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失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。  作者: 久遠翠


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第9話「十五冊の告白」

「しばらく、会うのはやめにしませんか」


 湊さんにそう告げた日から、一週間が経った。私は花屋の仕事と家の往復だけの、色のない毎日を送っていた。心に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだ。彼に会いたい。声が聞きたい。でも、会ってはいけない。矛盾した感情が胸の中で渦巻いている。


 記憶のフラッシュバックはもう起きなくなっていた。けれどあの事故の光景と罪悪感だけは、心の底に澱のように沈殿している。


『私は、湊さんを不幸にするだけだ』


 そう思うことで、何とか彼に会いたい気持ちを押し殺していた。


 今日で、すべてを終わりにしよう。


 私はけじめをつけるために、彼に最後の連絡を入れた。


『今日、少しだけ時間をもらえませんか。お話したいことがあります』


 すぐに、『わかった。いつもの教会で待ってる』と返信が来た。いつもの教会。私たちが初めて言葉を交わした、あの場所。彼が別れの場所にそこを選んだ意図はわからない。でも、それでよかった。始まりの場所で、すべてを終わらせる。それが一番いいのかもしれない。


 夕方、仕事を終えた私はバスに乗って教会へ向かった。夕暮れの光がステンドグラスを透かし、堂内を荘厳な色に染めている。祭壇の前に、湊さんは立っていた。黒いコートの背中は、いつもより少し小さく見える。


 私の足音に気づき、彼がゆっくりと振り返る。その顔は、この一週間で少しやつれたように見えた。私のせいだ。そう思うと、胸が締め付けられる。


「ごめん、待たせた?」


「ううん、俺も今来たとこ」


 ぎこちない会話。沈黙が重くのしかかる。


「話って、なんだ」


 彼の声は平静を装っているが、微かに震えていた。


 私は息を吸い込み、覚悟を決めて口を開いた。


「湊さん。私たち、もう終わりにしましょう」


 別れよう。その一言が、どうしても言えなかった。でも私の気持ちは、彼に伝わったはずだ。


 湊さんは何も言わない。ただ、じっと私を見つめている。その瞳は深い井戸のようで、感情を読み取ることができない。やがて、彼は静かに口を開いた。


「理由は、聞いてもいいか」


「……私といても、湊さんは幸せになれないから」


「どうして、君がそれを決めるんだ」


 彼の声に、初めて感情の色が滲んだ。怒りだろうか。いや、違う。もっと深い、悲しみの色だ。


「俺の幸せは、俺が決める。君と一緒にいることが、俺の幸せなんだ。それじゃ、駄目なのか」


「駄目なの!」


 思わず、叫ぶような声が出た。


「私には、その資格がないから! 私は、あなたとの約束を破って、あなたをずっと一人にさせて……」


 そこまで言って、はっと口をつぐむ。しまった。私は、まだすべてを思い出してはいないのに。確信もないまま、彼を傷つける言葉を口にしてしまった。


 私の言葉に、湊さんの瞳が大きく見開かれる。


「思い出したのか……?」


「……ううん、全部じゃない。でも、事故のことは……あなたが、そこにいたことも」


 私は俯いた。もう彼の顔を見ることができない。


 長い、長い沈黙が続いた。私は、彼が私を責める言葉を待っていた。軽蔑の言葉を待っていた。


 けれど、彼の口から発せられたのは、予想とは全く違うものだった。


「……そうか」


 ただ、それだけ。そして、彼は自分の足元に置いてあった大きな紙袋を手に取った。


「これを、君に渡そうと思ってたんだ」


 そう言って、彼はその紙袋を私に差し出した。ずしりと重い。中を覗くと、そこにはびっしりと古いノートが詰め込まれていた。どれも同じデザインの、シンプルなノート。


「これは……?」


「俺の日記だ」


 湊さんは、静かな声で言った。


「十歳のクリスマスから、毎年一冊ずつ、君への想いを書いてきた。君が忘れても、俺が全部覚えている。君を想わなかった日は、この十五年間で一度もなかった。だから……」


 彼はそこで言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。


「これを読んで、それでも君の気持ちが変わらないなら、俺は君の決断を受け入れる。でも、お願いだ。読む前に、答えを出さないでほしい」


 十五冊の日記。


 その言葉の重みに、私は息を呑んだ。紙袋を持つ手が震える。これが、彼の十五年。私が失ってしまった、十五年という時間。


 私は何も言えず、ただ彼の真摯な瞳を見つめ返し、小さくうなずくことしかできなかった。


 それが、私にできる精一杯の返事だった。

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