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失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。  作者: 久遠翠


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第7話「ひび割れた硝子」

 湊さんが嘘をついている。公園で彼に問いかけたあの日、彼の瞳が揺れたのを見逃しはしなかった。彼は何かを知っている。私の失われた過去の、重要な何かを。


 それなのに、どうして話してくれないのだろう。その日から、私と彼の間に薄くて硬い、見えない壁ができてしまったようだった。隣にいても心が遠い。彼の優しさは変わらないのに、そのすべてが上滑りしていくような空虚な感覚。幸せだったはずの日々は、ひび割れた硝子のように、いつ砕け散ってもおかしくない危うさを孕んでいた。


 フラッシュバックは、日に日に鮮明になっていった。


 泣きじゃくる私と、困った顔の男の子。四つ葉のクローバー。

『ごめん……ごめんな、雫』


 そして、その後に続く光景。


 ―――道路に飛び出した、小さな赤いボール。

 ―――私を呼ぶ、男の子の絶叫。

 ―――急ブレーキの、耳を劈くような金属音。

 ―――身体が宙に浮く、不思議な浮遊感。


 そして、すべてが暗転する。


「……っ、はぁ、はぁっ!」


 悪夢から飛び起きると、全身が汗でぐっしょり濡れていた。心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。あれは、私が事故に遭った瞬間の記憶だ。間違いない。


 そして、あの男の子。私を呼んでいた、あの声。


『そうだ、あの声は……』


 湊さんの声によく似ている。


 まさか。そんなはずはない。でも一度芽生えた疑念は、蔦のように心を蝕んでいく。もし、あの男の子が湊さんだとしたら?

 私は彼と、幼い頃に出会っていた? そして、何か大切な約束を?


 思い出すのは、罪悪感だった。あの事故のせいで、私はきっとその約束を破ってしまったのだ。彼を、ずっと一人にさせてしまったのだ。


 だから彼は何も話してくれないのではないか。私がこれ以上、罪悪感に苦しまないように。彼の優しさが、今は鋭い刃となって私の胸を突き刺す。


 湊さんと会うのが辛くなった。彼の顔をまともに見られない。彼が優しく微笑むたびに、胸が張り裂けそうになる。私は、彼の優しさに甘える資格なんてない。


「最近、疲れてるんじゃないか? 無理するなよ」


 仕事帰りに花屋に寄ってくれた湊さんが、心配そうに私の顔を覗き込む。私は曖昧な笑みを浮かべて、「大丈夫だよ」と答えることしかできなかった。


『ごめんね、湊さん』


 心の中で謝りながら、そっと彼から距離を取る。本当は今すぐにでもすべてを打ち明けて、彼の胸で泣きたかった。でも、できない。蘇った記憶はまだあまりにも断片的で、不確かだったから。


 自分の記憶に確信が持てないまま、彼を問い詰めることなんてできない。それに、もしすべてを思い出してしまったら、私はもう彼の隣にはいられないだろう。


 彼を傷つけ、約束を破った私が、彼の隣で笑うことなど許されるはずがない。


 私たちの関係は、もう元には戻れない。ひび割れた硝子は、触れれば触れるほどバラバラに砕けていくだけだ。


 ある雨の日、私は一人であの教会を訪れた。湊さんと初めて言葉を交わした、思い出の場所。ステンドグラスから差し込む光は雨のせいで薄暗く、床に落ちる影はどこか悲しげだった。


 祭壇の前に立ち、静かに手を合わせる。


『神様、どうか教えてください。私は、どうすればいいのですか』


 答えなど、返ってくるはずもない。ただ冷たい静寂が、私の迷える心を包み込むだけだった。


 教会を出ると、雨はさらに強くなっていた。傘も差さずに雨に打たれながら、私は歩き続けた。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、もうわからなかった。


 決意というにはあまりに脆く、覚悟というにはあまりに儚い。それでも、私は心に決めた。


 湊さんから離れよう。


 彼がこれ以上、私によって苦しむ姿を見たくない。そして私自身が、罪悪感に押し潰されてしまう前に。


 それが、彼に対する唯一の誠意であり、償いのような気がした。ひび割れた心で彼を愛し続けることは、あまりにも残酷で、悲しすぎたから。

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