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失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。  作者: 久遠翠


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第4話「見えない約束」

 雫と恋人同士になってから、俺の世界は輝きを取り戻した。彼女の隣を歩くこと、彼女の笑顔を見ること、他愛もない会話を交わすこと。そのすべてが、十五年間夢見てきた未来そのものだった。


「湊さんの作る建物は、湊さんみたいですね。静かで、でもすごく温かい」


 美術館で彼女が言ってくれた言葉が、ずっと胸の中で反響している。俺が設計する建物には、無意識のうちに彼女との思い出が投影されていたのかもしれない。子供の頃、二人で作った秘密基地のような、陽だまりの温かさに満ちた空間。彼女が心地いいと感じてくれたのなら、建築家としてこれ以上の喜びはない。


 けれど、幸せな時間の片隅で、罪悪感にも似た切なさが常に燻っていた。彼女が時折見せる、記憶の空白に戸惑う表情。その度に、俺は真実を告げるべきかという葛藤に苛まれる。


『陽だまりとか、シロツメクサの花冠とか……男の子の笑い声とか』


 それはすべて、俺と彼女の記憶だ。俺がその男の子なんだと、どうして告げることができないのだろう。


 答えはわかっている。俺は臆病なのだ。今のこの幸せな関係が、過去の真実によって壊れてしまうことを恐れている。記憶のない彼女にとって、俺との約束は足枷でしかないのではないか。思い出させることは、彼女を苦しめるだけなのではないか。そんな考えが、ぐるぐると頭の中を巡る。


 仕事に打ち込んでいる時だけが、唯一その葛藤から解放される時間だった。今、俺は郊外に建設予定の小さな図書館の設計コンペに取り組んでいる。テーマは「記憶を繋ぐ場所」。奇しくも、今の自分の状況と重なるテーマだった。


 深夜のオフィスで、一人図面と向き合う。鉛筆を走らせながら思い描くのは、雫のことばかりだった。彼女が休日に訪れて、柔らかな光の中で本を読み耽る姿。子供たちが、絵本の世界に夢中になる姿。この場所が誰かの大切な記憶を育む場になってほしい。そんな願いを込めて、一本一本線を引いていく。


 ふと、机の引き出しの奥に仕舞ってある古いノートに手が伸びた。約束の年、十歳のクリスマスから書き始めた日記。毎年一冊ずつ増えていき、今では十五冊になっている。


 パラパラと、最初の一冊をめくる。拙い文字で、雫への想いが、約束を守るという決意が綴られていた。


『しずくが、おれのことわすれちゃった。すごくかなしい。でも、おれはおぼえてる。やくそく、ぜったいまもるから。だから、はやくげんきになって』


 涙で滲んだインクの跡が、当時の俺の痛みを物語っていた。ページをめくるごとに文字は大人びていくが、そこに込められた想いは少しも変わらない。一人で教会に通ったクリスマスの夜のこと。街で偶然彼女の姿を見かけて、声をかけられなかった日のこと。彼女を想わなかった日は、一日もなかった。


 この日記の存在を、彼女は知らない。これは俺だけが背負うべき過去だ。彼女には、ただ笑っていてほしい。過去に縛られることなく、今を、未来を生きてほしい。


『俺は、君が忘れても全部覚えているから』


 ノートを閉じ、引き出しの奥に戻す。そして、再び図面に向き直った。


 そうだ。俺にできることは、建築家として未来を創ることだ。彼女と共に歩む未来を。俺たちの新しい記憶を、これから一つずつ大切に積み重ねていけばいい。見えない約束は、俺が一人で守り続ける。いつか彼女がすべてを思い出し、俺を責める日が来たとしても、それを受け入れる覚悟はできている。


 外の空が白み始めていた。俺は大きく伸びをすると、新しいプランを描き始めた。それは、図書館の中心に一本の大きな木を置くというデザインだった。訪れる人々がその木を囲み、語り合い、新たな物語を紡いでいく。まるで、俺と雫のように。


 失われた記憶の代わりに、新しい思い出を。過去と未来を繋ぐ、温かい場所を。


 その図書館が、俺から彼女への声にならないラブレターになる。そんな気がした。

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