私はモーレス!
一夜明けた。ゴミ箱の外はいまだ霧が晴れず、薄明るい。
死んだ今となっては睡眠も必要なかったのだが、特に話すでもなくボーっとするよりは、目を閉じている方が比較的楽だった。
周辺を見回すと、昨晩よりは幾分状況を把握しやすい。道では人間が大層な格好をして歩いていたり、馬が人間を引きずり回したりしている。煙たい灯りはまだ灯っていたが、数分すると向こうの方から徐々に消えていくのが見える。
「やぁ、起きなすったかいノワールさん」
「あぁ、おはようモーレス」
ゴミ箱の方角からモーレスが声をかけてきた。
モーレスは家がない割に、身なりは最低限の整い方をしていた。道を歩く人間ほどではないが、服は上下来ており、帽子もかぶっている。汚れてはいるがほつれてはおらず、唯一髭だけがぐしゃぐしゃになっている。
「私はこれから朝飯を探しに行きますが、ノワールさんどうします?」
「そうだな。せっかくだしついていこう」
「そいつぁ嬉しいや。食事は賑やかな方がいい」
モーレスは嬉しそうに道を歩いていく。
街を歩いていると、道行く人間の何人かがモーレスに声をかける。
「おはようモーレス、御機嫌はいかがかな?」
「おはようごぜぇますハンズさん、気分上々だよ」
「おはようモーレス、これからどちらへ?」
「おはようチェスター、いまから朝飯なんでさぁ」
「モーレス、君はずいぶんと人気者なんだな」
「いやぁ、たまたま挨拶しているだけでさぁ。
みんなどうしてか私の名前を知ってくれてるんです」
「では、さっきの人間の名前がどうしてわかるんだ?」
「適当ですよぉ。
最初の方は手を振って下さったので、『ハンズ』。
次の人はとても胸を張っていらっしゃったので、『チェスター』。
こうして名前を差し上げると、たまにチップを恵んでくださるんですよ」
そうして話していると、一人の女性がモーレスの前に現れた。
「ごきげんよう、モーレス」
「あぁ、おはようございますエレジーナさま。今日も美しいですね」
「ありがとう、モーレス。
・・・これからお食事でもどうかしら?」
「あぁいやいや、私のような人間が、あなたのようなご婦人様と食事だなんて恐れ多いです」
「そんなこと言わずに・・・きっとここ数日何も食べてないでしょう?」
「そんなこたぁございません。
ちゃんと一日三食、朝昼晩たべてますよぉ」
「嘘おっしゃい、あなたって人は昔からそうやって・・・」
「はて、もうそんな長い付き合いでしたかな。
申し訳ございません。歳を取るとどうも忘れっぽくてならねぇ」
「ロバーク・・・」
「では、お嬢さん、私は朝食会場に向かわにゃなりませんので、
ここいらで失礼しますね」
そういうとモーレスは深々と会釈をして、女性の横を通り過ぎた。モーレスはなんてことない顔をしていたが、女性は、霧がその姿を隠すまでモーレスを見つめているように見えた。
「モーレス、君のフルネームはベル・モーレスじゃなかったか?」
「えぇ、そうですよ。私は町の人気者ベル・モーレス!」
「しかし、今のご婦人は君のことをロバークと呼んでいたが・・・」
「きっと誰かと間違えていらっしゃるんですよ。
さもないと私のような人間に、あんなに綺麗な人が食事に誘うわけありませんで」
「・・・そうか」
「ここじゃあよくある話です。
この町は年中霧が濃くて、互いの顔なんかまともに見れないのが普通なんです」
「それじゃあ、どうやってお互いを区別するんだ?」
「これですよぉ」
そういうと、モーレスは胸元のブローチを見せてくれた。ブローチは、四葉のクローバーの形をしたもので、石は一つ欠けてしまってはいるが、とても透き通った緑色の石だった。
「ここじゃあ顔は見えないけど、胸元は良く見えるんです。だからみんなそれぞれにこうしてブローチをつけて、個性を出すんです」
「へぇ・・・それはいい。
しかし、それだと名前なんてほとんど意味がないんじゃないか?」
「どうして?」
「だって、結局はその胸の飾りを見て『あ、こいつは誰々だ』ってわかるわけだろ?
それなら別に名前なんて必要ないじゃないか。
『クローバーの君』とか、『チューリップのご婦人』とか、そんなんでいいんじゃないか?」
「・・・実際はそうです。
現にこの町で名前を持っている人なんてのは限られています。
おっしゃる通り、皆ブローチで呼び合います。
名前を呼びあうなんてのは、よっぽど親しいか、家族としか呼び合いません」
「でも、君は名前を呼び、名前を呼ばれるじゃないか」
「そりゃそうですよ」
「どうして?」
「うれしいからですよ。
普段何でもない人からはブローチで呼ばれる人が、知らない人でも名前で呼ばれるってのは、人として生きている気がして心地いいんでさぁ。
でもね、みんなは相手のことをなんて呼べばいいかなんて分かんないから、結果的に呼べねぇんです」
「・・・とすると、君は昨日名付けた人に、翌日は違う名前で呼んでたりするのか?」
「当然じゃないですか!
顔が見えないこの町で、物覚えの悪い私がいちいち人のブローチなんて覚えられませんよぉ」
「それじゃあ、名前の意味なんてないんじゃないか」
「わかってないなぁノワールさんは。
ほら、もうすぐ朝食会場に到着しますよ」
そういうとモーレスは私を手招きして路地裏へ招き入れる。しかしそこは、昨夜モーレスと寝ていたゴミ箱だった。同じように見える別の路地裏かもしれないと、モーレスに確認する。
「モーレス、ここは昨日の路地裏じゃないのか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
こういうのはねノワールさん、思い込んだもん勝ちなんですよ」
「・・・そういうもんなのか」
「そういうもんです!
ささっ、行きましょ行きましょ!」