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第40話 堕ちる

 ――べ、別に、会いたくなんてなかったわよ……!


 そう言ってギュッと私に抱きついてきた。それが、私が覚えているなかで、一番最初のレイラの記憶。




 暗くなっていく空に吸い込まれるように、レイラの体が黒く変わっていく。あの綺麗なブロンドも。


「レイラ……、レイラ、だめ、戻ってきて……!」


 レナートの手から逃れようともがく。だが彼はそれを許してくれなかった。


「だめだ。あいつ堕ちる」


 冷静に首を降り、レナートが残酷な事実を口にする。

 駄目だ。そんなの絶対駄目だ。


「お願い放して。レイラを悪霊にするくらいなら、私、捕まってもいい!」

「おれだって不本意だが、もうどうにもできん。あいつはお前を逃がすためにやったんだろう、せめて汲んでやったらどうなんだ」

「そんなの無理よ! お願い……、ミハイルさん……!」


 私のために来てくれなくていい。私を助けてくれなくてもいいから、レイラを。

 でも、どんなに呼んでも彼が姿を現すことはなく、指輪にもなんの変化もない。レナートが踵を返す。その足元に短剣が突き刺さり、彼は小さく舌打ちした。


「折角あいつが気を引いたのに、お前が騒ぐから――」


 レナートが文句を言いながら、構えたそのとき。私たちに襲いかかろうとしていた仮面たちが、突如呻き声を上げてバタバタと倒れて行った。呆然とする私の目に、地面に突き刺さる緋色の刃が映る。

 空を仰ぐ。

 薄暗い空、密集する家々。その合間を縫って、転々と浮かぶ見覚えのある呪印。それを足場にして、恐ろしいスピードでこちらに近づいてくる、黒い影。


「なんだ、あれは」


 緊張と驚愕が入り交じった声でレナートが呟く。けどもう、それもほとんど耳に入っていなかった。

 見上げるような遥か高い上空から、ためらいなく飛び降りてきたミハイルさんが、私たちの前に着地する。

 呼べたわけじゃない。呼べたなら、すぐ目の前に来られたはずだ。呼ぶこともできず、指輪を使うこともできないのに。


「ミオを返せ」


 氷点下の声が一言紡ぐ。闇色の瞳に射抜かれて、レナートの体がビクリとすくむ。……その気持ちは私にも少しわかる。私ですら少し怯んでしまうほどに、彼はひどく殺気立っていた。圧倒されたように、レナートが一歩後退する。それでも、気丈に声を上げた。


「お前が幽霊伯爵だな」

「だったら何だ」

「おれは聖イスカの退魔士、レナート。国宛てに依頼を受けた。幽霊屋敷に住む人間を助け出せと」

「……なんだと?」

「例え妻だとしても、あんな死霊ばかりのところに人間を住まわせるなど正気の沙汰じゃない」


 一瞬興味を示したミハイルさんが、再び瞳に剣呑な色を宿す。けど私は、二人の話などほとんど頭に入っていなかった。気に掛ける余裕なんてなくて、流れを無視してその会話に割って入る。


「ミハイルさんっ、レイラを、レイラを助けて下さい!!」

「レイラ……?」


 ミハイルさんの顔に、わずかに動揺が走る。空を仰いで、彼は目を見開いた。


「あれが……?」


 ポツ、と頬に雨粒が落ちる。たちまちその勢いは強くなり、容赦なく体中を濡らしていく。けど、『彼女』が雨に濡れることはない。

 落ちくぼんだ眼窩に、青い光がちらちら揺れている。


 見ないで、と。

 か細い声が耳に蘇る。


 悲鳴が通りを駆け抜けて、化け物、と誰かが叫んだ。


「他の奴らにも見えているのか」


 レナートが声の方を振り仰ぎ――そして、私を抱えたままその場を大きく飛びのいた。今まで立っていた石畳に矢が刺さっている。

 辺りを伺うと、立ち並ぶ屋根の上で何かが動く。多分さっきの仮面の仲間。まだ、私を狙っているのか――、この状況で。いや、この状況だからこそ、なのか。


「ミオ!」

「お願い、私よりレイラを!!」


 追ってこようとしているミハイルさんを止めて、懇願する。今私のところに来たら仮面たちとの戦いになってしまう。その間にも、レイラは――


「ミハイルさん……、お願いです……」


 さっきから、どんなに祈っても、どんなに願っても。

 どんなに、レイラを元に戻そうとしても、指輪は応えない。レイラは、私を助けようとして。私なんかのために。元に戻せるなら、命を削っても構わないのに。

 仲良くしてくれたのが例えレイラの意志でなくても、もうそんなのどうでもいい。関係ない。


 あんなレイラの姿は辛い。辛いよ。


「……わかった」


 雨音に紛れて、ミハイルさんの低い声が耳に届く。


「だから、泣かなくていい」


 私を安心させるかのように、少し、ミハイルさんは笑った。けどすぐにそれを消して、一転壮絶な顔でレナートを睨む。


「貴様、ミオに傷ひとつでもつけてみろ。世界が終わるまで魂を屋敷の地下に縛り付けてやる。死ぬ気で守れ」

「なんでおれが!?」


 レナートの文句には耳を貸さず、ミハイルさんが身を翻す。そして、レイラに向かって呪印で足場を作り、それを駆け上りながら、右手を翳す。


『我が血を以て、汝の魂を掌握――』


 その言葉が終わる前に。色を失くしたレイラの髪が、ミハイルさんに幾重にも巻き付く。口も手も塞がれて空中で動きを止めたミハイルさんの肩口めがけて、レイラの口が大きく開き、歯を立てる。


