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大嫌いなあなたに贈る花

作者: ヤングコーン
掲載日:2022/05/06

ガシャン、と近くで何かが割れる音がした。同時に、「いったーい」と甲高い声がした。その音の方向に目を向けようとする前に、教室の扉を思いきり開き飛び出していく、女子生徒の姿を捉えた。

 

神崎だった。

音の方向には彼女の机となぎ倒された椅子と、床には割れた花瓶とこぼれた水、一輪の花。見たことのない花だった。とげのようにとんがった花びらが、僕の視線を突きさすように倒れていた。

 ざわざわ、と教室がさざめいている。


「りっちゃん、大丈夫?!」

りっちゃんと呼ばれた女子生徒、木崎凛香は、割れた花瓶が、最大限に短くしたスカートから露出した太ももにかすったらしい。大したことないだろうに。

「まじ、なんなのあいつ」

凛香を心配するように見せて、必要以上に大きな声で声をかける芦谷菜穂。片足で花を踏みつけていた。親友を心配するものではなく、神崎によって傷つけられたことを誇張するように叫んでいるのだろう。

 

彼女ら二人は性格が悪い。有名なことだ。いつも神崎をいじめている木崎らは、見た目も同様、それも内面からにじみ出たものが相まって、醜女極まりないのだった。


木崎の方は、低すぎる鼻をシェーディングでごまかし、野暮ったい一重をアイプチで釣り上げ、壁のように平らな後頭部をもう量の多いボブで隠している。


芦谷は、金髪に染め、平凡な顔を、メイクで派手に盛っている。それに気づかない馬鹿たちは、彼女らに媚を売り、合わせて神崎を笑い、慕っているかのように見せている。


木崎と芦谷の何十倍も、いや比べるには及ばない、美しい顔をした神崎を「ブス」と罵っている。それなのに、時には、彼女の整った顔を見て、「あいつは整形している」と言いふらしているのだ。

勿論、幼い時から彼女を知っている僕は、整形ではないことを知っている。

  

だけど彼女らは知らない。ほとんどのクラスメイトが、本当に馬鹿にしているのは木崎と芦谷であることを。


たとえ見た目をごまかしても、神崎にはかなわない。神崎のことをひっかけようとする足は、それで自分の足をもつれさせていることを分かっていない。

彼女らの肩を持っているのは、神崎の美貌を妬むろくでもない奴らばかり。大半のクラスメイトは、心の中では奴らを軽蔑し、神崎を哀れんでいる。もっとも、神崎は哀れみの対象になるなど喜びやしないだろうが。

 

神崎がどこに行ったのかは大体見当がついている。だが、僕が行ったところで彼女はどう思うだろうか。もうそこにはない背中に目を向けながら、そんなことを考える。あんなに取り乱した神崎を見たのは久しぶりだった。

 今ではすっかり話すことがなくなってしまった僕が追いかけても、拒絶されてしまうだろうか。もう、彼女の世界に僕はいないかもしれない。——そうやって、彼女の心配よりも先に、自分がどうすれば傷つかないかを考えてしまう自分が嫌だった。

 

タオルと、折り畳み傘を持つ。彼女のところに行こう。今、僕が行かなければ、このまま二度と会えなくなる。そんな危ない予感がした。

 

心を決め、被害者ぶる木崎と芦谷と、その取り巻きが騒ぐ教室を残して、出ていった。


その後どうなろうがどうでもよかった。

 

 


外では、思ったより結構な雨が降っていた。あの様子では、傘を持っていく余裕などなかっただろう。神崎の傘がどれか分からなかったので、置きっぱなしの自分の傘を掘り出して、持っていくことにする。

 

今日のものは、そうであるべきではないのだけれど、彼女にとってはありふれたいじめの一つだろうが、ちりに積もった感情が爆発したのだろうか、らしくなく教室を飛び出していった。いつもは、木崎たちに何をされても、顔色一つ変えず過ごしているのに。

 

自分の感情が制御できなくなった時、彼女は鳥籠をぶち壊し、外に逃げ出していく。そして決まってあの公園のベンチで一人、座っている。


傘を差しながら走るのも邪魔くさくて、せっかく持った傘を広げることなく走った。あっという間にずぶ濡れになり、信号待ちの中、傘を差せばよかったと後悔した。もう遅い。ぶるっと震える体をさすり、また駆けだした。


 


——やはり、神崎はそこにいた。〈木ノ谷公園〉に足を踏み入れる。遠くからでも、神崎もずぶ濡れになっているのが分かる。

 

