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失われた記憶の先で、もう一度君と恋に落ちる。聖夜の教会で始まる、切ない恋物語。  作者: 久遠翠


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第3話「温もりの在処」

 湊さんと会うようになって、二週間が経った。週に一度か二度、仕事終わりに食事をしたり、休日に少し遠出をしたり。穏やかで満ち足りた時間が流れていく。私の日常は、彼という存在を得て確かな色と温もりを帯び始めていた。


 彼と一緒にいると不思議なほど心が安らぐ。初対面の時から感じていた、あの懐かしい感覚。それは時を重ねるごとに薄れるどころか、ますます色濃くなっていくようだった。


 今日も、私は彼が設計を手掛けたという美術館に来ていた。吹き抜けになった開放的なエントランスは、ガラスの天井から柔らかな冬の日差しが降り注ぎ、空間全体を優しく包み込んでいる。


「すごい……光が、まるで生きているみたい」


 思わず感嘆の声を漏らすと、隣を歩いていた湊さんが嬉しそうに目を細めた。


「光は、建築にとって一番大事な要素なんだ。そこにいる人が心地いいと感じられる光をどう取り込むか。いつもそればかり考えている」


 真剣な眼差しで語る彼の横顔は、いつもの穏やかな雰囲気とは違う情熱的な色を帯びていて、私は、また一つ彼の新しい一面を知った。


「湊さんの作る建物は、湊さんみたいですね。静かで、でもすごく温かい」


「そうかな」


「はい。ここにいると、すごく落ち着きます。ずっとここにいたいって思うくらい」


 素直な気持ちを口にすると、彼は少し照れたように視線を逸らし、「ありがとう。最高の褒め言葉だ」と呟いた。その仕草がなんだか可愛らしくて、私はくすりと笑ってしまった。


 展示室を巡りながら、私たちは他愛もない話をした。好きな映画のこと、最近読んだ本のこと、子供の頃の思い出。


「子供の頃の記憶が、私、あまりないんです。事故に遭ってしまって」


 ぽつりと、自分のことを打ち明けた。彼には知っておいてほしかった。今の私を形作る、大きな空白について。


 湊さんは驚くでもなく、ただ静かに私の言葉に耳を傾けていた。そして、「そうだったんだ」と一言だけ相槌を打つ。彼のその落ち着いた反応に、私はかえって救われた気がした。同情でも過剰な気遣いでもない。ただ事実として受け止めてくれる、その優しさが心地よかった。


「でも、湊さんといると時々思い出すんです。断片的にですけど……」


「思い出す?」


「はい。陽だまりとか、シロツメクサの花冠とか……男の子の笑い声とか。それが何なのか、誰なのかは全然わからないんですけど。すごく温かい記憶だってことだけは、わかるんです」


 話しながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。それは湊さんが隣にいるからだろうか。彼といると感じる安らぎは、この失われた記憶と何か関係があるのかもしれない。


『この気持ちは、何なのだろう』


 彼に惹かれていることは、もうとっくに自覚していた。でも、それは単なる恋心だけではない気がする。もっと深く、魂の根の部分で繋がっているような、そんな感覚。私の温もりの在処は、きっと失われた記憶の中にある。そして湊さんは、その扉を開ける鍵を持っているのではないか。そんな予感がしていた。


 美術館を出ると、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。


「送るよ」


「ありがとうございます」


 並んで歩く道。繋ぎたいと思った手を、コートのポケットの中で握りしめる。あと少し、勇気が出ない。


「雫さん」


 不意に、湊さんが立ち止まった。私もつられて足を止める。


「あの……もし、君さえよければ」


 彼は少し言い淀んだ後、真っ直ぐに私を見つめて言った。


「俺と、付き合ってもらえませんか」


 時が、止まったようだった。街の喧騒も、冷たい風の音も聞こえない。ただ、彼の真摯な瞳だけが私の世界を満たしていく。


 返事は決まっていた。いや、最初から答えなんて一つしかなかった。


「はい」


 私がそううなずくと、湊さんは心の底から安堵したようにふっと息を吐いた。そして、今まで見た中で一番優しい笑顔で、私の手をそっと取る。彼の大きな手は少し冷たかったけれど、すぐに私の体温と混じり合って、確かな温もりを伝えてきた。


 繋がれた手から伝わる温もり。それは私がずっと探していた、温もりの在処そのものだった。失われた記憶の答えはまだ見つからない。けれど今はそれでいい。この手の温もりを信じて、彼と一緒に歩いていきたい。心から、そう思った。

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