「ぐあああッ!!」


 雨に混じって血飛沫が舞う。足元の呪印が消え、レイラの髪が外れると、そのままミハイルさんの体は悲鳴を残して街並みの中に落ちていく。


「ミハイルさんっ!!」


 悲鳴が喉を滑り落ちる。だけどそれ以上どうなったかを見ることはできなかった。レナートが走り出し、路地裏へと駆け込む。


「放して! ミハイルさんが!」

「まだ奴らがいる。お前がいたらあの男も集中できないだろ。あの死霊をなんとかしろと、無理難題を言ったのはお前だろうに」


 確かにそうだ。私に力がないせいで、結局ミハイルさんを頼って、泣いて、甘えて、傷つけて。最低だ。誰にそれを詰られても仕方ないと思うけど、だけど、レナートだけにはそれを言われたくなかった。


「そもそも、あなたがレイラを連れ出したりしたから!」


 責めたところで、それも詮無い。わかっていながら止められなかった言葉を受け止めて、レナートは口を噤んだ。そして、建物の影に身を潜めて辺りを窺う。


「別におれは間違ったことを言ったつもりはない。だが……おれも利用されたかもしれないからな。もうしばらくは守ってやる」

「利用……?」


 カタ、と物音がして、レナートが「シッ」と鋭い声を上げる。しばらく息を殺して待ったあと、彼は再び頭を出して辺りを窺った。


「……大丈夫みたいだな。もしかしてあいつ、死霊の相手をしながら仮面も片づけたのか」


 雨が激しいのもあり、肉眼じゃもうレイラもミハイルさんも視界に捉えることができない。戻りたいけど、そうしてもきっと足手まといになるだけだ。指輪の力が使えないのなら、いても何の意味もない。


「とにかく、もう少しここを離れた方がいい。行くぞ」

「降ろして。自分で歩く」

「遅い。もし襲われたときにおれまで危なくなる」


 ――なんて役立たずなんだろう。

 奥歯を噛みしめる。それを嘆いたところで今はどうしようもない。

 切り替えなきゃ。そして考えないと。これからどうするのか。

 レナートに運ばれながら、息を吸って、吐く。


 彼は依頼を受けたみたいなことを言っていた。

 仮面達は私を狙っていた。

 そして、利用されたかもしれない、か。

 なんとなく繋がってきたような気がする……けれど結論を出すには、もう少しレナートから話を聞く必要があるだろう。


 少しつず雨脚が弱まる。それに少しほっとしていると、急にレナートの体が大きく傾いた。


「レナート!?」


 レナートが倒れて、巻き添えで私も地面に転がった。慌てて起き上がりレナートの様子を見る。

 声をかけても返事はない。……かなり息が荒い。

 そりゃそうだ。不思議な力を使うし、戦う身のこなしもしっかりしていたから忘れていたけど。体が出来上がった大人とは違う。いや……人一人抱えて雨の中動き回るなんて、大人だったとしても相当きついはず。それを私は、子供にこんな無理させて。

 かといって、私よりレナートの方が体は大きいし。私だけじゃ運ぶのは無理だ。

 辺りを見回し、人を探して大通りの方へ出る。仮面がまだいたら……という懸念はあったけれど、こんな雨の中に倒れたレナートを放ってもおけない。


「あの、誰か! 連れが倒れてしまって。手を貸して下さい!」


 手を借りようと、見つけた通行人にかたっぱしから声を掛けるが、誰も足を止めやしない。ちょっと冷たすぎやしないだろうか。けどめげている場合じゃない。

 再び息を吸い込んだ時に、背後から肩を叩かれる。さっきの奴らだったらと一瞬肝が冷えたが、振り返ると立っていたのはレナートだった。


「……嫌な感じだ」

「レナート、気が付いた!? ごめん、無理させて」

「おれの方こそ意地を張りすぎた。すまん。少し休む。宿を探そう」

「わかった。掴まって」


 肩を貸そうと手を掴むと、レナートが嫌そうに顔を背ける。


「女の力は借りない」

「ふふ。弟もそういう時期あったよ。懐かしい」 

「何……ッ」


 まだ文句を言いたげなレナートの腕を取って肩に回す。


「行こう」


 冷たい声も仏頂面も、まだまだ可愛いものだと思えてしまうのは、きっとあの人のおかげだろう。

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