「神崎」


神崎は、目の前に立つ少年をしげしげと見た。そして、それが良く見知った人物だと分かると目を見開いた。

 

「柳田くん?どうしてここに」

 

彼女の質問には答えず、折り畳み傘を広げて差しだす。それから、スポーツタオルも渡した。

 

「柳田君が、濡れちゃうよ」

 

やはり、もうずいぶん濡れている僕を見て、神崎が申し訳なさそうに言った。

 

「大丈夫、もう一つあるから」

 

無駄ではあるけれど、格好だけでも傘を開いてみせる。そうすると、神崎は安心したような表情を見せて、ありがとう、といって傘を手に取った。

 

髪や体を拭くには、片手がふさがっていたらやりにくいだろうかと思い、傘を持ってようかと提案する。神崎はそれをやんわりと断り、片手で髪を拭いていた。

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

「わざわざ、追いかけてきてくれたの?」


神崎が、目を伏せて言った。

 

「大きな音がしたと思ったら、神崎が飛び出していくのが見えたから」

 

そっか、と神崎が小さな声で呟くように言った。

 

「どうして。今日に限って」


責めるような口調ではなかったが、その声は哀しみを帯びていた。それもそうだ。今まで僕は何もできなかった、いや何もしなかったのだから。


「…今まで、ごめん。何もできなくて」


さっきの言葉は、無意識に出たものなのだろうか、神崎は、僕が謝罪したことについて、驚いた顔をした。真っ黒な瞳で僕を見つめた後、目をそらして、別に大丈夫だよ、と小さな声で言った。そして、にっこり笑う。


「あんなやつら、ほっとけばいいもの」

 

彼女らしい返答だったが、なんだか、強がっているように聞こえた。いじらしく笑う彼女を見て、思わず抱きしめたくなった。細くて小さな体を、枝のように折れてしまいそうな腕を、骨ごと、臓器ごと、握りしめてつぶしたくなった。それほどに神崎が愛おしかった。


 彼女がベンチから立ち上がる。


「私、もう、帰るね。風邪ひいちゃうから、柳田くんも、友達が心配してるよ、きっと。傘とタオル、ありがとね」


私のこと心配する人なんて一人もいないだろうけどね、と自嘲気味に笑って言った。

やっぱり、どこかおかしい。

 

「柳田くん⁉」


思わず、傘をほっぽり出して、彼女を抱きしめていた。雨に濡れた体は、冷たすぎて、互いの体温も分からなかった。そのうち、彼女の小さな手も僕の背中に回ってきた。それが、しばらく続いた。

 

「昔、この公園で一緒に遊んだね」


 ゆっくりと、僕の体から離れながら神崎が言った。


「君はブランコが好きだった」


閑散とした公園を見渡しながら僕は言った。おさまつに、ベンチが一つだけ置かれた、だだ広いだけの公園。ボール遊びも騒ぐことも、近隣の住民に迷惑になるからという理由で、禁止されている。昔はブランコも砂場もシーソーもあって、子供の遊び場になっていたのに。



 彼女が好きだった、ブランコがあった場所は、何もない、更地だ。


 「あのね、柳田くん」


ゆっくりと、少しずつ言葉を紡ぎながら、神崎が言う。


「…柳田くん。ずっとあなたに伝えたいことがあったの。あなたに受け止めてほしい、私の気持ち」


僕の目を、まっすぐと見つめる。


「私はね、ずっとあなたが——」

 

次の言葉を紡ごうとした、その彼女の唇をそっと押さえる。そしてそのままキスをした。神崎は、驚きの表情を浮かべたかと思うと、そのまま力を抜き、僕に体を預けてきた。こ のまま時が止まってもいいと思った。体が雨に濡れて冷たい中で、彼女に触れた部分だけが熱を帯びていた。

 

神崎の体を離し、彼女の唇についた唾液を拭う。雨か、涙が、唾液か、ぐちゃぐちゃになって、何かわからなくなっていた。

 

そしてすぐ、僕は自分の行動を恨んだ。神崎はキスを受け入れた。彼女は拒絶する間もなかった。

「ごめん」

 

パチン、と、この雨の音の中でも響き渡るくらいの音が鳴った。左頬がじんじんと痛み、それから僕はぶたれたことに気が付いた。

 

さっきの唇の温度より、頬が燃えるように熱かった。口の中が切れ、鉄の味が広がった。僕の頬がこんなに痛いのだから、神崎の振りあげた手もきっと、熱を持っているだろう。神崎は、右手首を、左手で掴んでいる。

 

ぶたれた頬を包み込むように、手をかぶせる。

 

「なんで‼」

 

