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「フレイヤ…!待てって、フレイヤ!」
「嫌よ」
城で開かれた豪華絢爛な舞踏会。皇室お抱えの楽団が奏でる、脳髄を蕩かす様な美しい音色もお構いなしに足早にテラスに出た一人の令嬢を追って、背の高い貴公子が彼女の腕を取った。
目を引く銀髪に、瞳の下半分に金が混ざった薄紫色の双眸を持つ美青年の名はノア。ここオルグレン帝国の第四皇子。両親の美貌を余すところなく受け継いだ兄弟一の美形にして放蕩皇子だ。そんな彼の婚約者が、目の前のご令嬢である。魔術の天才と謳われるフレイヤ・ラムリー侯爵令嬢。金の巻き毛に赤い双眸の華やかな美少女だ。頑なに自分の方を見ようとしない婚約者に、ノアは如何すれば良いのか分からず必死に弁明する。
「わ、悪かったよ…。俺がいつもフレイヤといるから、少しは他の令嬢達の相手をしてやれってルーカスの兄貴に言われたんだ。だから、適当に目についた令嬢に声をかけたんだけど…まさかヒロインとやらだとは思わなくて…」
「ちゃんと彼女の特徴は教えたでしょう?なのに自分から声をかけるなんて!ノアのアホ!馬鹿!『着飾ってたから誰か分からなかった』なんて言い訳は聞かないからね!」
「うっ」
事実ドレスアップしてばっちり化粧をしたヒロインに、彼女と気付かないで声をかけたノアは言葉につまる。いや、だって本当に分からなかったんだ。フレイヤなら、どんな格好をしていたって分かるのに。顰めっ面で黙り込んでいると、ふいにフレイヤがノアとの距離を詰めて囁いた。その声に甘さをのせて。
「じゃぁ──許してほしかったらぎゅってして?」
「なっ、こっ…此処で!?」
切れ長の双眸を見開いたノアが素っ頓狂な声を上げて、咄嗟に背後を振り返る。テラスとダンスホールは分厚い緋色のカーテンで仕切られており、此方の様子を伺うことは出来ない。気を利かせた侍従が、此方が気付かない間に周囲の視界を遮ってくれた様だ。そんな優秀(?)な侍従は、現在テラスから程よく距離を取って気配を消している。自分が咄嗟に確認しようとしたものが何なのか、美しい幼馴染みはしっかり把握したらしい。勝ち誇った表情で、ますます身体を密着させてくる。香水の甘い香りと服越しに感じる柔らかい感触が強くなって、フレイヤの肩に手を置いたまま、ノアは途方に暮れて憎たらしいほど綺麗な星空を眺めた。
(ああ、もう…どうしてこうなったんだ…!)
始まりは、魔術の天才と噂のフレイヤを一目見ようと、第四皇子ノアがラムリー侯爵領にある邸宅に遊びに行ったのが切っ掛けだった。オルグレン帝国の四人の皇子達は、それぞれが別方面で優れていた。第一皇子は政治、第二皇子は外交、第三皇子は芸術、第四皇子は容貌。第四皇子は『そこは武芸だろーが!』と喚くが、なにしろ彼は見目が良い。すこぶる良い。彼と対面した人物はみな、口を揃えて『顔面が良すぎて何話したか忘れた』とのたまう程に顔がいい。一部の令嬢は『顔面が発光して見えた』と目を押さえて悶えたとの噂がある。降り注ぐ月光を集めたかのような銀髪は少しの癖もなく、薄紫の瞳は下半分に金色が混じった不思議な色合いでじっと見つめていると吸い込まれそうな魅力があった。日に焼けるという事を知らない白皙の肌にすらっと伸びた手足。美男美女の両親の良いとこを余すところなく受け継いだ幼い頃の第四皇子ノア・フィオレンツァは、自身が一切習得できなかった魔術を使いこなすと噂のご令嬢を一目見てやろうと思いつき、そのままの勢いで城を出てはるばる侯爵領までやって来た。令嬢の身で魔術を嗜むなんて変わり者だ。宮廷魔術師の様に魔術となると目の色を変えるのだろうか。それとも好奇心と向上心が世間の常識を上回るような人物なのだろうか。
