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失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。  作者: 久遠翠


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第8話「言えないさよなら」

 雫からの連絡が、途絶えた。


 メッセージを送っても返ってくるのは素気ない短い言葉だけ。電話をかけても留守番電話に繋がるばかり。花屋を訪ねても、「今日はもう帰りました」と他の店員に言われる始末。彼女は意図的に俺を避けていた。


 俺はその事実を認めざるを得なかった。


 公園でのあの一件以来、こうなることは予感していた。彼女の苦しみに気づいていながら、俺は見て見ぬふりをした。真実から目を逸らし、自分の築いた脆い幸福にしがみつこうとした。その罰が今、当たっているのだ。


 仕事が全く手につかない。コンペの締め切りは目前に迫っているというのに、図面を前にしても頭に浮かぶのは雫のことばかり。彼女の悲しげな瞳、力なく笑う顔、雨に濡れたように潤んだ眼差し。


『湊さんは……何か、知ってるんじゃないですか?』


 あの時の、助けを求めるような声が耳から離れない。俺は、その手を振り払ってしまったのだ。


 自業自得だ。わかっている。けれど、このまま彼女を失うことだけは耐えられなかった。十五年間、ずっと心の中で大切に育んできた想いが、音を立てて崩れていく。


 いてもたってもいられず、俺は車を走らせていた。彼女のアパートの前まで来たものの、インターホンを押す勇気が出ない。こんな時間に押しかけて、迷惑がられるだけではないか。そもそも、どんな顔をして彼女に会えばいい?


 車のエンジンを切り、ヘッドライトを消す。雨がフロントガラスを叩く音だけが、静かな車内に響く。彼女の部屋の窓には明かりが灯っていた。起きているのだろうか。俺と同じように、眠れない夜を過ごしているのだろうか。


『会いたい。声が聞きたい』


 ただ、それだけなのに。その単純なことが、今は世界で一番難しいことのように思えた。


 スマートフォンの画面を開き、彼女とのメッセージ履歴を遡る。付き合い始めた頃の、初々しくて幸せに満ちたやり取り。それが今はひどく遠い昔のことのようだ。


『さよなら』


 もし、彼女の口からその言葉を聞いてしまったら。俺は、正気でいられるだろうか。


 その時、アパートのエントランスが開き、見慣れたシルエットが現れた。雫だった。傘も差さずにふらりと外に出てくる。その足取りは、どこか覚束ない。


 俺は慌てて車のドアを開け、彼女の元へ駆け寄った。


「雫さん!」


 俺の声に、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。雨に濡れた彼女の顔は、驚きと、そして深い悲しみに彩られていた。


「湊、さん……どうしてここに」


「君が心配で……。連絡もつかないし、何かあったのかと」


 彼女は何も答えず、ただ俯いてしまう。雨水が彼女の髪を伝って、ぽたぽたと地面に落ちていく。その一滴一滴が、まるで彼女の涙のように見えた。


「風邪をひく。車に乗って」


 俺は自分のコートを脱いで彼女の肩にかけると、その腕を引いて車へと促した。彼女は抵抗せず、されるがままに助手席に乗り込む。


 車内に戻り、暖房の温度を上げる。タオルで彼女の髪を拭いてやりながら、俺は何を言うべきか必死に言葉を探していた。


「ごめんなさい」


 先に沈黙を破ったのは、雫だった。


「迷惑、かけました」


「迷惑だなんて思ってない。ただ、俺は……」


 君が苦しんでいるのに何もできなくて、自分が情けないんだ。そう続けようとした言葉は、彼女の次の言葉によって遮られた。


「少し、一人で考えたいんです。だから……しばらく、会うのをやめにしませんか」


 それは、俺が最も恐れていた言葉だった。さよなら、ではない。けれど、それと限りなく近い響きを持った、残酷な宣告。


 心臓を氷の矢で射抜かれたような衝撃だった。目の前が真っ暗になる。


「……どうして」


 やっとの思いで絞り出した声は、情けなく震えていた。


「理由を、聞かせてもらえないか」


 雫はしばらく黙り込んだ後、静かに首を横に振った。


「ごめんなさい。今は、何も話せません」


 その瞳は、頑なに俺を拒絶していた。もう、俺の言葉は彼女には届かない。


 わかった、とうなずくことしか俺にはできなかった。彼女をこれ以上追い詰めることはできない。彼女が一人になりたいと望むのなら、それを受け入れるしかないのだ。


 たとえ、それが永遠の別れに繋がるのだとしても。


 アパートの前で彼女を降ろし、走り去る。バックミラーに映る彼女の姿は雨の夜に溶けて、すぐに見えなくなった。


 言えないさよなら。彼女は俺にそう告げたのだ。


 俺はただアクセルを踏み込む。行き先など、どこにもなかった。この胸を締め付ける痛みから逃れる場所など、この世界のどこにもないのだから。

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