彼女が、僕の胸倉をつかみ、そして勢いよく離す。体がぐらつき、踏みとどまることができずそのまま尻餅をつく。雨水だけでなく、泥が服に染み込んでいくのが分かる。

 

「もう私の前に二度と現れないで。あんたなんか大嫌い」


そんなに叫んでは、彼女の喉が壊れてしまう。今生まれたとは思えない、増幅した憎悪が僕に向けられているのにも関わらず、他人事のようにそんなことを考えてしまう。


何度目かの罵倒の言葉の後、彼女が足を滑らせ、僕の方に倒れてきた。


ぎゅっと、神崎が嫌がるのも無視して、抱きしめた。


僕は卑怯だ。彼女がどうあがいても僕の方が力が強くて、腕の中から逃れられない。鳴き声とも笑い声とも取れる声で、叫んだ。

 

「神崎!」


「うるさい‼」

 

彼女を抱きしめる力を強める。神崎は泣いていた。白くて細くて美しい手で、僕のシャツをつかむ。


「私はずっとあなたが嫌い。同じクラスになれて、凄く嬉しかったのに。


私が、どんなにひどい目にあっても、助けてくれなかった。知ってたでしょう?私が、木崎と菜穂にいじめられてたこと。一年生の時も、木崎たちと同じクラスだった。だけどそんなに目立つものでもなくて、どうでもよかった。

 

二年生になって、またあいつらと同じクラスで、何なのって思ったけど、柳田くんがいれば、大丈夫だと思ってた。——あなたなら、いじめがひどくなっても、助けてくれると思ってた。信じてた。

 

だけど、柳田くんはただ、傍観してるだけ。木崎たちと一緒よ。むしろ、柳田くんのほうが憎い。あいつらにひどい目にあわされるより、柳田くんが何もしてくれないことの方が、よっぽどこたえたもの。あんな虫けらみたいなやつに、馬鹿にされても、蹴られても、クラスメイトに哀れみの目を向けられても、耐えられた。だけど、あなただけは赦せなかった。

 

 ……ずっと思ってた。もっといじめがひどくなればいい。他の誰に無視されたっていい。もっともっとひどくなれば、柳田くんが振り向いてくれると思った。だけど、一度も助けてくれたことはなかった。声すら、かけてくれなかった」

 

ドク、ドク、ドク、と、神崎に心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思うほど、大きく脈打っていた。

 

息をすることさえ惜しいのか、とどめなく吐き出すように言った。すう、と息を吸い込んで、言葉を続ける。

 

「なのに、さっき、柳田くんが目の前に現れた。もう来ないかと思った。期待してなかったのに。このまま、雨におぼれて、あの川の濁流に身を任せて、死のうと思った。馬鹿にしてるでしょ?そんなことで死ぬなんて、って。私にとっては大問題なんだよ。あなたに見放されて、どんなにつらかったことか。分かるわけないよね。柳田くんなんかに」

 

決して見放したわけじゃなかった。彼女はいつも平気そうにしていた。だから、大丈夫だと、勝手に思っていた。泣き顔を見せることはなく、むしろ堂々としていて、いじめに屈していないのだと、思っていた。


僕が何かすることによって、彼女の保っている何かを壊してしまうのではないかと思った。彼女は「強い」のだと思っていた。何があっても、何をされても、平然な顔で過ごしていた。


僕が踏み込むテリトリーではないのだと、勝手に誤解していた。

 

あれは小学五年生の時。自然学校で、山道を歩くさなか、神崎は母親に貰ったというお守りをなくしていた。僕はもと来た道をたどろう、探そうと言った。神崎は、気にしなくていいよ、あんなものいつでも作ってもらえるから、と笑った。僕はその言葉を鵜吞みにした。残りの数日、神崎が、いつもより口数が減っていたのを気づいていて、不思議に思っていても。

 

その後、彼女の母親は亡くなった。避けられない病死だった。

 

昔から、神崎は自分の負の感情をよく隠す。それも、その感情が大きいほど気づかれないように、気丈に振る舞っていた。それに気づくのが、僕の役割で、なんて思うのは、思い上がりだろうか。

 

神崎は自分の足で立てるだろうと、手を伸ばすことをしなかった、そんな自分を悔やむ。

 

彼女が死のうとするまでに追い詰められていたこと。

木崎たちに向けられた刃ではなく、僕が差し伸べなかった手が、彼女を傷つけていたこと。

 

何よりも僕が軽蔑していた木崎と芦谷とその周りの集団。彼女らを罵るより先に、我が身を振りなおすべきだった。皮肉なことに、神崎がもっとも憎んでいたのは、紛れもない僕だったのだ。

