吾輩は猫であった
吾輩は猫であった。
名はもうない。
なぜ死んだのかとんと見当もつかぬ。
ただ、死ぬ間際はひどく穏やかであったことだけは覚えている。
なぜ死んだことを自覚しているのか、その理由は定かではないが、この白い空間は、私が生きているにしては異様なまでに静寂で、気配のない、そう、無機質な場所だ。吾輩がこのような場所に進んでくる道理は、生前より持ち合わせてはいなかったはずだ。目の前にある扉は、私のちょうど背丈くらいの扉、生前このようなものは見たことがない…と、生前の記憶を探ろうとしたが、どういったわけか覚えていない。
「まいった」
ふと弱音を吐いた時だ。背後からそれはまた愛想のない声が私に声をかける。
「やあどうも、お疲れ様でございました。
どうぞこちらへ、さあさあ」
奴に向き直りまじまじと見るが、そいつが何なのか見えにくい。ぼんやりと猫であるような気はするが、気がするだけで猫であるという確証はない。
「申し訳ない、貴殿は猫か?」
「おぉ、私が猫に見えますか。上々上々。ふつうはね、自分が生前何だったかなんて覚えていないものなんですよ。あたな、生まれ変わったら前世の記憶が少しある一生を歩むかもしれませんね」
「ほほう、それは面白い。いやしかし、私は生前のことは覚えておらんのだ」
「それは正常正常。これから選択するにあたって、生前の記憶は純粋な判断を濁してしまいます」
「選択というが、いったい私に何を選ばせようというのかね」
「“これから”でございますよ」
奴が手招きをして、一つ隣の部屋に移る。他にはどうしようもないので、奴の向かった方向へ動く。追いつくとそこには扉がひとつと、分かれ道が一本伸びていた。
「さぁさぁ、では選びましょうね。次の一生へゆきますか?それとももう打ち止めますか?」
「打ち止めるとは、なにを?」
「命を持つことでございます。とくと体が脈を打ち、風に吹かれ地を這う。命が削れ、苦しみ、やがて穏やかにまた死ぬ。これを新たな命としてもう一度始めることもできれば・・・、もう二度と、そういった苦しみを味わうことなく、ただただ平穏な光の中で眠ることもできます」
「眠ると、どうなるのだ」
「生き物にもよりますが、夢を見ます」
「どんな夢を?」
「生き物にもよりますが、比較的幸せな夢を見ているようです」
生きるのは悪いことではないが、夢を見るのも悪くない。はて困った。こうなっては選びようがない。
「猶予はいかほどいただけるのか?」
「じっくりお考え下さい。ここは今だけの空間ではございませんので」
直立不動で困って、どれくらい経っただろうか。なにせ、何もないので考えがあっちに行ったりこっちに行ったりする。あっちに行ったりこっちに行った考えは、何もないのでそのままあらぬ方向に広がっていく。不思議なもので、邪魔するものがないと何もまとまらないものだ。
「すまない、考えがまとまらない」
「いいんですよ。じっくり考えてください」
「・・・考えるのは、ここじゃないと駄目なのか?」
「といいますと?」
「邪魔なもののある場所で考えたい。例えばそうだな・・・現世で考えるというのはできるか?」
「えぇ、できますよ。いろんな現世を見て、次の自分の一生について考えるのもまた一興でしょう。
ただし、現世はこことは違い制約があります。死後のあなたが現世に過度に干渉するのは良くないので、一世につき一日、それを七日間まで待って差し上げましょう」
「七日もいいのか?そんなに時間はかからないと思うが」
「案外かかるものですよ。行ってみればわかりますとも」
「干渉してはいけないというのは、どのくらい干渉してはいけないのか」
「一世につき、ひとつ、会話をする相手を得られます。その対象としか会話はできません。
一世につき、いちど、物を動かして結構です。しかし、動かせるものはあなたの力量次第。」
「承知した」
奴はひとたび頷くと、ひらりと扉の表裏をひっくり返す。そして開いた扉の先は、白くもやがかかっていてよく見えない。ただ、風が吹いてくる。その風はえらく爽快で、向かい風ではあるが誘い込まれているようだった。
「いってらっしゃい、お気をつけて」
奴を振り返ることもなく、私は扉をくぐる。
降り立ったのは霧の深い、煙たい明りの灯る夜の街だった。