霧立ち込める街で
見覚えのない街を、徒然なるままに歩く。扉をくぐったときの靄は、半分ほど晴れてからは解消の兆しを見せない。残念ながら辺りは暗く、行き交う人間の顔は黒い影と白い靄に覆われている。人間以外を探そうとするも、ネズミの気配こそすれ、たちまち姿を消してしまう。
どうしようもないので、歩きながら考えることにした。
こうして一人歩いてみると、猫という生き物は実にちっぽけな命だと感じる。人間は私の数倍早く移動し、そして人間よりはるかに大きい建物に入ってゆく。
生前のことは一切覚えていないが、少なくともこの世はこの建物より大きく、広く、果てしない。そんな広い世界の中で、私はこの小さい足で歩くのが精いっぱいだ。
転生するか、永い眠りにつくか。
頭を悩ませていると、雨が降ってきた。いくら死んでいる私と言えども、雨に降られる義理はなかった。
路地裏に入り、ごみ箱の中に入る。ゴミ箱の中は臭いこそしないが、ハエが鬱陶しく羽音を立てているのが分かる。
「さぁて、どうしたものか」
「おやぁ、いま入ってきたのは子供かな?」
うわぁ!とつい大きな声を上げ飛びあがってしまう。
「あぁすまんすまん、驚かすつもりはなかったんだ。
ちょっと雨宿りをしようとここに入っていたら、いきなり声が聞こえたもんでびっくりしちまったんだ。
ごめんよぉ。狭くないかい?」
声の主は私を気遣っていた。悪い奴ではないかもしれない。悪い奴だとしても、私にどうこう出来ることはないだろう。
「こちらこそ申し訳ない。雨に濡れるのはどうも好かんので、ここで止むまで凌ごうとした次第だ」
「あらら、随分とまぁ大人っぽいお子さんだね」
「子供ではない。大人でもないが、君よりは年上かもしれないな」
正面の声の主は、何かを探り、カチッと音を立てた。すると火が噴出し、二人を照らす。目の前にいたのは、髭を生やし、少し頬のこけた男だった。男は一瞬私と目が合ったが、少し固まった後に、炎を周りに向ける。正体をつかめないでいる男は、再び私と目を合わせる。
「驚かせてすまない。
私だ。君と話しているのは」
「は…ははは!
はーっはっはは!こいつぁすごい!
しゃべる猫なんて、絵本でしか読んだことがないよ!
すごいなすごいな!
猫さん、なんてお名前で?」
「名前はない」
「そうですかいそうですかい!
私の名前はベル、ベル・モーレス。よろしくね、猫さん」
男はこの小さい空間でも、気品をもって私に右手を差し出してきた。差し出された右手に、私は試しに前足を持っていってみせるが、案の定男の手をすり抜けた。
「おやぁこれはこれは・・・」
「そういうことだ。私はすでに死んでいる」
「死んだ猫さんが、雨宿りなんてしてるんですかい?
はーっはっは!こりゃ傑作だ!
いやぁ失礼失礼、生き物の大先輩を笑っちゃいけねぇ。
許してくださいね猫さん」
「別に構わんさ。
私だって雨に濡れないことは分かっているものの、どうしても無抵抗に降られるのは癪に障るのだ。
雨に降られるくらいなら、まだ笑われる方がましだ」
男は笑顔のまま私を見ていたが、手が痺れたのか火を消してしまった。
お互いの顔が見えなくなったまま、男は話し続ける。
「ところで、お亡くなりになった猫さんが、いったいなんでまたこんなゴミ箱にいるんです?」
「だから、雨を凌ぐためだ」
「あぁいやいや失礼。
その、なんというか、何か未練でもあるんですか?
まさかこのごみ箱でお亡くなりに…」
「そうかもしれないが、目的は違う」
「目的・・・ってのは?」
「私は、生きるべきか眠るべきか、それを今見極めているんだ」
真っ暗で見えないが、男はぽかんとした顔をしている気がした。私だってそんなことを言われたら、気の利いた言葉なんて出てこないだろう。
ひとまず、私の現在に至る経緯を簡単に説明した。男はただ時折返事をするだけで、私の話を静かに聞いていた。
ひとしきり話すと、男は少し黙ってから返事をした。
「・・・それはなかなか難しいですな」
「貴殿はどう思う?」
「私ですか?
私は・・・そうだなぁ
私は生きたいなぁ」
「どうして?」
「人間、生きているといろんなことがあります。
猫のあなたには少し難しいかもしれませんが、人間ってのは実に複雑な世の中で生きているもんです。
でも、そんな中でも、幸せは沢山転がっています。
夢は、それは幸せな夢かもしれませんが、夢は夢です。現実じゃあない。
この肌で、この目で、この体で感じるからこそ、幸せは幸せなんだと私は思うんです」
「猫に生まれ変わったら、幸せだと思うか?」
「えぇ、私ね、一回でいいから、猫になって屋根の上を我が物顔で歩いてみたいんですよ。
王様みたいで、きっと気持ちが良いに決まってます」
「そうか。
では、今の自分にもう一度生まれ変わったら、幸せか?」
「そうですね・・・。いや、きっと幸せです。
私は、もちろん辛い時もありますが、幸せな時はそりゃもう幸せでした。
それはきっとこれからだってそうです。
だから、私はもう一度私に生まれ変わっても幸せでしょう」
「ふぅん。そんなもんかね」
「そんなもんですよ。猫さんだって、夢を見るのも悪くないってだけだから、生きる理由を探しにいらっしゃったんでしょ?」
「どうだかなぁ・・・」
見えない空を見上げて、少し考えこむ。考えても、耳に入ってくるのはハエの羽音と、雨の当たる天井の音だけだった。しばらく何も言わない私に、男はそーっと声を出す。
「じゃあ猫さん、明日私と一緒に過ごしませんか。それを見て決めてみては?」
「悪くない」
「じゃあ、今日はひとまず休みましょう。
猫さん・・・うーん」
「なんだ?」
「いやぁ、ここまでお話しておきながら、『猫さん』と呼ぶのもそろそろどうかと」
「私は猫だ。猫と呼んで悪いことなどないだろう」
「そりゃそうかもしれませんが、私の良心がチクっとするんです。
よかったら、お名前差し上げてもいいですかい?」
「かまわない。好きに呼ぶと良い」
「では・・・ノワール、そう、ノワールなんてのはどうですか?」
「好きに呼ぶと良い」
「あぁよかったよかった。
それじゃあひとまずおやすみなさい、ノワールさん」
「あぁ、よく眠れ、モーレス」
この日、吾輩はゴミ箱の主、モーレスと出会った。
名はノワール。