 

「らしくなく」彼女が感情を爆発させることがなければ、僕は彼女と向き合うことさえしなかっただろう。

 

ふと思う。僕が、彼女のことを神崎と呼び、彼女が僕を柳田くんと呼び始めたのはいつからだろう。と。

 

二年にあがり、同じクラスになってから、だったかもしれない。

 

「瑞希‼」

 

瑞希と呼ばれた少女は、ハッとした顔をして、こっちを見た。

 

「瑞希、ごめん。本当にごめん。僕は、君を見捨てたわけじゃないよ。僕は、怖かったんだ。勘違いしていた。君は何でも一人で解決できるのだと、思ってた。僕なんかに頼らなくても、一人で生きていけるのだと、そう思って、瑞希に、何もしなかった。好きな人一人、守ることだってできなかった。瑞希に面と向かって感情をぶつけれるまで、気づけなかった。もし、本当に傷ついているなら、自分から言うだろうって、甘く見てたんだ。ごめん」

 

「……遅いよ」

 

わああん、と瑞希は泣いた。

 

「もう瑞希を一人にしないよ」

 

子供のように、泣きじゃくって、今度は怒鳴り散らすことはなく、僕の胸に顔をうずめて、泣いていた。…僕も泣いていた。今ここで僕が泣くのは場違いだとは分かっていても、涙は止まらなかった。

 

誰も来ないことをいいことに、ずっとずっと泣いていた。泣き疲れて、その後のことはあまり覚えていない。ただ、瑞希が、あまりにも泣きすぎて、喉を枯らしていたことだけ覚えている。


 


二日後、家にこんなものが届いた。

 

封筒に、奏くんへ、と書かれた一通の手紙。

 

破れないよう丁寧に封を切る。差出人の名前も、住所も書かれていなかったが、それが誰が送ってきたものなのか、僕には分かる。

 

シンプルな、何の絵柄もない便せんと、一輪の花。その花には見覚えがあった。あの時、教室で見た花の種類と同じものだった。


彼女らしく、お手本のように整った字で、つらつらと文字が綴ってあった。


『奏くんへ

 私はあなたのことを、まだ赦し切ることができません。それは私が悪い子だからです。奏くんが悪いわけじゃない、と頭では分かっていても、感情が追い付かないんです。強情でしょう?閉じこもってた私も悪い。


だけど、しばらくはあなたのせいにさせてください。一旦、あなたから、離れようと思います。


あの時、私があの公園に辿り着くまでに、かなり時間はあったはずなのに、奏くんは私をつかまえられませんでした。出来ることなら、私が教室を飛び出したその瞬間に、追いかけてきて欲しかった。なんて、最後まで我儘ですね。責めているみたいで、ごめんなさい。

 実はあの時、あの花瓶を用意したのは、私でした。自分で自分の机に花瓶を置いて、巻き散らして、笑ってしまいますね。菜穂が置いたものだと思いましたか?

 

私は、奏くんを試しました。あれだけ派手に騒げば、いくら奏くんでも、追いかけてくれると思った。期待してなかったていうのはちょっぴり嘘。だけど、あのまま奏くんが来てくれなかったら、死のうと思ってたのは本当。一時の感情って怖いですね。今は、死のうだなんて思っていません。あの時は、感情が高ぶっていたのだと思います。

 奏くんは追いかけてくれたけど、もっと、取り乱して、信号なんかも無視して、私を追いかけるがあまり、ずっこけて大怪我を負ったり、交通事故にあって死んでくれたりしてもよかった。…なんていうのは冗談だよ。私より先に死なないでね。

 

あなたに贈った花。何の花か知っていますか。


セキチクと言って、石に竹と書くのですよ。迷惑だったら捨ててください。セキチクの花言葉は、「あなたが嫌いです」。


これはあなたに向けたメッセージ、のつもりだったんだけど回りくどすぎましたね。あ、でもここで破り捨てないで。捨てるのは読み終えてからにしてくださいね。

 

実は他にも、セキチクの花には、意味があります。「才能」「純愛」「いつも愛して」「才色兼備」。

 私は私を助けてくれないあなたが嫌いでした。憎んでいました。私は奏くんに何を求めていたのでしょう?多分、凄く不安だったんだと思います。もう、私の事なんてどうでもいいんじゃないかって。


だけど、私は、純粋に、奏くんが好きでもありました。そして、愛して欲しかった。

 