「たのもーーーーーー!!!」
ババ―――ン!と効果音がつきそうな勢いで侯爵家の邸の扉が開かれる。開けたのはノアではなく、護衛として引き摺って来られた、突然の強行軍に疲労困憊の若い騎士。開けるというよりも彼が体力の限界で倒れこんだ勢いで扉が開き、両手と両膝をつき肩で息をしていた。この騎士にとって不幸だったのは、この時の強行軍についてこれたせいで後日ノアの護衛騎士に任命された事であろう。無言で彼の肩に手を置いた第一皇子の目は、憐れみに満ちていたそうな。侯爵家当主兼騎士団長のエドウィン・ラムリーは皇帝からの手紙で皇子が来る事を知っていたので、ある程度の事態に備えられるようにしていた。若い騎士をメイドに介抱させようとした時、彼の横を小さな影が横切った。
少女らしいフリルやレースがふんだんにあしらわれた赤いドレス。金の巻き毛を赤いリボンでハーフアップにした少女は、騎士の傍に膝をついた。桃色の唇がゆっくり開かれて、鈴の音を転がしたような可憐な声がゆったりと紡がれる。
「――まぁ、大変。お加減が悪いの?わたくしが楽にしてあげるわ」
そう言って騎士の額に手を翳すと、淡い光が騎士を包んだ。光が消えた時には騎士の体からはすっかり疲労が消えていた。回復魔術だ。他者の体に作用する魔術は、攻撃系の魔術等と違い扱いが困難である。それを息をするように簡単に扱った少女こそが、ノアのお目当ての人物。この出会い以降長い時間を共に過ごす事になる、魔術の申し子フレイヤ・ラムリー侯爵令嬢であった。フレイヤは立ち上げると、瞠目して自分を見つめる美貌の皇子にも臆する事無く見事なカーテシーを披露した。所作の美しさにノアは息をのんだ。
「御機嫌よう殿下。ラムリー侯爵家長女、フレイヤにございます。此度の訪問、侯爵家一同心よりお待ち申し上げておりました。……ですが、一点、申し上げてよろしいでしょうか」
「な、なに?」
フレイヤは背筋を伸ばし、赤い瞳で真っすぐにノアを見据える。思わずその赤に釘付けになった。
「もっと臣下を慮ってくださいませ。騎士は使い潰してよいわけではありませんのよ。皇族たる者、仕える者にも慈悲深くあらねばなりませんわ」
流石に強行軍過ぎたと自覚があったノアは、耳の痛い忠告に一瞬ぐっと押し黙ったが、素直に育っていた彼は正論に肩を落として騎士に『ごめんね』と謝っていた。騎士もエドウィンも鍛錬不足が原因だと思っていたが口には出さなかった。皇族といえども、素直に非を認める事も必要だと判断したからだ。ノアが素直に非を認め謝罪を口にした事で気が済んだフレイヤは、改めてノアに微笑んだ。その笑みは上品さを保ちつつも少女然とした、溌溂さに満ちたものだった。
「お庭に参りませんか?そこで、魔術をお見せしますわ!」
「いいのー!?」
キャッキャウフフと笑いながら大人を置き去りにして去っていった二人。ちゃっかり手なんか繋いでいた事をエドウィンは見逃さなかった。なんだあれ。なんなんだあれは。初対面だというのにいきなり仲良くなりすぎでは?え?
「もしや……恋………っ!!」
「いえ、それは違うかと…」
白目を剥いてショックを受けるエドウィンに、いくらか回復した騎士がそっと否定する。ノアは魔術見たさに、フレイヤは魔術披露したさ故だろうと見当がつく。だが、彼等は知らなかった。今回の件で二人はすっかり意気投合し、侯爵家と城を互いに行き来する仲になり――面白がった皇帝によって婚約し、仲の良さに拍車がかかるなど――予想もしていなかったのだった。