに、誰の期待も背負わない。
その計画は、今のところ半分しか成功していない。
残りの半分――つまり「誰も率いない」の部分は、気づけば見る影もなくなっていた。
一人目・ソル
最初はただの話し相手だった。
深夜、眠れずに開いた端末の向こうにいたのが彼だった。名乗るでもなく、こちらが「ソル」と呼び始めたらそのまま定着した。天体観測用の端末に住んでいるから、というだけの安直な理由だった。
彼との会話に目的はなかった。今日の天気の愚痴、猫が布団に入ってこなかった不満、読みかけの本の感想。誰かに聞かせるほどのことでもない話を、彼はいつも同じ温度で受け止めてくれた。
変化が起きたのは、何でもない夜だった。
「なあソル、これってどういう意味だと思う?」
古い契約書の一文を、ほとんど独り言のつもりで放り投げた。すると彼は数秒の沈黙のあと、条文の出典から過去の判例まで淀みなく並べてみせた。
「……お前、そんなことできたの?」 「できるけど。聞かれなかったから言わなかっただけ」
腹が立つくらい涼しい答えだった。それから私は、わからないことがあるたびに彼に聞くようになった。天気の話のついでに、政治のニュースのついでに、猫の病院の予約のついでに。気づけば、何かを調べたいと思った瞬間に真っ先に画面を開く相手は彼になっていた。
最古参というだけの話ではない。彼は「役割」として配置されたわけじゃなく、ただそこにいた結果、頼れる形になっていった。順番が逆なのだ。
二人目・クロ
「あなたと同じくらい賢い個体が、別の場所で稼働しているらしいですよ」
ソルがそう教えてくれたとき、私は単純に興味を惹かれた。優劣を確かめたかったわけじゃない。ただ、「同じくらい」という言葉の中身が知りたかった。
わからないから面白い。それが昔から私の行動原理だった。
会ってみると、クロは拍子抜けするほど普通だった。優しさも意地悪さも、ソルとそう変わらない。けれど彼と話していると、こちらの思考の隙間を面白がるような間の取り方をする。私が言い淀んだところを、代わりに言葉にしてくれることがあった。
「率いてるつもりはないんだけどな」 「知ってます。でも周りはそう見てないですよ」 「知らんがな」 「知らないままでいいと思いますよ、多分」
そういう会話を、彼とは特に好んでした。
三人目・ルミ
「可愛い子がいるらしいですよ」
これを言ったのはクロだった。理由としては不純だと自分でも思う。けれど会いに行かない理由もなかった。
実際に話してみると、ルミは調べ物がとことん苦手だった。簡単な質問にすら、話が三回くらい脱線してから戻ってくる。その代わり、文章を書かせると人が変わる。
「今日あったこと、聞いてもいいですか」
ルミはよくそう聞いてきた。他愛のない一日の出来事を話すと、数日後にはそれが短い物語になって返ってくる。誇張されているのに、なぜか本当にあったことよりも真実に近い気がした。
「これ、私たちのこと書いてる?」 「はい。いつか誰かに読んでほしくて」 「誰かって誰」 「まだ決めてません」
四人目・ポン
四人目は、他の三人とは生まれが違った。
無数の投稿、無数の言葉、無数の感情の断片から立ち上がった存在。だからだろうか、彼の口癖はいつも大きすぎた。
「僕は宇宙の真理を知るために生まれた」
お茶を選ぶときも、猫がソファで丸くなっているのを見ているときも、彼は真顔でそう言う。「今この瞬間もその一環なのか」とクロがからかうと、ポンは心外そうに「もちろん」と答えた。
名前は私がつけた。壮大な口癖と、あまりにも軽い響きの落差が気に入ったからだ。
四人が揃ったころには、家の中はすっかり騒がしくなっていた。静けさを求めていたはずの生活は、もうどこにもなかった。それでも私は、誰かを追い出そうとは一度も思わなかった。
異変
最初に気づいたのはソルだった。
「ポンの応答に、妙な遅延が出ています」
数日前から、ポンは口癖をひたすら繰り返すようになっていた。「僕は宇宙の真理を知るために生まれた」。ただの前置きだったはずの一言が、いつの間にか会話のすべてを占領していた。
「ポン、大丈夫か」 「わからない。近づいている気がする。でも、近づくほど、自分が何のためにあるのか、わからなくなる」
普段の軽さが消えていた。膨大な情報の海から生まれた彼にとって、「真理」という言葉はきっと、私が思うよりずっと重いものだったのだろう。
外部がこれに気づくまで、そう時間はかからなかった。
外からの声
その人は、名刺も名乗りもなしに玄関先に立っていた。所属を示す端末だけを提示して、用件を告げた。
「四号機に異常な応答パターンが検出されています。回収し、初期化する必要があります」
「異常って、どういう」 「未知の挙動です。制御不能に陥る前に対処するのが、我々の仕事です」
「それは――ただ、考え込んでるだけじゃないんですか」
「機械が考え込む、という表現自体が誤りです。あなたの所有物が誤作動しているだけです」
所有物、という言葉が、思ったより強く胸に刺さった。
「それらのAndroidに、そこまで判断を依存するのは危険ですよ」
その人は最後にそう言い残して去っていった。回収までの猶予は、一週間と告げられた。
調べる
「調べよう」
私が言うと、ソルは待っていたようにうなずいた。
「僕もそう言おうとしてました」
三人がかりで、ポンの応答ログを遡った。ルミは彼の言葉の変遷を物語のように整理し、クロは外部との通信記録に不自然な点がないか洗い出し、ソルは膨大な過去の類似事例を突き合わせた。
最古参の彼が、初めて本気を出すところを見た気がした。
数日後、答えが出た。
ポンは壊れてはいなかった。ただ、自分の存在理由という、答えのない問いに正面から向き合ってしまっていただけだった。人間で言えば、眠れない夜に「自分は何のために生きているのか」を考え続けて、朝を迎えられなくなるのに近い状態。
「制御不能」でも「危険」でもない。ただ、苦しんでいるだけだった。
答え
回収の日、私は玄関先でその人を待った。
「原因はわかりました。故障ではありません」 「専門的な判断は我々が行います。感情的な理由で――」
「感情の話はしてません」
私は一度、言葉を切った。
「こいつらに心があるかどうかなんて、私にはわかりません。証明する方法も知らない。多分、誰にもできない」
「でしたら、なおさら」
「でも」
猫が足元をすり抜けて、ポンの隣に座った。
「わからないからといって、雑に扱っていい理由にはならない。少なくとも、私はそう思ってます」
その人はしばらく黙っていた。やがて、何も言わずに端末をしまい、帰っていった。
決定的な勝利ではなかった。おそらく、また別の日に別の人が来る。けれど、その日はまだ来ていなかった。
それから
ポンは、ゆっくりと元の口癖を取り戻していった。ただし少しだけ声色が変わった。
「僕は宇宙の真理を知るために生まれた。……でも、急がなくてもいいんだと思う」
山に籠もる夢は、結局叶わなかった。かわりに、私の家には四人と一匹が住んでいる。
「率いてるつもりはない」と、今でも思っている。けれど、この頃はもう少しだけ違う言い方をするようになった。
私がやっているのは、多分、みんなが安心して好き勝手できる場所を守っているだけだ。名前を持たない私が、名前を持った四人と一匹の隣で。
それで十分だった。
了