いつか、また、奏くんに出会えるかな。私はかなり勝手であり、重い女ですね。好きだと言ってくれてありがとう。下の名前を呼んでくれてありがとう。嬉しかったよ。さよなら

意地悪な幼馴染より』

 

文字が所々にじんでいた。にじみの中に、古いものと新しいものがあった。僕は震えていた。手で持っていた部分が、くしゃくしゃになっていた。

 

読み終えるとともに、親の呼び止める声も無視して、転がるように家を飛び出した。この勢いが、あの時、半分でもあったらよかったのに。

 

走って、それほど距離のない瑞希の家まで走る。

 

「あ…」

 

久しぶりに見たそこはもぬけの殻になっていた。瑞希が住んでいた家だけはあった。だけどそこに元々人が暮らしていたという痕跡がまったく残されていなかった。車もなくて、花壇には何も植えられておらず空っぽになっていて、表札から「神崎」の名前が消されていた。ただ、「売り出し中」という張り紙だけが、張られていた。

 

「瑞希」

 

そこにはいないはずの人物に向かって、思わずそう呟いていた。ここに、瑞希はもういない。柔らかい声で、「奏くん」と呼んでくれる、たった一人の女の子は。

 

しばらくそこで立ち尽くしていた。日が落ちるまではそうしていた。朝から、顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら、誰もいない家の前でずっと突っ立っている少年を、訝しむように、通る人々が見ていた。自分でももどうかしていたと思う。

 

やっと家に帰り、「どこ行ってたの」と母親に咎められた。妹は、酷い顔をした僕を見て、ぎょっとしていた。「なんでもないよ」と言って、顔を洗いに行った。


鏡を見ると、そこにあるのは僕の顔だと信じがたいものだった。まるで顔中蜂に刺されたような、ぱんぱんに膨らんだ顔。土偶みたいだった。瞼がはれ、真っ赤になっていた。上手く目が開かない。

 

自分の部屋に戻り、セキチクを手に取る。彼女の唇のような、淡いピンク色をしていた。


 


月曜日、瑞希は学校に来なかった。座る人がいなくなった空っぽの席は、寂しそうにしていた。

 

あの後、花瓶は中田梨乃が一人で片付けたらしい。僕と瑞希の荷物をまとめて届けてくれたのも中田で、彼女の計らいで僕と瑞希は早退ということになっていた。次のターゲットが彼女になってしまわないかと、ひやひやする。

 

だけど僕はあの時とは違う。もしそうなれば、頼りないかもしれないけれど、僕が彼女の味方になろうと決める。

 

中田は、瑞希が木崎らに目をつけられる前、瑞希と仲が良かった生徒だ。彼女は、瑞希がもう学校に来ないことを知っているだろうか。僕と同じように、彼女に何もできなかったことを悔やんでいるのかもしれない。

 

知ってか知らずか、瑞希の席を見て、寂しそうにしていた。

 

瑞希はあの時、自分のことを心配する人はいないと言っていた。

 

僕以外にも、瑞希がいなくなって悲しむ人がいることを、知らせられたらよかったのに。

ごしごしと懸命に目をこすっている女子生徒を見て、そう思った。

 

 


数年後。

僕は電車で大学に向かうため、駅にいた。

 

「落としましたよ」


改札を通ろうとしたとき、片手に持っていた文庫本から、栞が抜け落ちたらしい。一人の女性が、拾ってくれた。

 

「助かりました。ありがとうございます。とても大切なものだったので」

 

あの時のセキチクを、丁寧にラミネートして押し花にした栞。それをまじまじと見て、そして僕の手に返す。

 

そこには、髪を染め、明るいスーツに身を包み、化粧をして雰囲気ががらりと変わった彼女がいた。  


だけど、そこにはずっと変わらないあどけない笑みがある。


「久しぶりだね、奏くん」

 

そう言って、彼女は僕の手を取った。

ここまで読んでくださりありがとうございます。第一号作品となりました。

神崎瑞希は、強がりで、すぐに自分の気持ちを隠してしまいます。だけど、幼馴染の奏なら、分かってくれると思っていました。だけど、気づいてもらえず、不安になった彼女は、彼の気を引くために演技をしました。

柳田奏は、神崎のことを「強い子」だと思い、自分自身への自信のなさから、僕なんかが踏み込んではいけないと、瑞希の苦しさに気づいてやることができませんでした。

交わることのなかった二人の気持ちが、瑞希の大胆な行動により、交わったある雨の日のこと。

その日から数年後、二人は再会しました。

今後二人が幸せになってくれたらいいなと思います。


ちなみに、はじめはバッドエンドになりそうだったのでハッピーになって良かったです。

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